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花と毒
凶報、至る
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「遁げるつもりか?」
クルスローから北西へ延びる街道脇の、背の高い茂みの中から掛けられた声に、振り向きながら応える。
「……遅かったな。昼寝でもしていたのか?」
声を掛けた方、貴族の従者風の身なりをした冴えない風貌の小男は、そんな軽口には取り合わず、背後の茂みの奥の方へ顎を振る。
そんな目立つ所にいるんじゃない、こっちへ来い、と。
声を掛けられた方の、旅の埃に汚れた行商人風の男は、一度肩をすくめただけで大人しく従った。
往来のある街道から充分に離れた辺りで、小男は足を止めて振り返り、厳しい眼つきで睨みつける。さきほどの問いに答えよ、と。
「どうせ一部始終見ていたのだろう? やつらには隙が無い」
偽行商人は、悪びれもせずに答えた。
「……だから、諦めて逃げるのか? あんな雑なやり方じゃあ潜り込める訳がねぇ。 やる気あるのか? それとも役立たずとして始末されてぇのか?」
小男は威嚇する様に腰の短剣へ手を伸ばした。
偽行商人は苦笑する。
「そんな忠義者らしい小芝居はやめとけ、お前には似合わん。 お前のしそうな事といえば、殿様には俺を始末したと報告しつつ見逃しておいて恩を売ろうとするあたりだろう」
「さぁて、な。 あのご主人を懐柔するにゃあ、それなりに元手を掛けてるんだ。 今の地位を守るためなら忠臣の真似事くらい、造作もねぇ。 お前一人切り捨てるなんざ、安いもんだ。 いつまでも日陰者のままじゃあ生き残れねぇんだよ」
中途半端に権力者の側につけばかえって寿命は縮まるぞ、と偽行商人は心中で呟く。その代わり、
「まぁ、諦めたわけじゃないさ。 より確実に依頼を果たそうとしているだけなんだから、そう騒ぎなさんな」
「何を考えている?」
「『依頼』をより確実に果たすこと、さ」
「……何を、考えている?」
軽い調子で答えを返す偽行商人に、声を低めて同じ問を繰り返す。
「見当はついているのだろう? この途をゆけばどこへ着くと思っているんだ? それに花婿を暗殺するより、花嫁をたぶらかして婚礼をやめさせた方が流れる血も少なくて良さそうだがね?」
「それが、主人の意に叶うことだと思っているのか? お前のやろうとしている事は、あのご主人様の怒り買う恐れがある!」
「俺が受けた依頼は、『この婚礼を潰せ』だ。 婚姻が成立しなかったとしても、あの殿様にお鉢が回って来る訳じゃなかろうに。 なんせ、どこぞの領主の娘に手を出して孕ませた挙句、逃げられずに結婚させられたというじゃないか」
「我慢のきかねぇご主人なんだよ! 邪魔になれば、奥方は謎の急死を遂げるんだとさ! そんな役目は真っ平御免だがな!」
「もしお鉢が回ってくれば、十中八九お前は俺に丸投げするだろうな」
ふん、と鼻を鳴らして従者風の小男は続けた。
「話を逸らすな!」
「そんなつもりは無いがな。 ……あちらで事を起こすのは無理だ。俺も無駄死には御免だ。 一応形式的にでも依頼を果たすのと、なんら成果もなく終えてしまうのと、どちらがいい? 『赤口のラウル』よ」
刹那、小男は腰の帯剣を引き抜いて突きつけ、激しい殺気を露わにした。
「その名を口にするな! 今の俺は貴族の侍従様だ! お前も一蓮托生だってことを忘れるなよ!」
小男の剣呑な様子にもかかわらず、偽行商人は落ち着いた風情のまま問い返した。
「俺を始末して、代わりにお前が仕事を片付けにいくのかね?」
小男を諭すように偽行商人は続ける。
「望み通りの結果はあきらめろ。無理をすれば大損になる博打は勘弁だ。ここは無難なところで我慢しろ。ああ、それと……」
偽行商人はすでに決着したものとして話を進める。脇役に荷物持ちの下男役が必要だ。手配するか、さもなくばお前が手伝え、と。
「……ちっ! 好きにしろ!」
憎々しげに舌打ちをしつつ、『赤口のラウル』の表の顔である小男はやむなく妥協した。
そんな小男に苦笑を投げかけつつ街道へ戻ってゆく偽行商人の背中を、小男の方は眉をしかめて睨みつけていた。
この男は、いずれ始末をつけなければならない手札ではあるが、今はまだ惜しい。何にせよ、使いでのある有用な手駒であることは間違いないのだ。
「大儀であった。よくやってくれた」
クルスローの領主館の一室、ジロワはこの数か月婚礼準備やエウーゴン家との折衝に忙殺されていた老家宰の肩に手を置き、その労をねぎらっていた。
「お言葉、かたじけなく存じます。 されど……我が力及ばず、ほぼ殿お一人を彼の地にお送りすることとなり、申し開きのしようもございません……」
エウーゴン家の家格を嵩に着た、先方との交渉は難航した。難航といっても、こちら側から見ればの話であり、先方にとっては軽くあしらうような有様だった。
結局、ジロワはエショフールに移り住むこととなったが、身の回りの世話をさせるための気心の知れた同郷人の小姓として、家宰の息子の若ロジェただ一人だけが同行を認められた。
家宰をはじめ、ル・グロやオルウェンらは「クルスローの采配をするに欠くべからざる御一同」とされ、クルスローに留め置かれることとなった。
お前たちのような田舎の小領地の家中など、大貴族の家政には役に立たんのだから引っ込んでろ、という彼らの意図が見え透いている。
結局、領主であるジロワ一人を引き抜かれた形である。ロジェとしては口惜しいばかりであった。
そう遠くない将来、当代のエウーゴン卿が死去したのちは、ジロワが『妻の権利による』エウーゴン卿としてその地位を継ぐことになる。そのとき、家中の実権を確保できるかどうかはその人物の出来にもよるが、腹心の部下の多寡も重要だ。
Jure uxoris(妻の権利による)、あるいはJure matris(母の権利による)、その対置としてsuo jure(彼女自身の権利による)という。
西ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス・ドイツ・イタリアといった地域を支配したフランク王国は、ゲルマン系のフランク族のうちサリー支族が中心となって建国した。
フランク王国では、サリー支族の部族慣習法と、ブルグンド族(こちらはスカンジナビア起源とされるゲルマン系の部族でヨーロッパ各地に広がり、ブルゴーニュという地名の由来となっている)などのゲルマン慣習法を取り込んだ法典が制定され、施行された。いわゆるサリカ法典である。
サリカ法典にはとある規定があった。のちにはサリカ法といえば、その規定を意味することとなる。その規定とは、『女子の領地相続の否定』であった。
爵位・領地の相続人である女子の夫(または息子)が、妻(母)が相続した爵位・領地の管理運用、軍役義務を代行する。
例えば、ボーモン・ル・ロジェ卿ロベール・ド・ボーモン(後の初代レスター伯爵)は、伯父ムーラン伯爵が直系子孫を残さずに死去したため、母がその相続人となったことで『母の権利による』ムーラン伯爵("Jure uxoris" Comte de Mulen)を名乗ることになったのだ。
エウーゴン卿が死去した場合ジゼルが相続人となるが、領主としての実務は夫である『妻の権利による』エウーゴン卿、つまりジロワが行使する権利義務を負う。
フランク王国が分裂した後、各地の王権は脆弱であり、サリカ法の支配力も薄れていった。
だが、イングランド王リチャード二世の後継者争いにおいて、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが主張し(王位継承のライバルが女系相続だった)、英仏百年戦争初期においてイングランド王のフランス王位請求(これも女系相続による請求権だった)を拒否する論拠となるなど、度々その内容が都合の良い側に都合よく利用されたため、永く後世に影響を与える法典となった。
この法典は「自力救済が原則」である。そのため、現実には必ずしも法典の定め通りとはならず、それとは異なった事実も現れ得る。
この法は事を起こすにあたっての「大義名分」としてしか機能しなかった。
法典の定めに反した現実に対し、誰も不都合がなかったり、不都合があってもそれを覆すほどの必要や実力がなければ事態はそのまま継続するのである。
他の誰も「法の定めにより」事態を正しはしない。それを欲する者が、自分自身の力で為し遂げるしかないのだ。
法には力(強制力)による裏付けが必要であり、それを欠いた法は空文となる。故に現実に機能する法は、力を持つ者が定めるものであり、支配者・統治者を意味するRulerとは、ルール(法)を定める者、なのである。
いささか長くなったが、ジゼルと婚姻するジロワの立場とは、この様なものであった。
ジロワに後悔は、ない。
既に自分が欲していたのは、これだ、と確信していた。
領地でもなく、富でもない。
貴婦人に愛と献身を捧げ、信仰と正義を掲げて、騎士道に殉じる生き様。それが求めていたものだった。
騎士道の掲げる徳目とは真逆の、裏切り・強奪・貪欲と暴力にまみれているのが現実の領主・騎士である。騎士道など絵空事だ。
なんとも青臭い、お伽話のようで気恥ずかしくなる望み。
容赦ない現実の中で揉まれ、泣き、すり減らして諦めていった想いが、手の届くところに。
泥を啜り地を這った人生の終盤に、思いもかけぬ舞台を得たものである。
もうやり直しや別の機会が訪れるほど残り人生のないこの時だ。あと十年、若かったら逆に踏み切れなかっただろう。
疑いなく最後の機会。迷いはない。
婚礼の準備も大方目途が立ったとある夜、ジロワはル・グロ、オルウェンとの酒席を設けた。
「敵味方に分かれるわけじゃねぇし。どうせ政の場で儂らは役に立たんのだから戦に備えて村でのんびりしとるさ」
側近を残してほぼ単身エショフールへ赴くこととなった次第を詫びるジロワに、ル・グロらは仕方ない、という。サイコロと神の試練ってやつは思い通りにならんよ、と。
「騎士道か。あるじ殿らしいとも、らしくないとも……。まぁ、儂らにはもう縁遠い道だ、羨ましくもあり、かの?」
ル・グロもオルウェンも子宝に恵まれた。息子たちは逞しく、一方、娘たちはより逞しく成長しつつある。
家庭的な平和を享受する彼らには、冒険やロマンは縁遠くなりつつあった。
「ジゼル殿は『騎士』を求め、儂は忠誠と献身を捧げる先を求めていた。その二人が出会えば、こうもなる」
「はいはい、神様の粋な計らい、ということにしておくかね」
領主を酒の肴とする酒席は、からかいと惚気とを重ねて深更に及ぶまで続いた。
クルスロー館に急使が飛び込んだのは、その翌日のことである。
携えてきたのは、エウーゴン卿ならびに息女ジゼルの急死の報であった。
クルスローから北西へ延びる街道脇の、背の高い茂みの中から掛けられた声に、振り向きながら応える。
「……遅かったな。昼寝でもしていたのか?」
声を掛けた方、貴族の従者風の身なりをした冴えない風貌の小男は、そんな軽口には取り合わず、背後の茂みの奥の方へ顎を振る。
そんな目立つ所にいるんじゃない、こっちへ来い、と。
声を掛けられた方の、旅の埃に汚れた行商人風の男は、一度肩をすくめただけで大人しく従った。
往来のある街道から充分に離れた辺りで、小男は足を止めて振り返り、厳しい眼つきで睨みつける。さきほどの問いに答えよ、と。
「どうせ一部始終見ていたのだろう? やつらには隙が無い」
偽行商人は、悪びれもせずに答えた。
「……だから、諦めて逃げるのか? あんな雑なやり方じゃあ潜り込める訳がねぇ。 やる気あるのか? それとも役立たずとして始末されてぇのか?」
小男は威嚇する様に腰の短剣へ手を伸ばした。
偽行商人は苦笑する。
「そんな忠義者らしい小芝居はやめとけ、お前には似合わん。 お前のしそうな事といえば、殿様には俺を始末したと報告しつつ見逃しておいて恩を売ろうとするあたりだろう」
「さぁて、な。 あのご主人を懐柔するにゃあ、それなりに元手を掛けてるんだ。 今の地位を守るためなら忠臣の真似事くらい、造作もねぇ。 お前一人切り捨てるなんざ、安いもんだ。 いつまでも日陰者のままじゃあ生き残れねぇんだよ」
中途半端に権力者の側につけばかえって寿命は縮まるぞ、と偽行商人は心中で呟く。その代わり、
「まぁ、諦めたわけじゃないさ。 より確実に依頼を果たそうとしているだけなんだから、そう騒ぎなさんな」
「何を考えている?」
「『依頼』をより確実に果たすこと、さ」
「……何を、考えている?」
軽い調子で答えを返す偽行商人に、声を低めて同じ問を繰り返す。
「見当はついているのだろう? この途をゆけばどこへ着くと思っているんだ? それに花婿を暗殺するより、花嫁をたぶらかして婚礼をやめさせた方が流れる血も少なくて良さそうだがね?」
「それが、主人の意に叶うことだと思っているのか? お前のやろうとしている事は、あのご主人様の怒り買う恐れがある!」
「俺が受けた依頼は、『この婚礼を潰せ』だ。 婚姻が成立しなかったとしても、あの殿様にお鉢が回って来る訳じゃなかろうに。 なんせ、どこぞの領主の娘に手を出して孕ませた挙句、逃げられずに結婚させられたというじゃないか」
「我慢のきかねぇご主人なんだよ! 邪魔になれば、奥方は謎の急死を遂げるんだとさ! そんな役目は真っ平御免だがな!」
「もしお鉢が回ってくれば、十中八九お前は俺に丸投げするだろうな」
ふん、と鼻を鳴らして従者風の小男は続けた。
「話を逸らすな!」
「そんなつもりは無いがな。 ……あちらで事を起こすのは無理だ。俺も無駄死には御免だ。 一応形式的にでも依頼を果たすのと、なんら成果もなく終えてしまうのと、どちらがいい? 『赤口のラウル』よ」
刹那、小男は腰の帯剣を引き抜いて突きつけ、激しい殺気を露わにした。
「その名を口にするな! 今の俺は貴族の侍従様だ! お前も一蓮托生だってことを忘れるなよ!」
小男の剣呑な様子にもかかわらず、偽行商人は落ち着いた風情のまま問い返した。
「俺を始末して、代わりにお前が仕事を片付けにいくのかね?」
小男を諭すように偽行商人は続ける。
「望み通りの結果はあきらめろ。無理をすれば大損になる博打は勘弁だ。ここは無難なところで我慢しろ。ああ、それと……」
偽行商人はすでに決着したものとして話を進める。脇役に荷物持ちの下男役が必要だ。手配するか、さもなくばお前が手伝え、と。
「……ちっ! 好きにしろ!」
憎々しげに舌打ちをしつつ、『赤口のラウル』の表の顔である小男はやむなく妥協した。
そんな小男に苦笑を投げかけつつ街道へ戻ってゆく偽行商人の背中を、小男の方は眉をしかめて睨みつけていた。
この男は、いずれ始末をつけなければならない手札ではあるが、今はまだ惜しい。何にせよ、使いでのある有用な手駒であることは間違いないのだ。
「大儀であった。よくやってくれた」
クルスローの領主館の一室、ジロワはこの数か月婚礼準備やエウーゴン家との折衝に忙殺されていた老家宰の肩に手を置き、その労をねぎらっていた。
「お言葉、かたじけなく存じます。 されど……我が力及ばず、ほぼ殿お一人を彼の地にお送りすることとなり、申し開きのしようもございません……」
エウーゴン家の家格を嵩に着た、先方との交渉は難航した。難航といっても、こちら側から見ればの話であり、先方にとっては軽くあしらうような有様だった。
結局、ジロワはエショフールに移り住むこととなったが、身の回りの世話をさせるための気心の知れた同郷人の小姓として、家宰の息子の若ロジェただ一人だけが同行を認められた。
家宰をはじめ、ル・グロやオルウェンらは「クルスローの采配をするに欠くべからざる御一同」とされ、クルスローに留め置かれることとなった。
お前たちのような田舎の小領地の家中など、大貴族の家政には役に立たんのだから引っ込んでろ、という彼らの意図が見え透いている。
結局、領主であるジロワ一人を引き抜かれた形である。ロジェとしては口惜しいばかりであった。
そう遠くない将来、当代のエウーゴン卿が死去したのちは、ジロワが『妻の権利による』エウーゴン卿としてその地位を継ぐことになる。そのとき、家中の実権を確保できるかどうかはその人物の出来にもよるが、腹心の部下の多寡も重要だ。
Jure uxoris(妻の権利による)、あるいはJure matris(母の権利による)、その対置としてsuo jure(彼女自身の権利による)という。
西ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス・ドイツ・イタリアといった地域を支配したフランク王国は、ゲルマン系のフランク族のうちサリー支族が中心となって建国した。
フランク王国では、サリー支族の部族慣習法と、ブルグンド族(こちらはスカンジナビア起源とされるゲルマン系の部族でヨーロッパ各地に広がり、ブルゴーニュという地名の由来となっている)などのゲルマン慣習法を取り込んだ法典が制定され、施行された。いわゆるサリカ法典である。
サリカ法典にはとある規定があった。のちにはサリカ法といえば、その規定を意味することとなる。その規定とは、『女子の領地相続の否定』であった。
爵位・領地の相続人である女子の夫(または息子)が、妻(母)が相続した爵位・領地の管理運用、軍役義務を代行する。
例えば、ボーモン・ル・ロジェ卿ロベール・ド・ボーモン(後の初代レスター伯爵)は、伯父ムーラン伯爵が直系子孫を残さずに死去したため、母がその相続人となったことで『母の権利による』ムーラン伯爵("Jure uxoris" Comte de Mulen)を名乗ることになったのだ。
エウーゴン卿が死去した場合ジゼルが相続人となるが、領主としての実務は夫である『妻の権利による』エウーゴン卿、つまりジロワが行使する権利義務を負う。
フランク王国が分裂した後、各地の王権は脆弱であり、サリカ法の支配力も薄れていった。
だが、イングランド王リチャード二世の後継者争いにおいて、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが主張し(王位継承のライバルが女系相続だった)、英仏百年戦争初期においてイングランド王のフランス王位請求(これも女系相続による請求権だった)を拒否する論拠となるなど、度々その内容が都合の良い側に都合よく利用されたため、永く後世に影響を与える法典となった。
この法典は「自力救済が原則」である。そのため、現実には必ずしも法典の定め通りとはならず、それとは異なった事実も現れ得る。
この法は事を起こすにあたっての「大義名分」としてしか機能しなかった。
法典の定めに反した現実に対し、誰も不都合がなかったり、不都合があってもそれを覆すほどの必要や実力がなければ事態はそのまま継続するのである。
他の誰も「法の定めにより」事態を正しはしない。それを欲する者が、自分自身の力で為し遂げるしかないのだ。
法には力(強制力)による裏付けが必要であり、それを欠いた法は空文となる。故に現実に機能する法は、力を持つ者が定めるものであり、支配者・統治者を意味するRulerとは、ルール(法)を定める者、なのである。
いささか長くなったが、ジゼルと婚姻するジロワの立場とは、この様なものであった。
ジロワに後悔は、ない。
既に自分が欲していたのは、これだ、と確信していた。
領地でもなく、富でもない。
貴婦人に愛と献身を捧げ、信仰と正義を掲げて、騎士道に殉じる生き様。それが求めていたものだった。
騎士道の掲げる徳目とは真逆の、裏切り・強奪・貪欲と暴力にまみれているのが現実の領主・騎士である。騎士道など絵空事だ。
なんとも青臭い、お伽話のようで気恥ずかしくなる望み。
容赦ない現実の中で揉まれ、泣き、すり減らして諦めていった想いが、手の届くところに。
泥を啜り地を這った人生の終盤に、思いもかけぬ舞台を得たものである。
もうやり直しや別の機会が訪れるほど残り人生のないこの時だ。あと十年、若かったら逆に踏み切れなかっただろう。
疑いなく最後の機会。迷いはない。
婚礼の準備も大方目途が立ったとある夜、ジロワはル・グロ、オルウェンとの酒席を設けた。
「敵味方に分かれるわけじゃねぇし。どうせ政の場で儂らは役に立たんのだから戦に備えて村でのんびりしとるさ」
側近を残してほぼ単身エショフールへ赴くこととなった次第を詫びるジロワに、ル・グロらは仕方ない、という。サイコロと神の試練ってやつは思い通りにならんよ、と。
「騎士道か。あるじ殿らしいとも、らしくないとも……。まぁ、儂らにはもう縁遠い道だ、羨ましくもあり、かの?」
ル・グロもオルウェンも子宝に恵まれた。息子たちは逞しく、一方、娘たちはより逞しく成長しつつある。
家庭的な平和を享受する彼らには、冒険やロマンは縁遠くなりつつあった。
「ジゼル殿は『騎士』を求め、儂は忠誠と献身を捧げる先を求めていた。その二人が出会えば、こうもなる」
「はいはい、神様の粋な計らい、ということにしておくかね」
領主を酒の肴とする酒席は、からかいと惚気とを重ねて深更に及ぶまで続いた。
クルスロー館に急使が飛び込んだのは、その翌日のことである。
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