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第五章 小さな巨人のコーダ

〈1〉

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 差し入れられた絵本も読まず、もちろん行きたい場所なんて考えていないまま、昼になった。
 けれど、この昼はいつもと違って。
 部屋に病院食を運んできた看護師さんが、二つのトレイを僕のベッドテーブルに置いた。

「あれっ、二つあるんですか?」
「そうなの。隣の夏木さんってご存知かしら」

 看護士さんに小首を傾げられ、記憶を掘り返す。夏木……あっ、修一さんか。

「ええまあ。何度かすれ違ったことは」
「夏木さんがね、天野さんとお昼をご一緒したいんですって」
「はぁ」

 いい? と訊ねる声に、僕は曖昧に頷き返した。
 配膳が終わった看護士さんがそそくさと部屋を出ると、廊下から「夏木さん、用意ができましたよ!」という呼び声が聞こえた。
 しばらくして、かっか、とお馴染みの笑い方とともに、看護師さんに付き添われた修一さんが部屋にやってきた。

「こんにちは、冬彦さん。急にすみませんな」
「いえ、僕も暇をしていたところなんで」
「暇、ですか」

 修一さんは含みがあるような雰囲気で目尻を下げる。「ありがとう、あとは私一人で探します」と看護師さんを押し止めると、腕を伸ばして椅子を探し始めた。

「こっちですよ」

 椅子の表を叩いて誘導する。「ああどうも」と微笑んだ修一さんは、真っ直ぐ椅子までやって来た。凄い。音だけで、向きも距離も把握しているんだ。
 
 修一さんは箸に手をかけると、おもむろにトレイの前に顔を近づけて、頬を緩ませた。

「今日のご飯も、美味しそうな匂いですな」
「僕は、そんなに好きではないです。味が薄くて」
「やー、若い人はそうでしょうな。ですが、老体にはこの方がありがたい」

 そう、手を合わせようとしたところで、修一さんははたと手をとめて、

「大丈夫ですかな?」
「えっ?」
「昨夜、怒鳴り声が聞こえたものでして」
「あっ、すみません」

 思わず頭を下げる。しまった、恥ずかしいところを聞かれてしまった。
 修一さんはニコニコして「若いっていいですなぁ」とひとり言のように呟く。

「浮かない顔のようですな」
「見えるんですか」
「ええ。声……いや、表情というべきですか。泣いておる」
「はぁ」

 あかりの手紙を読んだせいだろうか。もうあれから、三時間くらいは経っているはずなのだけど。
 修一さんは何事もなかったかのように手を合わせると、茶碗を取り、ご飯を口に運んだ。
 うまいものだと思う。僕も完全に失明した後は、このようなスキルを身に着ける必要があるのかと思うと、腰が引けた。

「あの、修一さんは後天的に目が見えなくなったと仰っていましたよね」
「ええ、子供の雪合戦でしょうな。ぼうっと散歩をしていたら、流れ玉が直撃しましてね。いやはや、最近の子供は雪玉を凍らせたりトゲをつけたりと恐ろしいもので」

 修一さんは、その時のことをリフレインしているのだろう。んん、と小さく唸った。

「網膜の損傷。蹲った私が顔を上げた時には、何も見えませんでした」

 昔のことですと笑う老人に、僕は震えた。自分の失明の原因を笑えるなんて。ましてや他者からの加害で、自分の過失ではないっていうのに。

「その……失明してから、怖くはなかったんですか?」
「いいえ。まったく、と言えば嘘になりますが」

 修一さんは卵焼きを一口食べて、美味い、と頷いた。

「私がどうして入院しとるか、知ってますかな」
「目のことではないんですか?」
「いいえ、癌です。眼もガンと読み、さらに癌まで患うとは、なんともはやですよ」

 そう言ってまた、かかっ、と笑った。こうして固形物の食事を摂れるということは、まだそこまで進行していないのだろうか。
 僕は目の前の老人に恐怖していた。多分それは、その純粋なまでの強さに対してだと思う。
 そんな僕を見透かしたのか、修一さんはサングラス越しに僕を見据えてきた。うっすらと向こう側に見える焦点の会っていない目。見えてはいないはずなのに、射抜かれているようでドキッとした。

「死にゆく方が、よっぽど怖いもんです」
「……はぁ」

 僕は辛うじて、喉から息を絞り出せた。どうしてこんなに息が詰まるのか、自分でも分からない。とにかく、修一さんがただ大きく見えていた。

「私が死を恐れる理由ですがね。目は見えなくなろうと、周りに家族がいる。大切な師もいれば、友人もいる。糸がね、繋がってるんですよ」
「糸、ですか」
「はい。しかし死ねば、私から伸びる糸は切れてしまう」

 修一さんは指をハサミのように動かした。まるで胸の前に、心臓から伸びた何かがあるかのように。ちょきん、と。

「遺った者は、糸の端を巻いて心に仕舞えますがね。私側の端はその場に落ちたまま、拾えません。拾ってくれる者もありません。余生をどう足掻いても、綺麗に死ぬことなんてできない。恐怖ですよ」

 ごちそうさま、と手を合わせる。いつの間にか修一さんは、昼食を食べ終えていた。
 僕はといえば、まだ半分も手をつけられていない。

「目なんかよりも、人との繋がりを汚く散らす方がよっぽど怖い。それを、生きているうちにブチブチ切ろうとするなんて、バチが当たるというもんですわ」

 油断していた。僕の前にいた猛獣から、一瞬にして胸を抉られた思いだった。

――必ずまた来るからね。

 あかりの手紙にあった一文が脳裏を掠める。僕は、糸を切ろうとしていたのか。

「僕は、どうしたらいいんでしょうか」

 縋りついた。けれど、修一さんはそれには答えず、窓から差しこむ光に顔を向ける。

「若いって、いいですな」

 その言葉を最後に。
 僕が少なめの病院食を食べ切るまでの長い時間、修一さんは微笑みを湛えながら座っていた。





 翌日の夕方まで、僕は何も手を付けられずにいた。
 見舞いに来てくれた母さんともろくに話をしないままで。あかりのことを考えていたと言えば聞こえはいいけれど、その内容はろくでもなかった。
 あかりとの糸を切ることについての、口実を考えていたんだ。

 修一さんが言っていたことを意に介していないわけじゃない。それを受けた上で、ならば綺麗に切ってやろうと思い立った。思い立ったのだけれど。

「何もないよ……」

 唯一できたことと言えば、あかりの絵本が目に入らないように、母さんに押し付けて持って帰ってもらったことくらいだ。
 考えれば考える程に、あかりの笑顔しか浮かんでこない。その度に思考はフリーズして、もう傷自体は完治しているはずの頭が疼いた。
 早く屈しろ、諦めろと、イカれてしまった脳からの囁きが、時計代わりに夜を深めている。

 ふと壁掛け時計を見やると、十七時を少し過ぎたところだ。
 もうすぐあかりの来る時間だろうか。覚悟を決めて起きていようか、狸寝入りを決め込もうかと考え始めた時、廊下でばたばたと、誰かの走る音が聞こえた。
 はたと止んだかと思うと、また走る音。部屋のプレートを確認しているんだろう。それなら僕の見舞客ではないな。母さんもあかりも、この部屋を知っているんだから。

 ふぅ、と息を吐いてシーツにくるまろうとしたところで、勢いよく病室のドアが開かれた。

「フユはいるけ?」
「……えっ?」

 僕の部屋に、来た? いや、そうじゃない。そこじゃない。
 この声は。この呼び方は。この訛りは。

「シ、フォン……?」

 体を起こすと、乱入者はずかずかと詰め寄り、僕の目の前で仁王立ちをした。
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