24 / 37
第五章 小さな巨人のコーダ
〈4〉
しおりを挟む
国際ホールに辿りついた時には、すでに二十一時になろうかという頃だった。
母さんは送ってくれると言っていたのだけど、せめて僕自身の足で歩いて行くのがケジメだと思ったから。
けれど見通しは甘かった。思えば入院してから屋上以外に外を歩いたことがなかった僕は、いつもと違う景色に袋叩きにされたのだ。
見えていたはずの町が歪んでいる。見えていたはずの景色がぼやけている。
ごっそりと体力が削られ、吐き気がして。休み休み行くしかなかった。
そしてもう一つ、僕は道中において最大の問題に直面する。横断歩道は見えていても、信号の赤が見えないんだ。青が光っていない時は渡らなければいい、なんて簡単なものじゃなくて、案外、赤が光っていないというだけで、足は勝手に動き出してしまうんだ。
あかりがついていてくれなかったら、僕は五回は死んでいたと思う。
Aホールを探し、受付のお姉さんにチケットを見せると、怪訝な顔をされた。
「お客様、大変申し上げにくいのですが、すでにアンコール曲が行われているのです」
指し示されたロビーのモニターには、ヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』の演奏が映されていた。冬の定番曲だ。ヴァイオリンの旋律をヴィオラによって奏でているセンターの人物が、シフォンなのだろう。
メインの演奏が聴けなかったことは寂しいけれど、まだ僕がここに来た理由は残っている。
「大丈夫です。構いません」
「いえ、そう申されても……」
困り顔の受付のお姉さんに引き留められる。
チケットがあるとはいえ、今から入っても仕方がないからだろう。基本的にコンサートでは、曲の間に勝手に出入りすることは厳禁だ。楽章の間や曲の間など、多くの場合、演奏責任者が決定したタイミングでしか行えない。
つまり、次に客席への扉が開くのは、閉幕後。
『どうかしたの?』
『さすがにコンサートが終わる時間だから、止められてるんだ』
『だから意地張らないで月香さんに頼めば良かったのに』
『ごめんってば』
目の前で突然行われた手話のやりとりに、受付のお姉さんの顔が一層しかめられた。当然だ。クラシックコンサートには普通、聾者なんて来ないんだから。
けれど、同時に僕たちを見ていた、もう一つのゲートにいたお兄さんがあっと声を上げる。
「もしかして、ヴァイオリンの人が言っていた方じゃないか?」
「ああ、プティタンさんって人のお客さんが来るってやつでしょ?」
「でも、プティタンさんなんて奏者、今日出演してたか?」
「知らないわよ。受付のバイトをしているだけで、クラシックなんて知らないもの」
聞こえてるよ、と言おうと思ったのだけれど、興味深い単語が出てきたために口を閉じた。
やがて、スマホで何かを調べていたらしいお兄さんから耳打ちされ、お姉さんははたと振り返った。
「失礼ですが、プティタンさんとはお知り合いでしょうか」
さすがに、笑いを堪えるのが大変だった。
「はい。プティ・ティタンこと、ヴィオリスト・桐谷織姫さんから招かれました」
「そっ、そうだったんですか。申し訳ありませんでした。どうぞ、中でお待ちください。入場のタイミングは係員が誘導いたしますので」
混乱が見て取れるお姉さんから頭を下げられ、僕たちは中へと入った。
コンサートホールに来るのは現役を退いて以来だ。演奏が終わり、お客さんたちが出てくるのをしばらく見送ってから、僕はあかりの手を引いて、まばらになってきた流れに逆らう。
ようやく指定の座席を見つけた時には、他のお客さんは片手で数えられるほどしかいなかった。それにしても、最前列に席が用意されているとは。
シフォンは座っていろと言っていた。
完全に人気が無くなり、暫くあかりと二人きりでいたところに、袖から声が歩いてきた。
「ぶち遅いぞ、馬鹿たれ」
病院で見た時とは違って、薄氷のように鮮やかな青いロングドレスを身に纏ったシフォンが、ステージ袖から歩いてきた。手にはヴィオラを提げている。
「客席がぽっかり空いちょったけぇ、来てくれんのかと思ったじゃろうが」
口調の訛りは相変わらずだけど。幼女から少女になっていたヴィオリストは、ステージのライトの下で、淑女へと変貌を遂げていた。
「ごめん、遅くなって」
むすっとしたシフォンに頭を下げて、あかりに目配せをする。
『あの子が、シフォンだよ』
『凄く綺麗な子だね』
「その子があかりけぇ?」
頷いて返すと、シフォンは弦を持つ方の手をぶんぶんと振った。それが挨拶だと気付いたあかりも手を振り返す。
「ねぇ、シフォン。時間は大丈夫なの?」
「うちが主演じゃからな。ちっと無理言わせてもらった」
本当に無理を言ったのだろう。シフォンは苦い顔で、ちろっと舌を出した。
「よし、フユ。ステージに上がって来てやぁ」
「えっ?」
「弾けるんじゃろ? 頼む。デュエットに付き合って欲しいんじゃ」
そう言って、シフォンは深く頭を下げた。今まで、客席以外に対してここまで頭を下げた彼女を見たことがなくて、返答に戸惑ってしまった。
『何かあったの?』
シフォンの真剣な雰囲気が気になったのか、あかりが心配そうに訊いてくる。
『僕に、ステージに上がってくれって』
『なら、行ってきなよ。私は待ってるから』
大丈夫、と笑って送り出されては仕方なかった。
僕が困惑したままステージに上がると、シフォンからそのままピアノへと導かれる。
「僕が弾くの?」
「言ったじゃろ、うちのヴィオラのパートナーはあんたしかおらん。ほいじゃけー、今日まで、リードは引き受けても、フユ以外のピアノとデュエットするんは断っちょった」
僕がピアノの前に座ると、シフォンは少し離れたところでヴィオラを構えた。
どうやら、今から演奏をするのは決定事項らしい。
「……曲は、何にするの?」
「初めて演奏した曲、憶えてるじゃろ」
「シューマン、『おとぎの絵本』だね」
うむ、とシフォンは頷く。忘れるわけがない。
僕はステージ上からあかりに手話を送る。
『今から演奏する曲は「おとぎの絵本」だって』
『ほんと? やった』
小さくガッツポーズをとったあかりに、反応したのはシフォンだった。
「なんじゃ、あの子は耳が聴こえんと聞いちょったんじゃが?」
「うん。でも、シフォンのことを話したら、ぜひ聴きたいって」
「ほう、それは最高のお客さんじゃのう。案ずるだけ無駄じゃった」
満足そうに頷くと、再びヴィオラに意識を戻した。
最高のお客さん、か。シフォン相手に、障害がどうとか、聴こえないからどうとか、考えるだけ無駄だったかもしれない。
シフォンの自然体には、一人で行こうだなんて意固地になっていた自分が恥ずかしい。
「行くぞ、フユ。さんのーがーはい」
懐かしい合図で、二年ぶりのデュエットが幕を開けた。
母さんは送ってくれると言っていたのだけど、せめて僕自身の足で歩いて行くのがケジメだと思ったから。
けれど見通しは甘かった。思えば入院してから屋上以外に外を歩いたことがなかった僕は、いつもと違う景色に袋叩きにされたのだ。
見えていたはずの町が歪んでいる。見えていたはずの景色がぼやけている。
ごっそりと体力が削られ、吐き気がして。休み休み行くしかなかった。
そしてもう一つ、僕は道中において最大の問題に直面する。横断歩道は見えていても、信号の赤が見えないんだ。青が光っていない時は渡らなければいい、なんて簡単なものじゃなくて、案外、赤が光っていないというだけで、足は勝手に動き出してしまうんだ。
あかりがついていてくれなかったら、僕は五回は死んでいたと思う。
Aホールを探し、受付のお姉さんにチケットを見せると、怪訝な顔をされた。
「お客様、大変申し上げにくいのですが、すでにアンコール曲が行われているのです」
指し示されたロビーのモニターには、ヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』の演奏が映されていた。冬の定番曲だ。ヴァイオリンの旋律をヴィオラによって奏でているセンターの人物が、シフォンなのだろう。
メインの演奏が聴けなかったことは寂しいけれど、まだ僕がここに来た理由は残っている。
「大丈夫です。構いません」
「いえ、そう申されても……」
困り顔の受付のお姉さんに引き留められる。
チケットがあるとはいえ、今から入っても仕方がないからだろう。基本的にコンサートでは、曲の間に勝手に出入りすることは厳禁だ。楽章の間や曲の間など、多くの場合、演奏責任者が決定したタイミングでしか行えない。
つまり、次に客席への扉が開くのは、閉幕後。
『どうかしたの?』
『さすがにコンサートが終わる時間だから、止められてるんだ』
『だから意地張らないで月香さんに頼めば良かったのに』
『ごめんってば』
目の前で突然行われた手話のやりとりに、受付のお姉さんの顔が一層しかめられた。当然だ。クラシックコンサートには普通、聾者なんて来ないんだから。
けれど、同時に僕たちを見ていた、もう一つのゲートにいたお兄さんがあっと声を上げる。
「もしかして、ヴァイオリンの人が言っていた方じゃないか?」
「ああ、プティタンさんって人のお客さんが来るってやつでしょ?」
「でも、プティタンさんなんて奏者、今日出演してたか?」
「知らないわよ。受付のバイトをしているだけで、クラシックなんて知らないもの」
聞こえてるよ、と言おうと思ったのだけれど、興味深い単語が出てきたために口を閉じた。
やがて、スマホで何かを調べていたらしいお兄さんから耳打ちされ、お姉さんははたと振り返った。
「失礼ですが、プティタンさんとはお知り合いでしょうか」
さすがに、笑いを堪えるのが大変だった。
「はい。プティ・ティタンこと、ヴィオリスト・桐谷織姫さんから招かれました」
「そっ、そうだったんですか。申し訳ありませんでした。どうぞ、中でお待ちください。入場のタイミングは係員が誘導いたしますので」
混乱が見て取れるお姉さんから頭を下げられ、僕たちは中へと入った。
コンサートホールに来るのは現役を退いて以来だ。演奏が終わり、お客さんたちが出てくるのをしばらく見送ってから、僕はあかりの手を引いて、まばらになってきた流れに逆らう。
ようやく指定の座席を見つけた時には、他のお客さんは片手で数えられるほどしかいなかった。それにしても、最前列に席が用意されているとは。
シフォンは座っていろと言っていた。
完全に人気が無くなり、暫くあかりと二人きりでいたところに、袖から声が歩いてきた。
「ぶち遅いぞ、馬鹿たれ」
病院で見た時とは違って、薄氷のように鮮やかな青いロングドレスを身に纏ったシフォンが、ステージ袖から歩いてきた。手にはヴィオラを提げている。
「客席がぽっかり空いちょったけぇ、来てくれんのかと思ったじゃろうが」
口調の訛りは相変わらずだけど。幼女から少女になっていたヴィオリストは、ステージのライトの下で、淑女へと変貌を遂げていた。
「ごめん、遅くなって」
むすっとしたシフォンに頭を下げて、あかりに目配せをする。
『あの子が、シフォンだよ』
『凄く綺麗な子だね』
「その子があかりけぇ?」
頷いて返すと、シフォンは弦を持つ方の手をぶんぶんと振った。それが挨拶だと気付いたあかりも手を振り返す。
「ねぇ、シフォン。時間は大丈夫なの?」
「うちが主演じゃからな。ちっと無理言わせてもらった」
本当に無理を言ったのだろう。シフォンは苦い顔で、ちろっと舌を出した。
「よし、フユ。ステージに上がって来てやぁ」
「えっ?」
「弾けるんじゃろ? 頼む。デュエットに付き合って欲しいんじゃ」
そう言って、シフォンは深く頭を下げた。今まで、客席以外に対してここまで頭を下げた彼女を見たことがなくて、返答に戸惑ってしまった。
『何かあったの?』
シフォンの真剣な雰囲気が気になったのか、あかりが心配そうに訊いてくる。
『僕に、ステージに上がってくれって』
『なら、行ってきなよ。私は待ってるから』
大丈夫、と笑って送り出されては仕方なかった。
僕が困惑したままステージに上がると、シフォンからそのままピアノへと導かれる。
「僕が弾くの?」
「言ったじゃろ、うちのヴィオラのパートナーはあんたしかおらん。ほいじゃけー、今日まで、リードは引き受けても、フユ以外のピアノとデュエットするんは断っちょった」
僕がピアノの前に座ると、シフォンは少し離れたところでヴィオラを構えた。
どうやら、今から演奏をするのは決定事項らしい。
「……曲は、何にするの?」
「初めて演奏した曲、憶えてるじゃろ」
「シューマン、『おとぎの絵本』だね」
うむ、とシフォンは頷く。忘れるわけがない。
僕はステージ上からあかりに手話を送る。
『今から演奏する曲は「おとぎの絵本」だって』
『ほんと? やった』
小さくガッツポーズをとったあかりに、反応したのはシフォンだった。
「なんじゃ、あの子は耳が聴こえんと聞いちょったんじゃが?」
「うん。でも、シフォンのことを話したら、ぜひ聴きたいって」
「ほう、それは最高のお客さんじゃのう。案ずるだけ無駄じゃった」
満足そうに頷くと、再びヴィオラに意識を戻した。
最高のお客さん、か。シフォン相手に、障害がどうとか、聴こえないからどうとか、考えるだけ無駄だったかもしれない。
シフォンの自然体には、一人で行こうだなんて意固地になっていた自分が恥ずかしい。
「行くぞ、フユ。さんのーがーはい」
懐かしい合図で、二年ぶりのデュエットが幕を開けた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる