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しおりを挟む第一章 次期当主サマはフェネックギツネ
「おお、なんと可愛い子だ!」
浅草琉夏の新しい人生の幕開けは、そんな称賛で始まった。
「大きくてつぶらな瞳、見ていると虜になりそうですわ」
「これは将来、尤物になりますぞ」
琉夏は声の主が誰かを見ようとして瞳を動かすも、視界がぼんやりしている。頭を上げようとしたが重くて動かせず、それどころか全身にうまく力も入らない。
(なんだこれ? 体がおかしいぞ)
助けを求めようとして開いた口からは、なんと弱々しい泣き声が漏れた。そこでようやく琉夏は気づく。自分が赤ん坊だということに。
(赤ちゃん⁉ 俺、赤ちゃんになってる⁉)
完全にパニックに陥った琉夏は、なんとか体を起こして言葉を発しようとするが、手足はわずかに動くものの、口から大きな泣き声が出ただけだった。
「おお、おお。小柄だが元気いっぱいだ。素晴らしい、さすがはレイナルド家の次期当主だ」
どうやら周囲に幾人もの人がいて、自分を褒め称えてくれていることはわかるのだが、それが誰で、ここがどこなのかはさっぱりわからない。
(あの、ここはどこですか? なんで俺は赤ちゃんになってるんですか⁉)
「見て、小さなお手々に小さな足。どこもかしこも本当に小さいわ。ほら、おちんちんも。うふふ、可愛いったらありゃしない」
「はっはっは。いやいや、今はこんなに小さくとも将来はわかりませんぞ。数々の美女を喜ばせる剛のモノになるやもしれません」
(やめて! エッチ! そんなとこ注目しないで‼)
当然誰も琉夏の泣き声の意味など理解できず、目尻を下げたホクホクとした笑顔で彼を観察しては、好き勝手に談笑するばかりだ。
(赤ちゃんって無力すぎない? 誰も俺の質問に答えてくれないうえ、恥ずかしいところを見られても抵抗できないなんて……俺の人権はどこ?)
人生の開幕早々、琉夏は心が折れそうになる。その瞬間、ふと記憶が呼び起こされた。
(――そうだ、俺……)
琉夏は高校への登校途中、トラックに撥ねられたことを思い出す。衝撃は一瞬で、痛みを覚える前に視界が真っ暗になった。
それが自分の〝死〟だったのだと、ようやく琉夏は理解する。
(嘘でしょ……十六歳で死んじゃうなんて! まだやりたいこといっぱいあったのに! 友達だってできてないのに!)
ブワッと悲しみが込み上げてきたものの涙はとっくに溢れ出していて、赤ん坊の泣き声を一段と大きくしただけだった。
しかし、泣いても喚いても時間が巻き戻るわけもなく、周囲は、やれ泣き声が立派だとか、やれ泣き顔が可愛らしいだとか言って褒め称えるばかりだ。そうして琉夏はやがて泣き疲れて、眠りに落ちるしかなかった。
あれから十年の月日が経った。
生まれた当初は赤子の無力さと十六歳で死んだ前世の自分に悲嘆するばかりだった琉夏も、今ではすっかり今世に馴染み人生を謳歌している。
今世で彼に与えられた名前は〝リュカ・ド・レイナルド〟。なんとレイナルド公爵家という大貴族の跡取りだ。
この世界は共和政でもなければ王政でもなく、代わりに四大公爵家と呼ばれる四つの公爵家が大陸を支配している。レイナルド家はそのうちのひとつにあたるらしい。
つまり、リュカは超がつくほどの名門貴族のお坊ちゃんだ。
前世では平民だったリュカは成長するごとに何となく自分の立場を理解し、次期公爵家当主という責任の大きさに慄きながらも、公子生活をガッツリ満喫している。
毎日仕立てのいい服を侍女の手で着せてもらい、贅沢な食事や宝石のようなスイーツは食べ放題、夜は雲のようにフカフカで広いベッドで眠った。欲しいものは要求する前に与えられ、退屈しのぎにと催されるのは、美しい踊り子の舞や湖での船遊びなど贅を尽くした風流なものだ。これで人生に文句など言ったらバチがあたって、来世はダンゴムシに違いない。
ただし、この世界にはテレビやスマホといった文明の利器はなかった。生活様式は中世のヨーロッパに近い感じだ。
いや、ファンタジーの世界というのが正しいだろう。年齢が上がるにつれてこの世界の実態を理解してきたリュカは、ある日気がついたのだ。
ここが『トップオブビースト』の世界であることに。
『トップオブビースト』は、前世の日本で人気だったゲームだ。中世ヨーロッパ風の世界を舞台にしたRPGで、プレイヤーである勇者は四大公爵家が支配する大陸を冒険する。
システム自体は至って平凡だが、タイトル通りの獣人要素が一部のファンの心をガッツリ掴んだ。多種多様で見目麗しい獣人たちのデザインが、世のケモナーたちを魅了したのだ。
もちろん、リュカも獣人である。生まれて数ヶ月後に目が見えるようになって周囲の人間にケモ耳が生えているのを認知したときも驚愕だったが、自分にも立派なケモ耳と尻尾があることに気づいたときには叫んでしまったほど驚いた。もっとも、今ではすっかり慣れて自分の尻尾に愛着さえあるが。
そんなモフモフだらけのRPG『トップオブビースト』を、リュカは前世でクリアまでしっかりとプレイしていた。そのため自分の父がゲーム機の画面で見たイケメンキツネ獣人だと気づいたときは頭が混乱したが、それがこの世界が『トップオブビースト』だと気づいたきっかけでもあった。
そのときは焦った。というのも、数年後に魔王が闇の世界から出現し、大陸を恐怖のどん底へ陥れることを知っていたからだ。よりによって転生先が魔王の存在する世界だなんて! とリュカは一瞬嘆いたが、よくよく考えれば悲嘆することはなかった。
なぜなら、魔王出現の数年後には四大公爵家――百獣の王ライオン族のワレンガ家、空を司る王者ワシ族のガルトマン家、先祖に龍を持つヘビ族のヴェリシェレン家、そして圧倒的魔力を持つキツネ族のレイナルド家が異世界から勇者を召喚し、勇者は旅の果てに無事に魔王を討伐するからだ。
いっときは森や山に魔物が出現するようになるものの、レイナルド家に大きな被害はなく、ましてやリュカは、ゲームにはほぼ背景としてしか登場していない。勇者召喚などゲームに関わるのは、現当主である父グレゴール・ド・レイナルドだ。
つまり、リュカ自身には何も起こらない。このゲームに於いてリュカは完全なモブなのである。
多少の騒動はあるかもしれないが、特に生活が変わることも悲嘆することもないなと考えたリュカは、安心して公子生活を満喫することにしたのだった。
ちなみに、キツネ族であるレイナルド一族には、様々な種類のキツネの獣人が存在する。獣人は種を超えた交配ができるようで、キツネ族も同族別種の血が交じり合っており、生まれる種類はキツネならなんでもありらしい。最も多いのは前世でもよく見たポピュラーなアカギツネだが、リュカはなかなか珍しいフェネックギツネの獣人として生まれた。母方の先祖にフェネックギツネがいたらしいので、その先祖返りだろうと言われている。
フェネックギツネの特徴は大きな耳とつぶらな瞳、そして小さな体だ。獣人の特徴も同じで子供のように愛らしい顔立ちが多く、男女問わず小柄である。それは年をとっても変わらないようで、見た目は成長が止まったかのごとく幼いのがフェネック獣人の最大の特徴だ。
リュカも例外ではない。大きくてつぶらな瞳はキュートで見る者の胸をときめかせ、永遠の少年のような丸顔は、大きな耳も相まってたまらない愛らしさと庇護欲を掻き立てる。まだ十歳なので身長はもう少し伸びそうだが、おそらく平均的な大きさにはならないだろう。
誰からも愛される容姿というのは恵まれていると思うものの、見た目が永遠に少年なのはどうだろうかとリュカは少し悩ましい。男らしさや威厳に欠ける気がする。
そんな贅沢な悩みを抱えられるほど、今となってはもうこの世界が『トップオブビースト』だと意識もしていない。
自分が生きている以上、ここはゲームではなく現実の世界だ。日々を楽しみながら優しい父と母に存分に甘え、人生を楽しんでいる。
時々は前世の家族のことを思い出して切なくなることもあったけれど、十年の月日と幸福な毎日が、浅草琉夏の死と新しい人生をゆっくりと受け入れさせてくれた。
(前世で早死にしちゃったぶん、今世では長生きして琉夏ができなかったことを叶えるんだ。大丈夫、きっと今度こそ叶う。今度こそ――友達を作ってみせる!)
新たな人生を生きるリュカが秘めた決意を胸に過ごしていた、そんなある日のことだった。
「この子がヴァン・ド・インセングリムよ。仲良くなさいね」
母に紹介されて部屋にやってきたのは、尖った耳と大きな銀色の尻尾、それに眼光鋭い金色の瞳を持った男の子だった。
シャツにネッククロスを巻き脚衣と揃いのベストを着た姿は、リュカと年齢が半年しか違わないと聞いていたのにとてもシャンとして見えた。腰から下げた装飾付きの剣が余計に彼を大人っぽく見せているのかもしれない。
オオカミ族インセングリム家は、代々レイナルド一族に騎士として仕えてきた歴史がある。オオカミだけあって戦闘能力はずば抜けており、素早い身のこなしと鋭い剣技、優れた状況判断と統率力は騎士にうってつけだ。
レイナルド家では、当主になると直属の護衛騎士団をふたつ持つ習わしがある。インセングリム家の嫡子であるこの子は、どうやら将来のリュカの護衛騎士団長候補らしい。
年が近いということで、今は遊び相手兼護衛見習いとしてリュカのそばに置くことになったと母が説明した。
「インセングリム家長男、ヴァンです。どうぞヴァンとお呼びください」
ヴァンは胸と腰に手をあて、年齢に似つかわしくないほど畏まった礼をした。インセングリム家は厳格だと聞いたことがあったが、彼はまさに体現している。
「あの、えっと。リュカだよ。よろしくね。俺のこともリュカって呼んでいいよ」
ヴァンに比べなんともしまりのない挨拶をしながら、リュカはぎこちなく微笑む。
「ヴァンに屋敷を案内してあげるといいわ。仲良くね」
そう言うと母は、部屋にふたりだけを残して出ていってしまった。
リュカは頬を紅潮させソワソワと落ち着かない様子を見せる。リュカがヴァンを目の前にして高揚し、緊張するのにはわけがあった。
(こ、子供だ。同い年の子だ。つ、ついに友達ができるかもしれない……!)
そう、これはリュカにとって――いや、琉夏の人生と併せても初めての友達をゲットするチャンスの到来なのだ。
浅草琉夏は十六年の人生で〝友達〟というものがいなかった。
生まれつき難病を抱えていた琉夏は十五歳になるまで、一年のほとんどを病院で過ごす生活をしていた。免疫力が低いため病院でも個室に入院していた琉夏にとって、友達と過ごす日常というのはまるでファンタジーだ。ドラマや漫画でしか知らないそれに、強い憧れを持つのも無理はない。
十五歳で手術が成功してようやく学校へ通えるようになったが、生まれて初めて同世代の輪の中に入った琉夏は何をしていいのかわからなかった。
友達が欲しい、ずっと憧れていた友達と楽しい日常を送る経験がしたい。そんな思いから行事のたびに進んで実行委員を担ったり部活に入ってマネージャーを務めたりしたが、無理がたたってすぐに体調を崩し、ますます仲間の輪に入りづらくなってしまった。
(……俺は何もできないんだな。友達も作れないし、クラスや部活の役に立つこともできない。誰の力にもなれないし、誰も俺のことなんて好きになってくれない)
友達が欲しいという渇望と、それが叶わない無力感。人に囲まれているのに感じる孤独は十五歳の琉夏を苛んだ。
そして高校二年生に進級した春。それでもめげずに友達を作ろうと張り切っていた琉夏は、登校途中で暴走トラックに撥ねられて短い人生を終えた。
あまりにも未練だらけの人生だったと、リュカは前世を振り返る。
何も成し遂げられず、誰の役にも立てなかった。家族には世話ばかりかけ、恩返しもできていない。そして何より無念なのが、あんなに憧れた友達という存在がひとりもできなかったことだ。なんと無力で孤独な人生だったことか。
(今度こそ、絶対に友達を作る! それで楽しい思い出をいっぱい作るんだ!)
そんな前世の雪辱を、今世では絶対に果たそうとリュカは心に決めていた。
しかし、この世界に幼稚園や学校といったものは存在しないうえ、超お坊ちゃんのリュカは容易に外へも出してもらえない。もっとも外へ出たところで周囲は警備や侍従に囲まれているし、レイナルド家の子息に気軽に近づいてくる子供もいないのだけれど。
この十年間でリュカは親族の子供以外と喋ったことがない。その親族でさえも時折顔を合わせるだけだし、本家嫡子のリュカに対しては堅苦しい挨拶をするくらいで談笑すら交わしたことがない有様だ。
だから今日から側近の子供が来ると母から聞かされたとき、リュカは飛び上がるほど喜んだ。遊び相手と護衛を兼ねるヴァンは、これから毎日一緒にいると言うのだ。これはもう友達になるしかない。いや、友達になる以外の選択肢などあろうか。
そうして、激しく胸を弾ませるリュカの前に現れたのが、オオカミ族の少年ヴァンだった。
「じゃ、じゃあ屋敷を案内しようか? あっ、でも到着したばかりで疲れてるかな? 先にお茶にする? お腹が空いてるなら何か食べるものを用意させるよ」
リュカは興奮気味に話しかける。友達になって欲しい、彼に好かれたい、そんな気持ちが抑えきれない。
だがヴァンはニコリともしないどころか、微かに眉根を寄せて顔をしかめた。
「結構です。屋敷の見取り図を頭に入れてきましたし、食事も済ませてきました。私のことはどうぞお構いなく、リュカ様は普段通りにお過ごしください」
あまりに慇懃な彼の態度にリュカの笑みは引っ込んで、代わりにポカンとした表情を浮かべてしまう。
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「お気遣いなく。私は護衛見習いとしてここにおります。リュカ様も護衛がいる生活に慣れてください」
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(なんか思ってたのと違う……。でもまあいいや。これからずっと一緒なんだし、きっと徐々に打ち解けていくはず!)
しかし、それから三ヶ月が経っても、ヴァンの態度が変わることはなかった。
リュカはめげずに彼に好かれようと、あれやこれやと手を尽くした。お茶や遊びに誘うのはもちろん、ときには彼のためにお菓子を用意したり、贈り物までしたりした。だがどれもすげなく断られ、ふたりの距離は縮むどころか日に日にヴァンの顔には不機嫌さが増しているような気がする。
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考えあぐねた末、リュカは彼に剣の手合わせをお願いすることにした。
代々騎士であるインセングリム家のヴァンにとって、剣は最も得意なことのはずだ。これならきっと彼も乗り気になってくれるだろうし、花を持たせてやることもできる。
名案だと思い意気揚々と声をかけたリュカに、ヴァンは眉間の皺を一本増やして怪訝そうな顔をした。レイナルド家は代々魔法使いの血筋で、リュカも錫杖は持っているが剣など一度も握ったことがない。ヴァンが訝しむのも当然だった。
「そりゃ俺は剣を扱ったことがないけどさ、でも男の子ならやっぱり憧れるんだよ。だから、ね。胸を貸すと思って一回だけ。お願い」
リュカがジッと見つめ必死に懇願すると、ヴァンは唇を突き出しいかにも渋々といった様子で頷いた。初めて彼が誘いに乗ってくれたことに、リュカは大喜びし顔を綻ばせる。
(やった! やっぱりヴァンは戦ったり体を動かしたりすることが好きなんだ。これからはそういう方向性で攻めよう)
遊びであっても剣を握るなど家の者にバレたら止められるのがわかっていたので、リュカはこっそりと騎士の訓練場から訓練用の木刀を借りてきて、人けのない屋敷の裏庭までヴァンを連れていった。
「さあ、やろう。俺じゃきみの相手にはならないかもしれないけど、こう見えて運動神経は悪くない方なんだ。避けるくらいはできるから、遠慮せず打ち込んできてよ」
見様見真似の型で木刀を構え、ヴァンの正面に対峙する。
リュカは正直甘く考えていた。転生前に比べ体が丈夫になったことで抱いてしまった誤った万能感、そして、いくらオオカミ族でも子供ならばさほど強くはないだろうという油断。
それらが一瞬で打ち砕かれたのは、「それじゃあ、はじめ!」と合図を口にした五秒後だった。
「……え?」
あまりにも刹那の出来事でリュカは何が起きたのかわからなかった。
気がつくと体が後方にあったはずの植え込みまで吹っ飛ばされており、どこかに打ちつけたらしい背中と頭がズキズキと痛んでいる。さらに木の枝にでも擦って傷ついたのか、玉のように白い頬からは血が細い筋になって流れていた。
ただ唖然としたまま低木の植え込みの中に埋もれていると、顔を青ざめさせたヴァンがこちらへ走ってくるのが見えた。
「大丈夫ですか、リュカ様!」
ヴァンは手を引っ張ってリュカの体を起こすと、「申し訳ございません!」と謝罪の言葉を繰り返しながら全身についている泥や葉っぱを払ってくれる。そして今まで見せたことのない不安そうな表情を浮かべ、リュカの頬の傷をハンカチで押さえた。
それを見てリュカは申し訳ない気持ちになってきた。
彼の実力を甘く見すぎていた。いや、己の無能さを自覚できていなかったのかもしれない。むしろその両方だ。
インセングリム家の長男だけあってヴァンの戦闘能力は大人並みのものだった。それでも主に向かって本気を出すはずもなく、かなり手加減してくれたはずだ。しかし、リュカの身体能力は彼の想像よりはるかに下回っていた。
オオカミほどではなくともキツネなら反射神経も素早さもそこそこあるはずだし、何より本人が運動神経のよさを自負していたのだからとヴァンは考えて、適切と思われる力で打ち込んできたのだろう。ところが構えた木刀に軽く一撃当てただけで、小柄なリュカはホームランボールのごとく吹っ飛んでいってしまったのだ。
(……これは俺が悪かったなあ。リュカになってから普通に走れるようになって運動神経がよくなった気がしてたけど、大間違いだったみたい。っていうか、運動神経云々以前に太刀筋すら見えなかったけど)
反省して苦笑いをしながら痛む後頭部を押さえる。どうやらコブができているようだ。
それを見たヴァンはますます顔を青ざめさせ、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません! どんな罰も厭いません!」
「ちょ、ちょっと。頭を上げてよ。罰なんか与えないよ、俺が悪かったんだから。きみがこんなに強いなんて思わなかったんだ。だから気にしないで、ね? 今度は俺も練習してから挑むから、また手合わせしてよ」
せっかく彼と仲良くなれそうな機会だったのに、かえって距離ができてしまいそうで怖い。責任を感じてしまっているヴァンの姿を見て、心苦しくなったリュカは必死にフォローする。
「こんな怪我なんともないよ。もちろん母上にも誰にも言わないし、きみも忘れて」
笑みを浮かべたリュカだったが、目に映ったのは今にも爆発しそうな怒りを、歯を食いしばって抑え込んでいるヴァンの顔だった。
「……っ、どうしてお前はそうなんだよ……」
「え?」
険しい形相のヴァンが、震える声で呟いた。リュカはどうして彼が憤っているのか見当もつかず、ただオロオロとする。
「な、何か怒ってる? もしかして俺が弱すぎたから? ごめんね、ごめん」
次の瞬間、リュカは左頬を思いっきりこぶしで殴られていた。再び植え込みの中に尻もちをつき、ただ呆然とする。
リュカのもとまでやってきたヴァンは今度は優しく手を差し伸べるのではなく、胸ぐらを掴んで引っ張り上げた。
「家臣に傷つけられて何ヘラヘラしてるんだよ! お前はレイナルド家の次期当主だろ! 怒れよ! 僕を罰しろ! いつもいつも僕の顔色を窺いやがって、お前に四大公爵家としてのプライドはないのかよ!」
唾がかかるほど間近で怒鳴られて、リュカは驚きのあまり固まってしまった。すぐ目の前にある金色の瞳には、弱々しい自分の顔が映っている。
「ご……ごめん……」
「謝るな‼」
彼の迫力に気圧され思わず謝罪を口にすれば、逆に一喝されてしまった。
どうしていいかわからず唖然としていると、ヴァンは突き飛ばすように胸ぐらから手を離し、身を翻して行ってしまった。
「こんな情けないやつが次期当主だなんて、僕の主だなんて……反吐が出る!」
残されたリュカは三度目に尻もちをついた植え込みの中で、肩を怒らせ去っていく彼の後ろ姿を見ていることしかできなかった。
それから一ヶ月、ヴァンはリュカのもとに姿を現さなかった。
なんでも彼は自分から父親にリュカを傷つけたことを申告し、罰を受けたのだという。しばらくは謹慎状態だそうだ。
リュカは家の者や侍従らに怪我を心配され大事に扱われたが、頭のコブや殴られた頬よりも、何より胸が痛かった。
怒鳴られたときは動揺するばかりで理解できなかったが、今ならヴァンがなぜあれほど憤っていたのかわかる。きっと彼はずっともどかしくて、腹が立って仕方がなかったのだ。
家臣にへりくだる主が情けなさすぎて。
レイナルド家とインセングリム家は何をどうしたって主従の関係だ。個々の思いはどうあれ、互いの家にとってそれが有益であり至上の関係だ。本家の嫡子であるヴァンも、騎士としてレイナルド家を守ることこそが最高の栄誉だと幼い頃から教えられてきたのだろう。そしてまだ見ぬ未来の主人のために、剣の鍛錬を重ね腕を磨いてきたに違いない。
だが、その崇高な刃が守るべき主が、こんなみっともない子ギツネだったらどうだろう。
威厳がなく尊敬できるところもなく、四大公爵家としての矜持もなければ気概もない。それどころか家臣の機嫌を窺って媚びを売る有様だ。もし自分がヴァンの立場だったらと考えて、リュカは己を殴りたくてたまらなくなった。
(恥ずかしい……。きっと彼の目には、俺は世界一情けないやつに映ってたんだろうな)
ヴァンの姿を見なくなってから、リュカは猛省の日々を送り、そして不安に陥った。もしこのまま彼が側近をやめてしまったらどうしようと。
そうして、リュカの大きな耳と尻尾が垂れ下がり続けてからしばらく経った頃、ヴァンが再びリュカの部屋の扉を叩いた。
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