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第四章 見えざる糸のロンド
〈4〉
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「えっ、どうして」
「先輩だからですかな、庇って歩いているのがよう分かる。目が、見えてないんでしょう?」
ぎょっとした。
「……若気の至りで、脳にちょっと。今は霞む程度ですが、じき失明すると言われました」
老人は、ほぅ、と眉を上げた。不思議な感覚だった。
彼は自分で盲者と名乗ったけれど、目は開いているし、瞬きもする。もしかすると、本当は僕の歩き方も見えているんじゃないかとさえ思った。
「若気の至りですか」
「はい。……こんなことを訊くのは失礼ですが、あなたは全盲なのですか?」
その質問に、しかし、老人はまたかか、と笑った。
「失礼だなんて。そんな前置きはいらんですよ」
なんとなく、あかりの姿が重なった気がした。
――いっそ、かたわ、とか聾、って正直に言ってくれた方が気が楽だよ。
日本人は、すみませんが、失礼ですが、といった前置きをよく使う人種だと言われている。前からも後ろからも、上からも横からも、どこからだって失礼と考える。それは謙虚で美しい心と言われているけれど。逆に、それを口にすることで本当に失礼になることもあるのかもしれない。
「事故で後天的にだからですかなぁ、私は視えていますよ。ええ、よく視えてる」
もうエレベーターというところで、老人は立ち止まり、僕の肩を探って手を置いた。
「私と比較して考えなさるな。いっそ、自分を中心として考えてみればいいのです」
「自分を中心として、ですか」
「ええ。他人と比較して安心していても、自分が見えなくなっていることには変わりありませんからな」
逃げるなと、言われた気がした。
歩き出した老人は、エレベーターのスイッチを押す。高さもドンピシャ、慣れた手つきだった。随分長くここにいるのだろう。
さっき僕が乗って来てから誰もエレベーターを使ってなかったのか、すぐに扉は開いた。
「お前さん、名前は?」
乗り込みながら、老人は訊いてきた。
「天野、冬彦です」
「いい名前ですな。私は修一といいます、よろしく」
閉まりゆく扉の向こうで手を振った修一さんに、僕は何も言えなかった。
気が付けば、屋上に向かって足を運んでいた。
外に通じるドアを開いた途端、強く吹き込んできた寒風に顔を背ける。顔を上げれば、太陽は隠れているというのに、雪の明るさに目が眩んだ。
嫌な眩しさだった。あかりを見た時に感じた煌めきじゃなくて、真夜中に顔目がけて懐中電灯を当てられたような、ぎらついた光。
空から挑発されている気がした。見てみろ、見えるか、と。
目を凝らす。じっと辺りを見据える。
自販機も設置され、憩いの場となっている入院患者唯一の「自由な外出先」は、雪の時期には人の影もない。
「見えない、なぁ」
修一さんからも看破された視力の異常。若気の至りとは、我ながらよく美辞麗句が浮かんだものだと思う。
馬鹿なだけなんだ。無鉄砲で、自分の力を弁えていない愚か者の末路。
あかりは『相手にするな』と言ったんだ。言っていたんだぞ、この馬鹿野郎。
くらだない正義感振りかざして、そのくせ拳の降ろし場所を見失って。
だから神様から、どうせ見ないのならばいいだろうと皮肉るように、視力を取り上げられようとしている。
フェンス際まで寄って、見渡せる景色を目に焼き付けようと噛り付いた。僕の住む町を。あかりと過ごした場所を。
「ちくしょう、見えないなぁ!」
雪のせいなのか、涙のせいなのか、単純に視力のせいかは分からない。
僕はまた逃げ出そうとしていた。修一さんから言われるまで、逃げ出そうとしていたことにすら気づかなかった。
手話を投げ出して。ピアノも投げ出して。そのくせ未練がましくしがみ付いて。
あかりと出会って、ようやく手話ともう一度向き合ったのに、今度は光を失いつつある目から逃げようとしているんだ。
全て自業自得。自分の選択でしかないのに。
「よりによって、どうして目なんだよ!」
代償は重すぎた。景色を見ていられなくなって、背を向けて座り込む。
くらくらと眩暈がする。頭がガンガン野次を飛ばしてくる。握りしめた拳は、やっぱり降ろし場所がなくて、ポケットへ乱暴に押し込んだ。
ふと、柔らかい感触があった。
指に引っかけて取り出す。あかりにもらった赤い糸だ。
「……こんなもの!」
放り投げる。雪に落ちた赤は、絶え間なく降り注ぐ白にみるみる埋められていく。
全部埋まり切るまで見るのが怖くなった僕は、冷たいフェンスに寄りかかって膝を抱え、蹲った。
「なんで、なんで、なんでなんでなんで……」
どうして、目なんだろう。
「ちくしょう、ちくしょうちくしょうっ!」
どうせこのまま、目が見えなくなるのなら。
どうせこのまま、手話が見えなくなるのなら。
どうせこのまま、光が見えなくなるのなら。
「あかりとも――」
言い切ることができなかった。また逃げた。逃げることからすら、逃げた。
叫ぶ。泣き叫ぶ。耐え切れなくなって空に吼えても、容易く雪に呑み込まれてしまった。
僕の力なんて、小さすぎた。
――ねえ冬彦。世界共通で伝えられるものって、知ってる?
ねえあかり。僕は笑顔が見えなくなるって、知ってる?
――みんなに笑顔が伝わって。平和になるの。
いっそ、みんなが不幸ならよかったのに。
そう、思わない?
「うわああああああああああああ!」
心が凍えていた。頭が真っ白だった。
僕の無力な叫びは、いつの間にか吹雪き始めていた空に吸い込まれていく。
「先輩だからですかな、庇って歩いているのがよう分かる。目が、見えてないんでしょう?」
ぎょっとした。
「……若気の至りで、脳にちょっと。今は霞む程度ですが、じき失明すると言われました」
老人は、ほぅ、と眉を上げた。不思議な感覚だった。
彼は自分で盲者と名乗ったけれど、目は開いているし、瞬きもする。もしかすると、本当は僕の歩き方も見えているんじゃないかとさえ思った。
「若気の至りですか」
「はい。……こんなことを訊くのは失礼ですが、あなたは全盲なのですか?」
その質問に、しかし、老人はまたかか、と笑った。
「失礼だなんて。そんな前置きはいらんですよ」
なんとなく、あかりの姿が重なった気がした。
――いっそ、かたわ、とか聾、って正直に言ってくれた方が気が楽だよ。
日本人は、すみませんが、失礼ですが、といった前置きをよく使う人種だと言われている。前からも後ろからも、上からも横からも、どこからだって失礼と考える。それは謙虚で美しい心と言われているけれど。逆に、それを口にすることで本当に失礼になることもあるのかもしれない。
「事故で後天的にだからですかなぁ、私は視えていますよ。ええ、よく視えてる」
もうエレベーターというところで、老人は立ち止まり、僕の肩を探って手を置いた。
「私と比較して考えなさるな。いっそ、自分を中心として考えてみればいいのです」
「自分を中心として、ですか」
「ええ。他人と比較して安心していても、自分が見えなくなっていることには変わりありませんからな」
逃げるなと、言われた気がした。
歩き出した老人は、エレベーターのスイッチを押す。高さもドンピシャ、慣れた手つきだった。随分長くここにいるのだろう。
さっき僕が乗って来てから誰もエレベーターを使ってなかったのか、すぐに扉は開いた。
「お前さん、名前は?」
乗り込みながら、老人は訊いてきた。
「天野、冬彦です」
「いい名前ですな。私は修一といいます、よろしく」
閉まりゆく扉の向こうで手を振った修一さんに、僕は何も言えなかった。
気が付けば、屋上に向かって足を運んでいた。
外に通じるドアを開いた途端、強く吹き込んできた寒風に顔を背ける。顔を上げれば、太陽は隠れているというのに、雪の明るさに目が眩んだ。
嫌な眩しさだった。あかりを見た時に感じた煌めきじゃなくて、真夜中に顔目がけて懐中電灯を当てられたような、ぎらついた光。
空から挑発されている気がした。見てみろ、見えるか、と。
目を凝らす。じっと辺りを見据える。
自販機も設置され、憩いの場となっている入院患者唯一の「自由な外出先」は、雪の時期には人の影もない。
「見えない、なぁ」
修一さんからも看破された視力の異常。若気の至りとは、我ながらよく美辞麗句が浮かんだものだと思う。
馬鹿なだけなんだ。無鉄砲で、自分の力を弁えていない愚か者の末路。
あかりは『相手にするな』と言ったんだ。言っていたんだぞ、この馬鹿野郎。
くらだない正義感振りかざして、そのくせ拳の降ろし場所を見失って。
だから神様から、どうせ見ないのならばいいだろうと皮肉るように、視力を取り上げられようとしている。
フェンス際まで寄って、見渡せる景色を目に焼き付けようと噛り付いた。僕の住む町を。あかりと過ごした場所を。
「ちくしょう、見えないなぁ!」
雪のせいなのか、涙のせいなのか、単純に視力のせいかは分からない。
僕はまた逃げ出そうとしていた。修一さんから言われるまで、逃げ出そうとしていたことにすら気づかなかった。
手話を投げ出して。ピアノも投げ出して。そのくせ未練がましくしがみ付いて。
あかりと出会って、ようやく手話ともう一度向き合ったのに、今度は光を失いつつある目から逃げようとしているんだ。
全て自業自得。自分の選択でしかないのに。
「よりによって、どうして目なんだよ!」
代償は重すぎた。景色を見ていられなくなって、背を向けて座り込む。
くらくらと眩暈がする。頭がガンガン野次を飛ばしてくる。握りしめた拳は、やっぱり降ろし場所がなくて、ポケットへ乱暴に押し込んだ。
ふと、柔らかい感触があった。
指に引っかけて取り出す。あかりにもらった赤い糸だ。
「……こんなもの!」
放り投げる。雪に落ちた赤は、絶え間なく降り注ぐ白にみるみる埋められていく。
全部埋まり切るまで見るのが怖くなった僕は、冷たいフェンスに寄りかかって膝を抱え、蹲った。
「なんで、なんで、なんでなんでなんで……」
どうして、目なんだろう。
「ちくしょう、ちくしょうちくしょうっ!」
どうせこのまま、目が見えなくなるのなら。
どうせこのまま、手話が見えなくなるのなら。
どうせこのまま、光が見えなくなるのなら。
「あかりとも――」
言い切ることができなかった。また逃げた。逃げることからすら、逃げた。
叫ぶ。泣き叫ぶ。耐え切れなくなって空に吼えても、容易く雪に呑み込まれてしまった。
僕の力なんて、小さすぎた。
――ねえ冬彦。世界共通で伝えられるものって、知ってる?
ねえあかり。僕は笑顔が見えなくなるって、知ってる?
――みんなに笑顔が伝わって。平和になるの。
いっそ、みんなが不幸ならよかったのに。
そう、思わない?
「うわああああああああああああ!」
心が凍えていた。頭が真っ白だった。
僕の無力な叫びは、いつの間にか吹雪き始めていた空に吸い込まれていく。
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