上 下
2 / 37
第一章 二度目のエチュード

〈1〉

しおりを挟む
 すっかりしどろもどろしてしまった僕に、女の子はポーチからメモ帳とボールペンを取り出すと、何かを書いて渡してきた。

『お話はできますか?』

 筆談だ。これまで母さんを通して知り合ったろう者の友達も、みんな書くものを携帯していたっけ。中には、せっかく持っていても紙やインクが切れたら意味がないと、二つずつ常備していた人にも会った。

『ごめん。手話、ほとんどできないんだ』

 正直に書いて渡す。それを読んだ女の子は、メモ帳ごと、手を左胸から右胸へとスライドするように押えた。

『大丈夫』

 今度は分かった。といっても、この手話の意味は知らなかった。女の子がゆっくり発音した声と、その優しい笑い顔で、想いが伝わってきたという方が正しい。
 女の子はもう一度、さっき書いた『お話はできますか』の文字をペンで示す。
 ああ、勘違いをしていた。この子が言いたかったのは「手話ができるか」ということではなかったんだ。手話という前提を決めつけていた自分が恥ずかしい。

 自販機で彼女のためのココアを買うと、二人一緒に、一度駅の中へと戻った。
 ベンチに腰かけ、まずは僕から名乗ることにした。メモ帳に『天野冬彦』と書き、かろうじて憶えている指文字で読みを紹介する。
 それに女の子は、指文字――多分指文字で合ってる――で、何かを言ってくれたのだけど、実はさっぱり分からない。猛省したそばからこれだ、恰好はつけるものじゃない。
 お手話べりにおいて何が一番大変かというと、相手の話を見取ることだ。英語と同じようなもので、単語を覚えたとしても、それを会話に応用することは難しい。正直なところ、僕の名前を誰かが指文字で再現しても、きっと読み取れないだろうと思う。

 女の子はくすくすと笑いながら、ペンを走らせた。

星川ほしかわあかり。あかりでいいよ』

 彼女の名前だろうか。「星川」の部分に丁寧に読み仮名が振られていた。しまった、最初からそうすればよかったのか。

『手話、上手だね』

 悪戯っ子のように舌を出されて、返す言葉も無かった。あかりは、けっこう明るい性格らしい。僕が『皮肉?』と唇を突き出すと、あかりからぷっと噴き出されてしまった。

『本当に上手だと思うよ? 三本指、立てづらいでしょ』

 僕の名前である冬彦の「ゆ」の字について言っているんだろう。温泉マークからとられた文字は、人差し指から薬指までの三本を立てて、さらに手首を返さなければならない。

『まだ大丈夫だよ。シュウって人とかもっと大変そうだし』
『指、引くもんね』

 指文字でも、濁音や長音という概念はある。文字を作りながら手を右にずらしたり、下げたりと動かすことで示すのだけど、「シュウ」のように拗音になる場合、手を引く動作があるのだ。初めて指を三本立てることができたとき、引いてみたら親指と小指が外れて文字が崩壊したのは懐かしい思い出だ。

『手話はどこで?』
『母さんがやってるんだ』
ろう者?』

 ストレートに書かれた質問に、普通、と書こうとして躊躇う。

『昔、ろう者の友達がいたんだって』

 そう書いてから、ふと気になったことを追記してみた。

『君は、聾って漢字で書くんだね』
『だって、一緒だもん』

 あかりは、何の気なしに答えた。
 彼女が言うには。「障害」と「障がい」、「聾者」や「聾唖者」と「ろう者」といった書き方の違いにはさして興味がないらしい。単に「聾」という文字を書くのが面倒になったお偉方が、平仮名に直した理由をもっともらしく付け加えたのではないかと思ってさえいるようだ。

 確かに僕自身も、指す意味は一緒だと思う。声にすれば同じものを書き分けて、さも「気を遣ってます」と善人ぶるのはまやかしかもしれない。
 さすがに、さっき僕が迷った「普通」かどうかの切り分けは問題だと思うけれど。

『いっそ、「かたわ」とか「つんぼ」って正直に言ってくれた方が気が楽だよ』

 あかりはメモ帳を掲げてから、おもむろに最後のページを開くと、

『※なお、意見には個人差があります』

 と大きく書かれたページを見せてきた。思わぬ一言に、僕は飲みかけたコーヒーをむせる。

『汚いなぁ』

 あかりは身を捻りながら、元のページにちゃっかり書いていた文句を、胸の前で掲げていた。
 筆談は、けっこう細かなニュアンスが分かりづらい。口では「もう、大丈夫? 仕方ないなぁ」とか「うっわ、マジで汚い」といった意味を、声色に乗せることが出来る。それができない上、端的に書かれた『汚いなぁ』の文字には、けっこうショックを受けた。
 あかりが心配そうに笑っていなかったら、ムッとしていたかもしれない。

『今のページ、何? 準備してるの?』
『あまり正直に言うと、先生がうるさいから』

 先生とは、あかりの通う聾学校の教師だろうか。
 気持ちは分からなくもない。例えば僕が後天的に聴覚を失ったとしたら、自分がどう呼ばれているかということには過敏に反応しそうだ。

『言った言葉は、誰かに聞かれなかったら済むけど、書かれた言葉は燃やさないと駄目だって』
『先生も聾者なの?』
『健聴者。大人のツゴーってやつ? 私にも聴こえるんじゃないかってくらい怒鳴る』

 なるほど、体裁というやつだ。あかりが耳に当てた人差し指をねじったのは、「うるさい」という意味かな。

『あかりは全聾じゃないんだ?』
『一応、聾の区分だけどね。補聴器付けて100dBがぎりぎり』

 ほぼ全く駄目、とあかりは肩を竦めた。
 100dBの区分がどこかは忘れたけれど、確か、線路の高架下で聞く電車走行音が聞こえないと聾と診断されるはずだ。
 今は補聴器を付けていない所を見ると、おそらく耳で聴くことは諦めているんだろう。

 さっきの「うるさい」みたいに、音に関する手話が存在するのはこういう理由だ。手話を使う人が必ずしも全聾というわけではない。しかし、聴こえにくい耳でもうるさいと思うのは、よっぽどのことなのか、あるいは、悪意や無責任な同情が鬱陶しいのか。
 多分、あかりの場合は後者かもしれないと思うと、少しだけ可笑しかった。

『冬彦くんは、何年生?』
『高三だよ。一月生まれだからまだ十七』

 その答えに、目を見開いたあかりは、両手の親指と人差し指をちょんちょんと合わせる。片手は自分側、もう片手は僕側で。ということは、

『今のは「同じ」って意味?』

 母さんの友達とご飯に行ったときなんかに、「僕も同じの食べたい!」とせびていたっけ。

『当たり。私は八月生まれだから十八だけど』

 僕より五ヶ月お姉さんであることがそんなに誇らしいのか、あかりはふふん、と見せつけるように胸を反らす。

『えー、年下だと思ってた』

 呆れた顔とともに反撃を書き返すと、あからさまにムッとされた。

『どうして?』
『ほら、髪飾りとか可愛いし』

 そう書いてから、例の『※なお、意見には個人差があります』のページを開いた。
 あかりは、込み上げる笑いを堪えるように肩を震わせながら、

『そういうのは、女の子らしいって言うの』

 わざと拗ねたように頬を膨らませる。そんな時、僕のズボンのポケットで携帯が震えた。
 件名に「西口に着いたよ」とだけ書かれた、母さんからの簡素なメールだった。

『ごめん、迎えが来たみたい』
『おお、VIPだね』
『あかりは? 良かったら送るよ』
『いいよ、私も迎えが来るから』

 自分も迎えが来るのに、人のことをからかったのか。でも不思議と、からかわれたことへの怒りだとか、心配して損したという気持ちは湧かなかった。
 この、ちょっと口の悪い女の子との話が、楽しかったからかもしれない。

 残ったコーヒーを飲み干して腰を上げると、ちょんちょん、とコートの裾を引っ張られた。
 振り返った僕は、あかりからメモ帳の切れ端を受け取る。『LINEのID♡』という文字に続いて、アルファベットの文字列が綴られていた。

『僕に?』

 もう立ってしまったので、人差し指で自分を指して首を傾げる。「いいの?」と聞ければいいんだろうけど、いい、悪い、の手話が如何せん分からなかった。
 あかりは頷いて、胸の前でピースサインを寝かせて見せた。

『またね』

 本来なら、両手の人差し指を寄り合わせ「会う」まで続けて意味を成す手話。
 それをあかりが簡略化したことに、なんとなく同じ気持ちを感じて嬉しくなった。

『またね』

 僕も胸の前で指を立てて返す。歩き出す足どりは軽かった。
 母さんの待つ車まで行く途中で、さっそく携帯を取り出してアプリを立ち上げると、もらったばかりの連絡先を打ち込んでいく。
 少し早い、クリスマスプレゼントをもらった気分だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

隣の家の幼馴染は学園一の美少女だが、ぼっちの僕が好きらしい

四乃森ゆいな
ライト文芸
『この感情は、幼馴染としての感情か。それとも……親友以上の感情だろうか──。』  孤独な読書家《凪宮晴斗》には、いわゆる『幼馴染』という者が存在する。それが、クラスは愚か学校中からも注目を集める才色兼備の美少女《一之瀬渚》である。  しかし、学校での直接的な接触は無く、あってもメッセージのやり取りのみ。せいぜい、誰もいなくなった教室で一緒に勉強するか読書をするぐらいだった。  ところが今年の春休み──晴斗は渚から……、 「──私、ハル君のことが好きなの!」と、告白をされてしまう。  この告白を機に、二人の関係性に変化が起き始めることとなる。  他愛のないメッセージのやり取り、部室でのお昼、放課後の教室。そして、お泊まり。今までにも送ってきた『いつもの日常』が、少しずつ〝特別〟なものへと変わっていく。  だが幼馴染からの僅かな関係の変化に、晴斗達は戸惑うばかり……。  更には過去のトラウマが引っかかり、相手には迷惑をかけまいと中々本音を言い出せず、悩みが生まれてしまい──。  親友以上恋人未満。  これはそんな曖昧な関係性の幼馴染たちが、本当の恋人となるまでの“一年間”を描く青春ラブコメである。

S級騎士の俺が精鋭部隊の隊長に任命されたが、部下がみんな年上のS級女騎士だった

ミズノみすぎ
ファンタジー
「黒騎士ゼクード・フォルス。君を竜狩り精鋭部隊【ドラゴンキラー隊】の隊長に任命する」  15歳の春。  念願のS級騎士になった俺は、いきなり国王様からそんな命令を下された。 「隊長とか面倒くさいんですけど」  S級騎士はモテるって聞いたからなったけど、隊長とかそんな重いポジションは…… 「部下は美女揃いだぞ?」 「やらせていただきます!」  こうして俺は仕方なく隊長となった。  渡された部隊名簿を見ると隊員は俺を含めた女騎士3人の計4人構成となっていた。  女騎士二人は17歳。  もう一人の女騎士は19歳(俺の担任の先生)。   「あの……みんな年上なんですが」 「だが美人揃いだぞ?」 「がんばります!」  とは言ったものの。  俺のような若輩者の部下にされて、彼女たちに文句はないのだろうか?  と思っていた翌日の朝。  実家の玄関を部下となる女騎士が叩いてきた! ★のマークがついた話数にはイラストや4コマなどが後書きに記載されています。 ※2023年11月25日に書籍が発売しています!  イラストレーターはiltusa先生です! ※コミカライズも進行中!

処理中です...