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第五章 小さな巨人のコーダ

〈3〉

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「……でも、僕の指はもう、笑顔を紡げないんだ」

 僕の出した答えに、シフォンは暫く俯いてから、「今日な」と前置きした。

「ここに来れたのは偶然なんじゃ。国際ホールでコンサートがあってのぅ、リハを蹴って来させてもらった」
「リハを蹴ったって……。何時開演?」
「十九時。Aホールで行われる予定じゃ」

 驚きに言葉が出なかった。そのホールは、客席数が五千にもなる大会場だ。
 ここから隣町の会場まで一時間はかかる。壁の時計は、もう十七時半。

「そんな大きなコンサート……いや、大小は関係ないけど、すぐ戻らなきゃ」
「じゃろーじゃ」
「いや、じゃろーじゃ、じゃなくて」

 そうでしょうね、という意味の方言だと、以前聞いたことがある。シフォンは分かっていて動かないんだ。腕を組んで目を閉じ、頑として動く様子がない。
 扱いに困り果てる。無理矢理にでも部屋から連れ出した方がいいだろうか。リハーサルに参加しない時点でとんでもないのに、遅刻までさせる訳にはいかない。

 時計の針の音だけが響く。

 やっぱりシフォンを連れ出そうと、僕がベッドから体を起こした時だった。じっと押し黙って何かを考えていたシフォンが、ようやく目を開ける。

「のう、フユ。まだギリ見えちょるんじゃろ?」
「えっ? うん、ぼやけるけど、なんとか」
「よし。それならチケット置いてくけぇの。コンサートが終わったら、帰らずにそのまま座っちょってぇやぁ」

 シフォンはおもむろにポケットから取り出したチケットを、僕の枕元に置いた。
 表面には『ヴィオリスト桐谷織姫 クラシックアレンジコンサート』と書いてあった。

「二枚……?」

 首を傾げる僕に、

「一人で来るか、彼女を連れて来るかは自由にしぃさい。ほいじゃ、うちは行くけぇの」

 シフォンは椅子から立ち上がると、スカートを颯爽と翻して病室から出て行ってしまった。
 やっぱり嵐みたいだ。シフォンはいつもかき回して帰っていく。

「二枚、かぁ……」

 一人取り残された僕は、頭を抱えた。チケットを用意していたということは、最初から誘うつもりだったんだろうけど。

――コンサートが終わったら、帰らずにそのまま座っちょってぇやぁ。

 ここでじっと考えていた結論として、シフォンは何かをしようとしている。
 思い上がりかもしれないけれど、きっとそれは僕に対する何か。そしてそれに、もう一人連れてこいと言っている。

「二人、かぁ」

 母さんがどこまで話しているのかは分からないけれど、多分シフォンは、あかりが聾者だということを知らないはずだ。
 行かせてよいものだろうか、そう考えてしまった自分に顔が引きつる。また逃げた。
 僕はあかりと離れる言い訳を探すどころか、あかりを言い訳にしようとしている。





 一人で行こう。そう諦めるには十秒もかからなかったように思う。
 外出の許可が下りるかは分からなかったけど、とりあえずは服が欲しかった。しかしスマホは手元にない。
 とりあえず母さんを探そうと病室を出たところで、

「行くのね」

 探し人の方から声をかけられた。紙袋を抱えた母さんの隣には、僕が病室という天ノ岩戸から出てきたことを喜ぶように、控えめな笑顔を浮かべるあかりもいた。

「聞いてたの?」
「聞いてたというより、桐谷さんから待ってろってお願いされたのよ」

 思わず眉間を抑える。あの豆台風は、どこまでかき回してくれるのだろう。

「ええと、その。外出したいから、服が欲しいんだ……けど」

 僕がおっかなびっくり申し出ると、母さんは待ってましたとばかりに紙袋を差し出してきた。

「はい、着替え。先生から外出の許可もいただいてるわ」
「いつの間に……」

 受け取った袋の中には、僕の私服がきちんと折りたたまれていた。ジャケットもあったけれど、折りグセが目立たないような柔らかい素材のものだ。

「あかりを待っていたんじゃなかったの?」
「待ってたわよ? 桐谷さんのお願いを手話で伝えられるのは私だけだもの。あかりちゃんが来てから、一度家に戻ったの。あ、桐谷さんとLINEの交換もしちゃった! さすがのあんたも知らないでしょー」
「何、僕を煽って、怒らせたいわけ?」
「その方がちょっとは背筋も起きるでしょ」

 いいからさっさと着替えてきなさい、と、母さんから病室に押し込まれた。
 仕方なくベッドの上に紙袋を置き、入院着を脱ぎ捨てる。白いワイシャツにベスト、ジャケット、そしてベージュのパンツ。演者としては物足りないけれど、聴衆としてのドレスコードを満たすには十分だろう。

 マフラーだけは仕舞ったままにする。冬とはいってもそこまで寒くはないから、衣擦れや静電気の音がする余計なものは持っていかないに越したことはない。演奏中の静かな時は特に、わずかな音も響いてしまって周りの迷惑になるんだ。クロークに預けるのも面倒だし。

 目がぼやけていても、案外ボタンは締められるな、なんてことを考えながら、手早く着替えを済ませ、外に出る。

「行ってきます」

 僕は、できるだけあかりを見ないようにして歩き出した。今あかりが着ている、グレーを基調にしたオフィスカジュアルファッションは見たことがある。母さんの差し金だろう。
 でも、一人で行くと決めたんだ。今日だって別にあかりを呼んだわけじゃないし、さっきだってあかりには分からないように手話を使わなかった。

 けれど、あかりの前を通り過ぎようとして、足が動かなくなる。

――生きているうちにブチブチ切ろうとするなんて、できませんなぁ。

 構うものか。音を聴きに行くのに、光なんていらない。
 いらないって、決めたはずなのに。

『……すごく、わがままだってのは分かってる』

 僕は、あかりに向き直って手話で伝えようとする僕自身を、止められなかった。

――まだ目は見えちょるんじゃろ?

『僕、まだ見えるから』

 やめろ、やめろやめろ。
 彼女は離れないって言ったんだよ。僕が切らなくてどうするんだよ。僕が切らないと、二人ともどれだけの負担を抱えると思ってるんだ。

――行きたいところとかあったら言ってよ。

『行きたいところ、決まったから』

 馬鹿野郎。バカ。馬鹿たれ。
 何でもいい。誰か、僕を止めてくれ。

『一緒に来て、くれませんか』

 言ってしまった。
 そんな、最低で自分勝手な僕の手なんかを、

『はい!』

 あかりは笑顔で、優しく握ってくれた。
 一瞬、僕の視界に色が戻った気がした。あかりの染まった頬が、はにかむ唇が、いつもの髪飾りが、ちゃんと見える。

『ありがとう』

 震える声で頭を下げる。光はまだ失っていなかった。
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