聖夜のアンティフォナ~君の声は、夜を照らすあかりになる~

雨愁軒経

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第三章 嵐の前のメヌエット

〈4〉

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 施設からの帰り道、駅をまたいでお店に繰り出した僕たちは、いくつかの買い物をしていた。
 やっぱりあかりの手袋は手編みのものだったようで、そのための毛糸を買いにきたんだ。赤と白とグレー、三色の毛糸を。

『グレーも買ったの?』
『そうだよ。赤と白の境の部分に少し混ぜてあげると、色がはっきり見えるの』

 黒だとちょっと濃すぎる、とあかりは肩を竦める。コントラストについては詳しく分からないけれど、編むのが難しそうだ。

 クリスマスまで一週間の大通りは、いつにも増して人通りが多かった。午前中で部活が終わったのか、嬉々として町を練り歩く学生たちの姿もちらほらある。
 みんな一様に、手を繋いで、寒さにも負けず少し頬を赤らめて。カップルかな。

『ね、私たちもそう見えるかな?』

 あかりに爆弾発言をされてドキッとしてしまった。思い切ったことを言う。

『じゃあ、手を繋いでみる?』
『いいの?』

 照れたようにマフラーに鼻を隠して、上目使いで見てくるあかりに、僕は返事の代わりに右手を差し出す。あかりがおずおずとそれを握って、一歩、二歩……。
 ふと、あかりは照れたように笑うと、空いている右手の親指と小指を立てて振り、手をひらひらと上から斜め下に流した。
 ……まずい、最初から分からない。その後も、川? 天の川、じゃないよね、突拍子過ぎる。

『ごめん、分からない』

 首を捻るだけでそう伝えると、あかりはつないだ手を離してむすぅ、と唇を突き出した。

『つまんないの』
『ごめんってば。今のは、片手手話?』

 そういうものがあると聞いたことはある。買い物に行って、荷物で片手が塞がっている時とか、片手しか使えない時に表現するための手話だったか。

『当たり。いくつか簡略化された単語はあるけど、そんなに違いはないよ』
『えっ、そうなの?』
『そうだよ。いつも冬彦が使っている手話でも、片手だけで表現する単語があるでしょ? 手が塞がっている時には、それをうまく使うの』

 あかりは悪戯っ子のように歯を見せた。

『つまり、今のは単に冬彦が読み解けなかっただけ。ロマンがないからそうなるの』
『ロマンって……』
『じゃあヒント。二つ目の方は、両手でやるところを片手でサボってる』
『それじゃ、分かるわけないじゃんか』

 ため息一つ返して、僕は空を仰いだ。今吐いたばかりの息は、意外に高くまで昇っていく。

 聾者同士――もとい、手話がある程度できる人同士では、多少手の動きが足りなかったり、いっそ手話を使わなくても、表情や、首を傾げたりのニュアンスで簡単な会話ができるんだって母さんが言っていた。
 あかりの言葉を借りれば、正に『その人がどういうことを言いたくてその手話を使っているのかを読む』ってことなんだろうけど。この場合に、何を言っていたんだろう。
 あかりのことだから、指文字で一文字ずつ教えてくれたり、なんてしてくれないよね。

『精進あるのみ。がんばれ』
『……ありがとう』

 もどかしくて。悔しくて。
 いつか、手を繋いでいても話せるようになってやる。そう決意するには十分だった。

「気持ち悪いよねぇ、手をくねくねさせてさ」

 不意に、すれ違った高校生カップルの会話が耳に入った。

「ねぇ、あたしがショーガイシャになっても、愛してくれる?」
「当たり前だろ。どんなお前でも、俺は二人で困難を乗り越えて見せるぜ」

 穏やかじゃなかった。僕たちのことを指しているのは明白だった。
 頭の中が黒に染まっていく。白じゃない。怒りが混ざった、赤のような黒。
 非常識バカップルの妄言とはいえ、言っていい事と悪い事がある。

 僕は「困難を乗り越える恋」というものが嫌いだった。物語自体は嫌いじゃない。問題は受け手の方だ。そこのバカップルのように綺麗事の上澄みだけ気に入って、わかってます風な顔をして、何もしないじゃないか。
 自分たちの世界に浸りたいがために、こっちをダシにしないでくれ。

「お、サヤカとコウキじゃん。デート?」
「そそ。つか聞いてよ、ほらあれ、ショーガイシャがさ、超ウケんの」

 友達だろうか、もう一人、男が合流したみたいだ。本当、耳に障る。
 僕は努めて振り返らないようにしていた。振り返ったら、あの下卑た笑いを見てしまったら、きっと掴みかかってしまう。ここで僕がしゃしゃり出たところで、それは自己満足の正当化をしている人たちとなんら変わらなくなってしまう。

 あかりが、僕の袖を引いた。

『冬彦、怖い顔してる』
『あっ。ごめん』

 表情に出てしまっていたのだろうか。強張った顔をほぐすように、笑って見せる。けれど、頬が引きつっているのが自分でも分かった。

『関わらない方がいい』
『聴こえたの?』
『うん。笑顔が聴こえるみたいに、悪意ってのもピリピリ伝わるんだよ』

 そう言って、あかりは手袋越しに僕の頬っぺたを撫でほぐしてくれた。

『言わせておけばいいよ』

 あかりは慣れたような様子で微笑んでみせてくれた。こんなものに慣れなきゃならないということが、どうしようもなく悲しかった。
 期せずして湧いてしまった感情ごと振り払ってしまおうと足を速めた。
 けれど、

「手話だっけ? あいつ、おぉ、あぁ、って、言葉になってないキモい声出してるよね。ゾンビかっての」

 ……すれ違ったはずの声が、近づいてくる?

「喋れないからやってんのに、何で声を出そうとするんだってな。ぎゃはは」

 まさか、わざわざ冷やかすために引き返して来たのか?

「言ってやんなよ。どうせ聞こえてねぇだろうけど。まぢでウケるわ!」

 頭がぐわんぐわんと揺れた。足元がふらつく。ふざけるな。聴こえてるんだよ。あかりにはあんたらの悪意が「聴こえて」いるんだ。

 ごめん、あかり。僕は心の中で頭を下げた。笑顔で一緒にいると決めたのに。
 ちょっと、こればかりは。

「あんたら、いい加減にしろよ!?」

 振り返ると、三人とも僕らと同い年くらいだった。
 だらしなく制服を乱し、学生鞄をぶらぶらと遊ばせている茶髪たち。顎を上げて、あっぱ口を開けている様子は、やっぱり汚らわしかった。

「おっ、カレシがキレた?」
「なんだよ、カレシはフツーの人ぉ? 聞こえてたのかよ、やべぇ!」

 笑いながら、奴らは女の子を庇うように前に出てきた。

「そんな気遣いができるのに、どうしてこんなことが言えるんだよ……っ!」

 吐き捨てると、奴らはけらけらと笑って、「はぁ?」と口元を歪めた。

「つーかさ、ショーガイシャに肩入れして俺たちを悪く言う方がサベツじゃね?」
「だよな、俺らはショーガイシャもフツーの人と同じように見てるからこそ、フツーの人と同じように、キモいのをキモいって言ってあげてるだけだし」
「それな。ショーガイシャだからキモいって言うのはかわいそう、なんてギゼンだよな」
「俺たちはヒョーゲンのジユーをシュチョーしまーっす」

 理解ができなかった。いや、意味は分かっていた。けれど、胃が食べ物を受け付けずに吐き戻そうとするように、耳が、心が、目の前の騒音を処理できずにフリーズする。吐き気がする。口の中が酸っぱい。

 わずかに、あかりが僕のコート引っ張ったような気がした。
 けれど、もうそれすらも頭は処理しなかった。

「ふざけるなよ、あんたら!」
「おっ、やるの?」

 学生の一人に掴みかかると、挑発的な眼を向けられた。「これ、セートーボーエーよ?」何か囀っている。知るか、そんなもの。

「こ、のっ――」

――あんたの指はピアノを弾く指じゃろ? 粗末にしちゃーいけん!

 殴りかかろうとして、一瞬手が止まる。
 はは……あいつ、こんな時にまで口うるさいんだから。

「ぐっ!?」

 腹に走った鈍痛に蹲る。逆に殴られたらしい。

「なんだよ、びびりじゃん」

 下がった頭を蹴られた。仰向けに倒れ込み、空に汚い影が差す。

「サベツしてっから、こうなるんだ、ぜ!」

 顔を持ち上げられ、一発もらう。口の中に、じわり、と鉄の味が広がった。胃酸の味と混ざり合って、とてつもなく気持ち悪い。

「冬彦!」

 あかりの悲鳴が聞こえた。でも、うまく言葉になっていない。
 駄目じゃないか。今、声を発したら、

「ははっ、やっぱキメぇ!」

 こうなるんだから。
 僕はなんとか立ち上がり、目の前にいた学生の胸倉を掴み上げる。

「この、野郎……」

 立ち上がった僕は、後頭部に重い何かを叩きつけられた衝撃に、また倒れ込んだ。

「ははっ、クリーンヒット! 満塁サヨナラホームラン!」

 世界がぐるん、と回った。視界の端にかろうじて映ったのは、僕を殴ったものだろう鞄と。
 膝を突いて、泣きそうな顔でこっちを見ていた、あかりの顔。

「――君たち何やってるんだ!」

 薄れゆく意識の中で、誰かが駆け寄る声が聞こえた。
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