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第二章 トラペジウム・トラピジル

(9)ホメオスタシス

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 追う夢の価値。そんな乙花の言葉は、凪の心に火を点けた。新月のように輝き方を忘れていた月がまた少しずつ青白く染まって行くように、何か熱い気持ちが湧いてくるようだった。
 しかし熱が入ることは、即ち発作の『揺り戻し』が激化することを意味する。

「ぐっ、ううっ……!!」

 まるで見えないバリアに弾かれたように、意思に反して腕が飛んだ。覚悟をしていたとはいえ、やっぱり耐えるのはキツいものがある。
 たまらず椅子から転げ落ちて蹲る凪に、鼎が寄り添って、頭の下にクッションを敷いてくれた。

「今日はいつにも増して鬼気迫っているようだけれど、何かあったのかい?」
「ええ、ちょっと……ここに来る時に無理を言った両親のことを思い出しまして」

 乙花の話を聞いた時、真っ先に浮かんだ言葉が『親不孝』だった。父と母の泣き顔は決して忘れられない。忘れるわけにはいかない。それは、踏みにじった者としてのけじめだ。

「夢を追うことや、それを仕事にするということに、親の許可なんていらないと思っていたんですけどね……父の泣いているところなんて、初めて見ました」

 痛むのは腕だけだと自分に言い聞かせて、膝を立てる。それが出来たら、次は痛むのは右腕だけだろうと言い聞かせて、左手を突いて立ち上がった。
 前屈みで堪える体からだらりと垂れ下がった右腕を睨み、拳は開くのだろうと挑発して、指を一本ずつ折り込むように強く握りしめる。

「だから俺は、夢拍症候群こいつを乗り越えないと、両親に顔向けができません」

 投げ出すことは許されない。それを成せて初めて、自分の夢に価値をつけられると思った。

「けれど、無理をすれば――」
「いえ、無理をしたことでわかったことがあります」

 未だ痙攣している腕でキャンバスを指差す。それを覗き込んだ鼎は、眼鏡の枠に被るくらいに目を丸くして、こちらを驚いたように見てくる。

「これは……女の子かい?」

 キャンバスには、ラフ程度とはいえ、明確に人を描いたと判別できる線画が描かれている。
 あの日土手で見た、約束のスケッチの再現だった。

「はい。三年前に見た、俺の原風景です」

 このスタートラインに立ち返ることで、夢拍症候群の芯と向かい合おうと凪は考えていた。
 トラウマの催眠療法のようなものだ。犬に追いかけ回されたとか、死んだと思っていたエビが突然勢いよく跳ね回っただとか、苦手意識を持つに至ったきっかけまで遡って、現在の理性でもって克服する。
 収穫はあった。あの日描き切れなかった無念。次こそは描き上げなければという重圧。そしてそれは完全完璧でなければならないという理想。ひいては、乙花への恋心。

「『揺り戻し』がキツくなるくらいに踏み込めば、その分描けるみたいです。痛みに耐えられる限界キャパを上げれば、もっと先に踏み込めると思います」
「……うん、医師として推奨はできないね」
「ですよね」

 想定していた答えに、凪はあっさりと頷いた。おそらく鼎の前では今後も引き続き、発作を避けるやり方の模索を中心にしていくのだろう。それはそれで、二つの方針を同時進行できるのだから暁光だ。

――でも、やるならちゃんと周りに言ってからにしなね。

 乙花の言葉が脳裏を過り、凪は下唇を噛んだ。

「仮に痛みに打ち克てたとしても、その時は、君自身の限界を迎える時かもしれないんだよ?」

 鼎の言うことも甚だ尤もだとは、わかっている。ドクターストップを無視してリングに立つファイターの心境はこういうことなのだろうかと思うのは、きっと自惚れなのだろう。
 けれど、凪の心は決まっていた。

「描くべき絵を完成させた結果であれば、望むところです」

 それは鼎への返答でもあり、自分自身への宣戦布告でもあった。


   *   *   *   *   *


 しかしやる気スイッチとはよく言ったもので、どれほどの決心を以て押し込んでも、戸締りを気にした何かが勝手に切ってくれるらしい。
 ホメオスタシス。暑ければ汗をかいて体温を下げ、寒ければ身を震わせて体温を上げようとするように、心の温度の急激な変化も脳にとっては異常なのだと鼎は話してくれた。

「……というわけで絶賛スランプ中なのです」

 ホットサンドメーカーを火にかけている間に近況の話になった凪は、袖に隠していた湿布と包帯でぐるぐる巻きの腕を乙花に白状した。

『あははは、凪の丁寧語、ぜんぜん似合わない!』
「反応するとこそっちかよ」

 電子音声で読み上げられた笑い声は、何故だか無性に癪に障った。

『だって、変に慰めるのも違うじゃない? 凪なら乗り越えられるよ、って言うのもなんだか無責任だし』
「そこを何とか」

 乙花からの言葉があればもう一歩頑張れそうだという本音は言えるはずもなく、凪は少しおどけたように、しなを作って拝んだ。
 乙花は視線を天井に向け「んー」と言葉を探してから、指でスマホをフリックする。

『壁にぶち当たって辛いのは、それだけ凪が頑張って走ったからでしょ?』

 音声を聞き逃さないように耳を傾ける。
 しかし、それが拙かった。

「そういうところ、カッコいいと思うよ」
「――っ!?」

 唐突に肉声でかけられたエールに、凪は驚いて飛び退いた。喉を慮っていたのも相まって優しさを深めた囁きが、持続ダメージのように耳をぞわぞわと撫でてくる。
 目を白黒させながら乙花の方を見ると、彼女もまた、視線を逸らして顔を赤らめていた。
 こういう時、どんな言葉から始めればいいか知らなかった。

「……イチャイチャしてるとこ悪いんだけどさ、ちょっと焦げ臭いの気付いてる?」
「えっ、ああっ!?」

 厨房の入口から呆れ顔で覗き込んできた狩人たちに、凪たちはハッと我に返った。慌てて二人同時にホットサンドメーカーへ手を伸ばしたせいで、手のひらと手のひらが重なり、思わずパッと引っ込めてしまう。

 取り残されたホットサンドメーカーに、綺楽々があちゃあと額を押さえた。

「もう、しっかりしてよ一ノ瀬シェフ。焦がしたら、今日の屋台は全部奢ってもらうからね?」
「ごめんて!」

 どのタイミングでゆっくりできるかわからないから、祭りの前に少し腹に入れておこうと提案したのが自分なだけに、凪は何も言えず、神妙にホットサンドメーカーへと手を伸ばし直した。
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