ジロワ 反撃の系譜

桐崎惹句

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月を追え

第47話 魔性

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 生まれつき、容貌は優れていた。

 最初にその身体を弄ばれたのは十歳のときで、相手は母親だった。父親にえぐられたのは十一歳のときだ。
 その行為の意味するところも知らないうちから、散々にむさぼられた。
 回を重ねるうち、体の痛みも、心の痛みも感じなくなった。

 感じなくなったのは、痛みだけではなかったが。

 両親はロンバルディア貴族に連なる、そこそこの家柄であり、ベネヴェント(イタリア南部、カンパーニアの都市)でも名家の部類だった。

 もう少し、平凡な容姿であれば幸せな人生を送っていたかもしれない。

 ……いや、程度の問題ではないか。
 そもそも、自分は『魔性』なのだから。
 実の両親を惑わすほどに。

 館には使用人たちが大勢住み込んでいる。遅かれ早かれ、両親の痴態は漏れ伝わったことだろう。

 本家の長老たる祖母がこの醜聞を知るや、彼は南部の大学への遊学を強制された。『体が弱く家を継ぐには不向き』と理由をでっち上げられ、家督は弟が継ぐことになった。

 加害者たる両親ではなく、被害者たる自分が追放されたのは、その方が自然で目立たないからだ。
 成人貴族が夫婦揃って幽閉されるような、隠し立てしようがない醜聞に比べれば、出来損ないの息子の廃嫡、という話の方がありふれていている。つまり、家の体面が優先、ということだ。

 自分が居なくなった後、家族はごく平和な家庭に戻ったという。何事も無かったかの様に。

 最初から、自分という異分子が存在しなかったかのように。

 悲しみは感じなかった。感情は既に失われていた。
 なるほど、確かに自分は壊れているのだ。そして平和を搔き乱す魔性でもある。
 自分が追放されるのは、理に適っているのかもしれない。

 だが、そんな自分にしたのは誰だ?



 彼が籍を置いた大学は、サレルノ医科大学またはサレルノ医学校と通称された。

 九世紀頃から医学研究の盛んな学舎として存在し、十世紀頃にはフランク圏各国の王族が療養に訪れる場所となっていた。
 ただ、この頃の大学の組織については現代では不明な部分が多い。自由七科セプテム・アルテス・リベラレス習得が必修とされていたかどうかも不明であるが、重要視されていたことは推測される。

 サレルノ大学は伝統的にギリシャ・ローマ医学を基盤としていたが、十一世紀、チュニジア生まれの医師でのちにイスラム教徒からキリスト教徒に改宗したコンスタンティヌス・アフリカヌスが持ち込んだアラブ医学(イスラム医学)の影響を受け、十二世紀には医学研究の最先端としての名声を確立する。
 
 そのサレルノでも、彼は欲望の的となった。

 市井の女から貴婦人たち、同窓の学生から教授まで、出自の貴賤も性別も問わず彼の気を引こうとする者たちで周囲は賑わった。

 だが、彼の感情は凍り付いたままだ。ただ求められるままに応じ、体を重ねても、肌から伝わる温もりが彼の心に届くことはなかった。

 請われるまま呼ばれるままに酒宴に顔を出し、求められるままに情事に耽った。
 己もなく、心もなく。

 サレルノに来て六年ほど経った頃、彼は学位を得て学芸学部(自由七科の研究が主体)から上級学部(神学・法学・医学)へと順調に進む。

 そこで彼が選択したのは医学部であった。
 特に何か理由があった訳ではない。
 単に人と競うのが面倒であった、だけだ。

 当時最も人気があったのは神学部であった。上位聖職者として身を立てるには神学部で修士・博士の学位を得ることが有利であったためだ。
 また、当時の社会ではギリシャ・ローマなどの医学よりも民間医療の方が一般には重きを置かれていたため、医学を修めたとしても立身の途が限られていたのだ。

 だが、この選択こそが彼を彼たらしめるものとなった。
 彼が神学なり法学なりを選んでいたならば、起こる悲劇は遙かに少なくなったであろう。そして、彼は空虚なままの存在であっただろう。



 その男の肌は浅黒かった。半島南部であれば出会う機会も少なくはない、サラセン人だ。だが、このサレルノ大学において、更には教授として存在しているとなるとこれは特別だ。

 かなりの変わり者だ、という話は聞いていた。

 研究以外の事にはまるで関心がないらしい、と。

 それでもキリスト教徒の女に惚れて改宗し、この地に定住したと聞けば研究それだけでもなかろう。

 自分が師事する教授として、彼が選んだのはそういう人物だった。

 理由は特にない。強いて言えば、他の連中が避けていたから、だ。

 何の期待も抱かずに出向いた工房で出会った教授は、彼に興味を示さない初めての人間だった。

 興味がないどころではない。存在すら気付いていないかの様だ。
 挨拶をしても上の空でろくに返事もしない。一心に実験器具を睨みつけて何やらブツブツ独り言を呟く。

 ああ、『かなりの変わり者』という噂だけは本当だったな。
 自分に関心を抱かないという人間は、初めてだった。
 肌の色が違うと美醜の基準も異なるのだろうか?

 そして彼はその異邦人の教授の下へ通い詰めるようになる。

 特段積極的に話し掛けるわけではない。
 全く無言で傍らに陣取り作業を見守るだけだ。

 それでも、彼にとって自分を意識しない相手というのは、初めての体験であり安らぎでもあった。

 サラセン人の方も、あれこれ話し掛けて来ることもなく作業の邪魔をしない彼のことは、まるで気にしていないようだった。

 それは、存在をまったく無視する、というのとは違っていた。

 会話も視線を交わすこともないけれど、「穏やかにそこに在ることの許し」は確かに存在した。そして、それは彼が自覚せずに求めていたものでもあったのだ。

 そのうち、何がきっかけだったか彼は実験の手伝いをする様になっていた。

 そう、異邦人の教授が取り落とした器具が彼の足元に転がって来たのを拾って渡してやったような、そんな些細な出来事だったように思う。

 手伝いを始めてから、少しずつだが諸々の説明が行われるようになった。助手の能力は高い方が助かるからだろう。

 そして、毎日傍で見守り続けていれば嫌でも知識を獲得するものだ。

 彼の砂が水を吸うような飲み込みの速さは、サラセン人教授の『教える喜び』を刺激した。

 二月ふたつきもすると、すっかり彼はこの異邦人の片腕となっていた。
 これまで、彼は他人とこの様に精神的に密接で、かつ負荷のない関係を築いた警官が無かった。

 やがて、教授の方も彼に実験以外の話題についても話すようになった。といっても、個人的な事ではなくあくまで技術や科学についての話題だ。

 あるとき、物が乱雑に積まれた脇机に古めかしい装丁の羊皮紙本が目に留まった。
 師いわく、四百年ほど前のアラブの著名な科学者ゲーベル、サラセンではジャービル・ブン・ハイヤーンと呼ぶ大家の著作という。

 当時の書物は高価な財物であって、この様にぞんざいな扱いは異常だ。
 試しにねだってみると意外にもあっさりと閲覧の許しが得られた。
 ただし、さすがに工房から持ち出してはいけない、師の見ている前でのみ書を開いて良い、との条件は付けられたが。

 はじめて接したイスラーム世界の知識は彼を魅了した。

 ローマ帝国の崩壊後、西ヨーロッパ世界の文明ははっきりと退化していた。
 帝国時代に発達した数々の知識や技術が失われたのだ。

 ローマ人が建設した街道や石造りの大規模建築は補修されることなく朽ちるがままとなり、畜産の知識も伝える者は絶えて貴重な品種血統も手当たり次第の交配で雑種だらけとなった。

 それが暗黒の時代、と呼ばれた中世西ヨーロッパの状況である。

 文化や自然科学分野においてイスラーム世界に劣った当時の西ヨーロッパは奴隷くらいしか輸出品目のない、貿易赤字の後進国状態であった。

 こうした状況は蒸気機関の発明による産業革命、それによる劇的な発展で『大分岐』を迎えて一変するが、それまでは世界中、アジアだろうが西欧だろうが生活水準はそれほど大きな違いが無かったのだ。

 そうした停滞の世界で生まれ育った彼にとって、異世界からもたらされた知識は厚く巻かれた目隠しを吹き飛ばすような強烈な衝撃であったのだ。

 その中で、彼が興味を引かれたものの一つに、秘薬と称する毒の製法があった。

 毒、というが、薬も量を誤れば毒となり、毒も適切な量であれば薬となる。
 中世の薬屋は当たり前のように薬と毒を一緒に取り扱い販売した。

 だが、彼が興味を引かれたその秘薬の特性というは、最も後ろ暗い使用法である『暗殺』に特化して適した性質のものだったのだ。

 無色無味無臭で毒性は極めて強い。

 効き目がすぐに現れるので使い方を工夫しないと毒見役の奴隷を持てるような王侯貴族への使用は難しいが、そんな対象はごく僅かだ。

 材料の鉱石に関する記述もある。

 師である教授は何も言っていなかったが、取り扱いについて厳しく注意を与えられた鉱石があった。

 記述されている特徴と合致しているので、恐らくこれだろう。

 彼は一時、祖母や両親が血を吐いて床に倒れ伏す妄想に身を委ねた。
 この時はまだ、その毒についてというのは、数ある関心事のうちの一つに過ぎなかったのだが。

 そんなことがあった数か月後のことだ。

 師は教会の諮問を受けるため、ローマへ旅立っていた。

 当然、お供として連れていかれるものと思っていたが、権威に疎く腰の軽い師はさっさと一人で出かけてしまう。

 その肩透かしに手持ち無沙汰な彼は、ふとした思いつきで、かの秘薬の精製を試してみた。

 置いてきぼりをくった不満の意趣返し、程度の軽い気持ちだった。

 工房の裏手、丘陵の斜面に設えられた窯で細かく砕いた鉱石と木炭の粉を混ぜ合わせて燃焼させる。
 窯の内側に溜まった煤煙から結晶を集め、これをさらに焼いて純度を高める。

 いわゆる『砒《ひ》焼き』である。

 作業途中の段階でもすでに強い毒性がある。危険を伴う重労働だ。

 汗と煤にまみれながら細心の注意を払い、やっとのことで小瓶に半分程度の精製物を得ることができたのは、師が帰還する前々日のことであった。

 消費した鉱石は、見た目が似た石を足して嵩増しした。
 滅多に開かない倉庫の奥なので露見しないかもしれない。露見したとしても、その時はその時だ、と開き直っていた。
 どのみち、他に用途もない鉱石だ。いずれ精製するのであれば、それを先んじて済ませておいただけのこと、というのは苦しい強弁か。

 工房の壁に空いた明り取りの窓から、埃立つ路地の方を師の姿が現れるのを今か今かと見守る彼の姿は、数年前には想像することもできなかった。 

 粗末な馬車が道をやって来るのが見えた。

 荷のほかに人を載せているのが、遠目にもわかる。
 そのうちの一人が見慣れた師の姿であることに我知らず心が浮き立った気分は、すぐに別の疑念によって打ち消されてしまった。

 誰だ? 師の隣に座るあの少年は? 師と同じ肌色の…。

 馬車が工房へと横付けする。

 師が一人で馬車を降り、車上の少年に話しかける姿を、彼は物陰に隠れて見つめていた。
 なぜ、隠れたのか自分でも分からない。

 少年を載せた馬車は、師に見送られて動き出した。
 師と同じ肌色の、顔かたちもよく似た少年は何度も振り返りながら手を振る。
 見送る師の方も、それに応じるように手を振り返していた。
 
 師の、あのように心からの優しい笑顔など、彼は見たことがなかった。

 初めて経験する人間関係に、彼は執着した。
 ただ、それはまだ自覚されていなかった。
 
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