12 / 37
第三章 嵐の前のメヌエット
〈2〉
しおりを挟む
今日の「客入り」は、いつもより多かった。
ここの福祉施設は、老人ホームも併設している。デイサービスの利用者が来館する日と被ったのだそうだ。
僕は仮設ステージの袖から、他の人の出し物を見学していた。今は六十過ぎの男性二人が「高齢者あるある」と題した漫才をしている。
「最近老眼鏡をしていても、ぼやけて見えましてねぇ」
「困りものですよね。新聞の細かい字なんか、近づけたり遠ざけたりしなきゃいけませんし」
「でも、その分はっきり見えるようになったものもあるんですよ」
「はっきりと? ほぉ、それはなんですか」
「自分の老い先ですわ」
どっと会場が沸いた。ステージ端にいた、司会兼手話通訳の職員さんも噴き出している。僕もつられて笑った。
なんというか、当の高齢者である二人自身がやっていると、皮肉めいた内容も逆に清々しく感じられた。
そろそろ、僕の番だ。袖からあかりの姿を探すと、並んだパイプ椅子の後ろの方にちょこんと座っていた。
みんなの拍手によって、漫才が終了したことが知らされる。
「次は、恒例の冬彦くんによるピアノ演奏です。よろしくお願いします!」
司会のアナウンスに、僕はゆっくりと壇上に登った。すでに配置されているピアノの蓋を開け、鍵盤の表面をなぞる。
緊張していた。普段ここで演奏するのに、こんなに心臓がどきどきすることはないのに。
譜面台に楽譜を二つ置き、深く深呼吸する。その時だった。
「前に来なよ!」
誰かが声を上げた。一瞬ヤジかと思ったけれど、それにしては明るすぎる声。
「後ろに座ってないでさ、ほら!」
「冬彦ちゃんの彼女さんでしょう? おいでおいで」
「大丈夫、私たち年寄りはいつも聴いているからね」
施設のみんなが、あかりに呼びかける声だった。当然、耳の聞こえないあかりは、一斉に注目され、何事かときょろきょろしている。
そこに母さんが滑り込み、二、三の手話を交わしたところで、手をぶんぶんと振って遠慮するあかりは、結局前の方へと引きずり出されてしまっていた。
『どうしよう。いいの?』
腰の辺りで小さく手を動かし、僕に目で縋ってくる。僕は、指先を胸の前でスライドさせた。
『大丈夫だよ』
その言葉に安心したように、空けてもらった席に座るあかりを見て、すっと胸の中が楽になるのを感じた。
「頑張れよ、冬彦!」
「いいところ見せなさいよ!」
ほんとう、ギャラリーは好き勝手言ってくれるんだから。ここにいると、若い人よりもお年寄りの方が元気なんじゃないかと思う時がある。
僕は、あかりと目を合わせると、立ち上がった。
『みなさん、こんにちは。すっかり冬ですが、ここは温かいですね』
普段はしない手話を交えたMCに、昔から交流のあるお婆さんが目を細くした。
『そんなみなさんにまずは一曲、温かいクリスマスの曲を弾きます。モーツァルトで「きらきら星変奏曲」。聴いて下さい』
一礼して、ピアノの前に座る。プレッシャーはない。
演奏開始だ。
第一楽章、みんなも知っているようなフレーズが、少し改変されているメロディから始まる。
女の子が恥ずかしそうに、浮足立った心を母親に告白する曲。まるで、学校から帰った子供が「ねぇねぇ聞いて!」と歌うように話すような、軽やかな旋律。
鍵盤を叩く度に、弦から弾け飛んだ音が跳ね回る。うきうきした女の子の心の光は、きらきら星として知られている所以としても納得だった。
もしかしたら、星を見ていたのかもしれない。昼間、お母さんに頼まれたお使いに行って、片恋をしている彼と会って、帰ってきて。暗くなった空に瞬く星に思いを馳せて目を輝かせていたんだ。
僕が母さんに、あかりが紫さんに、そうしたように。
七分程に渡る演奏が終わると、拍手を送ってもらえた。
「いいぞ、冬彦、かっこいい!」
やんややんやと、まるで青年団の寄合だった。
こうして、まじまじと聴衆席を見るのは初めてかもしれない。みんな笑顔を浮かべてくれていることに、ほっとする。
その中でも、あかりが人一倍に手を叩いてくれていた。今日の事もきっと、きらきら星の少女のように、紫さんに話すのかな。話して……くれるといいな。
でも、僕からあかりへの贈り物は、まだあるんだよ。
『みなさん、ありがとうございます。次は、ある天使のような女の子に贈る曲です』
会場からほぅっと息が押し寄せる。お婆さんたち女性陣は熱のこもったものを、お爺さんたち男性陣は、冷やかし交じりのエロオヤジのそれを。もう、ほんと仕方ないんだから。
『その女の子に、僕は綺麗な星を教えてもらいました。あかりという星と、織姫と彦星に捧げます。少し長い曲ですが、聴いてください。チャイコフスキーで「ロメオとジュリエット」』
言ってから恥ずかしくなって、敢えてあかりを見ないようにピアノに戻る。
一呼吸置いてから、手を右にずらして弾きはじめた。
有名なシェイクスピアの恋愛劇を、チャイコフスキーが曲にしたものだ。奏者の間で知られる曲題には「幻想序曲」と冠されているほど、切なく、深い悲しみの愛の曲。
それに僕は、一オクターブ高くするだけの、オルゴールのような簡単なアレンジを加えることにしたんだ。
愛し合う故に心中するロミオとジュリエット。
愛し合う故に、年に一度しか会えなくなった織姫と彦星。
あかりは、織姫と彦星の軌跡が、冬にもあると教えてくれた。二人の愛を昇華させたんだ。
それなら僕も、ロミオとジュリエットに降りかかる、星に宿されたとんでもない出来事とやらを、今だけでも、ピアノを通して変えてやろう。
激情に呑まれてしまいそうなほど第一主題が燃え盛り、やがて、第二主題に入って二人の恋は進展していく。しかし、それでは終わらない。激情は、そんな甘い恋の中にも容赦なく魔の手を入れて来るんだ。
夜の闇が深く、頬が見えないのなら、ピアノに輝き方を教えてやればいい。
あまりに甘い悲しみの別れに、永遠の別れの前に、ロミオがおやすみを言い続けるように。僕は、夜のろうそくを燃え尽きさせるわけにはいかない。
あかりという夜のろうそくに、おやすみを言い続けるんだ。
「――っ」
最後の和音を押し込んだ時。誰かが、息を呑んだ。
演奏時間約二十分。彼らにとって何度目かしれない「おやすみ」を、初めて僕が告げた瞬間だった。
ここの福祉施設は、老人ホームも併設している。デイサービスの利用者が来館する日と被ったのだそうだ。
僕は仮設ステージの袖から、他の人の出し物を見学していた。今は六十過ぎの男性二人が「高齢者あるある」と題した漫才をしている。
「最近老眼鏡をしていても、ぼやけて見えましてねぇ」
「困りものですよね。新聞の細かい字なんか、近づけたり遠ざけたりしなきゃいけませんし」
「でも、その分はっきり見えるようになったものもあるんですよ」
「はっきりと? ほぉ、それはなんですか」
「自分の老い先ですわ」
どっと会場が沸いた。ステージ端にいた、司会兼手話通訳の職員さんも噴き出している。僕もつられて笑った。
なんというか、当の高齢者である二人自身がやっていると、皮肉めいた内容も逆に清々しく感じられた。
そろそろ、僕の番だ。袖からあかりの姿を探すと、並んだパイプ椅子の後ろの方にちょこんと座っていた。
みんなの拍手によって、漫才が終了したことが知らされる。
「次は、恒例の冬彦くんによるピアノ演奏です。よろしくお願いします!」
司会のアナウンスに、僕はゆっくりと壇上に登った。すでに配置されているピアノの蓋を開け、鍵盤の表面をなぞる。
緊張していた。普段ここで演奏するのに、こんなに心臓がどきどきすることはないのに。
譜面台に楽譜を二つ置き、深く深呼吸する。その時だった。
「前に来なよ!」
誰かが声を上げた。一瞬ヤジかと思ったけれど、それにしては明るすぎる声。
「後ろに座ってないでさ、ほら!」
「冬彦ちゃんの彼女さんでしょう? おいでおいで」
「大丈夫、私たち年寄りはいつも聴いているからね」
施設のみんなが、あかりに呼びかける声だった。当然、耳の聞こえないあかりは、一斉に注目され、何事かときょろきょろしている。
そこに母さんが滑り込み、二、三の手話を交わしたところで、手をぶんぶんと振って遠慮するあかりは、結局前の方へと引きずり出されてしまっていた。
『どうしよう。いいの?』
腰の辺りで小さく手を動かし、僕に目で縋ってくる。僕は、指先を胸の前でスライドさせた。
『大丈夫だよ』
その言葉に安心したように、空けてもらった席に座るあかりを見て、すっと胸の中が楽になるのを感じた。
「頑張れよ、冬彦!」
「いいところ見せなさいよ!」
ほんとう、ギャラリーは好き勝手言ってくれるんだから。ここにいると、若い人よりもお年寄りの方が元気なんじゃないかと思う時がある。
僕は、あかりと目を合わせると、立ち上がった。
『みなさん、こんにちは。すっかり冬ですが、ここは温かいですね』
普段はしない手話を交えたMCに、昔から交流のあるお婆さんが目を細くした。
『そんなみなさんにまずは一曲、温かいクリスマスの曲を弾きます。モーツァルトで「きらきら星変奏曲」。聴いて下さい』
一礼して、ピアノの前に座る。プレッシャーはない。
演奏開始だ。
第一楽章、みんなも知っているようなフレーズが、少し改変されているメロディから始まる。
女の子が恥ずかしそうに、浮足立った心を母親に告白する曲。まるで、学校から帰った子供が「ねぇねぇ聞いて!」と歌うように話すような、軽やかな旋律。
鍵盤を叩く度に、弦から弾け飛んだ音が跳ね回る。うきうきした女の子の心の光は、きらきら星として知られている所以としても納得だった。
もしかしたら、星を見ていたのかもしれない。昼間、お母さんに頼まれたお使いに行って、片恋をしている彼と会って、帰ってきて。暗くなった空に瞬く星に思いを馳せて目を輝かせていたんだ。
僕が母さんに、あかりが紫さんに、そうしたように。
七分程に渡る演奏が終わると、拍手を送ってもらえた。
「いいぞ、冬彦、かっこいい!」
やんややんやと、まるで青年団の寄合だった。
こうして、まじまじと聴衆席を見るのは初めてかもしれない。みんな笑顔を浮かべてくれていることに、ほっとする。
その中でも、あかりが人一倍に手を叩いてくれていた。今日の事もきっと、きらきら星の少女のように、紫さんに話すのかな。話して……くれるといいな。
でも、僕からあかりへの贈り物は、まだあるんだよ。
『みなさん、ありがとうございます。次は、ある天使のような女の子に贈る曲です』
会場からほぅっと息が押し寄せる。お婆さんたち女性陣は熱のこもったものを、お爺さんたち男性陣は、冷やかし交じりのエロオヤジのそれを。もう、ほんと仕方ないんだから。
『その女の子に、僕は綺麗な星を教えてもらいました。あかりという星と、織姫と彦星に捧げます。少し長い曲ですが、聴いてください。チャイコフスキーで「ロメオとジュリエット」』
言ってから恥ずかしくなって、敢えてあかりを見ないようにピアノに戻る。
一呼吸置いてから、手を右にずらして弾きはじめた。
有名なシェイクスピアの恋愛劇を、チャイコフスキーが曲にしたものだ。奏者の間で知られる曲題には「幻想序曲」と冠されているほど、切なく、深い悲しみの愛の曲。
それに僕は、一オクターブ高くするだけの、オルゴールのような簡単なアレンジを加えることにしたんだ。
愛し合う故に心中するロミオとジュリエット。
愛し合う故に、年に一度しか会えなくなった織姫と彦星。
あかりは、織姫と彦星の軌跡が、冬にもあると教えてくれた。二人の愛を昇華させたんだ。
それなら僕も、ロミオとジュリエットに降りかかる、星に宿されたとんでもない出来事とやらを、今だけでも、ピアノを通して変えてやろう。
激情に呑まれてしまいそうなほど第一主題が燃え盛り、やがて、第二主題に入って二人の恋は進展していく。しかし、それでは終わらない。激情は、そんな甘い恋の中にも容赦なく魔の手を入れて来るんだ。
夜の闇が深く、頬が見えないのなら、ピアノに輝き方を教えてやればいい。
あまりに甘い悲しみの別れに、永遠の別れの前に、ロミオがおやすみを言い続けるように。僕は、夜のろうそくを燃え尽きさせるわけにはいかない。
あかりという夜のろうそくに、おやすみを言い続けるんだ。
「――っ」
最後の和音を押し込んだ時。誰かが、息を呑んだ。
演奏時間約二十分。彼らにとって何度目かしれない「おやすみ」を、初めて僕が告げた瞬間だった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

【完結】君とひなたを歩くまで
みやこ嬢
ライト文芸
【2023年5月13日 完結、全55話】
身体的な理由から高校卒業後に進学や就職をせず親のスネをかじる主人公、アダ名は『プーさん』。ダラダラと無駄に時間を消費するだけのプーさんの元に女子高生ミノリが遊びに来るようになった。
一緒にいるうちに懐かれたか。
はたまた好意を持たれたか。
彼女にはプーさんの家に入り浸る理由があった。その悩みを聞いて、なんとか助けてあげたいと思うように。
友人との関係。
働けない理由。
彼女の悩み。
身体的な問題。
親との確執。
色んな問題を抱えながら見て見ぬフリをしてきた青年は、少女との出会いをきっかけに少しずつ前を向き始める。
***
「小説家になろう」にて【ワケあり無職ニートの俺んちに地味めの女子高生が週三で入り浸ってるんだけど、彼女は別に俺が好きなワケではないらしい。】というタイトルで公開している作品を改題、リメイクしたものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる