7 / 37
第二章 夢見るスケルツォ
〈2〉
しおりを挟む
コンビニで温かい飲み物を買った僕とあかりは、ゆるやかな傾斜の道をぶらりと歩いていた。
僕たちの住む町には、笹丘と呼ばれる小高い丘がある。はじめは子供たちが遊び場にするだけのような場所だったものが、僕たちが産まれるより少し前の頃から、観光スポットとして興されたという歴史がある。
大気汚染で星が見えづらい中、少しでも高く、少しでも空気が澄んでいるところで、老若男女問わず願い事をしよう。前市長がそう打ち出し、夏にはこの丘で七夕祭りが行われるようになった。願いの込められた短冊が飾り付けられた、夏のクリスマスツリーで溢れかえる。
『見えてきたよ』
僕の少し先で、薄く積もった雪に足跡をつけていたあかりが手を振ってくる。
もう、この辺りからでも十分に星が見える。駅から歩いて行ける範囲にあるにしては、とても静かな場所だった。
丘までたどり着くと、草地の中央に、笹飾りを立てるための台座が見えた。
あかりはそれを軽い足取りで横切ると、落下防止用の手すりから伸びる望遠鏡を、慣れた手つきでいじりだす。
程なくして、位置調整が終わったのか、望遠鏡から無邪気な顔を上げて振り返った。
『ここにはよく来るの?』
『うん。冬にはここから、冬の大三角が見えるの』
見て、と手で促されて、望遠鏡を覗き込む。
現在時刻は七時ちょっと前。望遠鏡から見える範囲の下半分、その中央辺りに、一際明るい星が見えた。
シリウスだ。地上から見える、太陽の次に明るい星。
『すごい、こんな時間からも見えるんだね』
『みんな夏ばかり注目しているから、意外と穴場スポットなんだ』
今の季節には、他の観光客が見当たらない。ここに来る途中でも、車の轍は二台分くらいあったけど、人の足跡は見ていなかった。
笹丘に設置された望遠鏡は、七夕に天の川を見るためのものだからだ。
『でもね。天の川を挟んで、夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見えるんだよ』
『へぇ』
改めて、今度は肉眼で空を見上げる。正確にどの星を繋いで三角が作られているのかは分からないけれど、綺麗な星空だった。
『星、川、あかり。ここにぴったりの、素敵な名前だよね』
わざと「川」の表現を「天の川」にして言うと、あかりから軽く突き飛ばされた。
『バカ』
『意見には個人差があるって、言った方がいい?』
『バカ。知らない』
あかりはぷい、とスカートを翻し、空を見上げてしまった。
ちょっとからかいすぎたかな、と思った時、僕は、思わず息を呑んだ。
綺麗だった。夜の黒と雪の白に挟まれて、あかりの制服の灰色は、コントラストに溶けてしまいそうなほどに輝いて見える。後ろで組んだ細い指や、栗色の髪、そこに付いている赤い髪飾り。
天使の頭に、花冠が乗っているようだった。星を背に、羽を舞わせて。
『冬彦だって、ぴったりの名前だよね』
振り返ったあかりが何と言ったのか、一瞬飲み込めずにいた。
『苗字も天野だし、名前だって、彦星の彦でしょ?』
『えっ? ああ、うん、そうだね』
あかりの綻んだ顔に戸惑う。意趣返し、というわけではなさそうだ。
『でも、七夕は夏だよ? 冬には見えないんじゃない?』
『そうなんだよねー』
あかりは残念そうに指を絡ませる。
天の川に隔てられ、年に一度出会う星は、二人を結びつける橋――デネブによって、夏の大三角として共にいる。ベガは織姫、アルタイルが彦星だ。
もちろん、シリウスをはじめとする冬の大三角には、アルタイルは含まれない。
『なら、冬彦が輝いてよ』
『星の王子様みたいに?』
『冬の彦星様みたいに』
言ってから、あかりはふと、自分で自分の発言に驚いたように目を逸らして、何度か『冬の彦星様』と手元で繰り返してから。
納得したように、嬉しそうに頷いた。
『決めた。初めて描く絵本のタイトルは「冬の彦星様」にする』
『ものすごく、パクリの臭いがするんだけど……』
僕の恥ずかしさ交じりの苦言も『いいの』と一蹴されてしまった。
『私、織姫になりたい』
あかりは、僕の腕を取って、顔を覗き込んできた。
『んー、だめ』
わざと勿体ぶりながら答える無粋に、あかりは頬をぷぅと膨らませて無言の抗議をしてくる。
『あって、年に一度しか会えなくなりそうだし。それに実は、織姫って字を書く知り合いがいるんだよ』
『すごい名前。でも、字を書くってことは、読みは?』
『シフォン』
指文字で答えると、あかりはぎぎぎっと、機械のように首を傾げた。まあそうだろうね。
僕も未だに、年賀状の宛名を書く時にちょっと混乱するもの。
『ケーキの「シフォン」?』
『そう。母親がその読みにしたかったみたいで、漢字はどうでもよかったんだってさ。それで、誕生日が七月七日だったから、織姫』
『なんだっけそれ、キラキラネームってやつだよね……』
こうした名前には初めて出会ったんだろう。あかりは困った顔をしながらも、目は興味津々だと主張していた。
『どんな人?』
『ええと、僕たちより三つ下で、すっごく賑やかな子』
ちらちらと優しく粉雪が踊る星空を見上げながら、天才ヴィオリストの少女と出会った日のことを、あかりに話し始めた。
僕たちの住む町には、笹丘と呼ばれる小高い丘がある。はじめは子供たちが遊び場にするだけのような場所だったものが、僕たちが産まれるより少し前の頃から、観光スポットとして興されたという歴史がある。
大気汚染で星が見えづらい中、少しでも高く、少しでも空気が澄んでいるところで、老若男女問わず願い事をしよう。前市長がそう打ち出し、夏にはこの丘で七夕祭りが行われるようになった。願いの込められた短冊が飾り付けられた、夏のクリスマスツリーで溢れかえる。
『見えてきたよ』
僕の少し先で、薄く積もった雪に足跡をつけていたあかりが手を振ってくる。
もう、この辺りからでも十分に星が見える。駅から歩いて行ける範囲にあるにしては、とても静かな場所だった。
丘までたどり着くと、草地の中央に、笹飾りを立てるための台座が見えた。
あかりはそれを軽い足取りで横切ると、落下防止用の手すりから伸びる望遠鏡を、慣れた手つきでいじりだす。
程なくして、位置調整が終わったのか、望遠鏡から無邪気な顔を上げて振り返った。
『ここにはよく来るの?』
『うん。冬にはここから、冬の大三角が見えるの』
見て、と手で促されて、望遠鏡を覗き込む。
現在時刻は七時ちょっと前。望遠鏡から見える範囲の下半分、その中央辺りに、一際明るい星が見えた。
シリウスだ。地上から見える、太陽の次に明るい星。
『すごい、こんな時間からも見えるんだね』
『みんな夏ばかり注目しているから、意外と穴場スポットなんだ』
今の季節には、他の観光客が見当たらない。ここに来る途中でも、車の轍は二台分くらいあったけど、人の足跡は見ていなかった。
笹丘に設置された望遠鏡は、七夕に天の川を見るためのものだからだ。
『でもね。天の川を挟んで、夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見えるんだよ』
『へぇ』
改めて、今度は肉眼で空を見上げる。正確にどの星を繋いで三角が作られているのかは分からないけれど、綺麗な星空だった。
『星、川、あかり。ここにぴったりの、素敵な名前だよね』
わざと「川」の表現を「天の川」にして言うと、あかりから軽く突き飛ばされた。
『バカ』
『意見には個人差があるって、言った方がいい?』
『バカ。知らない』
あかりはぷい、とスカートを翻し、空を見上げてしまった。
ちょっとからかいすぎたかな、と思った時、僕は、思わず息を呑んだ。
綺麗だった。夜の黒と雪の白に挟まれて、あかりの制服の灰色は、コントラストに溶けてしまいそうなほどに輝いて見える。後ろで組んだ細い指や、栗色の髪、そこに付いている赤い髪飾り。
天使の頭に、花冠が乗っているようだった。星を背に、羽を舞わせて。
『冬彦だって、ぴったりの名前だよね』
振り返ったあかりが何と言ったのか、一瞬飲み込めずにいた。
『苗字も天野だし、名前だって、彦星の彦でしょ?』
『えっ? ああ、うん、そうだね』
あかりの綻んだ顔に戸惑う。意趣返し、というわけではなさそうだ。
『でも、七夕は夏だよ? 冬には見えないんじゃない?』
『そうなんだよねー』
あかりは残念そうに指を絡ませる。
天の川に隔てられ、年に一度出会う星は、二人を結びつける橋――デネブによって、夏の大三角として共にいる。ベガは織姫、アルタイルが彦星だ。
もちろん、シリウスをはじめとする冬の大三角には、アルタイルは含まれない。
『なら、冬彦が輝いてよ』
『星の王子様みたいに?』
『冬の彦星様みたいに』
言ってから、あかりはふと、自分で自分の発言に驚いたように目を逸らして、何度か『冬の彦星様』と手元で繰り返してから。
納得したように、嬉しそうに頷いた。
『決めた。初めて描く絵本のタイトルは「冬の彦星様」にする』
『ものすごく、パクリの臭いがするんだけど……』
僕の恥ずかしさ交じりの苦言も『いいの』と一蹴されてしまった。
『私、織姫になりたい』
あかりは、僕の腕を取って、顔を覗き込んできた。
『んー、だめ』
わざと勿体ぶりながら答える無粋に、あかりは頬をぷぅと膨らませて無言の抗議をしてくる。
『あって、年に一度しか会えなくなりそうだし。それに実は、織姫って字を書く知り合いがいるんだよ』
『すごい名前。でも、字を書くってことは、読みは?』
『シフォン』
指文字で答えると、あかりはぎぎぎっと、機械のように首を傾げた。まあそうだろうね。
僕も未だに、年賀状の宛名を書く時にちょっと混乱するもの。
『ケーキの「シフォン」?』
『そう。母親がその読みにしたかったみたいで、漢字はどうでもよかったんだってさ。それで、誕生日が七月七日だったから、織姫』
『なんだっけそれ、キラキラネームってやつだよね……』
こうした名前には初めて出会ったんだろう。あかりは困った顔をしながらも、目は興味津々だと主張していた。
『どんな人?』
『ええと、僕たちより三つ下で、すっごく賑やかな子』
ちらちらと優しく粉雪が踊る星空を見上げながら、天才ヴィオリストの少女と出会った日のことを、あかりに話し始めた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。


隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる