16 / 37
第四章 見えざる糸のロンド
〈2〉
しおりを挟む
僕が目を覚ますと、一面が白だった。
いや、カーテンは薄い緑か。少なくとも、僕の手元――ベッドシーツは真っ白だ。
病室?
ああ、そうか。そういえば僕は殴られて、そのまま気を失ったんだっけ。
体を起こそうとして、ジンジンと内側から打ち付けられるような頭痛に屈した。
ぼうっと見上げた天井の染みを数えてみる……ないな。綺麗だ。それにしても頭が痛い。
おそるおそる触れれば、頭に包帯を巻かれていた。押して痛むわけではなかった。幸い、大きな外傷はないみたいだ。口内の傷もそんなに酷くない。
この部屋には四つのベッドがある。けれど、患者は僕一人のようだ。僕の服は薄青の入院着に替えさせられていて、腕時計も外されている。
今、何時だろうか。ぼうっと肌寒さを感じていると、しばらくして病室のドアが静かに開いた。
『冬彦、起きてたの?』
「……あかり?」
その顔を見て人心地がついた。無事だったんだ。
『一晩中眠ってたんだよ』
『えっ、今って朝?』
『もう十時。ねぼすけ』
『ごめん。……おはよう?』
窓際に寄ったあかりは、カーテンを開けてくれた。外は雪もなく、からっと晴れている。冬だからなのか、分厚いカーテンが遮ってくれたか、鳥の鳴き声も聞こえなかったから、朝になっていたことにも気付かなかった。
『体調はどう?』
『まだ、頭痛がするかな。あと、ちょっと目がかすむかも』
『えっ、大丈夫なの?』
『うん、少し疲れてるだけだと思う』
パソコンの画面を長時間見続けた時のような感覚だった。きっと、頭痛のせいだろう。
『もしかして、一晩中ここにいてくれてた?』
『月香さんに言われて一度帰ったんだけど、眠れなくて』
そう言ってあかりが揺らした髪に、いつもの髪飾りはついていなかった。彼女の言う通り、一度眠ろうとして、そのまま来たんだろう。
表情も、少しやつれて見えた。
『ごめんね』
こめかみを抑えて手を下げる。しかし、その手はあかりに止められた。
『こういう時はありがとうって言うんだって、月香さん言ってたよ』
『そっか。ありがとう』
いつの間にそんな話をしたんだろう。母さんらしいけれど。
安心したら、どっと疲れが押し寄せてきた。ゆっくりと、枕に頭を沈める。
『あまり長くお話はできなさそうだね』
『そうかも、ごめん』
覗き込んできたあかりに、仰向けのまま手を浮かせて返すと、彼女はあっと声を上げて視界から消えた。
首だけ動かして追いかけると、あかりは壁際に置いていた自分のポーチから、グレーの毛糸を取り出していた。あの喧嘩の前に買っていたものだ。
そっと僕の手を取ると、右手の薬指に毛糸の端を結びつける。そして、やや長めに巻き伸ばしたところで切ったもう一方を、自分の右手薬指に巻きつけた。
あかりは、ちょんちょん、と軽く糸を引っ張ると、
『私がここにいる時にはつけているから、冬彦が話したい時に引っ張って』
そう言って、はにかんだ。
あかりに呼びかける時に、僕が起き上がらなくてもいいようにという配慮だろう。
『早く良くなるようにっていうおまじないも籠めて。……運命の赤い糸みたいだね』
そう言って、あかりはグレーの毛糸を掲げて見せる。
赤い糸といいつつ、赤を選ばなかったことも、あかりの気遣いなんだと思う。手袋用に買っていた毛糸は赤、白、グレーの三色。赤を持っているのは間違いない。
例えば、入院患者へのお見舞いに生花を良しとしない病院もあるらしい。それは、生花だと枯れてしまうから、伏せた患者に与える心理的影響として良くないんだとか。同様に、死を連想させたりするものはNG。きっと、血を連想する赤を意図的に避けたんだろう。
だから僕は、グレーの糸を赤と言うあかりに、
『そうだね。ありがとう』
微笑んで返した。
僕が医師の診察を受けた後、あかりは一度、紫さんに連絡をするために外に出て行った。
いい機会だったから、リハビリがてら歩いてみることにした。特に許可は貰っていないけれど、ベッドに固定されているわけでも点滴を打たれているわけでもないから、院内くらいは大丈夫だよね。
病室を出たところで、通路の奥を歩く男性が見えた。点滴の台によりかかるように、おぼつかないながらも愚直な足取りで進んでいく。後ろ姿しか見えないけれど、けっこうな御歳を召した人だ。
同じ階の人かな。すれ違う時があったら挨拶をしてみよう。
喉が渇いていた僕は、給湯室のプレートを探して反対方向へ進む。
ほどなくして、部屋というよりは、一角に造られた申し訳程度のスペースを見つけた。そこで、意外な人物に遭遇した。
「母さん? ここにいたんだ」
「横になってなくていいの?」
「大丈夫。少し、頭がズキズキするだけだから」
軽く手を挙げて、蛇口へ向かう。
病室に近い給湯室だからだろうか。コンロややかんの類はなく、代わりに電気で湯沸しができるポットが置いてあった。
その脇からコップを一つ取って、注いだ水道水をあおる。絶妙に美味しくなかった。
「あら、その糸はどうしたの?」
母さんに言われて、僕はまだ指に糸を括りつけたままだったことに気が付いた。
「さっきあかりが来てくれてさ。グレーの糸なんて、面白いよね」
「グレー?」
「うん。入院中だから気を遣ってくれたのかな。あかりは『赤い糸』って言ってたけど」
思い出して、少し笑ってしまう。
しかし、反対に母さんは、しかめっ面をしていた。
「待って冬彦。あんた、これがグレーに見えているの?」
「えっ?」
そんな、突然。見えているのと言われても。
「これはグレーでしょ。昨日あかりが買ってた色だし」
うん、昨日確かにあかりはグレーの毛糸を買っていた。それには僕も一緒だった。
なのに。
自分に言い聞かせるように頷くと、途端に嫌な予感が汗となって噴き出した。
今日、あかりは髪飾りをつけていなかった。
この給湯室には、コンロがなかった。つまり火がなかった。
だから僕は、昨日倒れてから――
「ねぇ冬彦。この糸の色」
――その色を、見ていない。
「赤よ?」
母さんの言葉に、僕はああ、と呻く事すらままならなかった。
いや、カーテンは薄い緑か。少なくとも、僕の手元――ベッドシーツは真っ白だ。
病室?
ああ、そうか。そういえば僕は殴られて、そのまま気を失ったんだっけ。
体を起こそうとして、ジンジンと内側から打ち付けられるような頭痛に屈した。
ぼうっと見上げた天井の染みを数えてみる……ないな。綺麗だ。それにしても頭が痛い。
おそるおそる触れれば、頭に包帯を巻かれていた。押して痛むわけではなかった。幸い、大きな外傷はないみたいだ。口内の傷もそんなに酷くない。
この部屋には四つのベッドがある。けれど、患者は僕一人のようだ。僕の服は薄青の入院着に替えさせられていて、腕時計も外されている。
今、何時だろうか。ぼうっと肌寒さを感じていると、しばらくして病室のドアが静かに開いた。
『冬彦、起きてたの?』
「……あかり?」
その顔を見て人心地がついた。無事だったんだ。
『一晩中眠ってたんだよ』
『えっ、今って朝?』
『もう十時。ねぼすけ』
『ごめん。……おはよう?』
窓際に寄ったあかりは、カーテンを開けてくれた。外は雪もなく、からっと晴れている。冬だからなのか、分厚いカーテンが遮ってくれたか、鳥の鳴き声も聞こえなかったから、朝になっていたことにも気付かなかった。
『体調はどう?』
『まだ、頭痛がするかな。あと、ちょっと目がかすむかも』
『えっ、大丈夫なの?』
『うん、少し疲れてるだけだと思う』
パソコンの画面を長時間見続けた時のような感覚だった。きっと、頭痛のせいだろう。
『もしかして、一晩中ここにいてくれてた?』
『月香さんに言われて一度帰ったんだけど、眠れなくて』
そう言ってあかりが揺らした髪に、いつもの髪飾りはついていなかった。彼女の言う通り、一度眠ろうとして、そのまま来たんだろう。
表情も、少しやつれて見えた。
『ごめんね』
こめかみを抑えて手を下げる。しかし、その手はあかりに止められた。
『こういう時はありがとうって言うんだって、月香さん言ってたよ』
『そっか。ありがとう』
いつの間にそんな話をしたんだろう。母さんらしいけれど。
安心したら、どっと疲れが押し寄せてきた。ゆっくりと、枕に頭を沈める。
『あまり長くお話はできなさそうだね』
『そうかも、ごめん』
覗き込んできたあかりに、仰向けのまま手を浮かせて返すと、彼女はあっと声を上げて視界から消えた。
首だけ動かして追いかけると、あかりは壁際に置いていた自分のポーチから、グレーの毛糸を取り出していた。あの喧嘩の前に買っていたものだ。
そっと僕の手を取ると、右手の薬指に毛糸の端を結びつける。そして、やや長めに巻き伸ばしたところで切ったもう一方を、自分の右手薬指に巻きつけた。
あかりは、ちょんちょん、と軽く糸を引っ張ると、
『私がここにいる時にはつけているから、冬彦が話したい時に引っ張って』
そう言って、はにかんだ。
あかりに呼びかける時に、僕が起き上がらなくてもいいようにという配慮だろう。
『早く良くなるようにっていうおまじないも籠めて。……運命の赤い糸みたいだね』
そう言って、あかりはグレーの毛糸を掲げて見せる。
赤い糸といいつつ、赤を選ばなかったことも、あかりの気遣いなんだと思う。手袋用に買っていた毛糸は赤、白、グレーの三色。赤を持っているのは間違いない。
例えば、入院患者へのお見舞いに生花を良しとしない病院もあるらしい。それは、生花だと枯れてしまうから、伏せた患者に与える心理的影響として良くないんだとか。同様に、死を連想させたりするものはNG。きっと、血を連想する赤を意図的に避けたんだろう。
だから僕は、グレーの糸を赤と言うあかりに、
『そうだね。ありがとう』
微笑んで返した。
僕が医師の診察を受けた後、あかりは一度、紫さんに連絡をするために外に出て行った。
いい機会だったから、リハビリがてら歩いてみることにした。特に許可は貰っていないけれど、ベッドに固定されているわけでも点滴を打たれているわけでもないから、院内くらいは大丈夫だよね。
病室を出たところで、通路の奥を歩く男性が見えた。点滴の台によりかかるように、おぼつかないながらも愚直な足取りで進んでいく。後ろ姿しか見えないけれど、けっこうな御歳を召した人だ。
同じ階の人かな。すれ違う時があったら挨拶をしてみよう。
喉が渇いていた僕は、給湯室のプレートを探して反対方向へ進む。
ほどなくして、部屋というよりは、一角に造られた申し訳程度のスペースを見つけた。そこで、意外な人物に遭遇した。
「母さん? ここにいたんだ」
「横になってなくていいの?」
「大丈夫。少し、頭がズキズキするだけだから」
軽く手を挙げて、蛇口へ向かう。
病室に近い給湯室だからだろうか。コンロややかんの類はなく、代わりに電気で湯沸しができるポットが置いてあった。
その脇からコップを一つ取って、注いだ水道水をあおる。絶妙に美味しくなかった。
「あら、その糸はどうしたの?」
母さんに言われて、僕はまだ指に糸を括りつけたままだったことに気が付いた。
「さっきあかりが来てくれてさ。グレーの糸なんて、面白いよね」
「グレー?」
「うん。入院中だから気を遣ってくれたのかな。あかりは『赤い糸』って言ってたけど」
思い出して、少し笑ってしまう。
しかし、反対に母さんは、しかめっ面をしていた。
「待って冬彦。あんた、これがグレーに見えているの?」
「えっ?」
そんな、突然。見えているのと言われても。
「これはグレーでしょ。昨日あかりが買ってた色だし」
うん、昨日確かにあかりはグレーの毛糸を買っていた。それには僕も一緒だった。
なのに。
自分に言い聞かせるように頷くと、途端に嫌な予感が汗となって噴き出した。
今日、あかりは髪飾りをつけていなかった。
この給湯室には、コンロがなかった。つまり火がなかった。
だから僕は、昨日倒れてから――
「ねぇ冬彦。この糸の色」
――その色を、見ていない。
「赤よ?」
母さんの言葉に、僕はああ、と呻く事すらままならなかった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』
コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ”
(全20話)の続編。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211
男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は?
そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。
格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
初愛シュークリーム
吉沢 月見
ライト文芸
WEBデザイナーの利紗子とパティシエールの郁実は女同士で付き合っている。二人は田舎に移住し、郁実はシュークリーム店をオープンさせる。付き合っていることを周囲に話したりはしないが、互いを大事に想っていることには変わりない。同棲を開始し、ますます相手を好きになったり、自分を不甲斐ないと感じたり。それでもお互いが大事な二人の物語。
第6回ライト文芸大賞奨励賞いただきました。ありがとうございます
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる