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第一章 夢拍症候群

(6)このクソッたれな世界で

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「凪……だよね」
「うん。俺だよ、久しぶり」
「うん。凪。凪……凪ぃ!」

 気恥ずかしそうな笑顔から一転、ぎゅうっと梅干しのように顔をすぼませて涙を堪えたようになったかと思うと、乙花は飛び込んできた。
 交通事故のような乱暴なハグの衝撃で、ボストンバックが激しく揺れる。華奢な彼女を受け止めることは男子の意地でどうにか堪えたけれど、バッグに振り回されてよろめきそうになる。

「あはは! もう、ちゃんと受け止めなさいよ」

 引き金となった張本人はちゃっかり体を離していて、こちらを指差してけらけらと腹を抱えている。相変わらずゴキゲンな横隔膜だ。ただそれだけで、思い出の乙花と今の乙花が一瞬で繋がったみたいで、凪はどこか嬉しくなった。

「仕方ないだろ。インドアなんだから」
「クリエイターだって、健康維持のために鍛えている人、いるよ?」
「そっか」
「うん、そうだよ」
「乙花、背ぇ伸びたな。髪も」
「うん、凪もおっきくなったよね。あの頃は同じくらいだったのに」

 額に手を当てて比べている乙花の身長は、今の凪より目線一つ低かった。
 中学時代は校則の規定もあったから伸ばせなかった髪も、今は背中を隠すくらいに伸びをしている。そんな黒のカーテンから覗く白い肌のコントラストが眩しい。
 ワンピースを布ベルトで引き締め、大人びた雰囲気と可愛らしさを共存させている欲張りなところも、想像してきた通りだった。

 これまで乙花に近しいシルエットの少女を描く時は、常に彼女が念頭にあった。乙花ならどんな表情をするだろうか。乙花ならどんな服を着ているだろうか。乙花なら、乙花なら、乙花なら……忘れようとするほど忘れられなかったものが、今の凪を作り上げている。

「色々話したいことがあったんだけど、全部飛んじゃったや」
「俺は飛んでないよ。もしももう一度乙花に会えたら、ずっと一番星を追いかけてきんだって話すつもりだった」
「知ってるよ。それにしては遅かったね、私の方が一年せんぱぁーい」

 ドヤ顔の上目遣いが覗き込んできた。こういう風に凪をからかう時、乙花はいつも前屈みになる。もちろん煽りのためというのが半分だろうけれど、その実、後腐れがないよう、きちんとこちらが反撃できるようにするためだということは知っている。
 少し遠くなった頭をとっ捕まえて掻き回してやると、乙花はわざとらしく「さいてー!」と叫びながら逃げ回った。

「でもそっか、乙花もここに通っていたのか。……まさか、あの日転校したのも?」
「ううん。はじめに発症したのはあの日の夜だけれど、ここに通うようになったのは昨年だからだよ」

 乙花の罪悪感に揺れる瞳が、わずかに、けれど逃げるように逸らされた。
 スターになるというゆびきりげんまんから、もう三年が経った。三年だ。つい数週間前に夢拍症候群を発症した凪よりもずっと長い間、彼女は戦ってきた。
 彼女は一年先輩と茶化してきたが、三年先輩だった。ようやく追いついたかと思えば、その背中は遙か彼方にある。まるで星のように、手が届きそうで届かない。

「あの時は、急にいなくなっちゃってごめんね」
「そんなこと――」

 気にしていないと言いかけた時だった。

「けほっ、げほっ!」

 乙花は苦しそうに顔を歪めて、その場にしゃがみ込んだ。
 咄嗟に翳した手の甲の向こう側で引き結ばれた唇が、嘔吐を堪えるように何度かしゃくりあげたかと思うと、ダメ押しの空咳によって血を吐いてしまう。

「ちょ、おい乙花、大丈夫か!?」
「……平気。ちょっと風邪気味なだけ」

 そんな風邪があるかと、凪は首を振った。幸いというべきか、出血量はそう多くなかったらしく、乙花が手の甲で拭っただけで紅のように唇に馴染んで消えた。

「風吹さん!」

 どこからともなく数人の白衣の大人が駆けつけてきた。あれがこの学校に配備されているという医療スタッフなのだろうか。
 しかし乙花は、彼らをまるで親の仇のようにキッと睨みつけた。

「来ないで!」
「しかし……!」
「まだ、ダメ……まだ全然、凪と話せてない!」
「乙花……」

 どうすればいいかわからなくなって、凪は立ち惑った。せめて背中を擦ってあげたいと思い姿勢を変えようとしたところで、わずかにつんのめる。
 乙花がこちらのズボンの裾を強く握り、声なき懇願をしていた。

「これは、今日凪が転入してくることを知っていたから、それに向けて発声練習を頑張り過ぎただけ! ただそれだけなの!」
「風吹さん、それ以上喋っては――」

 すぐ傍までやって来て、鞄から何かの器具を取り出し始めた医療スタッフの手を、乙花は乱暴に振り払った。

「私は絶対に死んでやらない。たとえこの命の華が散ろうとも、それを病気のせいになんてしてやるもんですか!」

 アスファルトを睨んだまま、自分に言い聞かせるように脂汗を堪えている。
 心の叫びは強くなっているのに、その声は目に見えて掠れ始めていた。これが彼女を蝕む夢拍症候群の症状なのだと、凪にも理解ができた。きっと今、彼女は想像を絶するものに襲われているはずだ。

「乙花。無理すんなって。診察受けよう?」
「……ごめん、見苦しいトコ見せちゃったね。凪に会えると思うと嬉しくて、ちょっと頑張り過ぎちゃった。いつもはこんな無茶しないんだよ? ほんとに」
「わかった、わかったから。同じ学校に通うんだから、焦らなくてもいいだろ」

 宥めようと肩にかけた両腕に、乙花の腕がツタのように絡まってくる。

「まだダメ。まだ、一個だけ……」

 こふっと咳をした乙花は、意地でも弱音を吐いてしまわぬように頬を膨らませて、強引に飲み込んでから、荒い息を押しのけるようにして顔を上げた。
 ツタがするするとほどけ、手のひらのところで重なる。

「今日からまたよろしく。一緒に、このクソッたれな世界で生きてやりましょう!」

 女子の細い手指とは思えないほど、強く強く、手を握り締められた。
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