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第二章 トラペジウム・トラピジル

(2)対処療法

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「お、全員揃ってるな」

 がっつり組んだ両手が拮抗していた凪と乙花の押し相撲は、淡々とした千石によって待てをかけられた。
 千石はこちらを一瞥したものの特に凪たちの奇行へツッコむこともせず、手に持ったバインダーに視線を戻した。道中舐めてきていたのか、持ち手の指に飴の柄が挟まれている。

「そこの男子二人。数学の授業はちゃんと受けたか?」
「えっ? あ、はい」

 一瞬、凪は自分の返事がこれで合っているのか悩んだ。
 昨夜のうちに連絡を受けた日程を組んだのは千石だ。だから時間を見れば座学が終了していることはわかるだろうし、その後はここで待機しているよう指示したのも彼女なのだ。それとも「ちゃんと」という意味に何か含みがあるのだろうか。
 しかし眉をハの字にして首を傾げている凪をよそに、千石は満足そうに頷いている。

「じゃあ次は、各々別行動をしてもらう。藍野は視聴覚室、一ノ瀬は美術室、都築は家庭科室。行けば先生がいるから従うように。終わったら寮に戻っていいぞ」
「はい先生! 私はどうすればいいでしょうか!」

 元気のいい小学生のように挙手をした乙花を半眼で睨みつけ、千石は大きく溜息を吐いた。

「お前は好きにしていろ。いつもやってることだろう?」
「じゃあ、凪のアイスブレイクを見学に――」
「却下だ」

 バインダーで虫を払うような手つきに一蹴され、乙花はぶーぶーと唇をすぼませる。
 乙花の言葉にあった聞き慣れない単語に、凪はまた首を傾げた。

「アイスブレイク?」
「うん、そう。これから凪たちには、一人ひとり専門のドクターが付くんだよ。その初めの一歩が今日なの。何をするかは……行ってからのお楽しみ!」

 何も分からなかった。


   *   *   *   *   *


 ――遅くとも夕方には終わるだろうから、五時に寮の前に集合ね。
 そんな約束とともに見送られた凪たちは、ぞれぞれが指定された教室へ移動することになった。奇しくも教室を起点に全員が放射状にバラける位置取りだったため、狩人たちと緊張を共有し合おうにも、すぐに階段に差し掛かってしまってできなかった。

 美術室は一階廊下の突き当りにある。人気のない廊下も、今はあまり恐怖を覚えなかった。
 扉が見えてくると、ガラス張りの向こうに白衣を着た中老の男性が座っているのが見えた。彼がこれからお世話になる医師なのだろうか。小太り気味で丸眼鏡と白髭のよく似合う、優しげな背中をしている人だ。
 それに少し緊張が解けて力加減の利くようになった手で、扉を軽くノックする。
 振り返った医師から「どうぞ」と促され、おそるおそる扉を引き開けた。

「エアコンをかけているので、戸は閉めてください」
「あ、はい。失礼します」

 入る時と同じように、できるだけ音を立てないように戸を閉める。またも柔らかい笑顔に促されて、凪は部屋の中央に用意されていたキャンバスの前に座った。

「一ノ瀬凪くんだね。初めまして、僕はかなえ宗泰そうたい。これから君の担当医を務めさせていただきます」
「よろしくお願いします」

 差し出された手を握り返す。もこもこの熊さんのような手だった。

「ええ、と……前のコマでは数学をやったんだっけね。図形問題の」
「はい。双曲線と漸近線の……」
「ああ、数Ⅲだね。グラフは描けた?」
「はい。もちろん――」

 ごく自然な世間話の中にふと違和感を覚えて、凪は口ごもった。そしてすぐにハッとした。
 縋るように鼎の方を見ると、彼はやおらに頷いてくれる。

「気付いたみたいだね」
「はい。図形も『描く』って言いますよね……」

 授業を受けたかどうか、千石がわざわざ確認してきたことにも合点がいった。
 鼎はカルテに並んだ欄の一つにチェックを入れると、椅子を軋ませながらこちらに向き直る。

「夢拍症候群はまだまだ解らないことばかりだ。けれど、君たちが夢を追うという行動にって揺り戻しが起きるということは判っている。そこで僕たちはね、ある種の対処療法を研究しているんだよ」

 対処療法。例えば風邪などを引いた時、咳が出るなら喉の薬を、熱が出るなら解熱の薬を……と症状に合わせて処方していく治療法だ。しかしこれは一時的に苦痛を和らげることができるものの、風邪のウイルス自体を死滅させられるわけではないため、姑息療法とも呼ばれている。

「発作を起こした時の症状を分析して、それに合わせて投薬するということですか?」

 昨日見た乙花の例などがそうだろう。彼女が吐血して膝を突いた時、適切な処置ができるよう待機していた医療スタッフがいたのを憶えている。
 しかし鼎は、「それもあるんだけどね」と曖昧に微笑んだ。

「そうだなあ。一ノ瀬くんが鼻風邪を引いて、両の鼻に鼻水が詰まっている時、呼吸はどうする?」
「それは……口呼吸に切り替えます」
「その通り。それで呼吸ができるようになる。つまり、抜け道を見つけようということだね」

 悪だくみを思いついた子供のように指をピンと立てた鼎は、その指先をキャンパスに向けた。

「図形を描けるかどうか、確認をしてみよう。キャンバスの左上の方に、丸を描いてみて」

 凪は鉛筆を取り、言われるがままにくるっと手を動かした。もう少し綺麗に描けたような気はしたけれど、普通に描けた。
「じゃあその中心に、十字線を引いてみて」
 X軸とY軸のようなものだろうか。順序が逆ではないかと内心不思議に思いながらも、凪はささっと鉛筆を走らせた。

「描けました」
「うん、いいね。それじゃあ次は――顔を描く時のアタリを付けてみてくれるかな?」
「やってみます……っ!?」

 鉛筆がキャンバスに触れるか触れないかの刹那。突然歪んだ視界に、凪は前屈みになった。一瞬で全身の血液が沸騰したようだった。
 既にキャンバスに描かれている『丸に十字』こそ、顔を描く時のアタリそのものだ。人によっては目の位置を決めるように横線を二本引くとか、顔の凹凸に添って曲線で引くとかスタイルは違うけれど、おおよその役割は同じ。
 同じことをするだけ。また図形を描くだけ。そう自分に言い聞かせようとしても、どっと汗が噴き出てくる。犬のように息が荒くなり、カチカチと歯が鳴る。

「落ち着いて。大丈夫、君はまだ絵を描いていない。安心していいんだ」
「はあーっ……はあーっ、っく、はあ、はあ……」

 鼎に背を擦られながら、凪は、こんな初歩もままならない自分がみじめに感じて、ぎりと歯を食いしばっていた。
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