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第二章 夢見るスケルツォ
〈2〉
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コンビニで温かい飲み物を買った僕とあかりは、ゆるやかな傾斜の道をぶらりと歩いていた。
僕たちの住む町には、笹丘と呼ばれる小高い丘がある。はじめは子供たちが遊び場にするだけのような場所だったものが、僕たちが産まれるより少し前の頃から、観光スポットとして興されたという歴史がある。
大気汚染で星が見えづらい中、少しでも高く、少しでも空気が澄んでいるところで、老若男女問わず願い事をしよう。前市長がそう打ち出し、夏にはこの丘で七夕祭りが行われるようになった。願いの込められた短冊が飾り付けられた、夏のクリスマスツリーで溢れかえる。
『見えてきたよ』
僕の少し先で、薄く積もった雪に足跡をつけていたあかりが手を振ってくる。
もう、この辺りからでも十分に星が見える。駅から歩いて行ける範囲にあるにしては、とても静かな場所だった。
丘までたどり着くと、草地の中央に、笹飾りを立てるための台座が見えた。
あかりはそれを軽い足取りで横切ると、落下防止用の手すりから伸びる望遠鏡を、慣れた手つきでいじりだす。
程なくして、位置調整が終わったのか、望遠鏡から無邪気な顔を上げて振り返った。
『ここにはよく来るの?』
『うん。冬にはここから、冬の大三角が見えるの』
見て、と手で促されて、望遠鏡を覗き込む。
現在時刻は七時ちょっと前。望遠鏡から見える範囲の下半分、その中央辺りに、一際明るい星が見えた。
シリウスだ。地上から見える、太陽の次に明るい星。
『すごい、こんな時間からも見えるんだね』
『みんな夏ばかり注目しているから、意外と穴場スポットなんだ』
今の季節には、他の観光客が見当たらない。ここに来る途中でも、車の轍は二台分くらいあったけど、人の足跡は見ていなかった。
笹丘に設置された望遠鏡は、七夕に天の川を見るためのものだからだ。
『でもね。天の川を挟んで、夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見えるんだよ』
『へぇ』
改めて、今度は肉眼で空を見上げる。正確にどの星を繋いで三角が作られているのかは分からないけれど、綺麗な星空だった。
『星、川、あかり。ここにぴったりの、素敵な名前だよね』
わざと「川」の表現を「天の川」にして言うと、あかりから軽く突き飛ばされた。
『バカ』
『意見には個人差があるって、言った方がいい?』
『バカ。知らない』
あかりはぷい、とスカートを翻し、空を見上げてしまった。
ちょっとからかいすぎたかな、と思った時、僕は、思わず息を呑んだ。
綺麗だった。夜の黒と雪の白に挟まれて、あかりの制服の灰色は、コントラストに溶けてしまいそうなほどに輝いて見える。後ろで組んだ細い指や、栗色の髪、そこに付いている赤い髪飾り。
天使の頭に、花冠が乗っているようだった。星を背に、羽を舞わせて。
『冬彦だって、ぴったりの名前だよね』
振り返ったあかりが何と言ったのか、一瞬飲み込めずにいた。
『苗字も天野だし、名前だって、彦星の彦でしょ?』
『えっ? ああ、うん、そうだね』
あかりの綻んだ顔に戸惑う。意趣返し、というわけではなさそうだ。
『でも、七夕は夏だよ? 冬には見えないんじゃない?』
『そうなんだよねー』
あかりは残念そうに指を絡ませる。
天の川に隔てられ、年に一度出会う星は、二人を結びつける橋――デネブによって、夏の大三角として共にいる。ベガは織姫、アルタイルが彦星だ。
もちろん、シリウスをはじめとする冬の大三角には、アルタイルは含まれない。
『なら、冬彦が輝いてよ』
『星の王子様みたいに?』
『冬の彦星様みたいに』
言ってから、あかりはふと、自分で自分の発言に驚いたように目を逸らして、何度か『冬の彦星様』と手元で繰り返してから。
納得したように、嬉しそうに頷いた。
『決めた。初めて描く絵本のタイトルは「冬の彦星様」にする』
『ものすごく、パクリの臭いがするんだけど……』
僕の恥ずかしさ交じりの苦言も『いいの』と一蹴されてしまった。
『私、織姫になりたい』
あかりは、僕の腕を取って、顔を覗き込んできた。
『んー、だめ』
わざと勿体ぶりながら答える無粋に、あかりは頬をぷぅと膨らませて無言の抗議をしてくる。
『あって、年に一度しか会えなくなりそうだし。それに実は、織姫って字を書く知り合いがいるんだよ』
『すごい名前。でも、字を書くってことは、読みは?』
『シフォン』
指文字で答えると、あかりはぎぎぎっと、機械のように首を傾げた。まあそうだろうね。
僕も未だに、年賀状の宛名を書く時にちょっと混乱するもの。
『ケーキの「シフォン」?』
『そう。母親がその読みにしたかったみたいで、漢字はどうでもよかったんだってさ。それで、誕生日が七月七日だったから、織姫』
『なんだっけそれ、キラキラネームってやつだよね……』
こうした名前には初めて出会ったんだろう。あかりは困った顔をしながらも、目は興味津々だと主張していた。
『どんな人?』
『ええと、僕たちより三つ下で、すっごく賑やかな子』
ちらちらと優しく粉雪が踊る星空を見上げながら、天才ヴィオリストの少女と出会った日のことを、あかりに話し始めた。
僕たちの住む町には、笹丘と呼ばれる小高い丘がある。はじめは子供たちが遊び場にするだけのような場所だったものが、僕たちが産まれるより少し前の頃から、観光スポットとして興されたという歴史がある。
大気汚染で星が見えづらい中、少しでも高く、少しでも空気が澄んでいるところで、老若男女問わず願い事をしよう。前市長がそう打ち出し、夏にはこの丘で七夕祭りが行われるようになった。願いの込められた短冊が飾り付けられた、夏のクリスマスツリーで溢れかえる。
『見えてきたよ』
僕の少し先で、薄く積もった雪に足跡をつけていたあかりが手を振ってくる。
もう、この辺りからでも十分に星が見える。駅から歩いて行ける範囲にあるにしては、とても静かな場所だった。
丘までたどり着くと、草地の中央に、笹飾りを立てるための台座が見えた。
あかりはそれを軽い足取りで横切ると、落下防止用の手すりから伸びる望遠鏡を、慣れた手つきでいじりだす。
程なくして、位置調整が終わったのか、望遠鏡から無邪気な顔を上げて振り返った。
『ここにはよく来るの?』
『うん。冬にはここから、冬の大三角が見えるの』
見て、と手で促されて、望遠鏡を覗き込む。
現在時刻は七時ちょっと前。望遠鏡から見える範囲の下半分、その中央辺りに、一際明るい星が見えた。
シリウスだ。地上から見える、太陽の次に明るい星。
『すごい、こんな時間からも見えるんだね』
『みんな夏ばかり注目しているから、意外と穴場スポットなんだ』
今の季節には、他の観光客が見当たらない。ここに来る途中でも、車の轍は二台分くらいあったけど、人の足跡は見ていなかった。
笹丘に設置された望遠鏡は、七夕に天の川を見るためのものだからだ。
『でもね。天の川を挟んで、夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見えるんだよ』
『へぇ』
改めて、今度は肉眼で空を見上げる。正確にどの星を繋いで三角が作られているのかは分からないけれど、綺麗な星空だった。
『星、川、あかり。ここにぴったりの、素敵な名前だよね』
わざと「川」の表現を「天の川」にして言うと、あかりから軽く突き飛ばされた。
『バカ』
『意見には個人差があるって、言った方がいい?』
『バカ。知らない』
あかりはぷい、とスカートを翻し、空を見上げてしまった。
ちょっとからかいすぎたかな、と思った時、僕は、思わず息を呑んだ。
綺麗だった。夜の黒と雪の白に挟まれて、あかりの制服の灰色は、コントラストに溶けてしまいそうなほどに輝いて見える。後ろで組んだ細い指や、栗色の髪、そこに付いている赤い髪飾り。
天使の頭に、花冠が乗っているようだった。星を背に、羽を舞わせて。
『冬彦だって、ぴったりの名前だよね』
振り返ったあかりが何と言ったのか、一瞬飲み込めずにいた。
『苗字も天野だし、名前だって、彦星の彦でしょ?』
『えっ? ああ、うん、そうだね』
あかりの綻んだ顔に戸惑う。意趣返し、というわけではなさそうだ。
『でも、七夕は夏だよ? 冬には見えないんじゃない?』
『そうなんだよねー』
あかりは残念そうに指を絡ませる。
天の川に隔てられ、年に一度出会う星は、二人を結びつける橋――デネブによって、夏の大三角として共にいる。ベガは織姫、アルタイルが彦星だ。
もちろん、シリウスをはじめとする冬の大三角には、アルタイルは含まれない。
『なら、冬彦が輝いてよ』
『星の王子様みたいに?』
『冬の彦星様みたいに』
言ってから、あかりはふと、自分で自分の発言に驚いたように目を逸らして、何度か『冬の彦星様』と手元で繰り返してから。
納得したように、嬉しそうに頷いた。
『決めた。初めて描く絵本のタイトルは「冬の彦星様」にする』
『ものすごく、パクリの臭いがするんだけど……』
僕の恥ずかしさ交じりの苦言も『いいの』と一蹴されてしまった。
『私、織姫になりたい』
あかりは、僕の腕を取って、顔を覗き込んできた。
『んー、だめ』
わざと勿体ぶりながら答える無粋に、あかりは頬をぷぅと膨らませて無言の抗議をしてくる。
『あって、年に一度しか会えなくなりそうだし。それに実は、織姫って字を書く知り合いがいるんだよ』
『すごい名前。でも、字を書くってことは、読みは?』
『シフォン』
指文字で答えると、あかりはぎぎぎっと、機械のように首を傾げた。まあそうだろうね。
僕も未だに、年賀状の宛名を書く時にちょっと混乱するもの。
『ケーキの「シフォン」?』
『そう。母親がその読みにしたかったみたいで、漢字はどうでもよかったんだってさ。それで、誕生日が七月七日だったから、織姫』
『なんだっけそれ、キラキラネームってやつだよね……』
こうした名前には初めて出会ったんだろう。あかりは困った顔をしながらも、目は興味津々だと主張していた。
『どんな人?』
『ええと、僕たちより三つ下で、すっごく賑やかな子』
ちらちらと優しく粉雪が踊る星空を見上げながら、天才ヴィオリストの少女と出会った日のことを、あかりに話し始めた。
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