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第一章 二度目のエチュード
〈4〉
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「あんた、まだその癖抜けてないのねぇ」
包丁がまな板の上を跳ねる音が止み、ついに母さんからため息を吐かれてしまった。
夕食作りの手伝いにキャベツの千切りを頼まれたのはいいのだけど。かれこれ数分、未だ半分も進んでいなかった。
「ごめん、母さん」
「むしろ、ちゃんとしてない包丁さばきの方が危ないのよ?」
「分かってる」
包丁を握っていると、どうしても指を庇ってしまう。
最近は、そこまで神経質にもならなくなってきたと思っていたのだけど。
「今は、手話もやってるからかな」
元々、ピアノを弾くために指を守る癖があった。今はそれに加えて、指に何かあって、あかりと話せないのが怖いというのもあるのかもしれない。
母さんは、僕から引き継いだキャベツの残りを手際よく切りながら、ぽつりと、言った。
「桐谷さん、元気かしらね」
懐かしい友人の名前だ。僕がピアノを止めてから二年と半、もうすっかり会っていない。けれど縁を切る意気地もなくって、年賀状のやりとりは続けていた。あの子は色々メッセージを書き込んでくれるのだけど、いつも決まって最後は「しあわせます」で終わる。彼女の地元・山口県の方言らしい。
「風邪を引いたところを見たことがないかな。どこでだって生きていけそう」
「冬彦、べったりだったもんね」
「いや、僕がじゃなくて、向こうが僕に、だからね?」
「そんなこと言って。最後のステージで共演頼み込んだの、あんたの方でしょう」
「それはそうだけど……」
出会いは、僕がピアニストとして活動を始めた頃だった。同じくらいの年頃のヴィオリストと共演することになって、いざ会場へ向かった僕の前に現れた、そのヴィオリストこそが彼女だった。
「桐谷さんに怒られてから、指を大事にするようになったんだっけね」
「別に、あいつに怒られる前からやってたよ」
ちょっと悔しかったので、もう一本の包丁を取り出して、僕は残りのキャベツ切りに取り掛かった。
でも、そう。これが、僕が指を庇うと母さんがあいつを思い出す理由だ。
――あんたの指はピアノを弾く指じゃろ? 粗末にしちゃーいけん!
今でも、あの口うるささはよく思い出せる。
まだ十四歳ながら、名ヴィオリストとして名を馳せている彼女は、海外を飛び回っても、英語が上手く出来なくても、全く物怖じしないコミュ力お化けだ。人見知りからスタートする僕とは正反対。
「冬彦、次はお肉の準備をしててくれる?」
「おーけー」
シンクから振り返った僕は、テーブルのトレイに小麦粉と、筋切りまで済んだ豚肉を引き寄せた。
今夜はとんかつだ。
「ねぇ、母さん」
「んー?」
「こうして今、僕と母さんは会話しているけどさ。手話だと、料理中に会話できなくない?」
さっきまでは包丁を握っていたとはいえ、横に並んでいた。片方が話せば、もう片方が包丁を置いて話せば済む。……料理の邪魔にはなるけれど。
でも、今の僕と母さんの立ち位置は、背中合わせのようなものだ。あるいは火を見ている時のように目の離せない場面では、どうやって会話をするんだろう。
「なに? 例の子と、そういう関係になる目途でもついたの? お母さん嬉しいわぁ」
「真面目な話」
「んー、まぁ。ないことはないんだけどね」
包丁が置かれた音に、振り返ろうとして、しかし頭を抑えられる。
母さんに背を向けた体勢のままで、僕は、不意に背中に指先が触れるのを感じた。
とん、とん。感触の数は四、五……いや、六つ? 六文字か?
いいや、子供の伝言遊びにあるような、文字を書くものではなくて。これは、
「……点字?」
「そ、指点字。といっても、母さんもこれしか知らないんだけど」
「今のは、何て書いたの?」
「ありがとー、って」
母さんらしい。母さんは昔から「ありがとうさえ覚えとけば何とかなる」と言って、それを常に実行している人だった。
一度、僕が出るコンサートを鑑賞するために、アメリカのボストンまで来たことがあるけれど、その時の母さんは、何かある度に「センキュー、センキュー」と繰り返していたっけ。
でも不思議と上手く回るもので。他の奏者ともすっかり仲良くなった母さんは、帰りの飛行機でチェックに引っかかるくらいのお土産をもらっていた。
僕に「ありがとう」という手話をいの一番に教えてくれたのも、そういう理由だった。
「でも、遅いね……。結局、料理中は無理だし」
「まぁ、それはさすがにね。なら、ちゃんと他の時に、相手を見て会話してあげなさい」
「そうだね」
きちんと相手の目を見て話しをする。それは、聾者のあかりに対してだけではなくて、人として弁えなければいけないマナーだ。
一番大事なのは、相手がこの障害をもっているからこうする、とかじゃなくて。
普段友達にそうするような、そんな。
それが、思いやりなのかもしれない。
母さんがシンク下から取り出した油を受け取り、フライパンにさっと注ぐ。我が家では、揚げる、というより、焼く。カツレツに近いものを作ることが多い。
火を点け、火力を調整する。
「油の温度は分かる?」
「百七十度でいいんだよね」
「よしよし。冬彦はいい主夫になるね」
「いや、働くよ……」
他愛もない話をしながら、ゆらめくコンロの火を見つめる。
だんだんと、油の温度が上がっていくように。
僕も、まずは一歩ずつ、できることをしよう。
包丁がまな板の上を跳ねる音が止み、ついに母さんからため息を吐かれてしまった。
夕食作りの手伝いにキャベツの千切りを頼まれたのはいいのだけど。かれこれ数分、未だ半分も進んでいなかった。
「ごめん、母さん」
「むしろ、ちゃんとしてない包丁さばきの方が危ないのよ?」
「分かってる」
包丁を握っていると、どうしても指を庇ってしまう。
最近は、そこまで神経質にもならなくなってきたと思っていたのだけど。
「今は、手話もやってるからかな」
元々、ピアノを弾くために指を守る癖があった。今はそれに加えて、指に何かあって、あかりと話せないのが怖いというのもあるのかもしれない。
母さんは、僕から引き継いだキャベツの残りを手際よく切りながら、ぽつりと、言った。
「桐谷さん、元気かしらね」
懐かしい友人の名前だ。僕がピアノを止めてから二年と半、もうすっかり会っていない。けれど縁を切る意気地もなくって、年賀状のやりとりは続けていた。あの子は色々メッセージを書き込んでくれるのだけど、いつも決まって最後は「しあわせます」で終わる。彼女の地元・山口県の方言らしい。
「風邪を引いたところを見たことがないかな。どこでだって生きていけそう」
「冬彦、べったりだったもんね」
「いや、僕がじゃなくて、向こうが僕に、だからね?」
「そんなこと言って。最後のステージで共演頼み込んだの、あんたの方でしょう」
「それはそうだけど……」
出会いは、僕がピアニストとして活動を始めた頃だった。同じくらいの年頃のヴィオリストと共演することになって、いざ会場へ向かった僕の前に現れた、そのヴィオリストこそが彼女だった。
「桐谷さんに怒られてから、指を大事にするようになったんだっけね」
「別に、あいつに怒られる前からやってたよ」
ちょっと悔しかったので、もう一本の包丁を取り出して、僕は残りのキャベツ切りに取り掛かった。
でも、そう。これが、僕が指を庇うと母さんがあいつを思い出す理由だ。
――あんたの指はピアノを弾く指じゃろ? 粗末にしちゃーいけん!
今でも、あの口うるささはよく思い出せる。
まだ十四歳ながら、名ヴィオリストとして名を馳せている彼女は、海外を飛び回っても、英語が上手く出来なくても、全く物怖じしないコミュ力お化けだ。人見知りからスタートする僕とは正反対。
「冬彦、次はお肉の準備をしててくれる?」
「おーけー」
シンクから振り返った僕は、テーブルのトレイに小麦粉と、筋切りまで済んだ豚肉を引き寄せた。
今夜はとんかつだ。
「ねぇ、母さん」
「んー?」
「こうして今、僕と母さんは会話しているけどさ。手話だと、料理中に会話できなくない?」
さっきまでは包丁を握っていたとはいえ、横に並んでいた。片方が話せば、もう片方が包丁を置いて話せば済む。……料理の邪魔にはなるけれど。
でも、今の僕と母さんの立ち位置は、背中合わせのようなものだ。あるいは火を見ている時のように目の離せない場面では、どうやって会話をするんだろう。
「なに? 例の子と、そういう関係になる目途でもついたの? お母さん嬉しいわぁ」
「真面目な話」
「んー、まぁ。ないことはないんだけどね」
包丁が置かれた音に、振り返ろうとして、しかし頭を抑えられる。
母さんに背を向けた体勢のままで、僕は、不意に背中に指先が触れるのを感じた。
とん、とん。感触の数は四、五……いや、六つ? 六文字か?
いいや、子供の伝言遊びにあるような、文字を書くものではなくて。これは、
「……点字?」
「そ、指点字。といっても、母さんもこれしか知らないんだけど」
「今のは、何て書いたの?」
「ありがとー、って」
母さんらしい。母さんは昔から「ありがとうさえ覚えとけば何とかなる」と言って、それを常に実行している人だった。
一度、僕が出るコンサートを鑑賞するために、アメリカのボストンまで来たことがあるけれど、その時の母さんは、何かある度に「センキュー、センキュー」と繰り返していたっけ。
でも不思議と上手く回るもので。他の奏者ともすっかり仲良くなった母さんは、帰りの飛行機でチェックに引っかかるくらいのお土産をもらっていた。
僕に「ありがとう」という手話をいの一番に教えてくれたのも、そういう理由だった。
「でも、遅いね……。結局、料理中は無理だし」
「まぁ、それはさすがにね。なら、ちゃんと他の時に、相手を見て会話してあげなさい」
「そうだね」
きちんと相手の目を見て話しをする。それは、聾者のあかりに対してだけではなくて、人として弁えなければいけないマナーだ。
一番大事なのは、相手がこの障害をもっているからこうする、とかじゃなくて。
普段友達にそうするような、そんな。
それが、思いやりなのかもしれない。
母さんがシンク下から取り出した油を受け取り、フライパンにさっと注ぐ。我が家では、揚げる、というより、焼く。カツレツに近いものを作ることが多い。
火を点け、火力を調整する。
「油の温度は分かる?」
「百七十度でいいんだよね」
「よしよし。冬彦はいい主夫になるね」
「いや、働くよ……」
他愛もない話をしながら、ゆらめくコンロの火を見つめる。
だんだんと、油の温度が上がっていくように。
僕も、まずは一歩ずつ、できることをしよう。
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