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第三章 嵐の前のメヌエット
〈2〉
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今日の「客入り」は、いつもより多かった。
ここの福祉施設は、老人ホームも併設している。デイサービスの利用者が来館する日と被ったのだそうだ。
僕は仮設ステージの袖から、他の人の出し物を見学していた。今は六十過ぎの男性二人が「高齢者あるある」と題した漫才をしている。
「最近老眼鏡をしていても、ぼやけて見えましてねぇ」
「困りものですよね。新聞の細かい字なんか、近づけたり遠ざけたりしなきゃいけませんし」
「でも、その分はっきり見えるようになったものもあるんですよ」
「はっきりと? ほぉ、それはなんですか」
「自分の老い先ですわ」
どっと会場が沸いた。ステージ端にいた、司会兼手話通訳の職員さんも噴き出している。僕もつられて笑った。
なんというか、当の高齢者である二人自身がやっていると、皮肉めいた内容も逆に清々しく感じられた。
そろそろ、僕の番だ。袖からあかりの姿を探すと、並んだパイプ椅子の後ろの方にちょこんと座っていた。
みんなの拍手によって、漫才が終了したことが知らされる。
「次は、恒例の冬彦くんによるピアノ演奏です。よろしくお願いします!」
司会のアナウンスに、僕はゆっくりと壇上に登った。すでに配置されているピアノの蓋を開け、鍵盤の表面をなぞる。
緊張していた。普段ここで演奏するのに、こんなに心臓がどきどきすることはないのに。
譜面台に楽譜を二つ置き、深く深呼吸する。その時だった。
「前に来なよ!」
誰かが声を上げた。一瞬ヤジかと思ったけれど、それにしては明るすぎる声。
「後ろに座ってないでさ、ほら!」
「冬彦ちゃんの彼女さんでしょう? おいでおいで」
「大丈夫、私たち年寄りはいつも聴いているからね」
施設のみんなが、あかりに呼びかける声だった。当然、耳の聞こえないあかりは、一斉に注目され、何事かときょろきょろしている。
そこに母さんが滑り込み、二、三の手話を交わしたところで、手をぶんぶんと振って遠慮するあかりは、結局前の方へと引きずり出されてしまっていた。
『どうしよう。いいの?』
腰の辺りで小さく手を動かし、僕に目で縋ってくる。僕は、指先を胸の前でスライドさせた。
『大丈夫だよ』
その言葉に安心したように、空けてもらった席に座るあかりを見て、すっと胸の中が楽になるのを感じた。
「頑張れよ、冬彦!」
「いいところ見せなさいよ!」
ほんとう、ギャラリーは好き勝手言ってくれるんだから。ここにいると、若い人よりもお年寄りの方が元気なんじゃないかと思う時がある。
僕は、あかりと目を合わせると、立ち上がった。
『みなさん、こんにちは。すっかり冬ですが、ここは温かいですね』
普段はしない手話を交えたMCに、昔から交流のあるお婆さんが目を細くした。
『そんなみなさんにまずは一曲、温かいクリスマスの曲を弾きます。モーツァルトで「きらきら星変奏曲」。聴いて下さい』
一礼して、ピアノの前に座る。プレッシャーはない。
演奏開始だ。
第一楽章、みんなも知っているようなフレーズが、少し改変されているメロディから始まる。
女の子が恥ずかしそうに、浮足立った心を母親に告白する曲。まるで、学校から帰った子供が「ねぇねぇ聞いて!」と歌うように話すような、軽やかな旋律。
鍵盤を叩く度に、弦から弾け飛んだ音が跳ね回る。うきうきした女の子の心の光は、きらきら星として知られている所以としても納得だった。
もしかしたら、星を見ていたのかもしれない。昼間、お母さんに頼まれたお使いに行って、片恋をしている彼と会って、帰ってきて。暗くなった空に瞬く星に思いを馳せて目を輝かせていたんだ。
僕が母さんに、あかりが紫さんに、そうしたように。
七分程に渡る演奏が終わると、拍手を送ってもらえた。
「いいぞ、冬彦、かっこいい!」
やんややんやと、まるで青年団の寄合だった。
こうして、まじまじと聴衆席を見るのは初めてかもしれない。みんな笑顔を浮かべてくれていることに、ほっとする。
その中でも、あかりが人一倍に手を叩いてくれていた。今日の事もきっと、きらきら星の少女のように、紫さんに話すのかな。話して……くれるといいな。
でも、僕からあかりへの贈り物は、まだあるんだよ。
『みなさん、ありがとうございます。次は、ある天使のような女の子に贈る曲です』
会場からほぅっと息が押し寄せる。お婆さんたち女性陣は熱のこもったものを、お爺さんたち男性陣は、冷やかし交じりのエロオヤジのそれを。もう、ほんと仕方ないんだから。
『その女の子に、僕は綺麗な星を教えてもらいました。あかりという星と、織姫と彦星に捧げます。少し長い曲ですが、聴いてください。チャイコフスキーで「ロメオとジュリエット」』
言ってから恥ずかしくなって、敢えてあかりを見ないようにピアノに戻る。
一呼吸置いてから、手を右にずらして弾きはじめた。
有名なシェイクスピアの恋愛劇を、チャイコフスキーが曲にしたものだ。奏者の間で知られる曲題には「幻想序曲」と冠されているほど、切なく、深い悲しみの愛の曲。
それに僕は、一オクターブ高くするだけの、オルゴールのような簡単なアレンジを加えることにしたんだ。
愛し合う故に心中するロミオとジュリエット。
愛し合う故に、年に一度しか会えなくなった織姫と彦星。
あかりは、織姫と彦星の軌跡が、冬にもあると教えてくれた。二人の愛を昇華させたんだ。
それなら僕も、ロミオとジュリエットに降りかかる、星に宿されたとんでもない出来事とやらを、今だけでも、ピアノを通して変えてやろう。
激情に呑まれてしまいそうなほど第一主題が燃え盛り、やがて、第二主題に入って二人の恋は進展していく。しかし、それでは終わらない。激情は、そんな甘い恋の中にも容赦なく魔の手を入れて来るんだ。
夜の闇が深く、頬が見えないのなら、ピアノに輝き方を教えてやればいい。
あまりに甘い悲しみの別れに、永遠の別れの前に、ロミオがおやすみを言い続けるように。僕は、夜のろうそくを燃え尽きさせるわけにはいかない。
あかりという夜のろうそくに、おやすみを言い続けるんだ。
「――っ」
最後の和音を押し込んだ時。誰かが、息を呑んだ。
演奏時間約二十分。彼らにとって何度目かしれない「おやすみ」を、初めて僕が告げた瞬間だった。
ここの福祉施設は、老人ホームも併設している。デイサービスの利用者が来館する日と被ったのだそうだ。
僕は仮設ステージの袖から、他の人の出し物を見学していた。今は六十過ぎの男性二人が「高齢者あるある」と題した漫才をしている。
「最近老眼鏡をしていても、ぼやけて見えましてねぇ」
「困りものですよね。新聞の細かい字なんか、近づけたり遠ざけたりしなきゃいけませんし」
「でも、その分はっきり見えるようになったものもあるんですよ」
「はっきりと? ほぉ、それはなんですか」
「自分の老い先ですわ」
どっと会場が沸いた。ステージ端にいた、司会兼手話通訳の職員さんも噴き出している。僕もつられて笑った。
なんというか、当の高齢者である二人自身がやっていると、皮肉めいた内容も逆に清々しく感じられた。
そろそろ、僕の番だ。袖からあかりの姿を探すと、並んだパイプ椅子の後ろの方にちょこんと座っていた。
みんなの拍手によって、漫才が終了したことが知らされる。
「次は、恒例の冬彦くんによるピアノ演奏です。よろしくお願いします!」
司会のアナウンスに、僕はゆっくりと壇上に登った。すでに配置されているピアノの蓋を開け、鍵盤の表面をなぞる。
緊張していた。普段ここで演奏するのに、こんなに心臓がどきどきすることはないのに。
譜面台に楽譜を二つ置き、深く深呼吸する。その時だった。
「前に来なよ!」
誰かが声を上げた。一瞬ヤジかと思ったけれど、それにしては明るすぎる声。
「後ろに座ってないでさ、ほら!」
「冬彦ちゃんの彼女さんでしょう? おいでおいで」
「大丈夫、私たち年寄りはいつも聴いているからね」
施設のみんなが、あかりに呼びかける声だった。当然、耳の聞こえないあかりは、一斉に注目され、何事かときょろきょろしている。
そこに母さんが滑り込み、二、三の手話を交わしたところで、手をぶんぶんと振って遠慮するあかりは、結局前の方へと引きずり出されてしまっていた。
『どうしよう。いいの?』
腰の辺りで小さく手を動かし、僕に目で縋ってくる。僕は、指先を胸の前でスライドさせた。
『大丈夫だよ』
その言葉に安心したように、空けてもらった席に座るあかりを見て、すっと胸の中が楽になるのを感じた。
「頑張れよ、冬彦!」
「いいところ見せなさいよ!」
ほんとう、ギャラリーは好き勝手言ってくれるんだから。ここにいると、若い人よりもお年寄りの方が元気なんじゃないかと思う時がある。
僕は、あかりと目を合わせると、立ち上がった。
『みなさん、こんにちは。すっかり冬ですが、ここは温かいですね』
普段はしない手話を交えたMCに、昔から交流のあるお婆さんが目を細くした。
『そんなみなさんにまずは一曲、温かいクリスマスの曲を弾きます。モーツァルトで「きらきら星変奏曲」。聴いて下さい』
一礼して、ピアノの前に座る。プレッシャーはない。
演奏開始だ。
第一楽章、みんなも知っているようなフレーズが、少し改変されているメロディから始まる。
女の子が恥ずかしそうに、浮足立った心を母親に告白する曲。まるで、学校から帰った子供が「ねぇねぇ聞いて!」と歌うように話すような、軽やかな旋律。
鍵盤を叩く度に、弦から弾け飛んだ音が跳ね回る。うきうきした女の子の心の光は、きらきら星として知られている所以としても納得だった。
もしかしたら、星を見ていたのかもしれない。昼間、お母さんに頼まれたお使いに行って、片恋をしている彼と会って、帰ってきて。暗くなった空に瞬く星に思いを馳せて目を輝かせていたんだ。
僕が母さんに、あかりが紫さんに、そうしたように。
七分程に渡る演奏が終わると、拍手を送ってもらえた。
「いいぞ、冬彦、かっこいい!」
やんややんやと、まるで青年団の寄合だった。
こうして、まじまじと聴衆席を見るのは初めてかもしれない。みんな笑顔を浮かべてくれていることに、ほっとする。
その中でも、あかりが人一倍に手を叩いてくれていた。今日の事もきっと、きらきら星の少女のように、紫さんに話すのかな。話して……くれるといいな。
でも、僕からあかりへの贈り物は、まだあるんだよ。
『みなさん、ありがとうございます。次は、ある天使のような女の子に贈る曲です』
会場からほぅっと息が押し寄せる。お婆さんたち女性陣は熱のこもったものを、お爺さんたち男性陣は、冷やかし交じりのエロオヤジのそれを。もう、ほんと仕方ないんだから。
『その女の子に、僕は綺麗な星を教えてもらいました。あかりという星と、織姫と彦星に捧げます。少し長い曲ですが、聴いてください。チャイコフスキーで「ロメオとジュリエット」』
言ってから恥ずかしくなって、敢えてあかりを見ないようにピアノに戻る。
一呼吸置いてから、手を右にずらして弾きはじめた。
有名なシェイクスピアの恋愛劇を、チャイコフスキーが曲にしたものだ。奏者の間で知られる曲題には「幻想序曲」と冠されているほど、切なく、深い悲しみの愛の曲。
それに僕は、一オクターブ高くするだけの、オルゴールのような簡単なアレンジを加えることにしたんだ。
愛し合う故に心中するロミオとジュリエット。
愛し合う故に、年に一度しか会えなくなった織姫と彦星。
あかりは、織姫と彦星の軌跡が、冬にもあると教えてくれた。二人の愛を昇華させたんだ。
それなら僕も、ロミオとジュリエットに降りかかる、星に宿されたとんでもない出来事とやらを、今だけでも、ピアノを通して変えてやろう。
激情に呑まれてしまいそうなほど第一主題が燃え盛り、やがて、第二主題に入って二人の恋は進展していく。しかし、それでは終わらない。激情は、そんな甘い恋の中にも容赦なく魔の手を入れて来るんだ。
夜の闇が深く、頬が見えないのなら、ピアノに輝き方を教えてやればいい。
あまりに甘い悲しみの別れに、永遠の別れの前に、ロミオがおやすみを言い続けるように。僕は、夜のろうそくを燃え尽きさせるわけにはいかない。
あかりという夜のろうそくに、おやすみを言い続けるんだ。
「――っ」
最後の和音を押し込んだ時。誰かが、息を呑んだ。
演奏時間約二十分。彼らにとって何度目かしれない「おやすみ」を、初めて僕が告げた瞬間だった。
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