夜明け待ち

わかりなほ

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星逢のゆふべ

老紳士の話 Ⅰ

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あの人が居なくなってから、どれくらいの月日が経ったのだろうか。傍に居ることが当然だった彼女が消えてから、私の時間は止まっている。

「ちょうど今日で一年かな」
私は、仏壇で微笑む写真にそう声をかけた。
『ええ、そうね。ミノルさん』
そんな風に返ってくる言葉はやはりなく、空しい静寂だけが広がっていく。ため息を零す。
梅雨時にしては珍しい晴れた日。私は杖をつき散歩に出かけた。

いつもの散歩道。『皐月公園』という名の公園の遊歩道を歩いていると、木造の階段が横道に伸びていた。
その階段の横に小さなきのこが生えている。
「…きのこか。こんな所に生えているんだな」
少しかがみ込んでみれば、今やっと地面から出たばかりのような赤いきのこがあった。
『ねぇ、これはタマゴタケっていうらしいの。食べられるそうよ』
ふと、彼女の声を思い出した。あの人は植物辞典とかきのこ辞典とかをめくるのが好きだった。家に帰ったら辞書をめくって調べてみようか。一段ずつ階段を上っていくと猫の声が聞こえた。顔を上げると、小さな黒猫がいつの間にか二段ほど先にいた。鍵尻尾が揺れている。ぼんやり眺めれば不意に猫がこちらを振り返った。
「おっと。ごめんよ。驚かせてしまったね」
綺麗な緑の瞳にしばし見とれていると、猫はさっさと先に歩いて行く。何となく猫を追って歩いて行けば、木造の階段が石畳に切り替わり、突然開けた場所に出た。目の前には全体が灰色の四角い建物が現われる。窓からはオレンジの灯が漏れていた。
「新しい店かな?」
猫は、建物の脇に足早に向かい見えなくなった。入り口らしき所には「黎明堂」という文字が彫ってある。
あまり店名として使われなさそうな言葉に興味を惹かれ、そっとノブに手を掛ければ見た目の重厚さとは裏腹にドアは、いともたやすく開いた。

入ってすぐ、真正面にそびえ立つ、本がぎっしりと詰まった背の高い棚に呆気にとられてしまう。
「こんにちは」
「…あぁ!こんにちは」
急に店内からかけられた挨拶に慌てて返す。声をかけてきたのは一人の青年だった。彼が店主だろうか。くすんだ緑の瞳が静かにこちらを見つめている。珍しい色だ。外国の血が混ざっているのだろうか?
「ここは、何のお店なんでしょうか?」
すると青年は少し考えるような仕草をした。
「雑貨店、といった所ですかね」
「ん?単なる雑貨店という訳では無いのかい?」
「色々なものを売ってるので。とりあえずお茶でも飲まれますか?」
「おぉ。ありがとうございます。それじゃあ頂きます。お代はいくらでしょうか?」
「特にお代は頂いてませんので、どうぞ座って待っていて下さい」
それだけ言い残すと青年は軽くお辞儀をして、一度奥へ姿を消した。座り心地のいい椅子に腰掛けると思わずため息が出た。こんな所で身体の衰えを感じるとは思わず、苦笑が浮かんだ。
「お待たせしました」
程なくしてお盆に載った緑茶と饅頭が置かれた。会釈を返すと青年もお辞儀をし、ごゆっくりどうぞという常套句を口にする。
出されたお茶は、うっすら紅色をしている。紅茶のようにも見えたが口に含むと、少し渋い緑茶のような風味が広がった。
「これは、何のお茶なんですか?」
「もみじ茶となっております。当店オリジナルメニューの一つです」
「もみじ茶!初めて聞いたよ。美味しいです」
「気に入って頂けて嬉しいです。ありがとうございます」
微かに青年が笑った。ゆっくりとお茶を味わっていると、何かが込み上げるような妙な気分になる。パッと突然フラッシュバックしたのは、こちらを振り向く「彼女」の笑顔だった。

買い物かごを持つ姿。台所に立つ背中。縁側に座りそっと俯いて花に触れる指先。

彼女との思い出など、たくさんあった。温泉旅行も行った。出歩くのが好きだった彼女はよく私の前にパンフレットを広げ、「ここに行こう」と腕を引いてくれた。私は面倒そうな顔をしたかもしれない。でも最後には私が車を運転し、彼女の行きたいところへ連れて行った。

なのに、今思い出すのは、彼女を亡くしてからモヤがかかっていたように私の頭に存在していた日常の風景だ。それが、不意に鮮明に思い出された。


『ねぇ、ミノルさん』
耳の奥で彼女の声が響く。白い病室。またなと言った私を呼び止め、彼女ははにかんだように微笑み言った。
『私ね、ミノルさんと結婚してよかったわ』


「…秋子」
ぽそりと呟くのと同時に、何かが頬に流れた。慌てて手で触れれば私は泣いていた。ハンカチでさっと拭う。
「大丈夫ですか?」
青年がこちらを真っ直ぐ見つめていた。不思議な色の瞳に吸い込まれる心地がする。
「…あぁ…!すみません。大丈夫ですよ。全く。大の男が年甲斐もなく。お恥ずかしい」
「…何か、思い出されましたか」
「え…?」
何で、それを。なぜ彼は私の心を見抜いたのだろう。
「どうして、分かったんだい?」
素直に口から疑問が零れた。
「驚かせるようですみません。ここは雑貨店なんですが、普通の雑貨店では無いんです」
「といいますと…?」
「今、ミノルさんに飲んで頂いたのはもみじ茶ですが、それにはちょっとした秘密があります。飲んだ方にとっての大切な思い出を呼び覚ますという」
呆気にとられた。普通なら、何を言っているんだと突き放す所だ。だけど、まさに今、思い出を呼び覚まされた身としてはそれを否定できない。この場の雰囲気がそうさせないのか、私は妙に附に落ちた気分になった。
「つまり、ここは、特殊な力を秘めたものを扱っているお店ということかな?」
「大体その通りです。ここは、いわゆる魔法道具を扱う雑貨店。例えば、この本は勝手に最近の情勢を記録します」
先ほどまで彼が眺めていた黒革の本のようなものを見せられる。そして、あっと声を漏らした。その本の上には自動的に文字が浮かんでは消えている。そこにあったニュースは、まさに私が朝刊で読んだ事柄だった。
「とても便利なんだね」
「そうですね。非常に実用的かと」
不思議な雑貨屋の店員から出た「実用的」という如何にも現実的な言葉に声をあげて笑う。饅頭を口に含む。これも絶品だ。店の雰囲気にあてられたのか、抵抗なく言葉が口から溢れ出す。
「…私はね、一年ほど前に妻を亡くしている」
こくりと青年は頷き返す。
「明るくて素敵な女性だった。植物が好きで出歩くのも好きだったんだ。…でも、急に癌になってしまったんだよ。彼女は持ち前の明るさで戦っていたけど、病気には勝てなかった。彼女が亡くなってから、どうしたら良いか分からなくなってしまったんだ。太陽みたいに明るくて私の腕を引いてくれたあの人を失って、自分の道が見えなくなった。呆然として過ごしていた。葬儀を終えて、やっと頭が回るようになってからは、彼女がもういないという事実だけが押し寄せてきて泣いてばかりいたよ。ははっ。大の男が泣き喚くなんてみっともないと分かっていたけど、どうしようもなく悲しくてね。そのうち何で私より先に死んだんだと恨むような気持ちにもなってしまった。私も早く彼女の元へ行きたいとすら思った」
「奥様をたくさん愛していらしたんですね」
「そうだねぇ。本当に素敵な人だったんだ。彼女の欠点は私より先に死んでしまったことくらいかな。そうやって過ごしていく内に、一緒に行った旅行とか病室での別れとかの記憶だけがはっきり残って、彼女の居た日常の記憶にはどんどんモヤがかかっていくんだ。でも、今日、思い出すことが出来た」
静かに私の話に耳を傾けていた青年に目を向ける。
「ありがとう。大事な思い出を呼び覚ましてくれて」
「いいえ。少しでもお役に立てたなら何よりです」
「少しどころじゃありませんよ」
そんな私の返答に、青年はまた小さく笑い、包みを差し出した。
「もみじ茶のティーバッグです。よろしければ」
「良いのかい…?」
「ここは、そういうお店なので」
「…ありがとうございます」
頭を下げ、お店を後にした。店を出ると、行きに会った黒猫がこちらを見つめ、にゃあと鳴く。
「おや。ねぇ君。ありがとう。このお店に導いてくれて」
顎辺りを撫でると、ぐるると気持ちよさそうに目を細め、黒猫は店の裏手へ入っていった。





家に帰り、夕食を済ますと、もみじ茶の包みを開ける。戸棚の夫婦湯飲み茶碗を取り出し、二人分のお茶を用意する。そして一方を仏壇に供えた。
「秋子。今日は不思議な雑貨屋さんを見つけたんだよ。思い出を呼び覚ますもみじのお茶なんかを売っているんだ。色々な本を読みあさっていた君ならきっと気に入るだろうな」
そう話しかけ、もみじ茶を飲んだ。そっと目を閉じれば、あの日の記憶が呼び起こされていく。



病室の窓からは、夕日が差し込んでいた。妻の身体はもうかなり弱ってしまっていて、ベッドから起き上がることも難しくなっていた。だけど、彼女はそんな時でも朗らかな笑顔を絶やさなかった。
「明日もまた来るよ。何か欲しいものはあるか?」
「ふふふ。それ、昨日も聞いてたじゃない。そんな毎日欲しいものなんて無いわよ」
彼女の言う通り、私は昨日も同じ事を聞いていた。そして今日、妻がほしがっていた花を持って見舞いに来ていたのだった。
「すまない。…あぁ、そうしたら旅行のパンフレットでも持ってこようか。お前が退院した時の為に、行く場所を考えておくのはどうかな」
誰が見たってそんな未来が私たちに来ないのは明白だった。でも、この頃の私は何とか未来に繋ごうと必死だった。未来の話を想像であってもしていれば、妻の病気もいつか治ると、半ば願掛けのようなものだった。
「あらあら。あんなに出不精だった貴方がそんなこと言うなんて。でも素敵ね。それが良いわ」
「分かった。じゃあ、またな」
「…ミノルさん」
不意に彼女が私を呼び止めた。
「うん?」
「私ね、ミノルさんと結婚してよかったわ」
はにかんだように微笑みながら彼女はそう言った。
なぜ。どうしていきなりそんなことを言い出すのか。そんなの遺言みたいじゃないか。だから私は、それを正面から受け取ることが出来なかった。
「急にどうしたんだ。そんなこと言い始めて」
「言いたくなっただけよ」
「…そうか」
それだけ言った私は、ろくに妻の顔も見ず「また明日な」と言い残し、病室から出た。
「えぇ。また明日」と返した彼女は、あの時、どんな顔をしていたのだろうか。
妻と言葉を交わしたのは、それが最後だった。



気がつくと、もみじ茶は空になっていた。
「秋子。あの時のことを、私はずっと後悔しているんだよ」
あの時。どうして「私もお前と結婚して良かった」という一言を言えなかったのだろう。

もう一度会えたなら、いくらでも思いを伝えるのに。




〈黎明堂 雑貨メモ〉
『もみじ茶』:飲んだ人物の大切な思い出を呼び覚ます。店主オリジナルメニュー
『黒革の記録本』:最新情勢を自動的に記録する本









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