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第四章 見えざる糸のロンド

〈2〉

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 僕が目を覚ますと、一面が白だった。
 いや、カーテンは薄い緑か。少なくとも、僕の手元――ベッドシーツは真っ白だ。
 病室?
 ああ、そうか。そういえば僕は殴られて、そのまま気を失ったんだっけ。

 体を起こそうとして、ジンジンと内側から打ち付けられるような頭痛に屈した。
 ぼうっと見上げた天井の染みを数えてみる……ないな。綺麗だ。それにしても頭が痛い。
 おそるおそる触れれば、頭に包帯を巻かれていた。押して痛むわけではなかった。幸い、大きな外傷はないみたいだ。口内の傷もそんなに酷くない。

 この部屋には四つのベッドがある。けれど、患者は僕一人のようだ。僕の服は薄青の入院着に替えさせられていて、腕時計も外されている。
 今、何時だろうか。ぼうっと肌寒さを感じていると、しばらくして病室のドアが静かに開いた。

『冬彦、起きてたの?』
「……あかり?」

 その顔を見て人心地がついた。無事だったんだ。

『一晩中眠ってたんだよ』
『えっ、今って朝?』
『もう十時。ねぼすけ』
『ごめん。……おはよう?』

 窓際に寄ったあかりは、カーテンを開けてくれた。外は雪もなく、からっと晴れている。冬だからなのか、分厚いカーテンが遮ってくれたか、鳥の鳴き声も聞こえなかったから、朝になっていたことにも気付かなかった。

『体調はどう?』
『まだ、頭痛がするかな。あと、ちょっと目がかすむかも』
『えっ、大丈夫なの?』
『うん、少し疲れてるだけだと思う』

 パソコンの画面を長時間見続けた時のような感覚だった。きっと、頭痛のせいだろう。

『もしかして、一晩中ここにいてくれてた?』
『月香さんに言われて一度帰ったんだけど、眠れなくて』

 そう言ってあかりが揺らした髪に、いつもの髪飾りはついていなかった。彼女の言う通り、一度眠ろうとして、そのまま来たんだろう。
 表情も、少しやつれて見えた。

『ごめんね』

 こめかみを抑えて手を下げる。しかし、その手はあかりに止められた。

『こういう時はありがとうって言うんだって、月香さん言ってたよ』
『そっか。ありがとう』

 いつの間にそんな話をしたんだろう。母さんらしいけれど。
 安心したら、どっと疲れが押し寄せてきた。ゆっくりと、枕に頭を沈める。

『あまり長くお話はできなさそうだね』
『そうかも、ごめん』

 覗き込んできたあかりに、仰向けのまま手を浮かせて返すと、彼女はあっと声を上げて視界から消えた。
 首だけ動かして追いかけると、あかりは壁際に置いていた自分のポーチから、グレーの毛糸を取り出していた。あの喧嘩の前に買っていたものだ。
 そっと僕の手を取ると、右手の薬指に毛糸の端を結びつける。そして、やや長めに巻き伸ばしたところで切ったもう一方を、自分の右手薬指に巻きつけた。

 あかりは、ちょんちょん、と軽く糸を引っ張ると、

『私がここにいる時にはつけているから、冬彦が話したい時に引っ張って』

 そう言って、はにかんだ。
 あかりに呼びかける時に、僕が起き上がらなくてもいいようにという配慮だろう。

『早く良くなるようにっていうおまじないも籠めて。……運命の赤い糸みたいだね』

 そう言って、あかりはグレーの毛糸を掲げて見せる。
 赤い糸といいつつ、赤を選ばなかったことも、あかりの気遣いなんだと思う。手袋用に買っていた毛糸は赤、白、グレーの三色。赤を持っているのは間違いない。

 例えば、入院患者へのお見舞いに生花を良しとしない病院もあるらしい。それは、生花だと枯れてしまうから、伏せた患者に与える心理的影響として良くないんだとか。同様に、死を連想させたりするものはNG。きっと、血を連想する赤を意図的に避けたんだろう。
 だから僕は、グレーの糸を赤と言うあかりに、

『そうだね。ありがとう』

 微笑んで返した。





 僕が医師の診察を受けた後、あかりは一度、紫さんに連絡をするために外に出て行った。
 いい機会だったから、リハビリがてら歩いてみることにした。特に許可は貰っていないけれど、ベッドに固定されているわけでも点滴を打たれているわけでもないから、院内くらいは大丈夫だよね。

 病室を出たところで、通路の奥を歩く男性が見えた。点滴の台によりかかるように、おぼつかないながらも愚直な足取りで進んでいく。後ろ姿しか見えないけれど、けっこうな御歳を召した人だ。
 同じ階の人かな。すれ違う時があったら挨拶をしてみよう。

 喉が渇いていた僕は、給湯室のプレートを探して反対方向へ進む。
 ほどなくして、部屋というよりは、一角に造られた申し訳程度のスペースを見つけた。そこで、意外な人物に遭遇した。

「母さん? ここにいたんだ」
「横になってなくていいの?」
「大丈夫。少し、頭がズキズキするだけだから」

 軽く手を挙げて、蛇口へ向かう。
 病室に近い給湯室だからだろうか。コンロややかんの類はなく、代わりに電気で湯沸しができるポットが置いてあった。
 その脇からコップを一つ取って、注いだ水道水をあおる。絶妙に美味しくなかった。

「あら、その糸はどうしたの?」

 母さんに言われて、僕はまだ指に糸を括りつけたままだったことに気が付いた。

「さっきあかりが来てくれてさ。グレーの糸なんて、面白いよね」
「グレー?」
「うん。入院中だから気を遣ってくれたのかな。あかりは『赤い糸』って言ってたけど」

 思い出して、少し笑ってしまう。
 しかし、反対に母さんは、しかめっ面をしていた。

「待って冬彦。あんた、これがグレーに見えているの?」
「えっ?」

 そんな、突然。見えているのと言われても。

「これはグレーでしょ。昨日あかりが買ってた色だし」

 うん、昨日確かにあかりはグレーの毛糸を買っていた。それには僕も一緒だった。
 なのに。
 自分に言い聞かせるように頷くと、途端に嫌な予感が汗となって噴き出した。

 今日、あかりは髪飾りをつけていなかった。
 この給湯室には、コンロがなかった。つまり火がなかった。

 だから僕は、昨日倒れてから――

「ねぇ冬彦。この糸の色」

 ――その色を、見ていない。

「赤よ?」

 母さんの言葉に、僕はああ、と呻く事すらままならなかった。
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