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序章 天使の羽のプレリュード
〈1〉
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手話を悪用するようになったのは、いつからだったろう。
僕は駅の改札から外へ続く階段を下りながら、ふと窓の外を見て思った。
学校帰りだろうか。濃いグレーの制服を着た女の子が、同じ制服の男の子と談笑している。二人で交互に歌うように――とは程遠い、縦横無尽に手が宙を走り回る会話。手話だ。母さんはこうした会話を、お喋りならぬ「お手話べり」と言っていたっけ。
ほら、男の子のメガネなんか、今にも吹き飛びそうだ。まるでマシンガン。あまりうまく読み取れないけれど、二本の指を自身の目元から突き出す「見る」という手話なんか、本当に銃弾を飛ばしているようだ。何か楽しいものでも見たのかもしれない。
距離感を誤ったら指が刺さりそうだな。なんて、思わず苦笑する。
駅の構内に視線を戻す。エントランスに置かれた待合席では、幼稚園くらいの男の子と、そのお母さんとがおにぎりを食べていた。コンビニの袋ごとかぶりつくんじゃないかという勢いの男の子は、まだ口にものが入っているのにも構わず「おいしい!」と満面の花を咲かせている。
笑顔はいいな。行儀は悪いけれど。お母さんに諌められても、男の子は聞く耳を持ってない。
僕が男の子の立場なら、こうする。口いっぱいに頬張って、それでもすぐに感想を伝えたい時は、手のひらで、自分の頬から顎にかけて撫でるんだ。手話で言えば「おいしい」の意味。
頬っぺたが落ちそう、という言葉を模した手話があれば、感想も伝えられるし、学校に遅刻しそうな朝なんかは便利だ。おまけに、頬っぺたについてるかもしれないご飯粒の確認もできる。
思えば、それが僕にとって一番最初の、手話の悪用だったかもしれない。
他には……そうだ、風邪をこじらせて辛いとき。喋るのも億劫だった僕は、様子を見にきた母さんに、左手の甲を右手でつまんで見せたりもした。手話でいう「つらい」だ。
こと面倒くさい時に、僕は手話を使っている。
元々、簡単な会話ならできた。小さい頃には、母さんが所属していた手話サークルで知り合った友達に遊んでもらっていたからだ。でも、僕が一時期ピアノにのめりこんで家を空けることが多くなって、交流も減って。今では、さっきの「おいしい」「つらい」みたいに感情を表すいくつかの単語と、自分の名前の指文字くらいしか憶えていない。
あ、もう一つあったっけ。母さんから一番最初に教わった手話。
「いけない、母さんに連絡しなきゃ」
慌てて携帯を取り出し、母さんに「ごめん、もう駅についた」とLINEを送る。どうりで、外に母さんの車が見えないはずだ。今日は用があって近くに来ているらしく「迎えに行くから連絡して」と言われていたのを忘れていた。
待ちぼうけの暇を潰すように自動ドアを出ると、するりと、コートの中にまで寒風が潜り込んできた。
「降って来たなぁ……」
指をさする。今は十二月。この辺りはちらちらと雪が降る程度だけど、雪国なんかは数十センチを超える積雪を観測しているんだとか。どうやって暮らしているんだろう。
一番寒いところに行ったのは、中学に上がるくらいの頃、ロシアのサンクトぺテルブルに行ったときだろうか。僕は黒髪に白い肌で女の子っぽいということで、雪姫と呼ばれていた。インドアだから白いのはいいとして、十三になった男子に女の子呼ばわりは納得がいかない。
『よぉスネグーラチカ! 酒でも飲んで温まれ。大丈夫だ、白と黒の違いは見分けられる。もっとも、指が動いても思い通りにならないのが難点だがな!』
仲良くしてくれていたセルゲイが、よく酒を勧めてきた。曰く「サンクトぺテルブルではアンコールに『偉大な都市に捧げる賛歌』を演奏するから、心をロシアに染めさせる」とのことだったけれど、僕は未成年だ。結局彼から一度も「ハラショー」と呼んでもらえなかったことを思うと、もしかしたら本気で言っていたのかもしれない。
近くにあった自動販売機に千円札を入れ、温かいコーヒーのボタンを押す。かじかんだ手には熱すぎる缶コーヒーをお手玉しながら、駅の目の前でUターンするように作られたロータリーの際へと移動する。これで、母さんも見つけやすいだろう。
ぼうっと景色を眺める。町は早くもクリスマスムードだ。ふと横目に、さっきの女の子が小さく手を振って男の子と別れるところが見えた。お手話べりは終わったのかな。
「募金をお願いします」
不意に背中から声をかけられ、振り返る。中学生くらいの女の子三人組が、赤い羽根を張り付けた箱を持っていた。コーヒーを買った僕が、お釣りを持っているのを見ていたんだろう。
「ちょっと、待ってて」
僕は断りを入れると、熱い缶のへりを左手だけでつまみ、右手でさっき仕舞ったばかりの財布を取り出す。すると、女の子の一人があっと声を上げた。
「バーバリーの財布だ……」
彼女の視線は、僕の愛用の財布に注がれている。
ロイヤルフェスティバルホールで開かれる演奏会に誘われた時、近くで購入したものだ。あそこは観光名物の観覧車ロンドン・アイが見えて、夜景は綺麗な場所だったな。下手に空ばかり見ていると、スられたり、変なものを踏んづけたりするけれど。
「もしかして、天野冬彦さんですか?」
「えっ……?」
僕は、脇に財布を挟んで小銭をつまみあげた姿勢のまま固まってしまった。
箱を抱えた女の子から呼ばれたフルネーム。人違いではないのだけれど、僕にとっては見ず知らずのこの子が、僕の名前を知っている理由は一つしかない。
「天野さんですよね? あの、私。あなたの演奏を聴いて、ピアノを始めたんです」
「あ、ああ。そうなんだ。ありがと、う……?」
喉がからからだった。もうその顔は捨てたはずなのに。
「有名な人なの?」
「うん、十歳と十一歳の時に、日コンで連覇したピアニストの人」
「テレビで見たことあるかも。神童って人でしょ? すごっ……」
女の子たちの会話に、首を振りたくなる。
僕は、そんな言われ方をされていい人間じゃない。むしろ、ろくに志がないくせに中途半端に出場して、他の人が夢を叶える枠を一つ潰した大罪人だ。
そんな僕を見てピアノを始めたという少女を止めたら、それも罪になるだろうか。
自分は足を洗ったつもりでも、その時に汚してしまった水は残ったままらしい。
「じゃあこれ、募金ね。羽は要らないから、他の人にあげて。それじゃ」
逃げるように捲し立て、踵を返す。しかし、女の子の声は逃がしてくれなかった。
「もうピアノは弾かれないんですか?」
背後からナイフでも突き刺されたように心臓が跳ね、コーヒーを落とす。
ころころと転がっていく缶の行く先を見る余裕がなかった。
「もう、二年も、演奏会に出てらっしゃらないですよね」
「……ピアノは、弾いてるよ」
嘘じゃない。他の人が夢を追う場には行かなくなっただけだ。
「ごめんね、急いでるから」
振り返らないまま、肩越しに手を挙げて歩き出す。
ふと、目の前に、缶コーヒーが差し出された。そういえば落としていたのだったっけ。
「ああ、ありがとうございま――」
顔を上げて、思わず息を呑んだ。
僕より頭一つ低いくらいにある、ふわりとした栗色の髪。さくらんぼのように二つずつ、左右にちょこんと結わえられた赤ガラスのヘアゴム。快活そうな眼は、髪飾りと同じくらいに透き通っていた。
猫のように小首を傾げ、はにかみながらコーヒーを差し出してきた少女。礼儀正しく両手を添えながらも、片方の手は隠すように裏返している。その手からはみ出しているのはピンクのハンカチだ。もしかして、缶を拭いてくれたのだろうか。
笑顔の回りを舞う粉雪は、まるで天使の羽みたいで。僕は言葉が出なかった。
いや、言葉は意味を成さなかったんだ。
僕が息を呑んだのは、彼女が着ているのが、さっき見たグレーの制服だったから。
言いかけたお礼の代わりに、僕は左手のひらを返して胸の前に添え、立てた右手のひらを鼻と左手の甲の間で跳ねさせた。手話の「ありがとう」だ。
僕が初めて教わった手話。本なんかでは、手刀を切るように、なんて説明があるけど、母さんからは「お礼を言うのに切ってどうするの、気持ちの分だけ手を跳ねさせなさい」としこたま言い聞かせられている。
女の子は目を丸くしていた。そりゃあ、知り合いでもない相手から突然手話で返事されれば無理もないか。実は階段から見てました、なんて言うこともできず、なんとなく気恥ずかしくなった僕は、鼻の頭を掻きながらコーヒーを受け取る。
やや不安そうな上目づかいの彼女から、マシンガンを放たれた。最後に人差し指を振って、掌を差し出したから、何かを訊いている……というのは分かるのだけど。
僕が見て取ることが出来ずにいたのを察したのか。女の子はもう一度、今度はゆっくりと、同じ手話を繰り返してくれた。
でも、ごめん。もう全然憶えていないんだ。
下手に記憶に残っていた手話で、カッコつけてお礼を言ったことが悔やまれる。普通に受け取って、頭を下げて行けば済んだ話なのに。
手話を悪用するようになったのは、いつからだったろう。
それでも手話を使ったのは、この子と話をしてみたかったからかもしれない。
僕は駅の改札から外へ続く階段を下りながら、ふと窓の外を見て思った。
学校帰りだろうか。濃いグレーの制服を着た女の子が、同じ制服の男の子と談笑している。二人で交互に歌うように――とは程遠い、縦横無尽に手が宙を走り回る会話。手話だ。母さんはこうした会話を、お喋りならぬ「お手話べり」と言っていたっけ。
ほら、男の子のメガネなんか、今にも吹き飛びそうだ。まるでマシンガン。あまりうまく読み取れないけれど、二本の指を自身の目元から突き出す「見る」という手話なんか、本当に銃弾を飛ばしているようだ。何か楽しいものでも見たのかもしれない。
距離感を誤ったら指が刺さりそうだな。なんて、思わず苦笑する。
駅の構内に視線を戻す。エントランスに置かれた待合席では、幼稚園くらいの男の子と、そのお母さんとがおにぎりを食べていた。コンビニの袋ごとかぶりつくんじゃないかという勢いの男の子は、まだ口にものが入っているのにも構わず「おいしい!」と満面の花を咲かせている。
笑顔はいいな。行儀は悪いけれど。お母さんに諌められても、男の子は聞く耳を持ってない。
僕が男の子の立場なら、こうする。口いっぱいに頬張って、それでもすぐに感想を伝えたい時は、手のひらで、自分の頬から顎にかけて撫でるんだ。手話で言えば「おいしい」の意味。
頬っぺたが落ちそう、という言葉を模した手話があれば、感想も伝えられるし、学校に遅刻しそうな朝なんかは便利だ。おまけに、頬っぺたについてるかもしれないご飯粒の確認もできる。
思えば、それが僕にとって一番最初の、手話の悪用だったかもしれない。
他には……そうだ、風邪をこじらせて辛いとき。喋るのも億劫だった僕は、様子を見にきた母さんに、左手の甲を右手でつまんで見せたりもした。手話でいう「つらい」だ。
こと面倒くさい時に、僕は手話を使っている。
元々、簡単な会話ならできた。小さい頃には、母さんが所属していた手話サークルで知り合った友達に遊んでもらっていたからだ。でも、僕が一時期ピアノにのめりこんで家を空けることが多くなって、交流も減って。今では、さっきの「おいしい」「つらい」みたいに感情を表すいくつかの単語と、自分の名前の指文字くらいしか憶えていない。
あ、もう一つあったっけ。母さんから一番最初に教わった手話。
「いけない、母さんに連絡しなきゃ」
慌てて携帯を取り出し、母さんに「ごめん、もう駅についた」とLINEを送る。どうりで、外に母さんの車が見えないはずだ。今日は用があって近くに来ているらしく「迎えに行くから連絡して」と言われていたのを忘れていた。
待ちぼうけの暇を潰すように自動ドアを出ると、するりと、コートの中にまで寒風が潜り込んできた。
「降って来たなぁ……」
指をさする。今は十二月。この辺りはちらちらと雪が降る程度だけど、雪国なんかは数十センチを超える積雪を観測しているんだとか。どうやって暮らしているんだろう。
一番寒いところに行ったのは、中学に上がるくらいの頃、ロシアのサンクトぺテルブルに行ったときだろうか。僕は黒髪に白い肌で女の子っぽいということで、雪姫と呼ばれていた。インドアだから白いのはいいとして、十三になった男子に女の子呼ばわりは納得がいかない。
『よぉスネグーラチカ! 酒でも飲んで温まれ。大丈夫だ、白と黒の違いは見分けられる。もっとも、指が動いても思い通りにならないのが難点だがな!』
仲良くしてくれていたセルゲイが、よく酒を勧めてきた。曰く「サンクトぺテルブルではアンコールに『偉大な都市に捧げる賛歌』を演奏するから、心をロシアに染めさせる」とのことだったけれど、僕は未成年だ。結局彼から一度も「ハラショー」と呼んでもらえなかったことを思うと、もしかしたら本気で言っていたのかもしれない。
近くにあった自動販売機に千円札を入れ、温かいコーヒーのボタンを押す。かじかんだ手には熱すぎる缶コーヒーをお手玉しながら、駅の目の前でUターンするように作られたロータリーの際へと移動する。これで、母さんも見つけやすいだろう。
ぼうっと景色を眺める。町は早くもクリスマスムードだ。ふと横目に、さっきの女の子が小さく手を振って男の子と別れるところが見えた。お手話べりは終わったのかな。
「募金をお願いします」
不意に背中から声をかけられ、振り返る。中学生くらいの女の子三人組が、赤い羽根を張り付けた箱を持っていた。コーヒーを買った僕が、お釣りを持っているのを見ていたんだろう。
「ちょっと、待ってて」
僕は断りを入れると、熱い缶のへりを左手だけでつまみ、右手でさっき仕舞ったばかりの財布を取り出す。すると、女の子の一人があっと声を上げた。
「バーバリーの財布だ……」
彼女の視線は、僕の愛用の財布に注がれている。
ロイヤルフェスティバルホールで開かれる演奏会に誘われた時、近くで購入したものだ。あそこは観光名物の観覧車ロンドン・アイが見えて、夜景は綺麗な場所だったな。下手に空ばかり見ていると、スられたり、変なものを踏んづけたりするけれど。
「もしかして、天野冬彦さんですか?」
「えっ……?」
僕は、脇に財布を挟んで小銭をつまみあげた姿勢のまま固まってしまった。
箱を抱えた女の子から呼ばれたフルネーム。人違いではないのだけれど、僕にとっては見ず知らずのこの子が、僕の名前を知っている理由は一つしかない。
「天野さんですよね? あの、私。あなたの演奏を聴いて、ピアノを始めたんです」
「あ、ああ。そうなんだ。ありがと、う……?」
喉がからからだった。もうその顔は捨てたはずなのに。
「有名な人なの?」
「うん、十歳と十一歳の時に、日コンで連覇したピアニストの人」
「テレビで見たことあるかも。神童って人でしょ? すごっ……」
女の子たちの会話に、首を振りたくなる。
僕は、そんな言われ方をされていい人間じゃない。むしろ、ろくに志がないくせに中途半端に出場して、他の人が夢を叶える枠を一つ潰した大罪人だ。
そんな僕を見てピアノを始めたという少女を止めたら、それも罪になるだろうか。
自分は足を洗ったつもりでも、その時に汚してしまった水は残ったままらしい。
「じゃあこれ、募金ね。羽は要らないから、他の人にあげて。それじゃ」
逃げるように捲し立て、踵を返す。しかし、女の子の声は逃がしてくれなかった。
「もうピアノは弾かれないんですか?」
背後からナイフでも突き刺されたように心臓が跳ね、コーヒーを落とす。
ころころと転がっていく缶の行く先を見る余裕がなかった。
「もう、二年も、演奏会に出てらっしゃらないですよね」
「……ピアノは、弾いてるよ」
嘘じゃない。他の人が夢を追う場には行かなくなっただけだ。
「ごめんね、急いでるから」
振り返らないまま、肩越しに手を挙げて歩き出す。
ふと、目の前に、缶コーヒーが差し出された。そういえば落としていたのだったっけ。
「ああ、ありがとうございま――」
顔を上げて、思わず息を呑んだ。
僕より頭一つ低いくらいにある、ふわりとした栗色の髪。さくらんぼのように二つずつ、左右にちょこんと結わえられた赤ガラスのヘアゴム。快活そうな眼は、髪飾りと同じくらいに透き通っていた。
猫のように小首を傾げ、はにかみながらコーヒーを差し出してきた少女。礼儀正しく両手を添えながらも、片方の手は隠すように裏返している。その手からはみ出しているのはピンクのハンカチだ。もしかして、缶を拭いてくれたのだろうか。
笑顔の回りを舞う粉雪は、まるで天使の羽みたいで。僕は言葉が出なかった。
いや、言葉は意味を成さなかったんだ。
僕が息を呑んだのは、彼女が着ているのが、さっき見たグレーの制服だったから。
言いかけたお礼の代わりに、僕は左手のひらを返して胸の前に添え、立てた右手のひらを鼻と左手の甲の間で跳ねさせた。手話の「ありがとう」だ。
僕が初めて教わった手話。本なんかでは、手刀を切るように、なんて説明があるけど、母さんからは「お礼を言うのに切ってどうするの、気持ちの分だけ手を跳ねさせなさい」としこたま言い聞かせられている。
女の子は目を丸くしていた。そりゃあ、知り合いでもない相手から突然手話で返事されれば無理もないか。実は階段から見てました、なんて言うこともできず、なんとなく気恥ずかしくなった僕は、鼻の頭を掻きながらコーヒーを受け取る。
やや不安そうな上目づかいの彼女から、マシンガンを放たれた。最後に人差し指を振って、掌を差し出したから、何かを訊いている……というのは分かるのだけど。
僕が見て取ることが出来ずにいたのを察したのか。女の子はもう一度、今度はゆっくりと、同じ手話を繰り返してくれた。
でも、ごめん。もう全然憶えていないんだ。
下手に記憶に残っていた手話で、カッコつけてお礼を言ったことが悔やまれる。普通に受け取って、頭を下げて行けば済んだ話なのに。
手話を悪用するようになったのは、いつからだったろう。
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