聖夜のアンティフォナ~君の声は、夜を照らすあかりになる~

雨愁軒経

文字の大きさ
上 下
10 / 37
第二章 夢見るスケルツォ

〈5〉

しおりを挟む
 僕は、あかりのリクエストに応えられない代わりに、ある計画を立てていた。
 思い立ったのは翌日の夜。母さんの職場で演奏する前夜だ。まだ母さんには、あかりを招待することは明かしていない。

「母さん。明日って、何分ぐらい弾けそう?」
「んー、いつも通り、三十分くらいかしらね」
「そっか、ありがと」

 夕飯の洗い物をしている母さんの背中に頭を下げる。
 この季節の定番、きらきら星変奏曲は決まりとして、七分弱。残りの時間は十分だった。

「明日、僕は用事を済ませてから行くから、よろしく」
「はーい」

 善は急げ部屋に戻れ。いそいそと階段を上ろうとした時、不意に母さんから声をかけられた。

「ちゃんとエスコートしなさいよー?」
「な、何が……?」
「例の子でしょう。何年あんたの母親やってると思ってるのよ」

 からかうような笑い声。ちなみにここまで、母さんは一切振り返っていない。

「連れて来ても、大丈夫……だよね?」
「大歓迎。若い子が来てくれると、みんなも喜ぶわ」

 ひらひらと振られた泡まみれの手に見送られ、僕は改めて階段を上がった。
 部屋に戻って、棚の楽譜に目を走らせる。

「えっと、チャイコフスキーの曲だったよね……セ、ソ、タ、チ……あった」

 作曲家別に並んだ楽譜たちの中から、目的の作曲家と、その中でも目的の曲の楽譜を見つけて引き抜く。さっそく、僕の部屋の隣にある防音室へと向かおうとしたところで、不意に携帯が鳴った。

「誰だろう」

 画面を見て、僕はぎょっとしてしまった。表示されていたのが、あかりからのLINE通話だったからだ。
 僕にメッセージを送ろうとして、ミスタップしてしまったのだろうか。けれどコールは長く、それが意図して鳴らされているものだということが判った。

「……もしもし?」

 おそるおそる電話に出ると、聞き覚えのある女性の声が返ってきた。

『夜分にすみません。あかりの母です』
「あっ、紫さんですか。こんばんは」
『ごめんなさいね。今、あかりから携帯電話を借りているんです』

 何故だか、ふっと、気が抜けるのを感じた。

『今、お時間大丈夫ですか?』
「ぜんぜん構いません。何か、ありましたか?」
『ついさっき、あかりから聞いたのですけど。明日、あの子にピアノを聴かせてくださると言ってくれたそうですね』

 紫さんの声は、静かだ。以前会った時にはおしとやかに感じたのだけど、その静かさに、今は少し、汗が流れるのを感じた。

「……その、まずかったですか」
『ああ、いえ、冬彦くんを責めているわけではないんです』

 少し焦ったように弁解してから、何かを言いあぐねるように押し黙った紫さんは、 数分にも錯覚するようなじれったい間の後で、ぽつりと言った。

『ありがとうございます』
「えっ?」
『あの子を「普通の子」として見てくれて、ありがとうございます』
「いえ、そんな!」

 今度は僕が慌てる番だった。こういう時、何と返したらいいのだろうか。
 そんなこと関係ないです、と言うのも、どこか違う気がする。極端な話「僕は差別をしませんから」と言うのは簡単だ。けれど、そこには差別というものが前提として存在する。かなり捻くれた言い方をすれば「僕は差別の区分を知っていて、あなたが普通とは違うと分かっていて、敢えてその先に踏み込んでますよ」という考え方になる。

 難しい話だった。そもそもの前提を間違って捉えている可能性があるんだ。
 ならばそういう言葉を使わなければいい、なんて一概に言っても、それは「そう言うと差別をしていることになるから、別の言葉を探している」ということ。障害を障がいと書き替えることと変わりはない。
 堂々巡り、難しい話だ。
 一体「普通」って、何なんだろう。

 ふと、あかりの顔が浮かんだ。粉雪に佇む、眩しい笑い顔。

――間違ってたらその時はその時。

 そう、だよね。

「僕も、聴いて欲しいって、思ってます」

 正直に話せば、それでいいじゃないか。

「今、あかりへの曲を決めたところなんです。昨日、笹丘に行って、織姫と彦星の話を教えてもらって。たくさん笑顔をくれたあかりに、聴いて欲しいって。そう、思ってます」
『……子供の成長は、早いですね』

 ふと、しみじみと、紫さんが零す。

「早い、ですか」
『はい。気が付けば、いつの間にか独り立ちしつつあるんですもの』

 冬彦くん、と一旦置いて、紫さんは続ける。

『これからも、あかりと「普通の関係」をしてくださいませんか?』
「普通の関係……」

 普通の子の次は、普通の関係か。でも今度は、かなりニュアンスが違うような気がした。
 感謝ではなくて、紫さんの――あかりの親としての願望のような。
 そして、その予感は的中した。

『あの子、冬彦くんの話をする時はとても楽しそうなんです。今まで、家族や聾学校のクラスメイトとしか話をしなくて、他の人と話をすると怒って帰ってきていたあの子の口から、初めて出た学校以外の友達の名前が、冬彦くんなんです』
「そうだったんですか……」

 彼女のことだから、怒って帰ってくるという姿は想像できたけれど。僕が初めての、学校外の友達だったのか。

――冬彦の友達だから、紹介して欲しいの。

 あの時、そう言ったあかりは、どんな気持ちだったんだろう。

『ですが、あなたにはあなたの人生があります。もしも……もしもあの子が、いつか、あなたを好きになったりした日には――』
「その先は、言わないでください」

 遮る。言わせるわけには行かなかった。紫さんの声が震えているのが分かったから。
 この人は、我が子の幸せより、他人の心配をしている。優しい人だと思う。
 優しすぎる人だと思う。

「あかりがピアノを聴くと言ったように、僕が、僕自身が楽しくてあかりといるんです」
『冬彦くん……』

 沈黙の中、紫さんの咽ぶ声だけが聞こえた。
 どれだけ経ったろう。一分、五分、いや十秒だけかもしれない。

『でも、これだけは約束してください』

 口を開いたのは、紫さんだった。決意を秘めたような、静かな声。

『あなたが少しでも負担だと思ったら、離れてやってくださいませんか?』

 考えるまでも無かった。

「それは逆です。僕の方が、あかりの負担になっているくらいですから」

 僕が負担に思ったことなんて、一度もない。
 それどころか、あかりという光に、ここのところ浮足立ってさえいるんだ。

「きっと、僕が世話を焼こうだなんてお節介を始めたら、あかりの方から離れますよ」

 きっとそう。あかりは、そういう子だ。

『子供の成長は、早いですね』

 電話越しに、僕は暫く、紫さんと笑い合った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)

チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。 主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。 ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。 しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。 その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。 「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」 これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~

八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」  ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。  蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。  これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。  一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

【完結】君とひなたを歩くまで

みやこ嬢
ライト文芸
【2023年5月13日 完結、全55話】 身体的な理由から高校卒業後に進学や就職をせず親のスネをかじる主人公、アダ名は『プーさん』。ダラダラと無駄に時間を消費するだけのプーさんの元に女子高生ミノリが遊びに来るようになった。 一緒にいるうちに懐かれたか。 はたまた好意を持たれたか。 彼女にはプーさんの家に入り浸る理由があった。その悩みを聞いて、なんとか助けてあげたいと思うように。 友人との関係。 働けない理由。 彼女の悩み。 身体的な問題。 親との確執。 色んな問題を抱えながら見て見ぬフリをしてきた青年は、少女との出会いをきっかけに少しずつ前を向き始める。 *** 「小説家になろう」にて【ワケあり無職ニートの俺んちに地味めの女子高生が週三で入り浸ってるんだけど、彼女は別に俺が好きなワケではないらしい。】というタイトルで公開している作品を改題、リメイクしたものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...