上 下
12 / 16

鬼も元は人間だってことを分かってなかった

しおりを挟む
 鬼が出て、悪党もいるが、それを含めての江戸という街なのである。皆、慣れていた。危険でも生活し続ける度胸と忍耐が備わっていた。明日にはすべてを失うとしても、それを恐れたりはしない。そういうしなやかな強さを持つ街であった。
「春は、江戸は好きか?」
 霧人が訪ねる。
「ああ、俺の家族は全員が江戸の火事で死んだけど……ここから離れようとは思わなかった」
 生まれも育ちもずっと江戸で、憧れたものさえ江戸にあった。
 春は、江戸を離れた暮らしなど知らない。
 だから、ここを離れて暮らすなど考えたこともなかった。
「俺の姉さんも江戸が好きだった。俺の姉さんは、猫隊から火消に所属が変わったことを喜んでいた。これで、江戸中の人を守れるって。そんな姉さんのことが、俺が好きだったんだ」
 霧人の昔語りは、ありふれていた。
 幼いころ両親を亡くし、姉が猫隊に入って霧人を養ってくれていたこと。あまりに姉が厳しすぎて、鬼のようにも見えていたこと。それでも、祭りのときには手を引いて見物に連れて行ってくれていたこと。
 霧人の話は、ありふれた歳の離れた姉弟の話であった。
 誰もが持っていて、誰もがいつの間にかなくしてしまう幼少期の記憶。
 きっと鴉と朱雀も持っているであろう、兄弟の幼少期の記憶であった。
「そんな、姉を殺したのは俺だった」
 霧人は、そう宣言する。
 春は、霧人の言葉を上手く飲み込めない。
 そんな春の様子に、霧人は笑みをこぼす。
「だって、俺は姉を愛してしまったんだ」
 すべてをあきらめたように、霧人は笑う。
 その笑顔は、この世のすべてを無意味に肯定していた。もうこの世の些事に関わることなどないと、無責任に笑う。
「この世で一番姉が好きだったんだ。この世で一番愛しくて誇らしい、女性だった。もしかしたら俺が抱いたソレは男女のソレではなかったかもしれない。でも、姉はそうだと判断した」
 霧人の姉は、凛とした人であった。
 姉に情愛を向ける弟など許しはしなかった。弟の方は、それが情愛かどうかも分からなかったが。
「姉は俺を殺そうとしたんだ。姉が二十五歳で、俺が十五歳のときだ……。たぶん、それがあの時にできた姉さんの唯一の愛情表現だったんだと思う」
 霧人には、姉の殺意が理解できた。
 姉が何に怒っているかも理解できたから、あえて弁明はしなかった。殺されるつもりであったし、殺されても仕方がない実力差であった。
「でも、本当は嫌だったんだ。俺は、姉さんを愛していた。殺されたくなかったわけじゃない。姉さんだって、俺を愛していたんだと思う」
 あの人は俺を殺そうとしたときに泣いていたんだ、と霧人は言う。
 殺されたくない、と思った。
 愛したい、と願った。
「その時、胸の鬼火が熱く燃えたんだ。その炎をあまりに熱くて、俺がそのとき抱いていた感情を全て燃やしつくした」
 そのとき、初めて霧人は鬼になったという。
 姉に殺されないために。
 生きて姉を愛し続けるために。
 霧人は鬼になった。生きたい、愛したいという思いが霧人の胸の鬼火を燃やして鬼となり、霧人は姉を殺した。普通であれば霧人は、鬼として他の火消に退治されていたであろう。だが、霧人は人間に戻ることができた。
「春、鬼が人間に戻ることは意外と難しくはないんだ。姉さんが昔言っていた。鬼から人間に戻った奴がいるって、そいつのことが頭にあったから戻れたのかもしれない」
 霧人は、唖然としている春を見る。
 団子にまったく手を付けられないでいる春に、霧人は自分の分も進める。
「ここの団子は美味いよな」
「……今の話は、本当なのか」
「嘘をつく理由は、一つもない」
 たしかに、そうなのである。霧人が鬼であると告白することは、霧人の利益にはならない。だからといって、霧人の話が全て本当だとは思えない。
「信じられないか。なら、証明を一つ。俺は鬼になったときに、愛という感情を燃やして失った。だから、俺はもう愛が分からない。それでも、ときより愛が知りたくてどうしようもなくなる。いや、違う。今もこの胸に愛があるのを証明したくてたまらなくなる」
 ゆるり、と霧人は立ち上がった。
 そのとき、春には思い出したことがあった。
「朱雀隊の隊長が……鬼から人間に戻った奴は、失った感情に固執するって」
「そうか。案外、あの人当たりが鬼から人に戻ったっていう人なのかもな」
 そんなわけはないかもしれないけれども、と霧人は言う。
「春、俺は惚れると人を殺したくなる。いいや、違う。俺にとっての愛情表現は、殺すことなんだよ。姉さんが、俺に施してくれたことだから。だから、俺はそれを信じて殺している。……出没していた女辻斬りは、俺なんだよ。俺は惚れた女への愛を証明していただけなんだよ」
 霧人は刀を抜き、春に切りかかろうとした。
 咄嗟に春は鉄砲を持ち、霧人の刀を防ぐ。定火消同士の争いに、周囲の客は呆然としていた。春は、彼らに被害が及ぶことを恐れる。
 霧人の実力は、おそらくは春よりも上。
 しかも、霧人の話を信じるならば彼は鬼になることもできる。
 春一人では太刀打ちできないし、戦うべきではない。すぐに逃げて、応援を呼ぶべきだ。しかし、それだけはできないと春は思った。逃げることが最良の手段だと分かっているのに、それだけはできないと思った。
 ここで春が逃げたら、この場にいる全員を危険にさらす。
 町人ばかりの団子屋で霧人と戦えるのは、唯一春だけである。
 だから、逃げてはならない。
「おい、おまえ! さっきはよくもやってくれたな」
 霧人が先ほどの伸した小悪党が、春たちを見つけて小走りでやってくる。春は、霧人の視線がそちらに向いたことを確認した。
「逃げろ!」
 春は叫ぶが、小悪党たちには伝わっていない。
 そもそも彼らには、春の事情も霧人の事情も理解できないであろう。だから、春の「逃げろ」という叫びも伝わるはずがないのだ。
「くっ――」
 春は、霧人を見た。
 救いたい、と思った。
 霧人ではなく、霧人の脅威にさらされるすべての人々を。
 救いたい、と春は切に願った。
「あっああああっっ!!」
 渾身の力で、春は霧人に向かって銃を振りかぶる。構える時間は与えられないだろう、刀を抜く時間も与えられないだろう、ならば構えている鉄砲を刀代わりにした方がいい。春は、そう判断した。それに面食らったのは、霧人であった。
 初手で、春は鉄砲を構えて霧人の刀を防いだ。
 それは咄嗟のことで、春は次の手のことなど考えていなかったであろう。だから、攻撃に移るときは刀に持ち替えると霧人は思っていた。だが、春はそうしなかった。鉄砲を振りまわせば暴発の可能性がある。だが、春はそれを恐れなかった。
 いいや、違う。
 暴発を恐れなかったのではない。
 その可能性を考えて、あえて恐れることを止めた。霧人とできるだけ優位に戦い、周囲の人々を守るために春は自分の危険を顧みずに鉄砲を刀のように使った。
「春……おまえは、本当に」
 自らに襲ってくる春の鉄砲を刀で受け止めながら、霧人は目を細める。霧人という敵から周囲の人々を守るために、春は鉄砲の暴発という不の可能性を抱えることを良しとした。そして、それを後悔などしなかった。
 霧人が敵に回った事実にさえ、春はすぐに受け入れた。
「火消の才能、あるぞ」
 霧人の言葉に、春は一瞬言葉を失った。
 だが、すぐに攻撃に転じる。
 春と霧人の攻防戦の異様さに、周囲の人間が逃げはじめる。春はその様子を横目で確認する。周囲に人がいなくなれば、春は逃走するつもりであった。
 火消としての実力は、霧人の方が勝っている。
 勝負が長引けば、必ず霧人が勝つ。
 その前に撤退し、自分は――助けを求めに行かなければならない。
「おまえら、何身内で争ってやがる!」
 春は、目を丸くした。
 小悪党が逃げていない。
 彼は、春と霧人が過激な喧嘩をしているとしか思っていない。自分を無視し、仲間同士で争う馬鹿者たちとしか思っていない。
「にっ、逃げろ!霧人は……消え鬼なんだ!!」
 このまま小悪党に居すわられたら守れない。
 そう判断した霧人は、真実を叫んで小悪党に逃げて欲しいと懇願した。
「……そういうことだったのですか」
 静かな声が響いた。
 次の瞬間に、霧人の腕に弓矢が刺さった。
 その古風な武器の登場に、霧人も春も言葉を失った。遠距離用の武器として鉄砲が主流となった江戸では、弓は教養用の武器としかみなされないお飾りだ。だが、その武器の扱いに長けた人物を春も霧人も一人だけ知っている。
「青龍隊長……」
 春は、呟く。
 自分の背後には、弓を構える青龍がいた。
「往来で喧嘩をしている定火消が二人いると聞きましたが……まさかこういうことになっているとは」
「先生……」
 春は、弓をつがえる青龍を見つめる。
 青龍隊の隊長は、教師としての才能を重要視される。隊長になる前の青龍は、他の面々とは違って弓矢を得意とする火消であった。だが、隊長になってからは青龍は弓矢を捨てた。他者に教えるには、弓矢は不適切だと分かっていたからである。
 弓矢を扱える火消を作るのには、労力がかかる。
 腕力、集中力、風向きの計算、そのすべてを肉体に叩きこまなければならない。だが、鉄砲はそれを短縮させる武器だ。定火消のなかに弓矢は不要、と判断した青龍はあえて自分の得意武器を捨てた。
 その青龍が、弓矢を持ち出してきた。
 彼も、消え鬼の事件の早期解決を望んでいたのだ。
 だからこそ、自らが最も得意な武器を持ち出してきた。 
「あなたは、亡き先代の弟。悪いですが、あなたが消え鬼であると民衆に知られれば青龍隊の信用が失墜する。あなたには、ここで死んでもらいます」
 青龍の弓矢が、霧人を狙い撃つ。
 だが、その矢は当たったが致命傷にはならなかった。
 霧人の肉体が大きく変化し、鬼の姿となったからだった。
 青龍はさらに弓をひこうとするが、手を止めた。青龍の腕でも消え鬼の目を狙うことはできる。だが、青龍と春だけではその後のことができない。鬼に止めを刺すには、あまりにも武力がたりない。
「一度引きます。春、あなたも撤退を!」
「先生!!」
 春は、青龍を呼んだ。
「霧人のこと……なんとか穏便にすることはできないでしょうか?」
 春の言葉に、青龍は首を振る。
「霧人は、消え鬼でした。それだけで、討伐すべき悪です」
 青龍の言葉は、定火消としては最もであった。しかも、霧人は女辻斬りであったとも告白している。二重の罪は、決して許されていいものではない。
「春――逃げましょう」
 できれば、春はその場に残りたかった。
 残って、霧人を見届けたかった。
 だが、それもできないと分かっていた。
「……はい、先生」
 春は、霧人に背を向ける。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

勇者無双~魔王と神を倒して美女と過ごす日々~

 ・
ファンタジー
異世界に行った主人公 俺はトラックにはねられ死亡☆気付けば異世界に。 やれやれ軽くチートで無双していくか

元勇者は魔力無限の闇属性使い ~世界の中心に理想郷を作り上げて無双します~

桜井正宗
ファンタジー
  魔王を倒した(和解)した元勇者・ユメは、平和になった異世界を満喫していた。しかしある日、風の帝王に呼び出されるといきなり『追放』を言い渡された。絶望したユメは、魔法使い、聖女、超初心者の仲間と共に、理想郷を作ることを決意。  帝国に負けない【防衛値】を極めることにした。  信頼できる仲間と共に守備を固めていれば、どんなモンスターに襲われてもビクともしないほどに国は盤石となった。  そうしてある日、今度は魔神が復活。各地で暴れまわり、その魔の手は帝国にも襲い掛かった。すると、帝王から帝国防衛に戻れと言われた。だが、もう遅い。  すでに理想郷を築き上げたユメは、自分の国を守ることだけに全力を尽くしていく。

対人恐怖症は異世界でも下を向きがち

こう7
ファンタジー
円堂 康太(えんどう こうた)は、小学生時代のトラウマから対人恐怖症に陥っていた。学校にほとんど行かず、最大移動距離は200m先のコンビニ。 そんな彼は、とある事故をきっかけに神様と出会う。 そして、過保護な神様は異世界フィルロードで生きてもらうために多くの力を与える。 人と極力関わりたくない彼を、老若男女のフラグさん達がじわじわと近づいてくる。 容赦なく迫ってくるフラグさん。 康太は回避するのか、それとも受け入れて前へと進むのか。 なるべく間隔を空けず更新しようと思います! よかったら、読んでください

けだものだもの~虎になった男の異世界酔夢譚~

ちょろぎ
ファンタジー
神の悪戯か悪魔の慈悲か―― アラフォー×1社畜のサラリーマン、何故か虎男として異世界に転移?する。 何の説明も助けもないまま、手探りで人里へ向かえば、言葉は通じず石を投げられ騎兵にまで追われる有様。 試行錯誤と幾ばくかの幸運の末になんとか人里に迎えられた虎男が、無駄に高い身体能力と、現代日本の無駄知識で、他人を巻き込んだり巻き込まれたりしながら、地盤を作って異世界で生きていく、日常描写多めのそんな物語。 第13章が終了しました。 申し訳ありませんが、第14話を区切りに長期(予定数か月)の休載に入ります。 再開の暁にはまたよろしくお願いいたします。 この作品は小説家になろうさんでも掲載しています。 同名のコミック、HP、曲がありますが、それらとは一切関係はありません。

異世界で穴掘ってます!

KeyBow
ファンタジー
修学旅行中のバスにいた筈が、異世界召喚にバスの全員が突如されてしまう。主人公の聡太が得たスキルは穴掘り。外れスキルとされ、屑の外れ者として抹殺されそうになるもしぶとく生き残り、救ってくれた少女と成り上がって行く。不遇といわれるギフトを駆使して日の目を見ようとする物語

アイテムボックス無双 ~何でも収納! 奥義・首狩りアイテムボックス!~

明治サブ🍆スニーカー大賞【金賞】受賞作家
ファンタジー
※大・大・大どんでん返し回まで投稿済です!! 『第1回 次世代ファンタジーカップ ~最強「進化系ざまぁ」決定戦!』投稿作品。  無限収納機能を持つ『マジックバッグ』が巷にあふれる街で、収納魔法【アイテムボックス】しか使えない主人公・クリスは冒険者たちから無能扱いされ続け、ついに100パーティー目から追放されてしまう。  破れかぶれになって単騎で魔物討伐に向かい、あわや死にかけたところに謎の美しき旅の魔女が現れ、クリスに告げる。 「【アイテムボックス】は最強の魔法なんだよ。儂が使い方を教えてやろう」 【アイテムボックス】で魔物の首を、家屋を、オークの集落を丸ごと収納!? 【アイテムボックス】で道を作り、川を作り、街を作る!? ただの収納魔法と侮るなかれ。知覚できるものなら疫病だろうが敵の軍勢だろうが何だって除去する超能力! 主人公・クリスの成り上がりと「進化系ざまぁ」展開、そして最後に待ち受ける極上のどんでん返しを、とくとご覧あれ! 随所に散りばめられた大小さまざまな伏線を、あなたは見抜けるか!?

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

婚約破棄されたあたしを助けてくれたのは白馬に乗ったお姫様でした

万千澗
ファンタジー
魔女の国――ユリリア国。 住んでいるのは女性だけ、魔法と呼ばれる力を扱う存在。 エネミット王国の孤児院で育ったあたしは伯爵家の使用人として働いていた。 跡取りのウィリアムと婚約を果たし、あたしの人生は順風満帆。 と、思っていた。 それはたった一夜で壊れていく。 どうやらあたしは”魔女”と呼ばれる存在で、エネミット王国からすれば敵となる存在。 衛兵から必死に逃げるも捕まったあたしは王都へと護送される。 絶望に陥る中、現れたのは白馬に乗った一人の少女。 どうやら彼女も魔女であたしを助けに来てくれたみたい。 逃げるには護衛を倒さないといけない。 少女は魔法と呼ばれる力を使って無力化を図る。 でも、少女が魔法を使うにはあたしとの”口づけ”が必要で――――。 ※小説家になろうでも連載中です

処理中です...