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第四章 見えざる糸のロンド
〈3〉
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痩せ形の医師先生は、僕と母さんの話を記したカルテを読み返して眉をひそめた。
「精密検査をしないことには判断ができないので、あくまで予測になりますが」
おどろかせるわけじゃないんですよと、黒縁眼鏡の向こうから優しそうな眼が覗く。
「おそらく、頭を強く打ったことで、脳に後遺症が残っているものと思われます」
宣告されてはじめて、全身の力が抜けたような気がした。
「普通、色弱……色を上手く認識できないという症状は先天性で、目から脳までの神経が損傷している場合に現れます」
先生は取り出した本をぱらぱらとめくると、「視神経がやられてしまってるんですわ」と開いたページを見せてくれた。
顔の断面をイラストにしたものだ。カラーページだから、筋肉に当たる部分は赤なんだろうけど、やっぱり仄暗い色に見える。
「見えませんか」
「……はい」
僕は、赤色が認識できていなかった。僕の異変に気付いた母さんが見せてくれたチークさえも、色褪せて見えた。
「色弱は先天性と仰いましたよね。でも僕は、今まで赤をちゃんと認識していましたよ」
「ええ、普通は生まれつきです。ただ」
先生はとんとん、と指で机を叩く。言いあぐねているのだろうか。
「稀なケースですが、脳がその色を認識しなくなることがあるんです。目から脳にかけてではなく、脳が問題になるわけですね」
その後、しばらく色弱の説明をしてもらった。
一概に色弱と言っても、どの色も分からないというわけではなく、赤寄り、青寄り、さらに稀なケースでは緑黄色寄りといった症状があるらしい。
僕の場合、入院着の青や、病室のベッドを囲むカーテンの緑は見えている。
しかし安心はできないのだそうだ。複数の症状が併発することもあり、それは後から突然ということもあるらしい。先天的な色弱でも、そこから進行して色盲となる人も十分あり得るのだそうだ。
「天野さん。起きてから、目がかすんだりはしますか?」
「ええ、まぁ。少し疲れ目な気はしています」
答えると、先生は「そうですかぁ」と背もたれにかかった。
「明日にでも、精密検査をしましょう」
「そんなに、まずいんですか」
「ええ。とはいっても、私の予測が当たっていれば、治療の余地はないのですが」
先生の優しい眼は、辛い黒を宿した。
「仰ってください」
ここまで来て、隠されても仕方ない。急かすと、先生は観念したように一度目を閉じて。
再び僕を見据えて、告げた。
「おそらく天野さんは、じきに視力を失います」
翌日の検査は、あっけないほどにあっさり終わった。
MRIの台に乗っかって目を閉じるだけ。二十分くらいかかると言われていたけど、体感的には十分もなかった気がする。その後の待ち時間の方が長かったくらいだ。
結果の報告も、前もって聞いていた予測と変わりなかった。
昨日先生の診断を受けてから、目のかすみはさらにひどくなった気がする。まるで脳から、僕が症状を認識した以上、もう手加減はしないと言われているようだった。
今日は月曜日。あかりは学校があるからここにはいない。特に歩行に支障はなかったから、母さんにも普段通り、仕事に行ってもらった。
飲み干した炭酸飲料のカップを握りつぶして、自販機横のゴミ箱に放り込む。
院内のプレートがぼやけて見えた。まだ、視界に映るもの判別はできるけれど、その情報までは読み取れない。
眼鏡は効果がなかった。目自体には問題がないから、既に合っているピントを合わせることはできないらしい。
廊下を戻り、確か自分の病室はこの辺だったっけと、入室者のプレートに顔を寄せる。目を細めても見えないから、こうするしかない。
そこには「夏木修一」という名前があった。この部屋も一人だけなのだろうか。
部屋番号は五〇八号室。僕の部屋は五一○号室、隣の部屋だ。
もう一つ隣だったというわずかなショックでやる気を失った足を奮い立たせようとした時、ちょうど目の前のドアが開いた。
出てきたのは、点滴台を杖のように引きつれて歩く、昨日見た老人だった。
「おや、こんにちは」
声をかけられた。慌てて会釈を返す。
「こんにちは。……どちらまで?」
「エレベーターまでです。売店に行こうかと」
柔和な声の人だった。手伝いますよ、と声をかけて、点滴台と反対側に回り込む。
「すまなんだ。私は目が見えていないもので」
「見えていないんですか」
「おや、気づきませんでしたか。こう首を振っても、目線が合わないので一目で判るでしょう」
老人は、かか、と笑った。自嘲気味などではなく、本当に可笑しそうに。
それに僕は曖昧に相槌を打った。目のせいで、老人がこっちを向いた事は分かっていても、視線がどこを向いているかまでは見ることができなかったからだ。それに、そんな状態の人が一人で売店に向かおうとしているのにも驚いた。
同様を表に出さないようにしながら寄り添う。病室に戻るのとは違って、エレベーターに向かうのは楽だ。方向に見当が付いていれば、探す必要はないのだから。
歩幅を合わせて、しばらく進んでいくと、ふと、老人は首を傾げて歯を見せた。
「お前さん、私より足下がおぼついてないんじゃないですかな?」
「精密検査をしないことには判断ができないので、あくまで予測になりますが」
おどろかせるわけじゃないんですよと、黒縁眼鏡の向こうから優しそうな眼が覗く。
「おそらく、頭を強く打ったことで、脳に後遺症が残っているものと思われます」
宣告されてはじめて、全身の力が抜けたような気がした。
「普通、色弱……色を上手く認識できないという症状は先天性で、目から脳までの神経が損傷している場合に現れます」
先生は取り出した本をぱらぱらとめくると、「視神経がやられてしまってるんですわ」と開いたページを見せてくれた。
顔の断面をイラストにしたものだ。カラーページだから、筋肉に当たる部分は赤なんだろうけど、やっぱり仄暗い色に見える。
「見えませんか」
「……はい」
僕は、赤色が認識できていなかった。僕の異変に気付いた母さんが見せてくれたチークさえも、色褪せて見えた。
「色弱は先天性と仰いましたよね。でも僕は、今まで赤をちゃんと認識していましたよ」
「ええ、普通は生まれつきです。ただ」
先生はとんとん、と指で机を叩く。言いあぐねているのだろうか。
「稀なケースですが、脳がその色を認識しなくなることがあるんです。目から脳にかけてではなく、脳が問題になるわけですね」
その後、しばらく色弱の説明をしてもらった。
一概に色弱と言っても、どの色も分からないというわけではなく、赤寄り、青寄り、さらに稀なケースでは緑黄色寄りといった症状があるらしい。
僕の場合、入院着の青や、病室のベッドを囲むカーテンの緑は見えている。
しかし安心はできないのだそうだ。複数の症状が併発することもあり、それは後から突然ということもあるらしい。先天的な色弱でも、そこから進行して色盲となる人も十分あり得るのだそうだ。
「天野さん。起きてから、目がかすんだりはしますか?」
「ええ、まぁ。少し疲れ目な気はしています」
答えると、先生は「そうですかぁ」と背もたれにかかった。
「明日にでも、精密検査をしましょう」
「そんなに、まずいんですか」
「ええ。とはいっても、私の予測が当たっていれば、治療の余地はないのですが」
先生の優しい眼は、辛い黒を宿した。
「仰ってください」
ここまで来て、隠されても仕方ない。急かすと、先生は観念したように一度目を閉じて。
再び僕を見据えて、告げた。
「おそらく天野さんは、じきに視力を失います」
翌日の検査は、あっけないほどにあっさり終わった。
MRIの台に乗っかって目を閉じるだけ。二十分くらいかかると言われていたけど、体感的には十分もなかった気がする。その後の待ち時間の方が長かったくらいだ。
結果の報告も、前もって聞いていた予測と変わりなかった。
昨日先生の診断を受けてから、目のかすみはさらにひどくなった気がする。まるで脳から、僕が症状を認識した以上、もう手加減はしないと言われているようだった。
今日は月曜日。あかりは学校があるからここにはいない。特に歩行に支障はなかったから、母さんにも普段通り、仕事に行ってもらった。
飲み干した炭酸飲料のカップを握りつぶして、自販機横のゴミ箱に放り込む。
院内のプレートがぼやけて見えた。まだ、視界に映るもの判別はできるけれど、その情報までは読み取れない。
眼鏡は効果がなかった。目自体には問題がないから、既に合っているピントを合わせることはできないらしい。
廊下を戻り、確か自分の病室はこの辺だったっけと、入室者のプレートに顔を寄せる。目を細めても見えないから、こうするしかない。
そこには「夏木修一」という名前があった。この部屋も一人だけなのだろうか。
部屋番号は五〇八号室。僕の部屋は五一○号室、隣の部屋だ。
もう一つ隣だったというわずかなショックでやる気を失った足を奮い立たせようとした時、ちょうど目の前のドアが開いた。
出てきたのは、点滴台を杖のように引きつれて歩く、昨日見た老人だった。
「おや、こんにちは」
声をかけられた。慌てて会釈を返す。
「こんにちは。……どちらまで?」
「エレベーターまでです。売店に行こうかと」
柔和な声の人だった。手伝いますよ、と声をかけて、点滴台と反対側に回り込む。
「すまなんだ。私は目が見えていないもので」
「見えていないんですか」
「おや、気づきませんでしたか。こう首を振っても、目線が合わないので一目で判るでしょう」
老人は、かか、と笑った。自嘲気味などではなく、本当に可笑しそうに。
それに僕は曖昧に相槌を打った。目のせいで、老人がこっちを向いた事は分かっていても、視線がどこを向いているかまでは見ることができなかったからだ。それに、そんな状態の人が一人で売店に向かおうとしているのにも驚いた。
同様を表に出さないようにしながら寄り添う。病室に戻るのとは違って、エレベーターに向かうのは楽だ。方向に見当が付いていれば、探す必要はないのだから。
歩幅を合わせて、しばらく進んでいくと、ふと、老人は首を傾げて歯を見せた。
「お前さん、私より足下がおぼついてないんじゃないですかな?」
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