夜明け待ち

わかりなほ

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星逢のゆふべ

老紳士の話 Ⅲ

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 じりじりする六月が終わり、遂に迎えた七月七日。私は自分のコンディションも影響すると考え、前日の夜は沸き立つ心を押さえ込み、よく眠るようにしたのだ。

朝、目覚めて身支度を整えると時計は七時丁度を指していた。

深呼吸をし、引き出しからハンドベルを取り出す。青年の言った言葉をもう一度復唱し、目を閉じる。
強く強く彼女の姿を思い浮かべた。茶色く染めた短い髪。朗らかな笑顔。もみじ茶のおかげなのかその姿は鮮明に思い出せた。
「…秋子」
名を呼び、三回ベルを振る。リン、と澄んだ鈴の音が異様に響いた。

リン、リィン、リィィィン。

鈴の音色は余韻を残し部屋中に広がっていく。遠くから鈴の音が近づいてくるような感覚に陥る。

リン

突然耳のすぐ傍で鈴の音色がした。

ビクリとして目を開け、私は息を呑んだ。
目の前に立っているのは、一人の女性だ。見慣れた茶髪と軽やかな赤いワンピース。その服は彼女が最も気に入っていたものだった。
閉ざされていた女性の瞳がゆっくり開く。女性は、花が咲くように笑った。
「…ミノルさん」
「…秋、子、なのか?」
「うふふふ。嫌だわ。しばらく会わないうちに私を忘れてしまうなんて。お久しぶりね」
あぁ。彼女だ。目の前には紛れもなく愛した妻がいた。
「忘れていた訳、ないだろう。秋子」
「綺麗な鈴の音がして、見事につられてしまったの。一体その可愛いハンドベルはどこの?」
妻は少女のように無邪気な色を瞳にのせ、興味津々とばかりにこちらを見つめてくる。
「黎明堂という雑貨店にあったんだ。魔法道具が置いてある…」
コレは夢なのでは無いだろうか。ふわふわとした思考のまま黎明堂のことを話す。最後まで話を聞いた秋子は勢いよく私の手を握った。
「まぁ素敵!そんなお店があるのね」
握られた手が温かくて、唐突にコレが夢で無いと悟った。堰を切ったように涙がいくらでも溢れ出す。
「会いたかったんだ。本当に。本当にお前と会いたかった!」
「えぇ。そうね。私も貴方と会いたかったわ。ほら、せっかく会えたのだから笑顔も見せて下さいな」
そう言われても流れたものは容易く止められない。だけど秋子の願いは叶えたくて、何とか口元だけ笑みの形にした。きっと情けない表情だっただろう。でも、秋子は嬉しそうに私の手を握り揺らす。
「ただいま。ミノルさん」
「お帰り。秋子」






 少し落ち着いて、一緒に朝食を食べた。私の作った味噌汁を秋子は美味しそうに頬張る。
「美味しいわ。貴方って意外とマメだものね」
「マメってほどじゃないだろう」
「そうかしら。ねぇ、覚えてる?私が足の骨を折って入院してたとき、貴方料理もしたし、掃除もよくしてくれたでしょ。エアコンも業者さんに頼んでまでクリーニングしちゃって。しかも、私の退院に合わせてクリーニングが終わるようにまでしてくれて」
「せっかく退院したんだから、綺麗な空気の方が良いと思ったんだ」
「その通りね。でも、そういう風に考えてくれるのが嬉しかったのよ。私、愛されてるなぁって思ったもの」
軽やかに笑う妻にこちらも笑い返す。
「ミノルさん。せっかく会えたのだし、どこかに行きましょうよ。今の私はとっても元気ですからね」
「どこに行きたいんだ?」
「たくさんあるわ。箱根に温泉旅行にでも行きたい所だけど、神様が与えて下さった時間は今日一日限りなのでしょう?そうしたら一日で行けるところね」
「じゃあ、朝顔を見に行こうか。それでお茶屋さんでかき氷でも食べよう」
「それはもしかして、公園?」
秋子は、どこに行くか察したようだ。頷き返せばくすくすと笑う。
「良いわね!」


 公園に着くと、たくさんの朝顔が並んでいた。紫・青・赤紫。どれも綺麗なものばかりだ。無料で和傘が借りられると聞き、日よけに二本借りようとすれば秋子に止められる。
「一本でいいじゃない。こうすれば」
そう言うなり、秋子は私の傘にするりと潜り込み、腕を組んできた。
「はは。そうだね」
それを受け入れ、互いに身を寄せ合いながら公園を歩く。朝顔の花に指先で触れ、その蔓をくるくると弄ぶ指先が懐かしい。
「私は白い朝顔が好きだわ。あふれる喜びって花言葉があるもの。喜びは多い方が良いでしょ?」
弾むような足取りで彼女が歩くものだから私もつられてしまう。
「そうだな。俺は赤かな」
「どうして?」
「うーん。明るい感じがするからね」
「貴方らしいわね」
秋子は嬉しそうにけらけらと笑う。
「…後は、はかない情熱的な愛って花言葉があるから、かな」
ちらりと視線を送れば、秋子の頬にも紅が差した。
「ミノルさん。いつの間にそんな気障なこと言うようになったの?花言葉なんて全然興味なかったじゃない」
「…秋子がいなくなった後、お前が大事にしていた植物辞典とかを読み返してたんだ」
「とっておいてあるの…?」
「捨てられないんだよ。捨てたくなかったしね」
ぎゅっと秋子が私の腕に回していたに力を込めた。
「…ごめんなさい。先に行ってしまって」
「本当さ。秋子は非の打ち所が無い立派な嫁さんだけど、俺より先に行ってしまった所だけが短所かな」
そんな言葉を聞いた秋子は泣き笑いのような表情をする。私も笑い返した。
「ねぇ、貴方。私、白い朝顔が好きだけど、今はピンクの朝顔の気分だわ」
「…うん。俺もだよ」
また軽く笑い合うと、ゆっくりと進んでいく。
「あ!ねぇ、ミノルさん、見て見て!キノコよ」
その声に応えるように視線を落とせば、花々が咲く足下にふくふくした形のキノコがあった。まるでどら焼きだ。
「可愛いわね。ミノルさん、これ何キノコか分かる?」
「…チチアワタケとか?」
「きっとそうね!」
そう言えば、黎明堂に向かう階段にあったのは何のキノコだったのだろう。ふとそんなことを思った。

歩き疲れて公園内の茶屋に入る。前と何も変わっていない外の椅子に、二人で向かい合って座った。
「私はやっぱり、みぞれかき氷ね」
「本当に好きだなぁ。その味」
「この頃はみぞれ味のかき氷を売っている屋台なんてとんと見かけないじゃない。こういうちゃんとしたお茶屋さんとか専門店じゃないとなかなか食べられないのよ」
「確かにそうだね」
そう返し、自分のかき氷にスプーンを差し込んだ。しゃくしゃくと涼しげな音がする。
「ミノルさんは相変わらず梅味ね」
「さっぱりしてて美味しいんだよ」
そっと自分のかき氷を差し出すと、秋子は嬉しそうに一匙掬った。
「こっちもどうぞー」
「ありがとう」
そして私も、みぞれのかき氷を一匙掬い口に含む。素朴な甘さが舌を撫でた。ふふ、と笑い声が零れてしまう。そして梅のかき氷も食べると、今度は甘酸っぱい味が広がる。
「あー美味しい」
「うん。旨いね」
優しく口に広がる甘さ。頬を撫でる風。ふわりと薰る朝顔の匂い。そして、目の前で太陽のような笑顔を浮かべる妻。何て幸せなのだろう。いっそ、このまま。
「駄目よ」
不意に投げられた言葉に弾かれたように顔を上げる。目の前の妻が、悲しそうに微笑む。
「駄目。このまま死にたいなんて思ってはいけませんよ」
聞き分けのない子どもを諭すような声色だった。
「思って、ないさ」
「それならいいの。…ミノルさんはね、まだまだ色々なものを見て生きるべきよ。私の時間は止まってしまったけど、貴方の時間はまだ動いている。動いている限りは、何かやらなきゃいけないことがあるってことだと私は思うの。だから、無理矢理それを止めたら駄目なのよ」
「でもさ、分からないんだよ。俺がこれからやるべきことなんて」
「そんなことないわ。きっと見つかる。…でも、そうね。どうしても分からないなら、私の行きたかった所に行くっていうのを『やるべきこと』にしてよ。もし貴方が本当にやりたいことが見つかったなら、止めてもいいから」
ははは、と私は声を上げて笑った。
「それはなかなか骨が折れそうだ」
「そうよ。頑張って下さいね」
そして家路についた。




 家に着くと日が落ち始めていた。
「今日は良い天気だったから、天の川も見えるかもな」
夕食の準備をしながら、そんな話をする。
「そうね。私とミノルさんが会えたんだもの。織姫様と彦星様も会えなきゃあんまりだわ」
「確かにそうだ」
割烹着姿の秋子がすまし汁の出汁を取る背中が、もみじ茶で呼び覚まされた思い出と重なる。私も手元でちらし寿司をこしらえる。
そして完成した夕食を二人で食べた。そんな日常だった風景が愛おしくて仕方ない。

夕食を食べ終えた秋子が縁側へ出る。
「わぁ!すごいわよ。ほら!」
「これは…絶景だ」
空には銀糸を注ぎ込んだような見事な天の川が浮かぶ。さらさら揺れる空に吸い込まれそうだ。その川を挟んで、ベガとアルタイルがくっきり光る。
「こんな天の川、私、見たこと無かったわ」
「あぁ。俺も初めて見た」


そっと秋子が私の肩に身を寄せる。柔らかい茶髪が首元をくすぐった。

「…ミノルさん。あの時も言ったけれど、やっぱり私、貴方と結婚してよかったわ」

目を見開く。病室で彼女が言った最後の言葉。

「秋子」
「はい」
隣に座る彼女の目を真っ直ぐ見つめた。
「俺もだ」
驚いたような表情が返される。
「俺も、お前と結婚してよかった。本当によかった」
秋子の手をぎゅっと握る。夜の肌寒さのせいか彼女の手はもうひんやりとしていた。それが、別れの時間が差し迫っていると思い知らせてくるようで、ますます力を込める。
「ずっと、そう返したかった!俺は、あの時のお前の言葉が遺言みたいで怖くなったんだ。まともに返すことができなかった。俺は、そのことをずっと後悔してるんだよ」
治まっていたはずの涙がボタボタと服に染みこむ。
「だから、この呼び出しベルを黎明堂の店主さんから貸して貰ったんだ。もう一度会えたら絶対にちゃんと思いを伝えようって…!」
必死に言葉を重ねた。
「…なぁ秋子。俺こそ、お前と会えて良かった。秋子の最後の言葉を受け止めて返すことができなくて、本当にすまなかった。すまなかったなぁ…。秋子」
ふわりと頬をひやりとした手に包まれた。秋子はあの朗らかな笑顔のままで私を見ていた。
「ミノルさん」
「…ん?」
「大丈夫ですよ。謝ることなんてない。ちゃーんと分かってました。貴方が私を愛してくれていたこと。口にしなくてもミノルさんの思いは伝わっていました。貴方が怖くなってしまっていたのも分かっていました。でも、そういう少し弱虫な所も、私にとっては愛おしかった。臆病で、不器用で、でも、愛に溢れた貴方の妻となれた私は本当に幸せでした」
秋子が私を引き寄せそっと抱きしめた。耳元で優しい声が揺れる。
「ありがとう。思いを伝えに来てくれて。それだけで私はもう十分。十分です」
私も必死に彼女の背中に手を伸ばした。
「秋子、いつも明るくて太陽みたいなお前を妻に出来た俺の方こそ幸せだったよ。俺をずっと照らしてくれてありがとう」
「はい。どういたしまして。貴方こそ、私を照らしてくれてありがとう」

少しずつ、どこまでが自分の身体か秋子の身体か分からなくなってくる。

「もう、お別れかな」
「えぇ。お別れです」

ならば、せめて笑顔で彼女を送り出すのだ。あの言葉で。

「秋子。行ってらっしゃい」
「はい。ミノルさん。行ってきます」


リン、と澄んだ鈴の音がした。


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