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雲の上の甲子園
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合同チームの初戦であり、自分が手引きした試合ともあって金井は気合十分の様子で一塁側のベンチに入った。
「菱田くん、ノックはまだかね?」
「菱田くん、試合はまだかね?」
「菱田くん、勝てそうかね?」
まるで遠足の前日の小学生だ。あぁもううるせぇ。試合が始まる前のキャッチボールから目を輝かせる金井に対して、康太の方は真剣な表情で周囲を見渡していた。
『愛理さんはいないか』
康太は一度大きく息を吐いた。
「勝てばいいだけだ」
つぶやく。
「先生、杉戸工業の昨年の成績は?」
「三回戦で浦和学院と戦ってコールド負けだったかな」
それだけを聞いても強いのか弱いのか分からなかった。しかし確実なことはうちのチームより弱いチームはいないということだ。
主審の中村さんを交え、両校のキャプテンがお互いのメンバー表を交換する。スターティングメンバーは、昨日アルバイト中にノートに書き記した通りだ。後攻の合同チームの選手たちがグラウンドに散った。康太はベンチの最前線に陣取り、しわくちゃになった相手のメンバー表に目をやった。興奮した雄大が交換したときに思わず握りしめてしまったのだ。
「ねぇ菱田くん。なんで私がスコアラーなんだい、これじゃ試合に集中できないじゃないか」
「人数いないんすよ、協力してください校長先生」
金井には悪いがこうでもしないと横で騒がれては試合に集中できない。それにしてもナインの動きがまだ少しかたい。
「みみみんな頑張ってこーぜ」
投球練習が終わると、キャッチャーの太一が締まりのない裏返った声をグラウンドにこだまさせる。相手側のベンチがにわかに活気づいた。
「おいおい、ド素人かよ」
「頼むよ、キャッチャー」
ヤジが飛んで太一はそそくさとマスクをかぶり顔を隠した。先発の総司はロージンバックをこれでもかと手にまぶし、不敵に笑う。
「プレー」
主審の中村さんが右手を上げてコールする。一球目。康太が太一に配球のサインを出そうとしたその刹那だった。総司がもうすでに投球モーションに入っていることに気が付いた。
「あのっバカ!」
総司の指先からボールが離れた瞬間、康太は思わず口走った。右バッターの背中に勢いのあるストレートが衝突する。グラウンドに漂う静寂。
「あんま調子のってっとぶち殺すぞ!」
突然マウンドから聞こえてきた暴言に康太は呆然としてその場に立ちすくむ。これは大変な試合になりそうだ。
康太は相手ベンチに一礼して頭を抱えた。主審も総司の態度を注意し、相手にも節度ある声かけをするようにと釘を刺した。
「菱田くん、大丈夫かね」
金井の戸惑い気味の問いかけにすぐに答えられず、マウンドの総司の様子を窺った。
「あぁそんなに心配しなくてもいいかもです」
さきほどと打って変わってあっけらかんとする康太の態度に金井はますます困惑していたが、これは強がりでもなくなく本当のことだった。太一にサインを送り、太一から康太のサインを確認した総司は頷きながらセットポジションになる。明らかに先頭バッターと対峙していた時よりも落ち着いていた。おそらくあの一球は故意に投げたわけじゃない。初試合、初マウンド、緊張して周りが見えなくなってしまうことはよくあることだ。悪態をついたのはバッターにぶつけてしまったことに驚いて咄嗟にごまかしの言葉がでただけだろう。康太の予想通りランナーを一塁に置いたことで、総司はその後も自分のリズムで投球することが出来た。ストレートを低めに集め後続をあたり損ねの内野ゴロに仕留め颯爽とベンチに戻ってくる。
「いやぁ、お見事、お見事」
金井はベンチに全員が戻ってきたことを確認し拍手で出迎えた。褒められて気恥ずかしくも初回をミスなく終えられたことの安堵感と達成感に選手たちはみな少し誇らしげな表情を見せている。
「よし! 点とってこー!」
ヘルメットをかぶった先頭バッターの雄大がベンチ前で作った円陣の真ん中ではち切れんばかりに叫ぶ。
スタートの入りは及第点だ。打席に立つ雄大に選手たちは声援を送る。
「総司」
康太の呼びかけに総司はぶっきらぼうに「はい、はい」と連呼するとベンチの一番奥の方に座り傍若無人な態度をとった。
守備のリズムがよいと、攻撃にも反映する。二回に二点を失ったものの、ワンアウトから八番バッターの朔が内野安打で出塁すると、すぐにバッテリーミスで二塁を陥れた。続く銀二のボテボテのファーストゴロが結果的に進塁打になり、一番バッターの雄大が初球を迷いなく振り抜きレフト前のタイムリーヒットを放った。一方的な試合展開になるのではないかと心配はしていたが四回を終わって二対一と善戦していた。相手チームの攻撃力がいまいちだったとはいえ、注目したい点はこれまで大きなミスもなく二点で抑えてきたバッテリーと守備だ。
経験不足が心配された総司は、当初の予定では頃合いを見て雄大にスイッチするはずだった。しかし総司は康太の予想に反してよく抑えて試合を作っていた。評価したい点は二つ。まず制球力がいいことだ。総司のピッチングは相手の早打ちにも助けられて、球数も五十五球と少なく済んでいる。これは総司がストライク先行で投げることが出来ている証拠だ。更にここまで四死球は初回の一つだけでその後はヒットを許しながらもボールを低めに集め凡打の山を築いていた。
次に評価したいのは、マウンドから常に周囲に声をかけて、ナインの集中力を無意識に持続させているところだ。ただ欲を言えばもっとスポーツマンシップにのっとった紳士的な言葉を発してほしいのだがこのさい文句は言わない。総司が荒っぽいことを言ったとしてもすぐにセンターを守る雄大からフォローが入る。
試合が中盤に近付いてきた五回表の守備。二連打を許した総司はこの試合初めての四球を出してノーアウト満塁の最大のピンチを迎えていた。康太はタイムをとり太一を呼び寄せる。
「まず内野をマウンドに集めるんだ。この場面失点は仕方ない。でも間違っても長打は打たれちゃいけないから間を十分にとってテンポをかえること。結果的に押し出しになってもいいからそのかわり低めを意識させてゴロを打たせるんだ。内野陣は前進守備でゴロをとったらバックホームを徹底させてほしい」
頷いた太一はそのまま審判に選手をマウンドに集める許可をえて康太の指示を伝えるため内野手を集めた。我ながら拙い指示だと思う。果たしてあの説明でみんなに伝わるだろうか。改めて伝令の難しさを実感する。
マウンド上を眺めながら康太は雄大をマウンドに上げるか悩んでいた。
「ピッチャーは彼しかいないのかね」
金井の言葉に一瞬交代がちらついたが中途半端にマウンドに上げて、打ち込まれた時のことを考える。雄大は責任感が強い男だ。他人のミスや失敗には寛容だが自分の失敗を受け止められるだろうか。もし過度に責任を感じて持ち前の明るさが消えてしまったら、チームの今後の士気にも関わってくる。
「一応雄大がいますが、ここは間宮に任せます」
不安げな金井を横目に康太は腹を決めた。こんな時荒田監督ならどうしていただろうか。どんな場面でも動じずに戦局を見守る監督の姿が脳裏をかすめた。
「みんなでここを抑えてみようぜ!」
センターから雄大の声が響く。マウンドから散った選手たちが応えてそれぞれのポジションに戻り前進守備をとった。
康太はアドバイスと称し、試合中にベンチ裏に総司を呼び出していた。
「ピンチになればなるほど、ピッチャーははやくピンチを脱したい一心で投げ急いでしまう傾向がある。そんな時こそ落ち着いて逆にバッターをじらしてやるんだ。精神的にこちらが優位であると錯覚させる。頭の中でゆっくり十秒数えてから投げてやれ」
その時は気だるそうに聞いていた総司だが内容はしっかり理解しているらしい。康太の指示通り、今までテンポよく投げ込んできた総司が、あからさまにゆっくりと間をとった。セットポジションに入りグラブを胸の前に制止させる。康太はポケットに入れておいたストップウォッチのスタートボタンを押した。三秒、四秒、さらに六秒、七秒。打ち気なバッターからすればこの僅か数秒は倍以上に長く感じるだろう。
「タイム!」
じらされたバッターはたまらずタイムをとった。九秒三、ストップウォッチが記した数字だ。大学野球や高校野球には迅速な試合進行が求められるため二十秒ルールというものが定められている。投手はランナーがいる時に二十秒以内にバッターに投球を行わなかった場合に審判に警告を受ける。同じ投手が三度目の警告を受けると罰則としてワンボールが宣告されるというものだ。
「さっさと投げろよピッチャー!」
「ビビってんじゃねーぞ」
「遅延行為だ!」
久しぶりに相手からヤジが飛んだ。その声にセットポジションを解いた総司は相手ベンチに向かって中指を突きたて、親指を地面に向けた。相手をこれでもかと侮辱する行為だ。
「きみ!」
主審の中村さんが血相を変えて即座に試合の進行を止め、マウンドに歩み寄った。すぐさま、キャプテンの雄大がセンターから快足を飛ばして総司に近づいていく。
「さきほどからきみの態度を見ていたが、今の行為は最低だ。グラウンドでは常に相手に対してリスペクトをはらい、高校生らしく真剣にプレーをするように」
中村さんが総司の前まで来て、諭すように言った。思わず感情的になった自分を落ち着かせる兼ね合いもあったのだろう。
「すみません、こいつカッとなると周りが見えなくなる奴でして」
帽子をとって深く頭を下げたのは雄大だった。センターから走ってきたばかりで息は切れて喋りにくそうに言った。
しかし、注意を受けた総司の方は納得していないらしく、反抗的な目つきで何かを言い返そうとしている。
その背中を雄大がグラブで叩き、頭を下げろと促す。
「まったくあの選手は困ったものだなぁ、彼がうちのエースでいいのかね」
ベンチで金井が嘆いた。
「根はいい奴なんですよ、だけどまだ中二病が抜けなくてすみませんしっかり指導します」
条件反射で康太は金井に謝った。試合が再開されると、相手ベンチはヤジの代わりに味方の声援の声を増やした。それでもまだ何人かの選手の挑発するような声が聞こえてくる。総司はそちらに視線をチラリと向けたが、気持ちはバッターにいっていた。
「ここを全員で抑えるぞ!」
雄大の声が総司を後押しする。総司の右足が高々と上がり、ランナーは大きく塁を離れた。初球はストレートだ。太一のミットが構えたアウトコース低めとは全くの逆球になったがバッターは明らかに振り遅れて空振りした。
「ナイスボールだ!」
思わず叫んだ。逆球とは言え気持ちの入ったいいボールだ。
「総司ナイスボール!」
セカンドの翔がグラブを叩きながら賞賛の声を送る。すると次々にピッチャーを後押しする声援がグラウンドから聞こえてきた。
「すごいね、菱田くんこれが野球なんだね」
金井はこみ上げてくるものを抑えることが難しくなって声を震わせていた。
敵味方の声援が入り混じってボルテージが上がる中、総司が二球目のセットに入った。康太は太一にカーブのサインを送ろうとしたが、思いとどまりバッテリーの選択を尊重した。総司はオレのストレートを打てるものなら打ってみろという気迫がマウンドからだだ洩れている。こういう場面は冷静にかわすピッチングを心掛けて、精神的な余裕を相手に与える方が後々有利に働く。しかし康太にも経験があるが力と力の真っ向勝負を挑もうとしている選手にその選択肢はない。
「こうなると監督の出る幕なんかないか」
そう言った直後のことだった。総司が投じた二球目はやや高いが太一の構えたアウトコースにコントロールされていた。バッターはボールの勢いに負けつまったあたりはライトに力なく上がる。銀二が前進する。この距離ならばタッチアップも難しいと判断したランナーは打球の行方を追いながら塁間でハーフウェイをとっていた。康太がランナーの動きに目をとられていた時、横に座る金井から「あ!」という驚きの声が鼓膜を揺らした。 康太がグラウンドに視線をやるとライトの銀二が転んでいて、後逸したボールをセンターの雄大が必死に追いかけている後ろ姿が瞳に飛び込んできた。
「てめぇ何やってんだ!」
総司はマウンド上から怒りを爆発させる。
「総司すぐにホームのカバーに走れ、セカンドは中継を急げ!」
康太は思わず叫んだ。ランナーは悠々とホームに帰ってきて、中継プレーがもたつく間に打ったバッターもホームに帰ってきてしまった。
「菱田くん……」
「これも野球なんですよ、校長先生」
康太はライトのずっと向こうを見つめていた。さきほど一瞬だけ見えた女子生徒の面影を捜していた。
『これも、これも、野球なんだ。自分の思い通りに行くほど甘くないスポーツなんだ。俺は十分に理解していたはずだったのに』
康太はその後も崩れていく試合を持ち直す術を知らず、ただされるがままのナインたちの様子を黙って眺めているしか出来なかった。
結果として五回コールドゲームに終わった。あの後不貞腐れた総司はフォアボールを連発させ急きょマウンドに上がった雄大が打ち込まれながらも後続を抑えたが、チームに入った亀裂は余りにも大きかった。
「みんな負けはしたがよく善戦した、立派だった。初陣で私はいいものを見せてもらったよ……」
ベンチで落ち込む選手たちに金井が激励の言葉をかけるが、気休めにもならないだろう。
「間宮くんは?」
総司を探す金井だがベンチの中に彼の姿はなかった。そういえば試合が終わりベンチに戻ってきた総司はエラーをした銀二を鋭い視線で睨みつけるとそのままどこかへ行ってしまったようだ。
「菱田くん、ちょっといいかな?」
康太が一人マウンドの整備をしていると主審を務めてくれた中村さんが近づいてきた。
「今日はすみませんでした」
「そうだな、あのピッチャーの態度はしっかり反省しないといけないな。でも気持ちの入ったいいボールを投げていた。面白いピッチャーだよ。あとはもっと大人になれば勝てるピッチャーになれるな。彼にはその素質が十分にあると思う」
「ありがとうございます」
康太は深々と頭を下げた。
「いいんだよ、それよりきみ、大学の練習は……」
それまで穏やかな対応をしていた康太の顔が一転して険しくなった。それでも口を開き質問に答えると中村さんは全てを察したように。
「そうか、あれから……」
二人の間を乾いた砂ぼこりが吹き抜けて、空高く舞い上がって消えた。
翌日、康太は大学のグラウンドで二軍の後輩たちの練習試合の手伝いで三塁審を任されていた。康太の大学は地方リーグとはいえ前年度まで二年連続で全国大会に出場をしていた強豪だ。そんな大学の野球部に所属する康太の後輩たちも逸材ぞろいの選手たちばかりだった。
「菱田、五回になったら三年と交換でファールボーイな」
「あいよ」
二塁審の駒井が投球練習の時間を利用して声をかける。五回裏、この回で交代か。康太はポケットに忍ばせていたスポーツドリンクを口に運ぶ。この炎天下の中、野球をしようなんてこの国はどうかしている。この回の先頭バッターは前の打席アウトコースの球を強引に引っ張ってレフト前に運んだ奴だ。
「須之内、三塁線詰めとけ」
「はい?」
サードを守る二年生の須之内にさりげなく声をかけた。康太はこの回からマウンドに上がる小林とマスクを被る藤木の一年生バッテリーを見つめる。
「小林はインコースにくい込むスライダーが武器だ。藤木の奴がインコースにミット構えたら三塁線を意識しとけよ」
「ウス」
須之内はそれだけでだいたいの意味を理解したらしい。たしかこいつも群馬県の名門高校出身で甲子園経験がある。こんなすごい経歴を持つ奴でも二番手以下とは。康太は相手バッターの引っ張りの打球がこちらに飛んでくることに備えて片方の足を三塁線の外側に置いた。ストレート二球で追い込んでバッテリーはすぐにサイン交換を終え、キャッチャーの藤木はインコースにミットを移動させる。相手バッターのバットがインコースに甘く入ってきたスライダーを捉えた。凄まじい打球が三塁線を襲い、康太はフェアを申告した。
本来ならこの打球はあっという間にレフト線に抜けていき悠々二塁打になるはずだが、あらかじめ塁線付近に守備位置を移動していた須之内のグラブに吸い込まれるように入っていく。
「アウト!」
一塁審の臼井がコールした。
「ナイスサード。バッテリー攻め方が幼稚すぎる三球勝負行く場面か、変化球で振らせて終わりだろうが!」
ベンチから星コーチの叱咤が聞こえる。ポンポンと追い込んだならこの手のバッターに、もうストライクはいらない、ボール球になる変化球でバットは面白いように回る。実力がある一年生とは言え、配球はまだ高校生か。
「菱田さんあざーす」
「ナイスプレー、これで速く終わるわこの回も」
星コーチに見つからないようにこっそり欠伸をした。須之内はボール回しのボールをピッチャーにかえすと困ったように言った。
「もうちゃんとしてくださいよっていうかなんか今日テンション低くないすか?」
「まぁ朝からいろいろあってな……」
いろいろ、そういろいろあったのだ。
少しここで回想に入る。朝の出来事だ。康太は寮から大学までの道のりを全速力で走っていた。風の中に涙を吹き飛ばしながら、彼女との四年間の思い出を振り返りながら。別れは突然だった。いつものように朝食を食べ、トイレに行き、駐輪場に訪れてみると、康太の愛機「ことね一号」の姿が消えていた。その瞬間、康太は昨日の夜の出来事がフラッシュバックのように脳裏に飛び込んできた。
「俺は、ことねにカギをかけていなかった」
つぶやく。その場に膝から崩れ落ちた。
「菱田さん?」
練習の時間帯が同じだったため朝一緒にグラウンドに行く約束をした上宮が四つん這いになって落胆する康太に声をかけた。
「ことねがいなくなってしまった」
「あ、そっすか」
上宮は自分のマウンテンバイクがしっかりあることを確認してサドルにまたがった。康太はまだショックで動くことすらできない。
「何ふざけてんすか? 遅刻しますよ」
「ちょ、なぜだなぜことねはいなくなったんだ」
「鍵つけ忘れたんでしょ、春日部じゃよくあることっす。カギかけなくてもパクられないのは菱田さんの田舎ぐらいっすよ」
「俺はどうしたらいいと思う?」
「とりあえず、荷物運んであげますから走ってください」
そして今に至るわけだ。こんなことなら、休みの日にもっと車体を磨いてやればよかった。タイヤのチューブを交換してやればよかった。後悔先に立たず。そんな言葉が心に浮かぶ。三人で終わった五回裏の守備。康太はようやくベンチ裏に待機していた上宮に交代した。
「四年生の方は今日はもう終わりです」
上宮と同じ三年生の学生コーチである長谷部がそう伝えた。
「監督さんが言ったのか?」
主務の臼井が信じられないと言った表情で訊き返した。
「はい、今日は三年生でその後もこと足りるんで、まぁここんとこ監督さんもグラウンド出っぱなしでしたし、体調崩したのかも」
康太たち四年生は一様に喜びを爆発させハイタッチした。早く帰れるならそれに越したことはない。しかし荒田監督の具合は心配だな。
「あ、菱田さんは監督室です」
そそくさと部室に帰ろうとした康太を長谷部が呼び止めた。他の四年生は巻き込まれまいと大股でその場を去っていく。くそっ薄情者め。
「なんで? おれ怒られんの?」
「さぁ、でもはやくいった方がいいですよ」
長谷部に促されるように康太は監督室のドアの前に立ち、一度深呼吸してドアをノックした。
「入れ」
「失礼します菱田です。お呼びでしょうか」
「よう、試合負けたらしいな」
康太は背筋を凍らせた。試合に負けたこと以前に試合があったことを教えたのは昨日電話してきた石坂先生だけだ。
「なぜそのことを」
「石坂先生に聞いた」
「内緒だって言ったのに」康太は表情そのままに誰にも聞こえない声で言った。
「何か言った?」
「いえ、なにも」
沈黙。康太はこの空間の静寂がなりよりも苦手だった。荒田監督を見ながら苦虫を嚙み潰したような顔で不気味な笑みを浮かべるしか術を知らない。
「これを読め」
手渡されたのは一冊の本だった。題名は「最高のコーチは教えない」
「お前はバカじゃないから少しは理解できるだろう、どうせなら野球をもっと勉強してみろ」
「はい」
それだけ言うと荒田監督は立ち上がり荷物を持って康太に近づいた。
「じゃあ、俺は体調悪いから帰る」
「お、お疲れ様です。駐車場まで見送ります」
グラウンドのすぐ近くにある白いレクサスが太陽の光を反射させて淡く光っていた。荒田監督は運転席に乗り込むとすぐにクーラーをつけた。二秒後、思い出したように窓ガラスをあける。
「公式戦で負けたらまじで旅行なしな」
「覚えてらっしゃいましたか」
「俺は冗談を言わん」
音もなく発信するレクサスを見送る康太の表情は晴れない。その理由は、愛機「ことね一号」を失っただけじゃないのだ。
寮までの帰り道を一人で歩く。手持無沙汰を解消するために荒田監督にもらった本を読みながら康太は田んぼが広がる駅までの長い一本道を進んでいた。
「まったく監督にも困ったもんだ。オレの気も知らないで」
そう言って小さな小石を田んぼにいる鷺に向かって投げる。空高く舞い上がった鷺を見て笑う。これは康太ができる荒田監督への最大限の悪態だった。しかし康太はこの状況に心底参っているわけではなかった。むしろ荒田監督に学生コーチになってから選手時代よりも目をかけてもらって嬉しくも思っている。
荒田監督は、創部時三人しかいない野球同好会から創部十五年でリーグ優勝するまでの実力に育て上げた苦労人だ。この前の雑誌の取材では記者から「名将」という言葉が聞えたが、名将と聞くと大概の人は高い指導力があり、その技術の高さゆえのカリスマ性があるとイメージするだろう。はっきり言おう荒田監督にそんなものはない。
康太が四年間この野球部に選手として籍を置いていた時、荒田監督が選手に対してなにか特別なことを指導するところを見たことがないのだ。ただ、荒田監督のすごいところは選手の調子が良かった時の状態を覚えていて、調子が悪くなった時にすぐにどの部分が調子が良かった時と違うかを瞬時にアドバイスできるところだった。
荒田監督は選手が気付かないうちにアドバイスを送る。これは本当にすごいことである。
プロ野球でもコーチの指導によっては、伸びる選手と伸び悩む選手がいるように人それぞれにあった練習法があり、大学野球、特にプロ野球ともなれば実はその練習法は自分が一番よく知っているのである。そう真の指導者とは教えないのだ。これは今読んでいる本の著者プロ野球のコーチである吉井理人氏の言葉を借りた。
また荒田監督は指導者である前に人格者でもある。誰よりも早くグラウンドに顔を出し、グラウンド整備を始める。さらに二軍選手の練習までしっかり見届けてグラウンドを後にする。自身も学生時代に選手を引退し学生コーチを経験したこともあり、補欠や裏方にまわった選手の理解があるので康太のような選手の扱いが上手く、常にモチベーションをあげてくれた。そんな監督を最後のリーグ戦で漢にしたい康太の気持ちは四年生の誰より強い。
午前中を自主練習にして午後から顔を出した康太だったが、グラウンドに銀二の姿はなかった。同じ学校の朔に様子を尋ねると、授業が終わってすぐに帰宅しているらしい。
「実は去年の夏の大会、僕たちが出場できなかったのは人数が足りなかったのではなく三年生の部内暴力が原因でした。銀二はその被害者なんです」
朔はみんなの前で誤解しないで聞いてほしいと前置きしたうえで銀二のことを話した。入学当初から銀二は成績も優秀で運動部で唯一、進級後はスーパー進学コースに推薦されることが決まっていたらしい。
「当時、野球部の三年生はみんな大学の指定校推薦をもらえず、一般入試で有名な大学にいけるような学力もありませんでした。親や学校からも見放されて、野球部はそんな三年生の不満の掃き溜めのような場所でした。そんなところに優秀で将来を期待された一年生が入部してきたんです。銀二はすぐに三年のいじめの標的になりました」
朔は過去の出来事を思い出すように淡々と話していた。三年生にとって銀二は自分たちより野球が下手だったこともあり、いじめる大義名分をえて、毎日のように嫌みや暴力を繰り返していたという。最初は我慢していた銀二だったが、ある日三年生の一人が謝って銀二の右まぶたを殴ってしまった。その腫れた右まぶたを見た銀二の父親が学校に乗り込んできたという。銀二の父は今回のことを高野連に報告し、知り合いの新聞記者にも伝え地元紙の記事にすると学校側を強く非難したのだ。
「世間体を気にした学校は、顧問と当時の三年生を退部処分にして夏の大会を辞退しました。しかしそれでも納得しなかった銀二の親がその後も野球部に干渉してきて、僕たちは銀二に関わることが出来なくなったんです」
それを聞いて、康太だけではなく、他の選手たちも複雑な顔つきになった。
「そんなの銀二は悪くないじゃないか、その三年は許せない」
雄大は見たこともない三年生に怒りをあらわにした。
「だから何だってんだ、そんなの結局あいつの問題だろ。それよりどうすんだ八人じゃ試合も出来なぇし、俺はぶっちゃけ俺が投げる試合で勝てればそれでいいんだ。九人揃えば誰でもいいんだよ。それが出来ないならお前ら同じ高校なんだからはやくあの腰抜けを連れてこい」
「総司お前銀二は大切な仲間だろそんなこと言うな!」
心無い総司の発言に雄大の表情は険しくなった。チームの火種になる問題児だから、今の発言の意味もなんとなく康太には伝わったが、真っすぐすぎる雄大には理解など出来はしない。
「仲間って、こんな寄せ集めのチームで仲間もくそもねぇだろ、俺は今早く投げたいんだ。監督話し合いはいいから練習しようぜ」
そう言い残して総司は勝手にアップを始めだした。その表情には若干の焦りが垣間見える。康太は苛立つ雄大と困惑する選手たちをなだめて練習を再開させる。夏の大会開幕まで約一ヶ月を切った。このままでは絶対に勝てない。康太はグラウンドを見つめこの状況を打破するきっかけを捜していた。
「なにもかも上手くいかない」
独り言をつぶやき空を見上げる。さっきまで晴天だった空色は今、薄っすら灰色の雲がかかり始めていた。康太は早めに練習を切り上げることにした。気持ちがのらない練習ほど身にならないものはない。まして野球のボールは丸いから、ギクシャクした心の凹凸をあざ笑うようにすり抜けていく。選手たちはみな試合の後で疲労の色が見えていたし、康太自身も気分がどうしてものらなかったからだ。駅の改札前まで歩みを進めたがしかし、康太は回れ右をして再び桜高校のグラウンドに自然と足を運んでいた。
あの試合の後、総司は結局グラウンドに戻ってこなかった。タイムリーエラーをしてしまった銀二は、何も言わずミーティングが終わってすぐにグラウンドを去った。雄大がチームのみんなを励まそうと必死に言葉数を増やしたが、余計にチームの雰囲気を気まずくしただけだった。
「グラウンド整備するか」
校門前でつぶやく。こういう時監督として何ができるか歩いている時間で考えた。考えた結果、荒田監督の背中が思い浮かんできた。康太は誰もいないはずの校舎に足を踏み入れグラウンドへ向かう。雄大はグラウンドで太一と共に自主練に励んでいた。
「おーい。二人とも」
康太は思わず駆け寄った。マウンドに立っていた雄大は帽子をとってこちらを振り返る。
「監督、こんにちは」
「どうしたんだ、練習はもうおしまいだぞ」
「いやなんかじっとしてられなくて」
康太は太一からボールを受け取り、大きく振りかぶった。放たれたボールは太一の構えたミットに吸い込まれていく。
「太一、ここ数日でキャッチング上手くなったな」
乾いた皮の音の良い音だ。投げたがりの総司のボールを毎日のように受けていたおかげもあり雄大のブレ球にも少しずつ対応できてきている。
「太一どうだ今の球は!」
「うん、ナイスボールだよ」
そう言われた雄大の顔は穏やかなものではなかった。首を傾げどこか物足りなさを感じている。
「監督、やっぱり俺の体格で総司のような球威があるボールは投げられないんすかね?」
康太は雄大を見つめ一度息をついた。確かに雄大のボールは手元で微妙に変化する。バットの芯を外し、簡単にジャストミートされないのは最大の強みだ。しかし雄大の球質はピッチャーのそれとはかけ離れている。スピードは総司と同等のものだが、雄大の体の回転運動は典型的な横回転だ。そのためにブレ球の恩恵を受けているが、それだけではピッチャーとして通用はしないのだ。まして金属バットを使う高校野球で僅かにバットの芯を外したとしてもそもそもの球威がなければスイングのスピードに押し負けてしまう。
「雄大、お前はそもそもピッチャーじゃない、長いイニングを投げぬく力はないんだ」
「それでも俺はチームを救いたい。それに甲子園に行くには総司一人の力だけじゃなくもっと投げれる奴が必要だと思うんだ」
まっすぐな眼差しだ。その瞳には強い信念と固い決意が込められている。康太は雄大の瞳の奥に少し前の自分の面影を感じていた。
「サイドスローにしてみろ」
「サイドスロー?」
康太は雄大からボールを受け取り、マウンドのプレートに足をかけた。
「太一いくぞ!」
康太はノーワインドアップから足を振り上げ、上半身を捻じり背中を太一に向けた。体重移動が始まって振り上げた足が地面に着地するまで上半身の捻じりをそのままに、足が地面についた瞬間一気に捻じりを解放させた。
「少しスピードは落ちるが、この投法なら雄大のブレ球の効果をフルに活かせる。上半身を捻じることによってわずかだが球離れの位置をバッターに悟られることもなくなってタイミングを狂わすこともできるからな」
「監督……」
雄大の瞳が分かりやすく輝いた。この前の練習試合で打ち込まれてからこいつにも思うところがあったのだろう。
「よし! 太一さっそく練習だ行くぞ!」
雄大は太一のミット目掛けて全力で投球する。
「まだ上半身の解放がはやいぞ、グラブのほうの手を上手く使って捻転の解放を遅らせるんだ」
「はい」
「そうそう、もっとあからさまに横回転を意識して……」
「はい!」
愚直で何も疑うこともなく一心不乱に野球に打ち込む雄大を見ていると、康太は自分の得た知識や経験を教えてあげたくなる。それはただ技術だけでなく、野球の素晴らしさや、野球から学べる人生観。そして栄光の光の裏にあるテレビやアニメでは決して描かれることがないヒーローになれなかった者の苦悩や失意。いややめておこう。康太は暗闇の裂け目からもれる淡い光をいつまでも見守っていたい気分だった。その光は周囲を絶望の闇に包まれれば包まれるほど強く輝く希望の光に見える。
「監督今のはどうですか?」
「あぁいい感じだ」
親指を立てる。雄大は嬉しそうに笑った。
杉戸工業高校との練習試合のあとで中村さんと交わした僅かな時間の会話が康太の心にずっと引っ掛かっていた。ケガのことを両親以外の人に話したのは、きっとあれが初めてかもしれない。
「そうかきみもあれからずいぶん苦労をしたんだな」
そう言われたからといって、事の成り行きを詳しく説明しなければならないわけではなかった。万感の思いを込めて「はい」と答えればそれでよかったのかもしれない。しかし、康太にはそれが出来なかった。それは自分自身をはぐらかすような気がしたからだ。
「試合でホームに突入した時にクロスプレーになりまして、そこで右足の靱帯をやってしまいまして」
ケガの事実をその通りに伝えた。
「それは残念だ」
中村さんは康太の顔を見つめながら悲し気な顔を浮かべた。
「リハビリ頑張ってなんとか半年で復帰したんですけど、もうレギュラーどころかメンバーに選ばれる可能性も残っていませんでした。選手としての僕の居場所はどこにもなくなってしまって、それで春季リーグ戦が終わったとき裏方にまわりました」
そう言って軽く右足を叩いた。すべてが正確なわけではないが、居場所がなくなったことは本当だ。しばらくしてから中村さんは頷いた。これ以上質問するのは野暮だと思ったのだろう。
「未練はもうないのかい?」
「えぇ、もう僕の野球は終ったんです」
再び頷いた中村さんの目に、うっすらと涙が溜まっていた。
高校から帰宅し寮の部屋でのんびりしていると久しぶりに父からラインのメッセージが来ていることに気が付いた。そこには「気は心。なんかうまいもんでも食え」と送信されたメッセージと通帳の写真が添付されており、一万円の数字が刻まれていた。その写真に入り込んでいた父の親指の指紋は研磨材の影響で黒ずみ拡大しても認識できないほど消えていた。
田舎で小さな町工場を営んでいる康太の父は曲がったことが嫌いな厳しい人だった。昔ながらの頑固者で酒もたばこもやらない堅物。そんな父と康太が唯一上手にコミュニケーションをとれたものが野球だった。高校時代、自身が選手として甲子園のマウンドで躍動した父はプロからも声がかかるほどの名選手だったらしいが、連投に次ぐ連投で肩を壊し、その後野球を忘れるように実家の後を継ぎ仕事一本の生活を送ってきた。そんな最中、自分の息子が野球をやりたいと言ってきたことはケガによって志半ばで夢を諦めた父にとっても救いだったのかもしれない。
康太は机の上に飾ってあった陳列品に見入っていた。その中の一つに父と並んで映っている写真がある。この写真は康太が高校三年生の最後の夏の大会に出場した時のものだ。決勝戦をかけて戦い負けた直後に試合会場の球場の外で撮影された。最後のバッターとして打席に立ち夏を終えた康太は悔しさに涙を浮かべ、その姿をさらさぬよう必死に強がって仏頂面を決め込んでいる。最後の瞬間一塁にヘッドスライディングしたときについた泥だらけのユニフォームがあの夏の熱戦を思い出させてくれる。仕事を抜け出し応援に訪れた父は、作業着姿で、息子の肩に腕を回し慣れない笑顔を浮かべていた。本来なら康太も高校卒業後に就職して家業を継ぐか町役場で働くはずだった。
しかし康太は更にレベルが高いところで野球を学び、プロを目指したいというかねてからの夢を諦めることが出来なかった。「大学で野球をやらせてください」その一言が簡単に言えるほど経済的に豊かな家庭ではないことを康太はよく知っている。まして弟の高校入学を控えているのに四年間で入学金や授業料、さらに寮費や設備費などで一千万近くもかかる大学へ進学なんて口が裂けても言えなかった。
成績がよく、簿記の資格を持っていた康太は学校の推薦をもらい町役場に事実上の内定を承認されていた。担任の先生とも話し合いを済ませ進路は父を交えた進路相談会で最終決定されるはずだった。
「うちの息子は進学します。野球を続けるんです」
父の口から出てきた言葉に康太は衝撃を受けたことを今も忘れていない。
「昨日母さんから聞いたよ、お前引退してから一部リーグに所属する大学のパンフレット見ていたそうじゃないか」
進路相談会が終わった後、父が車の中で康太に静かな口調で言った。
「でも、家にはそんなお金……」
康太がそう言いかけた時、頭に重いものの衝撃が走った。康太にはそれが父のゲンコツだと分かった。
「子どもがそんなこと気を遣うなやりたいことをやれ、お前には幸いそれができる体と強い思いがある」
「でも一千万はかかるんだ……」
情けない声を口からもらし康太は父の横顔を覗いた。
「まだセレクションをやっている大学はある。なのに何もしないで諦めることはない。それにお前にはオレが見ることが出来なかった景色を見て欲しいんだ。ここにいたんじゃ見ることができない景色を康太の目で見て来い。その経験はこの先の人生で必ずお前を助けてくれる、それに比べれば一千万なんて安いもんだ」
父はそう言って微笑んだ。思い出すと涙がこぼれそうになる。入学金を工面するために親戚中に頭を下げて回っている父の姿を見たとき康太は胸に誓った。必ずまたグラウンドに立ち今度は神宮球場で父に自分がプレーをしている姿を見せること。必ずプロになって恩返しをする。そのために全てをかけて練習に励んできた。その挑戦があっけなく終わった。
「つらい時、苦しい時は根っこを伸ばしてその場でぐっと踏ん張るんだ。今の環境が優れなくても根を伸ばし続けていれば光が当たった時花を咲かすことができる。野球の神様は努力しているものを絶対に裏切らない」
ケガをして何もかも諦めかけていた康太を励ました父の言葉。康太はずっとこの言葉を糧につらく苦しいリハビリも耐えて頑張ってきた。
「父さん、俺にも花は咲くんだろうか? 野球の神様は本当にいるのかな。ごめん」
不意にさまざまな思いが押し寄せ心の堤防があふれ出しそうになる。
康太は大きく深呼吸をしてから、コップ一杯の水を飲み干した。
そのとき、玄関からドアをノックする音が聞こえてきた。
「菱田さぁん飯行きましょうよ」
「なんだ上宮か」
ドアの向こうに立っていた上宮は黒縁の眼鏡をしていた。どうやら勉強がひと段落したらしい。
「なんだとは何すか、せっかく可愛い後輩がこうやって夕飯の誘いに来て上げたってゆうのに」
上目づかいで言ってきやがった。これが可愛い女の子なら文句ないんだけどなぁ。康太は何も答えずそのまま十秒ほどすぎた。
「あぁそうか今日は飯がない日か」
日曜日の夜と月曜日の朝は練習が休みなので寮の食堂もやっていない。
「何言ってんすか、あれもしかして菱田さん寝ぼけてます?」
康太はハッとして瞼をこすった。後輩にセンチメンタルなところを見せるわけにはいかない。
「別にぃ、何でもないけどもぉ」
「はぁ、はっきりしませんね、そんなんだからいつまでも卒業できないんですよ」
「いやいや、それと俺が童貞なの関係ないからね、っていうかお前もチェリーボーイのくせに」
康太は声を荒げた。童貞をいじられるのは別にいいが、同じ穴のムジナである上宮だけにはいじられたくないのだ。
「え、僕はこの前卒業しましたよ」
「嘘でしょ」
「マジっす」
「相手誰だよ」
「地元の子っす」
「えぇ、じゃあなに付き合ってんの?」
「いいえ、友達っす」
「お、お前、と、友達とそのお前なんだ。そんな関係になって付き合ってないとか、お前、不良か!」
「菱田さんおっぱいって……」
「やめろ、聞きたくない」
康太は反射的に耳を塞いだ。本当はその話の続きを人一倍知りたいのだが、楽しみはとっておきたい気持ちと、後輩に先を越された劣等感に板挟みされさっきとは違う意味の涙がでてきそうだ。
「まぁ菱田さんをいじるのはこのくらいにして飯食い行きましょう。ほら最近できた家系のラーメン店」
「俺はラーメンなら二郎系の気分なんだが」
「はぁ、これだから童貞は」
「いや、関係ないからね! あと二郎系のファンの人みんな童貞みたいな感じになってるから」
このあと壮絶な言い争いの末、家系ラーメンに歩いて行くことになった。ニューオープンということもあり少し店の外で待っていたが案外すぐに名前を呼ばれた。ラーメン屋なだけに回転率は速い。食券を買い、席につくとまず麺の固さ、スープの濃さ、油の量を答える。上宮は通ぶっていろいろリクエストしていたが康太は全て普通と伝えてラーメンが運ばれてくるのを待つ。
「お待ちどう様です」
「あ、どうも」
「菱田さん、割りばしっす」
「サンキュー」
こってりした濃厚豚骨醤油ベースのスープに太いストレート麺が絡み合う、一口すすれば疲れた身体に響き渡るようなおいしさもさることながらトッピングされスープに浸して食べるのりは絶品だ。
「菱田さんもこのストレートな麺を見習ってください。なんすかそのちりちりな髪の毛」
「菱田さんこの麺めっちゃシコシコしてますよ。昨日の夜の菱田さんみたいっすね」
「菱田さん、ねぇ菱田さん、びっくりするかもしれないすけど、思ってたより下にあるんで入れるとき気を付けてください」
上宮が爪楊枝が置いてある台を指さして言った。康太はいいかげん反応するのもばからしくなってだんまりを決め込んでいたが、さすがに今のは腹が立つ。画面越しでは規制がかけられているため康太は実物の正確な位置を見たことがないのだ。
「なぁ上宮、きみさっきから露骨すぎやしないかい?」
「そうっすかね、考えすぎっすよ」
終盤に差し掛かり、上宮はレンゲでスープの海をほじくり返す。具材のすくい残しを確認してどんぶりを抱え一気にスープを飲み干したあとで、上宮は真剣な表情で振り向き康太をみつめた。
「なんかあったんすか昨日からずっと浮かない顔して」
その問いかけに康太はすぐに答えられずすかさずどんぶりを抱えこむ。
「それはことねがパクられたからで」
「それだけじゃないはずっす。だって菱田さんのツッコミがいつもよりキレがありません。なんなんすか『二郎系のファンの人みんな童貞みたいな感じになってるから』って一ミリも面白くない。それがなによりの証拠っす」
核心を突かれ気まずくなった康太は一気にスープを飲み干した。途中むせたが構わず濃厚エキスを胃の中に流し込む。これで確実に明日の朝お腹を下すだろう。それにしても上宮の奴、ツッコミのダメ出しをこの場ですることもないだろう。あぁなんて恥ずかしい、穴があったらいれたい……間違えた。入りたい気分だ。
「何か悩んでいるなら教えて欲しいっす」
その声音には今までとは違い真剣な響きがあった。どうやら俺は後輩にいらぬ気を使わせてしまったらしい。
「別に彼女が欲しくて悩んでんじゃないよ」
少し間をおいて康太はおどけて見せた。
「じゃあなんでそんな顔してんすか」
上宮が再び迫る。その気迫にのまれまいと拳を固めた。
「お前には関係ない」
康太はどんぶりを配膳台の上に置くと「ごちそうさんです」と店主に挨拶し席を立った。
「ちょっと菱田さん!」
「行くぞ上宮他に待っているお客さんに迷惑がかかる、長居は無用だ」
できるだけ低いトーンで伝えた。もうこれ以上尋ねてくるなという意味合いも込めて。返事の代わりに背後からどんぶりを配膳台に置く時の音とは思えない鈍い音が聞えて強い力で肘を掴まれた。少し体がよろけて後ろを睨めつける。
「まじであんた一人で解決できないから言ってんすよ」
上宮は真剣な表情で訴えかけてきた。
「関係ねぇだろ。ましてお前には勉強があるだろ」
「そんなこと菱田さんに心配される義理ないっす。高校生の監督が上手いこと言ってないんでしょ、どうして手伝ってくれって言えないんすか」
さらに熱を帯びた言葉とともに、肘をさらに強い力で掴まれた。康太はその手を振り払うこともできず勢いに押された形で、上手く返事が出来なかった。
「菱田さん、あんたの野球はまだ終わってない」
「何を今さら――」
康太はそう言いかけて、押し黙った。頭では分かっていたはずなのにその先の言葉を吐き捨てることを憚られる。
「手伝わせてくださいよ、一緒に頑張ってきた仲じゃないすか」
上宮は康太の肘を離し、口元を緩めた。
「お前がそこまで言うほど大それたことしてんじゃねぇよ」
いつの間にか形勢がひっくり返ってしまった。康太は尻切れトンボになってため息をつく。
「石坂先生に聞きました。そもそも菱田さん一人でどうにかなる問題じゃないんすよ」
そう言って上宮は康太の背中をぽんと叩いた。後輩とは思えぬ頼もしさに余計腹が立つ。
「お客さん、盛り上がってるとこ悪いんだけど他のお客さんの迷惑になるから外でやって」
背後から店長の声がした。振り返ると、怪訝そうにこちらを遠巻きに二人を眺める視線を感じる。二人は一言謝ってすぐにラーメン屋を飛び出した。けっこう美味しかったのに、これで当分足を運ぶことが出来ない。
週明けの練習は雨のためにグラウンドが使えず、金井の判断で中止になった。それでも教育サポートのアルバイトで教室を訪れたが、彼女の姿はなかった。泉主任によれば彼女が無断で学校を休むのは日常茶飯事で、それでも午後から顔を出す機会が最近は増えていたという。
「今のままでは進級も危うい、だいたいそういう子はこの夏が終われば辞めていくよ。それに高校は義務教育じゃない、言い方は悪いが他の真剣に授業している生徒に支障がなくなればあまり問題じゃないんだよ」
泉主任の口調があまりに淡白なので康太は少し嫌悪感を抱いた。十年以上も教員をやっていると生徒の習性やその後の進路もなんとなく予測できてしまうのだろう。実際に彼女がいない授業は悲しいほどスムーズに進んでいった。
学校から駅までの道すがら雨の粒は五分前のものより大きくなっていた。カバンに入れておいた折りたたみの傘は思いのほか小さく、駅前のコンビニにつく頃には康太の肩はすっかり雨に濡れ服の色を変えていた。傘の先から滴る雨に視線を奪われ、伸びかけた前髪を大げさに後ろへかき分ける。コンビニの軒下でぼぉっと空を見上げて雨宿りしている女子生徒の顔に康太は憶えがあった。
「愛理さん、何やってんの?」
急に名前を呼ばれた彼女はびくっと肩を震わせて恐るおそるこちらに顔を向けた。体つきのいい男にいきなり話しかけられたらたとえそれが見知った人でも身構えるものだ。
「菱田さん? 今日は早いねっていうか練習は?」
「あぁ、この雨で中止になってね」
「そうなんだ」
「今日どうしたの? 学校にいなかったけど」
「別にいつものことだから」
なにか言いたげだったが、飲み込むように平然を装った。
「ねぇ雨が止むまで少し話さないか」
「別に菱田さんと話すことなんて」
うんざりしたように話す彼女に康太は思わず自分の胸の内をもらす。
「違うよ俺の悩みを聞いてほしいんだ。だからちょっと付き合ってよ、好きなもの奢るからさ」
コンビニ内の休憩スペースに購入したものを並べる。まさかタピオカミルクティーが一個三百円もするなんて驚いた。席についていきなり利きすぎる冷房に体温を奪われそうになる。それでも康太は年端もいかない女子高生に何の気兼ねもなくすらすらと今のチームの現状や大学の後輩にいらぬ心配をかけてしまったことなど、もやもやした胸の内を話せる自分が不思議でしょうがなかった。
「菱田さんも悩むことがあるんだ」
「まぁ大抵悩んでいるよ、自分の思い通りに行ったためしなんて一度もないし」
「でもいいなぁやりたいことがあるんだもん。私は将来特にやりたいこととかないし、この先も見つからないと思う」
「だから学校をやめたいって思ったの?」
「うん、だってやりたいことがないのに学校行ったってしょうがないじゃん」
彼女の言葉に康太は自分の高校時代を思い出していた。康太の日常は野球一色で将来プロになるという漠然な夢を追っていた。まさかそんな自分が野球とは全く関係ないメディア系の企業に内定をもらって春から社会人をやるなんてつい最近までは想像もつかなかった。夢を失い、それでも前を向いて就職活動に奔走していた時は思い描くことができない未来に押しつぶされそうになったこともある。でもそれができたのは、野球で鍛えた諦めない精神力であったり、困難を乗り越えた経験だったりした。きっと人はまだ見ぬ未来に最も恐怖を感じるのだろう。
「学校ってさ別に自分のやりたいことを見つける場所じゃないのかもね」
彼女はなにも言わなかった。康太は慈しむようなまなざしを彼女に向けていた。
「雨やんだかな、また強くなる前に帰ろうか」
康太はバックにしまっておいた折り畳みの傘を取り出して外に出た。彼女は傘持ってんじゃんと言いたげな顔で首を傾げる。どうやら彼女も自分の傘を持っていたらしい。
「やっぱ少し降ってんな」
コンビニと駅までの距離は五十メートルもない。傘をさしているのに彼女の背中は小雨に打たれていた。傘が前に傾き、体の半分が無防備に濡れている。康太はその背中に自分の傘をさしかけ、歩いた。
「偉そうなことを言ってきたけど俺だって本当にやりたいことなんて野球以外で見つかってないよ。でもさきっとまた見つかると思うんだ。そんな気がする。学校ってさ、本当にやりたいことが見つかった時にそれが実現できる力や知恵を学ぶところだと思うんだ。だから別に今焦って見つけることなんてないんだよ。きっと」
甲子園に行けずに消化不良で終わった高校野球、理不尽ないじめや暴力に耐えてようやく掴んだチャンスを活かせず、ケガをして燃え尽きることなく終わった大学野球。彼女に向けて送った言葉はそのまま過去の自分にかえっていくような気がした。
「試合見てたよ、負けたけど途中までは良かったと思う」
「うん、俺もそう思う。だからこれからなんだよチームも俺も、愛理さんだって」
「でもやっぱり学校は嫌い、ねぇ野球ってそんなに面白いの?」
彼女は立ち止まり振り返る。
「面白いよ」
即答した。仮に理由は、と問われたら特にこれといった理由が思い浮かばないが、もしかしたらだからこそ野球というスポーツは面白いのかもしれない。彼女は真意を測るように康太の目を覗き込み、やがてまなざしは穏やかになっていった。
「この夏の大会で俺たちの頑張りを見てほしい」
「考えておくよ、夏の大会が終わるまではとりあえずやめないでいてあげる」
「ありがとう」
そうつぶやいた彼女は振り返ることはなく駅に去って行く。康太は自分の言葉がどれほど彼女に伝わったか分からなかったが、勝たなくてはいけない理由が増えた気がして大きく息を吐いた。
上宮佐助がコーチとして練習を手伝ってくれることを心強く思った。真面目な性格で現役時代も一生懸命野球に取り組んでいた姿勢は康太にも引けを取らず、守備に関しては非凡な才能を見せていた。上宮はキャッチャーを除いてどこでも守れるユーティリティープレーヤーだ。現役を退いた後は勉強に励み、グラウンドにいないときは大概学内の図書館でよく見かける。身体能力が高く、それに奢らずに努力できる素質。上宮の加入によって、合同チームの勝利の可能性はずいぶん高まった。しかし、肝心の選手たちにとっては、上宮の加入を手放しで喜ぶことが出来なかった。銀二が練習に顔を出さなくなり、総司は相変わらず横暴でグラウンドの空気が重く、誰もが誰かに忖度していたため練習にも甚だ意気が上がらない状態だったからだ。
「上宮さんはどうして僕たちを手伝ってくれるんですか」
雄大だけは康太の後輩である上宮にさっそく熱いまなざしを送っていた。
「それは、きみたちの監督があまりにも頭が固くて素直じゃないから心配になってね。それにこの人現役時代にバッティングしか練習してなかったから、守備の時の教え方下手くそだろう」
「それはバッティングが俺のストロークポイントだったから……」
「たしかに」
「えっ」
太一が納得したように頷くと、選手たちはいっせいに康太のあら捜しを始めだした。
「融通利かないときあるよ、俺はもっと投げたいのに走れとか言うし」
「あと、たまに怖い顔してますよね」
「野球以外の会話ができないこともマイナス要素だな、どうせあれから勧めたアニメ見てねぇだろうし」
「ちょっとお前らやめろよ! 監督には監督の良いところいっぱいあんだよ!」
雄大がそう言って割って入ったが、ここまで言われてから同情させるのも心苦しい。
「うるさい、うるさい! ほらはやく練習するぞ、アップに行ってこい」
康太は軽く地団太を踏んで指示をだした。選手たちはぶつぶついいながらグラウンドに散っていったがその顔は明るかった。新たな仲間の出現に和やかな雰囲気に戻ったのは良かったが、問題はそこらじゅうにある。まずは銀二をどうにかしなければ。康太はまた眉間にしわを寄せみんなが言うところの怖い顔になった。
埼玉県の甲子園予選大会は七月十日に開幕する。組み合わせ抽選会はその約一か月前に行われ、参加校は選手登録の書類を提出する。この日を節目として、県下の高校野球部には新たな緊張感と高揚感が生まれ、練習にも一層気合が入る。
登録は、部長の金井と監督の康太を除いて二十名、記録員一名と定められていた。康太は抽選会三日前に、キャプテンの雄大と副キャプテンの太一とともに話し合いの時間をとった。
「選手は九人しかいないから、わざわざ打ち合わせをする必要もないんだけど」
駅前のコンビニで、康太はチキンを頬張る二人に向かって前置きした。
ひとつ問題がある。
「記録員って校長先生がやるんですか?」
「まぁ、人員が少ないからな」
「じゃあ、いっそのこと上宮さんにお願いしてみるとか」
最後のひとかけらを口に放り込みながら、雄大は口もとをほころばせる。
もちろん、高野連で許可を許されなければ部外者はベンチに入ることができないことを知ったうえでの冗談だ。
「監督、僕は二ノ宮くんが気がかりで」
太一はそう言って、不安そうに康太を見た。確かに、太一の言う通りだった。上宮の加入でチームの雰囲気はよくなった、そのため康太を含め、銀二のことに無理に触れることをここ数日間してこなかった。それは何の解決策にもなっていないことを知りながら。
「やっぱり無理やりにでも連れてきた方がいいか」康太は二人に確認をとるように言った。
「いや、俺は銀二が自分から戻ってくるまで信じて待ちたい」
雄大は即答した。
「え、でも二ノ宮くんが来ないと試合どころか練習だって満足にできないよ」
太一の問いかけに今度はしばらく考えをめぐらせてから、
「俺はキャプテンとして、銀二がいつ戻ってきてもいいような雰囲気をつくる。それに無理やり連れ戻してもきっとまた同じことがおこる気がするんだ」
「でも……」
「大丈夫だよ、きっと銀二は戻ってくる。だってあいつは野球が好きだから」
雄大が太一を鼓舞するように言った。その言葉に康太はなんとなく体裁を保っていた自分が恥ずかしくなった。雄大は根拠のない自信を振りかざし満面の笑みで笑っていた。
六時限目が終わると銀二は早々に教室をあとにする。その理由は毎日のように野球部の三年生が自分を迎えに来る前に姿を消すためだった。自分がいないと分かれば、おそらく今日もなんの工夫もなく真正面に校門の前で待っているだろう。
はっきりいってあほだった。二年間も在籍していれば正門と裏門以外にも外に出られる抜け道を知っている。例えば少し前まで野球部の用具倉庫として使われていたコンクリート製の建物は、人ひとりが通れるくらいの穴が空いている。ずいぶん前からその場所にあったため学校と外とを遮断する金網フェンスの囲いを飛び出していた。本来なら専用のカギが必要であり、暴力事件があって以降学校の許可がないとあけることが出来ない。また老朽化により近いうちに取り壊しが予定されていた。銀二はそのカギのスペアを持ち合わせている。
汗や湿気を吸い込んで重たくなったグラブは、当然のように手入れなど行っておらず、皮から不快な臭いを放っていた。埃っぽい倉庫内は窓ガラス越しに照らす日光の光に反射し目の前で光る。
「人生で一番くだらない一年だった」
噛みしめるようにつぶやく。ここはかつて銀二が当時の三年生から集団リンチされたところだ。三年生たちの追跡を逃れ外に出る。このまま最短で家に帰るには百メートル歩いてバスに乗り十分ほど揺られていれば事足りるが、銀二は最寄りのバス停で降りることはなくそのまま乗り過ごした。
「雄大がお前を信じて待ってるんだ。もちろんチームのみんなも。だからはやく戻ってきてくれ」
昨日の昼休み中に三年生たちと廊下で居合わせ真剣な表情で懇願された。
『何を今さら』
住宅街を横目で追い越しながらほくそ笑む自分の顔が窓ガラスに映った。
晴れていることもあり市内にある総合公園にはお年寄りや幼い子どもが散歩や日向ぼっこをしていて、花見の時ほどではないにしろそれなりに多かった。
公園の中にはテニスコートや陸上競技場の他に野球場もあり、銀二は活気あるかけ声に引き寄せられるようにして散歩コースを外れ一般公開された球場に足を踏み入れた。東京で有名な強豪校のユニフォームがグラウンドで躍動している。
銀二の他に近所に住むおじいさんがスタンドのベンチに腰を下ろしている姿がちらほら見受けられる。間に合ってよかったと安堵しながらも銀二はその中に混じることはせず、入り口付近の階段で隠れるようにして強豪校の試合前シートノックを眺めていた。回転の速いシートノックは打球も実際の試合で飛んでくるような強い打球ばかりだ。捕球の際にバウンドを合わせるのが難しい打球が間をおかずに飛んでくるのに、各ポジションに整然と並んだ選手たちは、かけ声を常に絶やさずに入れ替わり立ち代わりファーストに送球していく。監督が指示をしてシフトがダブルプレーに切り替わり、外野ノックに移行しても誰一人としてエラーをしない。洗礼された無駄のない動きは、工場の生産ラインのように精確でまったくよどみがない。一つしかないボールを信じられない速さでぐるぐる回していく。
ノックの打球音、グラブの捕球音、選手間のかけ声が球場に響き渡っているのに静かで張りつめた緊張感がグラウンドを支配していた。
銀二は食い入るようにそのノックを魅入っていた。同時にここまで鍛錬された高校でさえも甲子園に出場するためにはさらに実力が上の強豪校を倒さなければいけない事実に打ちのめされる。
もともと持っているセンスや才能がある人がさらに努力するのだ。センスや才能がない自分みたいな奴が必死こいて努力したところで果たしてなにができるというのだろうか。奥の方でボール渡しをしている選手や、ファールゾーンで声出しをしている選手はどうして野球を続けているのだろうか。まさかいつ訪れるか定かではない才能の開花を本気で信じているのだろうか? この疑問は思えば思うほど自分に跳ね返ってくる。見込みのないことをやり続けて何が得られる?
人数不足で三チーム合同でなければ公式戦にすら出場できない野球部と強豪野球部。毎年計ったように現れる怪物と称される高校球児にメディアは騒ぎたて世間を巻き込んでいく。たかが青少年の健全な成長を目的としたいち部活である高校野球は、それほどまで特別なものなのか。だとしたらいったい高校野球とは何なんだろうか。銀二の頭の中はそんな疑問でいっぱいだった。
それ以上に引き締まったノックを眺めていると、再び野球から逃げて中途半端な気持ちでこんなところにいる自分に嫌気がさす。不意に雄大の顔が脳裏に浮かんだ。あの人は入部してから今まで公式戦に出場したことすらないのに、最後まで諦めずに甲子園を目指して努力してきた。無駄な二年半と見られても仕方ないが充実した日々を送っていたように感じ取れる。
「ありしたぁ!」
早口で語尾を伸ばす挨拶と共にシートノックを終えた選手たちがベンチに戻り、脇でサポートをしていた選手たちが一斉にグラウンド整備を始める。
太陽が西にちょっとばかり傾き、グラウンドに光をおとし監督のミーティングを聞くためにベンチ前に集まった坊主頭の選手の影がすぅっと伸びる。暗闇から朝の陽光がなんの前触れもなく飛び込んできたように。いつか感じた鮮やかなグラウンドでの記憶が銀二の潜在意識を刺激して痛烈によみがえった。
灼熱の太陽の光と大歓声の拍手を背にグラウンドを蹂躙する。あの心おどる光景だ。小学三年生の時一度だけ訪れた甲子園球場。初出場の県立高校が全国に名を馳せる強豪校を次々と倒していく奇跡を見た。あの日見た選手たちに憧れて今まで野球を続けてきた。別に甲子園に行きたいとかプロになりたいとかそういうことではない。ただ性懲りもなく自分が憧れた選手たちと似たような経験をしてみたくなっただけだった。
しかし、中学生になって野球部に入部しても銀二はあまり試合に出場することができなかった。三年生の最後の大会。お情けで代打で出場した、その一打席が公式戦最初で最後の打席だ。しかし、不満はなかった試合に勝つためには野球が上手い九人がいればそれでよいのだから。その他のメンバーはお飾りでベンチに座っていればいい。それがばかばかしく思った奴から野球をやめていく。正しい判断だ。限られた学生生活をなにも誰かの引き立て役で終わることはない。そのことを重々分かっていながら続けてこれたのは、僅かに希望に似た光が銀二の目の前を淡く悪戯に照らしていたからただそれだけの理由だった。
甲子園での試合を観戦した時の、煌びやかな眩しい感じは、幼稚な純粋が生み出した幻想なのか?
考えても答えが出ないなら確かめるしかなかった。才能の欠片も微塵に感じさせない自分のこの身体で、今はその術も分からなくなってきて、カバンに隠しておいた白球を握りしめる。風が吹いて少しだけ甘酸っぱい新品の皮の独特な匂いがした。
「ボール回しぃ~」
太一の半分裏返ったかけ声も、利き手を大きく上げて叫ぶ内野陣の呼吸の合わなさも少しずつ慣れてきた。これから始まるノック前のボール回しはウォームアップだけではなく、相手にプレッシャーを与えるといった意味もある。素早く無駄のないボール回しや活気ある声はそれだけで試合前の威嚇になるものだ。人数が少ない分、迫力に欠けるが、それ以上に丁寧で確実な基本中の基本の動きを徹底させてきた。
それなのに、送球がちっとも続かない。サード、セカンドと上手く回っていると思えばファーストが暴投したり、キャッチャーが受け損なってみたりしてボール回しが途切れてしまう。
「しっかりしろ! もう本番まで時間がないんだぞ」
康太が喝を入れても反応は薄かった。選手全員気が気でないのは当然だった。先日の抽選会で雄大が引いた一回戦の相手はなんと春季大会で五年ぶりにシードもれした夏の大会ベスト16常連の谷村学院だったからだ。まして銀二からは何の連絡もなく未だに八人で練習をしている。こんなことでまともに戦えるのかと思うと練習に身が入らない。案の定グダグダのまま始まった内野ノックはグダグダのまま終わり、ベンチに座りこんだ康太が頭を抱えていると、外野から活気ある声が聞こえてくる。
「ノッカーもっと打ってこい!」
雄大だ。
上宮が前後に大きく打ち上げたフライを懸命に追いキャッチする。一球一球に気合を入れ、吠えながら走る。初めての公式戦が最後の公式戦になる雄大にとってあっけなく終わるかもしれない夏を全力で否定しているようにその姿は鬼気迫るものがあった。
ノック中は外野を守らせていた総司も最初はそんな雄大を冷めた態度で見ていたが、だんだんと闘志を見せ始め、雄大につられるように声を出している。
「監督もう一回ノックしてください」
ベンチから外野を眺めていた康太に内野陣が整列していた。
「できるのか?」
「はい!」
「よっしゃ! 納得するまでやろう」
康太は立ち上がり、再びノックバットを持った。グラウンドに散った選手の顔つきはさっきまでとは明らかに違っていた。
「ボール回しぃ~」
内野から元気のいい声が外野に届く。
「甲子園行くぞ!」
雄大の声に応える声が続く。不思議な光景だった。いつの間にか甲子園という言葉に誰一人嫌悪感を抱かなくなったのだ。キャプテンとして空回りしながらも誰より練習に励み、チームを鼓舞する雄大の姿がそうさせていた。
ノックを打ちながら康太は野球について考えていた。プロ野球のようにある程度の実力が均衡する世界なら日によって勝敗は変わってくる。ましてそこに運や不運といった説明がつかない事柄が絡んでくればなおさらだ。高校野球は強豪校とそうでない高校の実力の差が顕著に表れる。実力で劣る相手が強者にそう簡単に勝てるものではない。それこそ少しの運なんか通用しないほどチームの差は明らかだ。
だとしたら、今から自分たちが起こそうとしている奇跡や観客がこの夏に望むドラマとはいったい何だろう。弱いものが強いものに勝つ。こんな常識では考えられない無茶苦茶なことが運だけの力で起こりうるとはどうしても考えられなかった。
久しぶりに深く考え込んだ康太は、目の前に広がる甲子園の風景を眺めていた。高校時代手の届くところまで見えた甲子園。もしあそこで甲子園に行っていたならば何か自分の人生観が変わっていただろうか。そんな夢居心地の中でもう一人の自分がだらしない笑みを浮かべてぼんやりと目の前に広がっていく。康太は思わずカチンと来てしまって、でたらめに殴りかかっていったが、もう一人の自分は大人しく殴らせてくれた。馬乗りになって殴っても殴っても、うすら笑みをやめないもう一人の自分が殴る手を止めた康太に「ここから始めよう」とつぶやく。
その瞬間目が覚めた。さきほどのつぶやきがまだ耳に残っている。昨日の高校での練習が夢の中で繰り返され、まだ夢の中にいるのだろうと思ったが、どうやらそうではないらしい。康太はゆっくり首を起こす。まぎれもなく大学の部室だった。そう言えば練習もひと段落して冷房が効いた部室で転寝をしていた。いったいどこからが夢だったのか、それすら危ういものだ。
六月も中旬に差し掛かればオープン戦を行う機会も増えてくる。春季リーグ戦で三連覇を逃した康太の大学は秋季リーグ戦に向けて昨年に比べて倍以上の試合数を消費していた。今日も四年生と三年生が主体のチームが神奈川県の横浜学院大学とオープン戦をしている。
「菱田明日午後何時までいける?」
声とともにドアが開いて外の熱風が吹き込み、しっかり目を開ける。
「なんだ駒井ちゃんかぁ、うぅんとね、二時までだな高校に行かなきゃならん」
「あー、分かった」
駒井が困ったなという表情でメモ用紙に何かを記入する。
「そんなに人手が足りないのか?」
目をしょぼつかせながら大あくびをかいた康太に苛立ちを隠せない駒井は声を荒げた。
「足りないなんてもんじゃないよ、まったく監督さん試合入れすぎだって審判の数が全然足りない」
四学年を統括している学生コーチリーダーの駒井はさながら現場の責任者だった。野球部のサポートといっても大学野球は高校のようにボール拾いやバット拭きなどの雑用とはわけが違う。
康太の野球部には大きく主務、副主務、学生コーチリーダーと役割が分かれている。
主務の臼井はグラウンドに上がることが四年生になってからめっきり減った。それはグラウンド外の仕事が増えたからだった。スケジュール管理や来客の調整。荒田監督にお供して飲み会に行くこともあれば、星コーチが指示した通りにオープン戦の日程を組み、合宿や遠征のスケジュールを調整する。副主務はそのサポートが主な仕事だ。
学生コーチリーダーの駒井は、他の学生コーチを手配し適切な人員を持ち場に振り分ける。寮長も兼務しているため清掃チェックや点呼の確認、報告など単純作業も行っていた。予算の管理は星コーチが一任しているとはいえ、その仕事は一般的なマネージメント業だった。体育会の裏方の特徴は、学生らしさと社会人っぽさを兼ね備えていることだろう。学生コーチになっての歴史が浅い康太には知ったことじゃないが、
「一年使えばいいじゃん、俺らも散々こき使われただろう」
「そう言う問題じゃない、授業の日程もあるし……マネージャー室行って一人ひとりのスケジュール確認しなきゃ」
「俺も手伝うよ」
「サンキュー菱田。じゃあさっそく全体LINEで言っておいてくれ、俺もうスマホの充電ないから」
相づちをうって康太はスマホを開いた。まだ七〇パーセントもある。音楽を聴きながら高校に行ってもおつりがくる残量だ。着信が鳴る。スマホに設定されたコミカルな着信音と液晶に表示された名前に違和感を覚えた。
「はいはい、どうした臼井?」
「おぉ菱田、そこに駒井ちゃんはいるか?」
「さっきまでいたけど」
「帰ったのか? あいつ電話に出ないんだ」
「いやまだグラウンドにいる」
「そうか、じゃあ伝えてくれ」
臼井の言葉には戸惑いに似た焦りがあった。若干息も荒い気がする。
「臼井、落ち着けどうしたんだ」
「関口が……」
「関口がどうしたって?」
「関口がバックホームの送球で肩を……今季絶望どころか選手としても……」
康太は臼井の次の言葉を待たずして何が起こったのか理解した。
「菱田くん、ノックはまだかね?」
「菱田くん、試合はまだかね?」
「菱田くん、勝てそうかね?」
まるで遠足の前日の小学生だ。あぁもううるせぇ。試合が始まる前のキャッチボールから目を輝かせる金井に対して、康太の方は真剣な表情で周囲を見渡していた。
『愛理さんはいないか』
康太は一度大きく息を吐いた。
「勝てばいいだけだ」
つぶやく。
「先生、杉戸工業の昨年の成績は?」
「三回戦で浦和学院と戦ってコールド負けだったかな」
それだけを聞いても強いのか弱いのか分からなかった。しかし確実なことはうちのチームより弱いチームはいないということだ。
主審の中村さんを交え、両校のキャプテンがお互いのメンバー表を交換する。スターティングメンバーは、昨日アルバイト中にノートに書き記した通りだ。後攻の合同チームの選手たちがグラウンドに散った。康太はベンチの最前線に陣取り、しわくちゃになった相手のメンバー表に目をやった。興奮した雄大が交換したときに思わず握りしめてしまったのだ。
「ねぇ菱田くん。なんで私がスコアラーなんだい、これじゃ試合に集中できないじゃないか」
「人数いないんすよ、協力してください校長先生」
金井には悪いがこうでもしないと横で騒がれては試合に集中できない。それにしてもナインの動きがまだ少しかたい。
「みみみんな頑張ってこーぜ」
投球練習が終わると、キャッチャーの太一が締まりのない裏返った声をグラウンドにこだまさせる。相手側のベンチがにわかに活気づいた。
「おいおい、ド素人かよ」
「頼むよ、キャッチャー」
ヤジが飛んで太一はそそくさとマスクをかぶり顔を隠した。先発の総司はロージンバックをこれでもかと手にまぶし、不敵に笑う。
「プレー」
主審の中村さんが右手を上げてコールする。一球目。康太が太一に配球のサインを出そうとしたその刹那だった。総司がもうすでに投球モーションに入っていることに気が付いた。
「あのっバカ!」
総司の指先からボールが離れた瞬間、康太は思わず口走った。右バッターの背中に勢いのあるストレートが衝突する。グラウンドに漂う静寂。
「あんま調子のってっとぶち殺すぞ!」
突然マウンドから聞こえてきた暴言に康太は呆然としてその場に立ちすくむ。これは大変な試合になりそうだ。
康太は相手ベンチに一礼して頭を抱えた。主審も総司の態度を注意し、相手にも節度ある声かけをするようにと釘を刺した。
「菱田くん、大丈夫かね」
金井の戸惑い気味の問いかけにすぐに答えられず、マウンドの総司の様子を窺った。
「あぁそんなに心配しなくてもいいかもです」
さきほどと打って変わってあっけらかんとする康太の態度に金井はますます困惑していたが、これは強がりでもなくなく本当のことだった。太一にサインを送り、太一から康太のサインを確認した総司は頷きながらセットポジションになる。明らかに先頭バッターと対峙していた時よりも落ち着いていた。おそらくあの一球は故意に投げたわけじゃない。初試合、初マウンド、緊張して周りが見えなくなってしまうことはよくあることだ。悪態をついたのはバッターにぶつけてしまったことに驚いて咄嗟にごまかしの言葉がでただけだろう。康太の予想通りランナーを一塁に置いたことで、総司はその後も自分のリズムで投球することが出来た。ストレートを低めに集め後続をあたり損ねの内野ゴロに仕留め颯爽とベンチに戻ってくる。
「いやぁ、お見事、お見事」
金井はベンチに全員が戻ってきたことを確認し拍手で出迎えた。褒められて気恥ずかしくも初回をミスなく終えられたことの安堵感と達成感に選手たちはみな少し誇らしげな表情を見せている。
「よし! 点とってこー!」
ヘルメットをかぶった先頭バッターの雄大がベンチ前で作った円陣の真ん中ではち切れんばかりに叫ぶ。
スタートの入りは及第点だ。打席に立つ雄大に選手たちは声援を送る。
「総司」
康太の呼びかけに総司はぶっきらぼうに「はい、はい」と連呼するとベンチの一番奥の方に座り傍若無人な態度をとった。
守備のリズムがよいと、攻撃にも反映する。二回に二点を失ったものの、ワンアウトから八番バッターの朔が内野安打で出塁すると、すぐにバッテリーミスで二塁を陥れた。続く銀二のボテボテのファーストゴロが結果的に進塁打になり、一番バッターの雄大が初球を迷いなく振り抜きレフト前のタイムリーヒットを放った。一方的な試合展開になるのではないかと心配はしていたが四回を終わって二対一と善戦していた。相手チームの攻撃力がいまいちだったとはいえ、注目したい点はこれまで大きなミスもなく二点で抑えてきたバッテリーと守備だ。
経験不足が心配された総司は、当初の予定では頃合いを見て雄大にスイッチするはずだった。しかし総司は康太の予想に反してよく抑えて試合を作っていた。評価したい点は二つ。まず制球力がいいことだ。総司のピッチングは相手の早打ちにも助けられて、球数も五十五球と少なく済んでいる。これは総司がストライク先行で投げることが出来ている証拠だ。更にここまで四死球は初回の一つだけでその後はヒットを許しながらもボールを低めに集め凡打の山を築いていた。
次に評価したいのは、マウンドから常に周囲に声をかけて、ナインの集中力を無意識に持続させているところだ。ただ欲を言えばもっとスポーツマンシップにのっとった紳士的な言葉を発してほしいのだがこのさい文句は言わない。総司が荒っぽいことを言ったとしてもすぐにセンターを守る雄大からフォローが入る。
試合が中盤に近付いてきた五回表の守備。二連打を許した総司はこの試合初めての四球を出してノーアウト満塁の最大のピンチを迎えていた。康太はタイムをとり太一を呼び寄せる。
「まず内野をマウンドに集めるんだ。この場面失点は仕方ない。でも間違っても長打は打たれちゃいけないから間を十分にとってテンポをかえること。結果的に押し出しになってもいいからそのかわり低めを意識させてゴロを打たせるんだ。内野陣は前進守備でゴロをとったらバックホームを徹底させてほしい」
頷いた太一はそのまま審判に選手をマウンドに集める許可をえて康太の指示を伝えるため内野手を集めた。我ながら拙い指示だと思う。果たしてあの説明でみんなに伝わるだろうか。改めて伝令の難しさを実感する。
マウンド上を眺めながら康太は雄大をマウンドに上げるか悩んでいた。
「ピッチャーは彼しかいないのかね」
金井の言葉に一瞬交代がちらついたが中途半端にマウンドに上げて、打ち込まれた時のことを考える。雄大は責任感が強い男だ。他人のミスや失敗には寛容だが自分の失敗を受け止められるだろうか。もし過度に責任を感じて持ち前の明るさが消えてしまったら、チームの今後の士気にも関わってくる。
「一応雄大がいますが、ここは間宮に任せます」
不安げな金井を横目に康太は腹を決めた。こんな時荒田監督ならどうしていただろうか。どんな場面でも動じずに戦局を見守る監督の姿が脳裏をかすめた。
「みんなでここを抑えてみようぜ!」
センターから雄大の声が響く。マウンドから散った選手たちが応えてそれぞれのポジションに戻り前進守備をとった。
康太はアドバイスと称し、試合中にベンチ裏に総司を呼び出していた。
「ピンチになればなるほど、ピッチャーははやくピンチを脱したい一心で投げ急いでしまう傾向がある。そんな時こそ落ち着いて逆にバッターをじらしてやるんだ。精神的にこちらが優位であると錯覚させる。頭の中でゆっくり十秒数えてから投げてやれ」
その時は気だるそうに聞いていた総司だが内容はしっかり理解しているらしい。康太の指示通り、今までテンポよく投げ込んできた総司が、あからさまにゆっくりと間をとった。セットポジションに入りグラブを胸の前に制止させる。康太はポケットに入れておいたストップウォッチのスタートボタンを押した。三秒、四秒、さらに六秒、七秒。打ち気なバッターからすればこの僅か数秒は倍以上に長く感じるだろう。
「タイム!」
じらされたバッターはたまらずタイムをとった。九秒三、ストップウォッチが記した数字だ。大学野球や高校野球には迅速な試合進行が求められるため二十秒ルールというものが定められている。投手はランナーがいる時に二十秒以内にバッターに投球を行わなかった場合に審判に警告を受ける。同じ投手が三度目の警告を受けると罰則としてワンボールが宣告されるというものだ。
「さっさと投げろよピッチャー!」
「ビビってんじゃねーぞ」
「遅延行為だ!」
久しぶりに相手からヤジが飛んだ。その声にセットポジションを解いた総司は相手ベンチに向かって中指を突きたて、親指を地面に向けた。相手をこれでもかと侮辱する行為だ。
「きみ!」
主審の中村さんが血相を変えて即座に試合の進行を止め、マウンドに歩み寄った。すぐさま、キャプテンの雄大がセンターから快足を飛ばして総司に近づいていく。
「さきほどからきみの態度を見ていたが、今の行為は最低だ。グラウンドでは常に相手に対してリスペクトをはらい、高校生らしく真剣にプレーをするように」
中村さんが総司の前まで来て、諭すように言った。思わず感情的になった自分を落ち着かせる兼ね合いもあったのだろう。
「すみません、こいつカッとなると周りが見えなくなる奴でして」
帽子をとって深く頭を下げたのは雄大だった。センターから走ってきたばかりで息は切れて喋りにくそうに言った。
しかし、注意を受けた総司の方は納得していないらしく、反抗的な目つきで何かを言い返そうとしている。
その背中を雄大がグラブで叩き、頭を下げろと促す。
「まったくあの選手は困ったものだなぁ、彼がうちのエースでいいのかね」
ベンチで金井が嘆いた。
「根はいい奴なんですよ、だけどまだ中二病が抜けなくてすみませんしっかり指導します」
条件反射で康太は金井に謝った。試合が再開されると、相手ベンチはヤジの代わりに味方の声援の声を増やした。それでもまだ何人かの選手の挑発するような声が聞こえてくる。総司はそちらに視線をチラリと向けたが、気持ちはバッターにいっていた。
「ここを全員で抑えるぞ!」
雄大の声が総司を後押しする。総司の右足が高々と上がり、ランナーは大きく塁を離れた。初球はストレートだ。太一のミットが構えたアウトコース低めとは全くの逆球になったがバッターは明らかに振り遅れて空振りした。
「ナイスボールだ!」
思わず叫んだ。逆球とは言え気持ちの入ったいいボールだ。
「総司ナイスボール!」
セカンドの翔がグラブを叩きながら賞賛の声を送る。すると次々にピッチャーを後押しする声援がグラウンドから聞こえてきた。
「すごいね、菱田くんこれが野球なんだね」
金井はこみ上げてくるものを抑えることが難しくなって声を震わせていた。
敵味方の声援が入り混じってボルテージが上がる中、総司が二球目のセットに入った。康太は太一にカーブのサインを送ろうとしたが、思いとどまりバッテリーの選択を尊重した。総司はオレのストレートを打てるものなら打ってみろという気迫がマウンドからだだ洩れている。こういう場面は冷静にかわすピッチングを心掛けて、精神的な余裕を相手に与える方が後々有利に働く。しかし康太にも経験があるが力と力の真っ向勝負を挑もうとしている選手にその選択肢はない。
「こうなると監督の出る幕なんかないか」
そう言った直後のことだった。総司が投じた二球目はやや高いが太一の構えたアウトコースにコントロールされていた。バッターはボールの勢いに負けつまったあたりはライトに力なく上がる。銀二が前進する。この距離ならばタッチアップも難しいと判断したランナーは打球の行方を追いながら塁間でハーフウェイをとっていた。康太がランナーの動きに目をとられていた時、横に座る金井から「あ!」という驚きの声が鼓膜を揺らした。 康太がグラウンドに視線をやるとライトの銀二が転んでいて、後逸したボールをセンターの雄大が必死に追いかけている後ろ姿が瞳に飛び込んできた。
「てめぇ何やってんだ!」
総司はマウンド上から怒りを爆発させる。
「総司すぐにホームのカバーに走れ、セカンドは中継を急げ!」
康太は思わず叫んだ。ランナーは悠々とホームに帰ってきて、中継プレーがもたつく間に打ったバッターもホームに帰ってきてしまった。
「菱田くん……」
「これも野球なんですよ、校長先生」
康太はライトのずっと向こうを見つめていた。さきほど一瞬だけ見えた女子生徒の面影を捜していた。
『これも、これも、野球なんだ。自分の思い通りに行くほど甘くないスポーツなんだ。俺は十分に理解していたはずだったのに』
康太はその後も崩れていく試合を持ち直す術を知らず、ただされるがままのナインたちの様子を黙って眺めているしか出来なかった。
結果として五回コールドゲームに終わった。あの後不貞腐れた総司はフォアボールを連発させ急きょマウンドに上がった雄大が打ち込まれながらも後続を抑えたが、チームに入った亀裂は余りにも大きかった。
「みんな負けはしたがよく善戦した、立派だった。初陣で私はいいものを見せてもらったよ……」
ベンチで落ち込む選手たちに金井が激励の言葉をかけるが、気休めにもならないだろう。
「間宮くんは?」
総司を探す金井だがベンチの中に彼の姿はなかった。そういえば試合が終わりベンチに戻ってきた総司はエラーをした銀二を鋭い視線で睨みつけるとそのままどこかへ行ってしまったようだ。
「菱田くん、ちょっといいかな?」
康太が一人マウンドの整備をしていると主審を務めてくれた中村さんが近づいてきた。
「今日はすみませんでした」
「そうだな、あのピッチャーの態度はしっかり反省しないといけないな。でも気持ちの入ったいいボールを投げていた。面白いピッチャーだよ。あとはもっと大人になれば勝てるピッチャーになれるな。彼にはその素質が十分にあると思う」
「ありがとうございます」
康太は深々と頭を下げた。
「いいんだよ、それよりきみ、大学の練習は……」
それまで穏やかな対応をしていた康太の顔が一転して険しくなった。それでも口を開き質問に答えると中村さんは全てを察したように。
「そうか、あれから……」
二人の間を乾いた砂ぼこりが吹き抜けて、空高く舞い上がって消えた。
翌日、康太は大学のグラウンドで二軍の後輩たちの練習試合の手伝いで三塁審を任されていた。康太の大学は地方リーグとはいえ前年度まで二年連続で全国大会に出場をしていた強豪だ。そんな大学の野球部に所属する康太の後輩たちも逸材ぞろいの選手たちばかりだった。
「菱田、五回になったら三年と交換でファールボーイな」
「あいよ」
二塁審の駒井が投球練習の時間を利用して声をかける。五回裏、この回で交代か。康太はポケットに忍ばせていたスポーツドリンクを口に運ぶ。この炎天下の中、野球をしようなんてこの国はどうかしている。この回の先頭バッターは前の打席アウトコースの球を強引に引っ張ってレフト前に運んだ奴だ。
「須之内、三塁線詰めとけ」
「はい?」
サードを守る二年生の須之内にさりげなく声をかけた。康太はこの回からマウンドに上がる小林とマスクを被る藤木の一年生バッテリーを見つめる。
「小林はインコースにくい込むスライダーが武器だ。藤木の奴がインコースにミット構えたら三塁線を意識しとけよ」
「ウス」
須之内はそれだけでだいたいの意味を理解したらしい。たしかこいつも群馬県の名門高校出身で甲子園経験がある。こんなすごい経歴を持つ奴でも二番手以下とは。康太は相手バッターの引っ張りの打球がこちらに飛んでくることに備えて片方の足を三塁線の外側に置いた。ストレート二球で追い込んでバッテリーはすぐにサイン交換を終え、キャッチャーの藤木はインコースにミットを移動させる。相手バッターのバットがインコースに甘く入ってきたスライダーを捉えた。凄まじい打球が三塁線を襲い、康太はフェアを申告した。
本来ならこの打球はあっという間にレフト線に抜けていき悠々二塁打になるはずだが、あらかじめ塁線付近に守備位置を移動していた須之内のグラブに吸い込まれるように入っていく。
「アウト!」
一塁審の臼井がコールした。
「ナイスサード。バッテリー攻め方が幼稚すぎる三球勝負行く場面か、変化球で振らせて終わりだろうが!」
ベンチから星コーチの叱咤が聞こえる。ポンポンと追い込んだならこの手のバッターに、もうストライクはいらない、ボール球になる変化球でバットは面白いように回る。実力がある一年生とは言え、配球はまだ高校生か。
「菱田さんあざーす」
「ナイスプレー、これで速く終わるわこの回も」
星コーチに見つからないようにこっそり欠伸をした。須之内はボール回しのボールをピッチャーにかえすと困ったように言った。
「もうちゃんとしてくださいよっていうかなんか今日テンション低くないすか?」
「まぁ朝からいろいろあってな……」
いろいろ、そういろいろあったのだ。
少しここで回想に入る。朝の出来事だ。康太は寮から大学までの道のりを全速力で走っていた。風の中に涙を吹き飛ばしながら、彼女との四年間の思い出を振り返りながら。別れは突然だった。いつものように朝食を食べ、トイレに行き、駐輪場に訪れてみると、康太の愛機「ことね一号」の姿が消えていた。その瞬間、康太は昨日の夜の出来事がフラッシュバックのように脳裏に飛び込んできた。
「俺は、ことねにカギをかけていなかった」
つぶやく。その場に膝から崩れ落ちた。
「菱田さん?」
練習の時間帯が同じだったため朝一緒にグラウンドに行く約束をした上宮が四つん這いになって落胆する康太に声をかけた。
「ことねがいなくなってしまった」
「あ、そっすか」
上宮は自分のマウンテンバイクがしっかりあることを確認してサドルにまたがった。康太はまだショックで動くことすらできない。
「何ふざけてんすか? 遅刻しますよ」
「ちょ、なぜだなぜことねはいなくなったんだ」
「鍵つけ忘れたんでしょ、春日部じゃよくあることっす。カギかけなくてもパクられないのは菱田さんの田舎ぐらいっすよ」
「俺はどうしたらいいと思う?」
「とりあえず、荷物運んであげますから走ってください」
そして今に至るわけだ。こんなことなら、休みの日にもっと車体を磨いてやればよかった。タイヤのチューブを交換してやればよかった。後悔先に立たず。そんな言葉が心に浮かぶ。三人で終わった五回裏の守備。康太はようやくベンチ裏に待機していた上宮に交代した。
「四年生の方は今日はもう終わりです」
上宮と同じ三年生の学生コーチである長谷部がそう伝えた。
「監督さんが言ったのか?」
主務の臼井が信じられないと言った表情で訊き返した。
「はい、今日は三年生でその後もこと足りるんで、まぁここんとこ監督さんもグラウンド出っぱなしでしたし、体調崩したのかも」
康太たち四年生は一様に喜びを爆発させハイタッチした。早く帰れるならそれに越したことはない。しかし荒田監督の具合は心配だな。
「あ、菱田さんは監督室です」
そそくさと部室に帰ろうとした康太を長谷部が呼び止めた。他の四年生は巻き込まれまいと大股でその場を去っていく。くそっ薄情者め。
「なんで? おれ怒られんの?」
「さぁ、でもはやくいった方がいいですよ」
長谷部に促されるように康太は監督室のドアの前に立ち、一度深呼吸してドアをノックした。
「入れ」
「失礼します菱田です。お呼びでしょうか」
「よう、試合負けたらしいな」
康太は背筋を凍らせた。試合に負けたこと以前に試合があったことを教えたのは昨日電話してきた石坂先生だけだ。
「なぜそのことを」
「石坂先生に聞いた」
「内緒だって言ったのに」康太は表情そのままに誰にも聞こえない声で言った。
「何か言った?」
「いえ、なにも」
沈黙。康太はこの空間の静寂がなりよりも苦手だった。荒田監督を見ながら苦虫を嚙み潰したような顔で不気味な笑みを浮かべるしか術を知らない。
「これを読め」
手渡されたのは一冊の本だった。題名は「最高のコーチは教えない」
「お前はバカじゃないから少しは理解できるだろう、どうせなら野球をもっと勉強してみろ」
「はい」
それだけ言うと荒田監督は立ち上がり荷物を持って康太に近づいた。
「じゃあ、俺は体調悪いから帰る」
「お、お疲れ様です。駐車場まで見送ります」
グラウンドのすぐ近くにある白いレクサスが太陽の光を反射させて淡く光っていた。荒田監督は運転席に乗り込むとすぐにクーラーをつけた。二秒後、思い出したように窓ガラスをあける。
「公式戦で負けたらまじで旅行なしな」
「覚えてらっしゃいましたか」
「俺は冗談を言わん」
音もなく発信するレクサスを見送る康太の表情は晴れない。その理由は、愛機「ことね一号」を失っただけじゃないのだ。
寮までの帰り道を一人で歩く。手持無沙汰を解消するために荒田監督にもらった本を読みながら康太は田んぼが広がる駅までの長い一本道を進んでいた。
「まったく監督にも困ったもんだ。オレの気も知らないで」
そう言って小さな小石を田んぼにいる鷺に向かって投げる。空高く舞い上がった鷺を見て笑う。これは康太ができる荒田監督への最大限の悪態だった。しかし康太はこの状況に心底参っているわけではなかった。むしろ荒田監督に学生コーチになってから選手時代よりも目をかけてもらって嬉しくも思っている。
荒田監督は、創部時三人しかいない野球同好会から創部十五年でリーグ優勝するまでの実力に育て上げた苦労人だ。この前の雑誌の取材では記者から「名将」という言葉が聞えたが、名将と聞くと大概の人は高い指導力があり、その技術の高さゆえのカリスマ性があるとイメージするだろう。はっきり言おう荒田監督にそんなものはない。
康太が四年間この野球部に選手として籍を置いていた時、荒田監督が選手に対してなにか特別なことを指導するところを見たことがないのだ。ただ、荒田監督のすごいところは選手の調子が良かった時の状態を覚えていて、調子が悪くなった時にすぐにどの部分が調子が良かった時と違うかを瞬時にアドバイスできるところだった。
荒田監督は選手が気付かないうちにアドバイスを送る。これは本当にすごいことである。
プロ野球でもコーチの指導によっては、伸びる選手と伸び悩む選手がいるように人それぞれにあった練習法があり、大学野球、特にプロ野球ともなれば実はその練習法は自分が一番よく知っているのである。そう真の指導者とは教えないのだ。これは今読んでいる本の著者プロ野球のコーチである吉井理人氏の言葉を借りた。
また荒田監督は指導者である前に人格者でもある。誰よりも早くグラウンドに顔を出し、グラウンド整備を始める。さらに二軍選手の練習までしっかり見届けてグラウンドを後にする。自身も学生時代に選手を引退し学生コーチを経験したこともあり、補欠や裏方にまわった選手の理解があるので康太のような選手の扱いが上手く、常にモチベーションをあげてくれた。そんな監督を最後のリーグ戦で漢にしたい康太の気持ちは四年生の誰より強い。
午前中を自主練習にして午後から顔を出した康太だったが、グラウンドに銀二の姿はなかった。同じ学校の朔に様子を尋ねると、授業が終わってすぐに帰宅しているらしい。
「実は去年の夏の大会、僕たちが出場できなかったのは人数が足りなかったのではなく三年生の部内暴力が原因でした。銀二はその被害者なんです」
朔はみんなの前で誤解しないで聞いてほしいと前置きしたうえで銀二のことを話した。入学当初から銀二は成績も優秀で運動部で唯一、進級後はスーパー進学コースに推薦されることが決まっていたらしい。
「当時、野球部の三年生はみんな大学の指定校推薦をもらえず、一般入試で有名な大学にいけるような学力もありませんでした。親や学校からも見放されて、野球部はそんな三年生の不満の掃き溜めのような場所でした。そんなところに優秀で将来を期待された一年生が入部してきたんです。銀二はすぐに三年のいじめの標的になりました」
朔は過去の出来事を思い出すように淡々と話していた。三年生にとって銀二は自分たちより野球が下手だったこともあり、いじめる大義名分をえて、毎日のように嫌みや暴力を繰り返していたという。最初は我慢していた銀二だったが、ある日三年生の一人が謝って銀二の右まぶたを殴ってしまった。その腫れた右まぶたを見た銀二の父親が学校に乗り込んできたという。銀二の父は今回のことを高野連に報告し、知り合いの新聞記者にも伝え地元紙の記事にすると学校側を強く非難したのだ。
「世間体を気にした学校は、顧問と当時の三年生を退部処分にして夏の大会を辞退しました。しかしそれでも納得しなかった銀二の親がその後も野球部に干渉してきて、僕たちは銀二に関わることが出来なくなったんです」
それを聞いて、康太だけではなく、他の選手たちも複雑な顔つきになった。
「そんなの銀二は悪くないじゃないか、その三年は許せない」
雄大は見たこともない三年生に怒りをあらわにした。
「だから何だってんだ、そんなの結局あいつの問題だろ。それよりどうすんだ八人じゃ試合も出来なぇし、俺はぶっちゃけ俺が投げる試合で勝てればそれでいいんだ。九人揃えば誰でもいいんだよ。それが出来ないならお前ら同じ高校なんだからはやくあの腰抜けを連れてこい」
「総司お前銀二は大切な仲間だろそんなこと言うな!」
心無い総司の発言に雄大の表情は険しくなった。チームの火種になる問題児だから、今の発言の意味もなんとなく康太には伝わったが、真っすぐすぎる雄大には理解など出来はしない。
「仲間って、こんな寄せ集めのチームで仲間もくそもねぇだろ、俺は今早く投げたいんだ。監督話し合いはいいから練習しようぜ」
そう言い残して総司は勝手にアップを始めだした。その表情には若干の焦りが垣間見える。康太は苛立つ雄大と困惑する選手たちをなだめて練習を再開させる。夏の大会開幕まで約一ヶ月を切った。このままでは絶対に勝てない。康太はグラウンドを見つめこの状況を打破するきっかけを捜していた。
「なにもかも上手くいかない」
独り言をつぶやき空を見上げる。さっきまで晴天だった空色は今、薄っすら灰色の雲がかかり始めていた。康太は早めに練習を切り上げることにした。気持ちがのらない練習ほど身にならないものはない。まして野球のボールは丸いから、ギクシャクした心の凹凸をあざ笑うようにすり抜けていく。選手たちはみな試合の後で疲労の色が見えていたし、康太自身も気分がどうしてものらなかったからだ。駅の改札前まで歩みを進めたがしかし、康太は回れ右をして再び桜高校のグラウンドに自然と足を運んでいた。
あの試合の後、総司は結局グラウンドに戻ってこなかった。タイムリーエラーをしてしまった銀二は、何も言わずミーティングが終わってすぐにグラウンドを去った。雄大がチームのみんなを励まそうと必死に言葉数を増やしたが、余計にチームの雰囲気を気まずくしただけだった。
「グラウンド整備するか」
校門前でつぶやく。こういう時監督として何ができるか歩いている時間で考えた。考えた結果、荒田監督の背中が思い浮かんできた。康太は誰もいないはずの校舎に足を踏み入れグラウンドへ向かう。雄大はグラウンドで太一と共に自主練に励んでいた。
「おーい。二人とも」
康太は思わず駆け寄った。マウンドに立っていた雄大は帽子をとってこちらを振り返る。
「監督、こんにちは」
「どうしたんだ、練習はもうおしまいだぞ」
「いやなんかじっとしてられなくて」
康太は太一からボールを受け取り、大きく振りかぶった。放たれたボールは太一の構えたミットに吸い込まれていく。
「太一、ここ数日でキャッチング上手くなったな」
乾いた皮の音の良い音だ。投げたがりの総司のボールを毎日のように受けていたおかげもあり雄大のブレ球にも少しずつ対応できてきている。
「太一どうだ今の球は!」
「うん、ナイスボールだよ」
そう言われた雄大の顔は穏やかなものではなかった。首を傾げどこか物足りなさを感じている。
「監督、やっぱり俺の体格で総司のような球威があるボールは投げられないんすかね?」
康太は雄大を見つめ一度息をついた。確かに雄大のボールは手元で微妙に変化する。バットの芯を外し、簡単にジャストミートされないのは最大の強みだ。しかし雄大の球質はピッチャーのそれとはかけ離れている。スピードは総司と同等のものだが、雄大の体の回転運動は典型的な横回転だ。そのためにブレ球の恩恵を受けているが、それだけではピッチャーとして通用はしないのだ。まして金属バットを使う高校野球で僅かにバットの芯を外したとしてもそもそもの球威がなければスイングのスピードに押し負けてしまう。
「雄大、お前はそもそもピッチャーじゃない、長いイニングを投げぬく力はないんだ」
「それでも俺はチームを救いたい。それに甲子園に行くには総司一人の力だけじゃなくもっと投げれる奴が必要だと思うんだ」
まっすぐな眼差しだ。その瞳には強い信念と固い決意が込められている。康太は雄大の瞳の奥に少し前の自分の面影を感じていた。
「サイドスローにしてみろ」
「サイドスロー?」
康太は雄大からボールを受け取り、マウンドのプレートに足をかけた。
「太一いくぞ!」
康太はノーワインドアップから足を振り上げ、上半身を捻じり背中を太一に向けた。体重移動が始まって振り上げた足が地面に着地するまで上半身の捻じりをそのままに、足が地面についた瞬間一気に捻じりを解放させた。
「少しスピードは落ちるが、この投法なら雄大のブレ球の効果をフルに活かせる。上半身を捻じることによってわずかだが球離れの位置をバッターに悟られることもなくなってタイミングを狂わすこともできるからな」
「監督……」
雄大の瞳が分かりやすく輝いた。この前の練習試合で打ち込まれてからこいつにも思うところがあったのだろう。
「よし! 太一さっそく練習だ行くぞ!」
雄大は太一のミット目掛けて全力で投球する。
「まだ上半身の解放がはやいぞ、グラブのほうの手を上手く使って捻転の解放を遅らせるんだ」
「はい」
「そうそう、もっとあからさまに横回転を意識して……」
「はい!」
愚直で何も疑うこともなく一心不乱に野球に打ち込む雄大を見ていると、康太は自分の得た知識や経験を教えてあげたくなる。それはただ技術だけでなく、野球の素晴らしさや、野球から学べる人生観。そして栄光の光の裏にあるテレビやアニメでは決して描かれることがないヒーローになれなかった者の苦悩や失意。いややめておこう。康太は暗闇の裂け目からもれる淡い光をいつまでも見守っていたい気分だった。その光は周囲を絶望の闇に包まれれば包まれるほど強く輝く希望の光に見える。
「監督今のはどうですか?」
「あぁいい感じだ」
親指を立てる。雄大は嬉しそうに笑った。
杉戸工業高校との練習試合のあとで中村さんと交わした僅かな時間の会話が康太の心にずっと引っ掛かっていた。ケガのことを両親以外の人に話したのは、きっとあれが初めてかもしれない。
「そうかきみもあれからずいぶん苦労をしたんだな」
そう言われたからといって、事の成り行きを詳しく説明しなければならないわけではなかった。万感の思いを込めて「はい」と答えればそれでよかったのかもしれない。しかし、康太にはそれが出来なかった。それは自分自身をはぐらかすような気がしたからだ。
「試合でホームに突入した時にクロスプレーになりまして、そこで右足の靱帯をやってしまいまして」
ケガの事実をその通りに伝えた。
「それは残念だ」
中村さんは康太の顔を見つめながら悲し気な顔を浮かべた。
「リハビリ頑張ってなんとか半年で復帰したんですけど、もうレギュラーどころかメンバーに選ばれる可能性も残っていませんでした。選手としての僕の居場所はどこにもなくなってしまって、それで春季リーグ戦が終わったとき裏方にまわりました」
そう言って軽く右足を叩いた。すべてが正確なわけではないが、居場所がなくなったことは本当だ。しばらくしてから中村さんは頷いた。これ以上質問するのは野暮だと思ったのだろう。
「未練はもうないのかい?」
「えぇ、もう僕の野球は終ったんです」
再び頷いた中村さんの目に、うっすらと涙が溜まっていた。
高校から帰宅し寮の部屋でのんびりしていると久しぶりに父からラインのメッセージが来ていることに気が付いた。そこには「気は心。なんかうまいもんでも食え」と送信されたメッセージと通帳の写真が添付されており、一万円の数字が刻まれていた。その写真に入り込んでいた父の親指の指紋は研磨材の影響で黒ずみ拡大しても認識できないほど消えていた。
田舎で小さな町工場を営んでいる康太の父は曲がったことが嫌いな厳しい人だった。昔ながらの頑固者で酒もたばこもやらない堅物。そんな父と康太が唯一上手にコミュニケーションをとれたものが野球だった。高校時代、自身が選手として甲子園のマウンドで躍動した父はプロからも声がかかるほどの名選手だったらしいが、連投に次ぐ連投で肩を壊し、その後野球を忘れるように実家の後を継ぎ仕事一本の生活を送ってきた。そんな最中、自分の息子が野球をやりたいと言ってきたことはケガによって志半ばで夢を諦めた父にとっても救いだったのかもしれない。
康太は机の上に飾ってあった陳列品に見入っていた。その中の一つに父と並んで映っている写真がある。この写真は康太が高校三年生の最後の夏の大会に出場した時のものだ。決勝戦をかけて戦い負けた直後に試合会場の球場の外で撮影された。最後のバッターとして打席に立ち夏を終えた康太は悔しさに涙を浮かべ、その姿をさらさぬよう必死に強がって仏頂面を決め込んでいる。最後の瞬間一塁にヘッドスライディングしたときについた泥だらけのユニフォームがあの夏の熱戦を思い出させてくれる。仕事を抜け出し応援に訪れた父は、作業着姿で、息子の肩に腕を回し慣れない笑顔を浮かべていた。本来なら康太も高校卒業後に就職して家業を継ぐか町役場で働くはずだった。
しかし康太は更にレベルが高いところで野球を学び、プロを目指したいというかねてからの夢を諦めることが出来なかった。「大学で野球をやらせてください」その一言が簡単に言えるほど経済的に豊かな家庭ではないことを康太はよく知っている。まして弟の高校入学を控えているのに四年間で入学金や授業料、さらに寮費や設備費などで一千万近くもかかる大学へ進学なんて口が裂けても言えなかった。
成績がよく、簿記の資格を持っていた康太は学校の推薦をもらい町役場に事実上の内定を承認されていた。担任の先生とも話し合いを済ませ進路は父を交えた進路相談会で最終決定されるはずだった。
「うちの息子は進学します。野球を続けるんです」
父の口から出てきた言葉に康太は衝撃を受けたことを今も忘れていない。
「昨日母さんから聞いたよ、お前引退してから一部リーグに所属する大学のパンフレット見ていたそうじゃないか」
進路相談会が終わった後、父が車の中で康太に静かな口調で言った。
「でも、家にはそんなお金……」
康太がそう言いかけた時、頭に重いものの衝撃が走った。康太にはそれが父のゲンコツだと分かった。
「子どもがそんなこと気を遣うなやりたいことをやれ、お前には幸いそれができる体と強い思いがある」
「でも一千万はかかるんだ……」
情けない声を口からもらし康太は父の横顔を覗いた。
「まだセレクションをやっている大学はある。なのに何もしないで諦めることはない。それにお前にはオレが見ることが出来なかった景色を見て欲しいんだ。ここにいたんじゃ見ることができない景色を康太の目で見て来い。その経験はこの先の人生で必ずお前を助けてくれる、それに比べれば一千万なんて安いもんだ」
父はそう言って微笑んだ。思い出すと涙がこぼれそうになる。入学金を工面するために親戚中に頭を下げて回っている父の姿を見たとき康太は胸に誓った。必ずまたグラウンドに立ち今度は神宮球場で父に自分がプレーをしている姿を見せること。必ずプロになって恩返しをする。そのために全てをかけて練習に励んできた。その挑戦があっけなく終わった。
「つらい時、苦しい時は根っこを伸ばしてその場でぐっと踏ん張るんだ。今の環境が優れなくても根を伸ばし続けていれば光が当たった時花を咲かすことができる。野球の神様は努力しているものを絶対に裏切らない」
ケガをして何もかも諦めかけていた康太を励ました父の言葉。康太はずっとこの言葉を糧につらく苦しいリハビリも耐えて頑張ってきた。
「父さん、俺にも花は咲くんだろうか? 野球の神様は本当にいるのかな。ごめん」
不意にさまざまな思いが押し寄せ心の堤防があふれ出しそうになる。
康太は大きく深呼吸をしてから、コップ一杯の水を飲み干した。
そのとき、玄関からドアをノックする音が聞こえてきた。
「菱田さぁん飯行きましょうよ」
「なんだ上宮か」
ドアの向こうに立っていた上宮は黒縁の眼鏡をしていた。どうやら勉強がひと段落したらしい。
「なんだとは何すか、せっかく可愛い後輩がこうやって夕飯の誘いに来て上げたってゆうのに」
上目づかいで言ってきやがった。これが可愛い女の子なら文句ないんだけどなぁ。康太は何も答えずそのまま十秒ほどすぎた。
「あぁそうか今日は飯がない日か」
日曜日の夜と月曜日の朝は練習が休みなので寮の食堂もやっていない。
「何言ってんすか、あれもしかして菱田さん寝ぼけてます?」
康太はハッとして瞼をこすった。後輩にセンチメンタルなところを見せるわけにはいかない。
「別にぃ、何でもないけどもぉ」
「はぁ、はっきりしませんね、そんなんだからいつまでも卒業できないんですよ」
「いやいや、それと俺が童貞なの関係ないからね、っていうかお前もチェリーボーイのくせに」
康太は声を荒げた。童貞をいじられるのは別にいいが、同じ穴のムジナである上宮だけにはいじられたくないのだ。
「え、僕はこの前卒業しましたよ」
「嘘でしょ」
「マジっす」
「相手誰だよ」
「地元の子っす」
「えぇ、じゃあなに付き合ってんの?」
「いいえ、友達っす」
「お、お前、と、友達とそのお前なんだ。そんな関係になって付き合ってないとか、お前、不良か!」
「菱田さんおっぱいって……」
「やめろ、聞きたくない」
康太は反射的に耳を塞いだ。本当はその話の続きを人一倍知りたいのだが、楽しみはとっておきたい気持ちと、後輩に先を越された劣等感に板挟みされさっきとは違う意味の涙がでてきそうだ。
「まぁ菱田さんをいじるのはこのくらいにして飯食い行きましょう。ほら最近できた家系のラーメン店」
「俺はラーメンなら二郎系の気分なんだが」
「はぁ、これだから童貞は」
「いや、関係ないからね! あと二郎系のファンの人みんな童貞みたいな感じになってるから」
このあと壮絶な言い争いの末、家系ラーメンに歩いて行くことになった。ニューオープンということもあり少し店の外で待っていたが案外すぐに名前を呼ばれた。ラーメン屋なだけに回転率は速い。食券を買い、席につくとまず麺の固さ、スープの濃さ、油の量を答える。上宮は通ぶっていろいろリクエストしていたが康太は全て普通と伝えてラーメンが運ばれてくるのを待つ。
「お待ちどう様です」
「あ、どうも」
「菱田さん、割りばしっす」
「サンキュー」
こってりした濃厚豚骨醤油ベースのスープに太いストレート麺が絡み合う、一口すすれば疲れた身体に響き渡るようなおいしさもさることながらトッピングされスープに浸して食べるのりは絶品だ。
「菱田さんもこのストレートな麺を見習ってください。なんすかそのちりちりな髪の毛」
「菱田さんこの麺めっちゃシコシコしてますよ。昨日の夜の菱田さんみたいっすね」
「菱田さん、ねぇ菱田さん、びっくりするかもしれないすけど、思ってたより下にあるんで入れるとき気を付けてください」
上宮が爪楊枝が置いてある台を指さして言った。康太はいいかげん反応するのもばからしくなってだんまりを決め込んでいたが、さすがに今のは腹が立つ。画面越しでは規制がかけられているため康太は実物の正確な位置を見たことがないのだ。
「なぁ上宮、きみさっきから露骨すぎやしないかい?」
「そうっすかね、考えすぎっすよ」
終盤に差し掛かり、上宮はレンゲでスープの海をほじくり返す。具材のすくい残しを確認してどんぶりを抱え一気にスープを飲み干したあとで、上宮は真剣な表情で振り向き康太をみつめた。
「なんかあったんすか昨日からずっと浮かない顔して」
その問いかけに康太はすぐに答えられずすかさずどんぶりを抱えこむ。
「それはことねがパクられたからで」
「それだけじゃないはずっす。だって菱田さんのツッコミがいつもよりキレがありません。なんなんすか『二郎系のファンの人みんな童貞みたいな感じになってるから』って一ミリも面白くない。それがなによりの証拠っす」
核心を突かれ気まずくなった康太は一気にスープを飲み干した。途中むせたが構わず濃厚エキスを胃の中に流し込む。これで確実に明日の朝お腹を下すだろう。それにしても上宮の奴、ツッコミのダメ出しをこの場ですることもないだろう。あぁなんて恥ずかしい、穴があったらいれたい……間違えた。入りたい気分だ。
「何か悩んでいるなら教えて欲しいっす」
その声音には今までとは違い真剣な響きがあった。どうやら俺は後輩にいらぬ気を使わせてしまったらしい。
「別に彼女が欲しくて悩んでんじゃないよ」
少し間をおいて康太はおどけて見せた。
「じゃあなんでそんな顔してんすか」
上宮が再び迫る。その気迫にのまれまいと拳を固めた。
「お前には関係ない」
康太はどんぶりを配膳台の上に置くと「ごちそうさんです」と店主に挨拶し席を立った。
「ちょっと菱田さん!」
「行くぞ上宮他に待っているお客さんに迷惑がかかる、長居は無用だ」
できるだけ低いトーンで伝えた。もうこれ以上尋ねてくるなという意味合いも込めて。返事の代わりに背後からどんぶりを配膳台に置く時の音とは思えない鈍い音が聞えて強い力で肘を掴まれた。少し体がよろけて後ろを睨めつける。
「まじであんた一人で解決できないから言ってんすよ」
上宮は真剣な表情で訴えかけてきた。
「関係ねぇだろ。ましてお前には勉強があるだろ」
「そんなこと菱田さんに心配される義理ないっす。高校生の監督が上手いこと言ってないんでしょ、どうして手伝ってくれって言えないんすか」
さらに熱を帯びた言葉とともに、肘をさらに強い力で掴まれた。康太はその手を振り払うこともできず勢いに押された形で、上手く返事が出来なかった。
「菱田さん、あんたの野球はまだ終わってない」
「何を今さら――」
康太はそう言いかけて、押し黙った。頭では分かっていたはずなのにその先の言葉を吐き捨てることを憚られる。
「手伝わせてくださいよ、一緒に頑張ってきた仲じゃないすか」
上宮は康太の肘を離し、口元を緩めた。
「お前がそこまで言うほど大それたことしてんじゃねぇよ」
いつの間にか形勢がひっくり返ってしまった。康太は尻切れトンボになってため息をつく。
「石坂先生に聞きました。そもそも菱田さん一人でどうにかなる問題じゃないんすよ」
そう言って上宮は康太の背中をぽんと叩いた。後輩とは思えぬ頼もしさに余計腹が立つ。
「お客さん、盛り上がってるとこ悪いんだけど他のお客さんの迷惑になるから外でやって」
背後から店長の声がした。振り返ると、怪訝そうにこちらを遠巻きに二人を眺める視線を感じる。二人は一言謝ってすぐにラーメン屋を飛び出した。けっこう美味しかったのに、これで当分足を運ぶことが出来ない。
週明けの練習は雨のためにグラウンドが使えず、金井の判断で中止になった。それでも教育サポートのアルバイトで教室を訪れたが、彼女の姿はなかった。泉主任によれば彼女が無断で学校を休むのは日常茶飯事で、それでも午後から顔を出す機会が最近は増えていたという。
「今のままでは進級も危うい、だいたいそういう子はこの夏が終われば辞めていくよ。それに高校は義務教育じゃない、言い方は悪いが他の真剣に授業している生徒に支障がなくなればあまり問題じゃないんだよ」
泉主任の口調があまりに淡白なので康太は少し嫌悪感を抱いた。十年以上も教員をやっていると生徒の習性やその後の進路もなんとなく予測できてしまうのだろう。実際に彼女がいない授業は悲しいほどスムーズに進んでいった。
学校から駅までの道すがら雨の粒は五分前のものより大きくなっていた。カバンに入れておいた折りたたみの傘は思いのほか小さく、駅前のコンビニにつく頃には康太の肩はすっかり雨に濡れ服の色を変えていた。傘の先から滴る雨に視線を奪われ、伸びかけた前髪を大げさに後ろへかき分ける。コンビニの軒下でぼぉっと空を見上げて雨宿りしている女子生徒の顔に康太は憶えがあった。
「愛理さん、何やってんの?」
急に名前を呼ばれた彼女はびくっと肩を震わせて恐るおそるこちらに顔を向けた。体つきのいい男にいきなり話しかけられたらたとえそれが見知った人でも身構えるものだ。
「菱田さん? 今日は早いねっていうか練習は?」
「あぁ、この雨で中止になってね」
「そうなんだ」
「今日どうしたの? 学校にいなかったけど」
「別にいつものことだから」
なにか言いたげだったが、飲み込むように平然を装った。
「ねぇ雨が止むまで少し話さないか」
「別に菱田さんと話すことなんて」
うんざりしたように話す彼女に康太は思わず自分の胸の内をもらす。
「違うよ俺の悩みを聞いてほしいんだ。だからちょっと付き合ってよ、好きなもの奢るからさ」
コンビニ内の休憩スペースに購入したものを並べる。まさかタピオカミルクティーが一個三百円もするなんて驚いた。席についていきなり利きすぎる冷房に体温を奪われそうになる。それでも康太は年端もいかない女子高生に何の気兼ねもなくすらすらと今のチームの現状や大学の後輩にいらぬ心配をかけてしまったことなど、もやもやした胸の内を話せる自分が不思議でしょうがなかった。
「菱田さんも悩むことがあるんだ」
「まぁ大抵悩んでいるよ、自分の思い通りに行ったためしなんて一度もないし」
「でもいいなぁやりたいことがあるんだもん。私は将来特にやりたいこととかないし、この先も見つからないと思う」
「だから学校をやめたいって思ったの?」
「うん、だってやりたいことがないのに学校行ったってしょうがないじゃん」
彼女の言葉に康太は自分の高校時代を思い出していた。康太の日常は野球一色で将来プロになるという漠然な夢を追っていた。まさかそんな自分が野球とは全く関係ないメディア系の企業に内定をもらって春から社会人をやるなんてつい最近までは想像もつかなかった。夢を失い、それでも前を向いて就職活動に奔走していた時は思い描くことができない未来に押しつぶされそうになったこともある。でもそれができたのは、野球で鍛えた諦めない精神力であったり、困難を乗り越えた経験だったりした。きっと人はまだ見ぬ未来に最も恐怖を感じるのだろう。
「学校ってさ別に自分のやりたいことを見つける場所じゃないのかもね」
彼女はなにも言わなかった。康太は慈しむようなまなざしを彼女に向けていた。
「雨やんだかな、また強くなる前に帰ろうか」
康太はバックにしまっておいた折り畳みの傘を取り出して外に出た。彼女は傘持ってんじゃんと言いたげな顔で首を傾げる。どうやら彼女も自分の傘を持っていたらしい。
「やっぱ少し降ってんな」
コンビニと駅までの距離は五十メートルもない。傘をさしているのに彼女の背中は小雨に打たれていた。傘が前に傾き、体の半分が無防備に濡れている。康太はその背中に自分の傘をさしかけ、歩いた。
「偉そうなことを言ってきたけど俺だって本当にやりたいことなんて野球以外で見つかってないよ。でもさきっとまた見つかると思うんだ。そんな気がする。学校ってさ、本当にやりたいことが見つかった時にそれが実現できる力や知恵を学ぶところだと思うんだ。だから別に今焦って見つけることなんてないんだよ。きっと」
甲子園に行けずに消化不良で終わった高校野球、理不尽ないじめや暴力に耐えてようやく掴んだチャンスを活かせず、ケガをして燃え尽きることなく終わった大学野球。彼女に向けて送った言葉はそのまま過去の自分にかえっていくような気がした。
「試合見てたよ、負けたけど途中までは良かったと思う」
「うん、俺もそう思う。だからこれからなんだよチームも俺も、愛理さんだって」
「でもやっぱり学校は嫌い、ねぇ野球ってそんなに面白いの?」
彼女は立ち止まり振り返る。
「面白いよ」
即答した。仮に理由は、と問われたら特にこれといった理由が思い浮かばないが、もしかしたらだからこそ野球というスポーツは面白いのかもしれない。彼女は真意を測るように康太の目を覗き込み、やがてまなざしは穏やかになっていった。
「この夏の大会で俺たちの頑張りを見てほしい」
「考えておくよ、夏の大会が終わるまではとりあえずやめないでいてあげる」
「ありがとう」
そうつぶやいた彼女は振り返ることはなく駅に去って行く。康太は自分の言葉がどれほど彼女に伝わったか分からなかったが、勝たなくてはいけない理由が増えた気がして大きく息を吐いた。
上宮佐助がコーチとして練習を手伝ってくれることを心強く思った。真面目な性格で現役時代も一生懸命野球に取り組んでいた姿勢は康太にも引けを取らず、守備に関しては非凡な才能を見せていた。上宮はキャッチャーを除いてどこでも守れるユーティリティープレーヤーだ。現役を退いた後は勉強に励み、グラウンドにいないときは大概学内の図書館でよく見かける。身体能力が高く、それに奢らずに努力できる素質。上宮の加入によって、合同チームの勝利の可能性はずいぶん高まった。しかし、肝心の選手たちにとっては、上宮の加入を手放しで喜ぶことが出来なかった。銀二が練習に顔を出さなくなり、総司は相変わらず横暴でグラウンドの空気が重く、誰もが誰かに忖度していたため練習にも甚だ意気が上がらない状態だったからだ。
「上宮さんはどうして僕たちを手伝ってくれるんですか」
雄大だけは康太の後輩である上宮にさっそく熱いまなざしを送っていた。
「それは、きみたちの監督があまりにも頭が固くて素直じゃないから心配になってね。それにこの人現役時代にバッティングしか練習してなかったから、守備の時の教え方下手くそだろう」
「それはバッティングが俺のストロークポイントだったから……」
「たしかに」
「えっ」
太一が納得したように頷くと、選手たちはいっせいに康太のあら捜しを始めだした。
「融通利かないときあるよ、俺はもっと投げたいのに走れとか言うし」
「あと、たまに怖い顔してますよね」
「野球以外の会話ができないこともマイナス要素だな、どうせあれから勧めたアニメ見てねぇだろうし」
「ちょっとお前らやめろよ! 監督には監督の良いところいっぱいあんだよ!」
雄大がそう言って割って入ったが、ここまで言われてから同情させるのも心苦しい。
「うるさい、うるさい! ほらはやく練習するぞ、アップに行ってこい」
康太は軽く地団太を踏んで指示をだした。選手たちはぶつぶついいながらグラウンドに散っていったがその顔は明るかった。新たな仲間の出現に和やかな雰囲気に戻ったのは良かったが、問題はそこらじゅうにある。まずは銀二をどうにかしなければ。康太はまた眉間にしわを寄せみんなが言うところの怖い顔になった。
埼玉県の甲子園予選大会は七月十日に開幕する。組み合わせ抽選会はその約一か月前に行われ、参加校は選手登録の書類を提出する。この日を節目として、県下の高校野球部には新たな緊張感と高揚感が生まれ、練習にも一層気合が入る。
登録は、部長の金井と監督の康太を除いて二十名、記録員一名と定められていた。康太は抽選会三日前に、キャプテンの雄大と副キャプテンの太一とともに話し合いの時間をとった。
「選手は九人しかいないから、わざわざ打ち合わせをする必要もないんだけど」
駅前のコンビニで、康太はチキンを頬張る二人に向かって前置きした。
ひとつ問題がある。
「記録員って校長先生がやるんですか?」
「まぁ、人員が少ないからな」
「じゃあ、いっそのこと上宮さんにお願いしてみるとか」
最後のひとかけらを口に放り込みながら、雄大は口もとをほころばせる。
もちろん、高野連で許可を許されなければ部外者はベンチに入ることができないことを知ったうえでの冗談だ。
「監督、僕は二ノ宮くんが気がかりで」
太一はそう言って、不安そうに康太を見た。確かに、太一の言う通りだった。上宮の加入でチームの雰囲気はよくなった、そのため康太を含め、銀二のことに無理に触れることをここ数日間してこなかった。それは何の解決策にもなっていないことを知りながら。
「やっぱり無理やりにでも連れてきた方がいいか」康太は二人に確認をとるように言った。
「いや、俺は銀二が自分から戻ってくるまで信じて待ちたい」
雄大は即答した。
「え、でも二ノ宮くんが来ないと試合どころか練習だって満足にできないよ」
太一の問いかけに今度はしばらく考えをめぐらせてから、
「俺はキャプテンとして、銀二がいつ戻ってきてもいいような雰囲気をつくる。それに無理やり連れ戻してもきっとまた同じことがおこる気がするんだ」
「でも……」
「大丈夫だよ、きっと銀二は戻ってくる。だってあいつは野球が好きだから」
雄大が太一を鼓舞するように言った。その言葉に康太はなんとなく体裁を保っていた自分が恥ずかしくなった。雄大は根拠のない自信を振りかざし満面の笑みで笑っていた。
六時限目が終わると銀二は早々に教室をあとにする。その理由は毎日のように野球部の三年生が自分を迎えに来る前に姿を消すためだった。自分がいないと分かれば、おそらく今日もなんの工夫もなく真正面に校門の前で待っているだろう。
はっきりいってあほだった。二年間も在籍していれば正門と裏門以外にも外に出られる抜け道を知っている。例えば少し前まで野球部の用具倉庫として使われていたコンクリート製の建物は、人ひとりが通れるくらいの穴が空いている。ずいぶん前からその場所にあったため学校と外とを遮断する金網フェンスの囲いを飛び出していた。本来なら専用のカギが必要であり、暴力事件があって以降学校の許可がないとあけることが出来ない。また老朽化により近いうちに取り壊しが予定されていた。銀二はそのカギのスペアを持ち合わせている。
汗や湿気を吸い込んで重たくなったグラブは、当然のように手入れなど行っておらず、皮から不快な臭いを放っていた。埃っぽい倉庫内は窓ガラス越しに照らす日光の光に反射し目の前で光る。
「人生で一番くだらない一年だった」
噛みしめるようにつぶやく。ここはかつて銀二が当時の三年生から集団リンチされたところだ。三年生たちの追跡を逃れ外に出る。このまま最短で家に帰るには百メートル歩いてバスに乗り十分ほど揺られていれば事足りるが、銀二は最寄りのバス停で降りることはなくそのまま乗り過ごした。
「雄大がお前を信じて待ってるんだ。もちろんチームのみんなも。だからはやく戻ってきてくれ」
昨日の昼休み中に三年生たちと廊下で居合わせ真剣な表情で懇願された。
『何を今さら』
住宅街を横目で追い越しながらほくそ笑む自分の顔が窓ガラスに映った。
晴れていることもあり市内にある総合公園にはお年寄りや幼い子どもが散歩や日向ぼっこをしていて、花見の時ほどではないにしろそれなりに多かった。
公園の中にはテニスコートや陸上競技場の他に野球場もあり、銀二は活気あるかけ声に引き寄せられるようにして散歩コースを外れ一般公開された球場に足を踏み入れた。東京で有名な強豪校のユニフォームがグラウンドで躍動している。
銀二の他に近所に住むおじいさんがスタンドのベンチに腰を下ろしている姿がちらほら見受けられる。間に合ってよかったと安堵しながらも銀二はその中に混じることはせず、入り口付近の階段で隠れるようにして強豪校の試合前シートノックを眺めていた。回転の速いシートノックは打球も実際の試合で飛んでくるような強い打球ばかりだ。捕球の際にバウンドを合わせるのが難しい打球が間をおかずに飛んでくるのに、各ポジションに整然と並んだ選手たちは、かけ声を常に絶やさずに入れ替わり立ち代わりファーストに送球していく。監督が指示をしてシフトがダブルプレーに切り替わり、外野ノックに移行しても誰一人としてエラーをしない。洗礼された無駄のない動きは、工場の生産ラインのように精確でまったくよどみがない。一つしかないボールを信じられない速さでぐるぐる回していく。
ノックの打球音、グラブの捕球音、選手間のかけ声が球場に響き渡っているのに静かで張りつめた緊張感がグラウンドを支配していた。
銀二は食い入るようにそのノックを魅入っていた。同時にここまで鍛錬された高校でさえも甲子園に出場するためにはさらに実力が上の強豪校を倒さなければいけない事実に打ちのめされる。
もともと持っているセンスや才能がある人がさらに努力するのだ。センスや才能がない自分みたいな奴が必死こいて努力したところで果たしてなにができるというのだろうか。奥の方でボール渡しをしている選手や、ファールゾーンで声出しをしている選手はどうして野球を続けているのだろうか。まさかいつ訪れるか定かではない才能の開花を本気で信じているのだろうか? この疑問は思えば思うほど自分に跳ね返ってくる。見込みのないことをやり続けて何が得られる?
人数不足で三チーム合同でなければ公式戦にすら出場できない野球部と強豪野球部。毎年計ったように現れる怪物と称される高校球児にメディアは騒ぎたて世間を巻き込んでいく。たかが青少年の健全な成長を目的としたいち部活である高校野球は、それほどまで特別なものなのか。だとしたらいったい高校野球とは何なんだろうか。銀二の頭の中はそんな疑問でいっぱいだった。
それ以上に引き締まったノックを眺めていると、再び野球から逃げて中途半端な気持ちでこんなところにいる自分に嫌気がさす。不意に雄大の顔が脳裏に浮かんだ。あの人は入部してから今まで公式戦に出場したことすらないのに、最後まで諦めずに甲子園を目指して努力してきた。無駄な二年半と見られても仕方ないが充実した日々を送っていたように感じ取れる。
「ありしたぁ!」
早口で語尾を伸ばす挨拶と共にシートノックを終えた選手たちがベンチに戻り、脇でサポートをしていた選手たちが一斉にグラウンド整備を始める。
太陽が西にちょっとばかり傾き、グラウンドに光をおとし監督のミーティングを聞くためにベンチ前に集まった坊主頭の選手の影がすぅっと伸びる。暗闇から朝の陽光がなんの前触れもなく飛び込んできたように。いつか感じた鮮やかなグラウンドでの記憶が銀二の潜在意識を刺激して痛烈によみがえった。
灼熱の太陽の光と大歓声の拍手を背にグラウンドを蹂躙する。あの心おどる光景だ。小学三年生の時一度だけ訪れた甲子園球場。初出場の県立高校が全国に名を馳せる強豪校を次々と倒していく奇跡を見た。あの日見た選手たちに憧れて今まで野球を続けてきた。別に甲子園に行きたいとかプロになりたいとかそういうことではない。ただ性懲りもなく自分が憧れた選手たちと似たような経験をしてみたくなっただけだった。
しかし、中学生になって野球部に入部しても銀二はあまり試合に出場することができなかった。三年生の最後の大会。お情けで代打で出場した、その一打席が公式戦最初で最後の打席だ。しかし、不満はなかった試合に勝つためには野球が上手い九人がいればそれでよいのだから。その他のメンバーはお飾りでベンチに座っていればいい。それがばかばかしく思った奴から野球をやめていく。正しい判断だ。限られた学生生活をなにも誰かの引き立て役で終わることはない。そのことを重々分かっていながら続けてこれたのは、僅かに希望に似た光が銀二の目の前を淡く悪戯に照らしていたからただそれだけの理由だった。
甲子園での試合を観戦した時の、煌びやかな眩しい感じは、幼稚な純粋が生み出した幻想なのか?
考えても答えが出ないなら確かめるしかなかった。才能の欠片も微塵に感じさせない自分のこの身体で、今はその術も分からなくなってきて、カバンに隠しておいた白球を握りしめる。風が吹いて少しだけ甘酸っぱい新品の皮の独特な匂いがした。
「ボール回しぃ~」
太一の半分裏返ったかけ声も、利き手を大きく上げて叫ぶ内野陣の呼吸の合わなさも少しずつ慣れてきた。これから始まるノック前のボール回しはウォームアップだけではなく、相手にプレッシャーを与えるといった意味もある。素早く無駄のないボール回しや活気ある声はそれだけで試合前の威嚇になるものだ。人数が少ない分、迫力に欠けるが、それ以上に丁寧で確実な基本中の基本の動きを徹底させてきた。
それなのに、送球がちっとも続かない。サード、セカンドと上手く回っていると思えばファーストが暴投したり、キャッチャーが受け損なってみたりしてボール回しが途切れてしまう。
「しっかりしろ! もう本番まで時間がないんだぞ」
康太が喝を入れても反応は薄かった。選手全員気が気でないのは当然だった。先日の抽選会で雄大が引いた一回戦の相手はなんと春季大会で五年ぶりにシードもれした夏の大会ベスト16常連の谷村学院だったからだ。まして銀二からは何の連絡もなく未だに八人で練習をしている。こんなことでまともに戦えるのかと思うと練習に身が入らない。案の定グダグダのまま始まった内野ノックはグダグダのまま終わり、ベンチに座りこんだ康太が頭を抱えていると、外野から活気ある声が聞こえてくる。
「ノッカーもっと打ってこい!」
雄大だ。
上宮が前後に大きく打ち上げたフライを懸命に追いキャッチする。一球一球に気合を入れ、吠えながら走る。初めての公式戦が最後の公式戦になる雄大にとってあっけなく終わるかもしれない夏を全力で否定しているようにその姿は鬼気迫るものがあった。
ノック中は外野を守らせていた総司も最初はそんな雄大を冷めた態度で見ていたが、だんだんと闘志を見せ始め、雄大につられるように声を出している。
「監督もう一回ノックしてください」
ベンチから外野を眺めていた康太に内野陣が整列していた。
「できるのか?」
「はい!」
「よっしゃ! 納得するまでやろう」
康太は立ち上がり、再びノックバットを持った。グラウンドに散った選手の顔つきはさっきまでとは明らかに違っていた。
「ボール回しぃ~」
内野から元気のいい声が外野に届く。
「甲子園行くぞ!」
雄大の声に応える声が続く。不思議な光景だった。いつの間にか甲子園という言葉に誰一人嫌悪感を抱かなくなったのだ。キャプテンとして空回りしながらも誰より練習に励み、チームを鼓舞する雄大の姿がそうさせていた。
ノックを打ちながら康太は野球について考えていた。プロ野球のようにある程度の実力が均衡する世界なら日によって勝敗は変わってくる。ましてそこに運や不運といった説明がつかない事柄が絡んでくればなおさらだ。高校野球は強豪校とそうでない高校の実力の差が顕著に表れる。実力で劣る相手が強者にそう簡単に勝てるものではない。それこそ少しの運なんか通用しないほどチームの差は明らかだ。
だとしたら、今から自分たちが起こそうとしている奇跡や観客がこの夏に望むドラマとはいったい何だろう。弱いものが強いものに勝つ。こんな常識では考えられない無茶苦茶なことが運だけの力で起こりうるとはどうしても考えられなかった。
久しぶりに深く考え込んだ康太は、目の前に広がる甲子園の風景を眺めていた。高校時代手の届くところまで見えた甲子園。もしあそこで甲子園に行っていたならば何か自分の人生観が変わっていただろうか。そんな夢居心地の中でもう一人の自分がだらしない笑みを浮かべてぼんやりと目の前に広がっていく。康太は思わずカチンと来てしまって、でたらめに殴りかかっていったが、もう一人の自分は大人しく殴らせてくれた。馬乗りになって殴っても殴っても、うすら笑みをやめないもう一人の自分が殴る手を止めた康太に「ここから始めよう」とつぶやく。
その瞬間目が覚めた。さきほどのつぶやきがまだ耳に残っている。昨日の高校での練習が夢の中で繰り返され、まだ夢の中にいるのだろうと思ったが、どうやらそうではないらしい。康太はゆっくり首を起こす。まぎれもなく大学の部室だった。そう言えば練習もひと段落して冷房が効いた部室で転寝をしていた。いったいどこからが夢だったのか、それすら危ういものだ。
六月も中旬に差し掛かればオープン戦を行う機会も増えてくる。春季リーグ戦で三連覇を逃した康太の大学は秋季リーグ戦に向けて昨年に比べて倍以上の試合数を消費していた。今日も四年生と三年生が主体のチームが神奈川県の横浜学院大学とオープン戦をしている。
「菱田明日午後何時までいける?」
声とともにドアが開いて外の熱風が吹き込み、しっかり目を開ける。
「なんだ駒井ちゃんかぁ、うぅんとね、二時までだな高校に行かなきゃならん」
「あー、分かった」
駒井が困ったなという表情でメモ用紙に何かを記入する。
「そんなに人手が足りないのか?」
目をしょぼつかせながら大あくびをかいた康太に苛立ちを隠せない駒井は声を荒げた。
「足りないなんてもんじゃないよ、まったく監督さん試合入れすぎだって審判の数が全然足りない」
四学年を統括している学生コーチリーダーの駒井はさながら現場の責任者だった。野球部のサポートといっても大学野球は高校のようにボール拾いやバット拭きなどの雑用とはわけが違う。
康太の野球部には大きく主務、副主務、学生コーチリーダーと役割が分かれている。
主務の臼井はグラウンドに上がることが四年生になってからめっきり減った。それはグラウンド外の仕事が増えたからだった。スケジュール管理や来客の調整。荒田監督にお供して飲み会に行くこともあれば、星コーチが指示した通りにオープン戦の日程を組み、合宿や遠征のスケジュールを調整する。副主務はそのサポートが主な仕事だ。
学生コーチリーダーの駒井は、他の学生コーチを手配し適切な人員を持ち場に振り分ける。寮長も兼務しているため清掃チェックや点呼の確認、報告など単純作業も行っていた。予算の管理は星コーチが一任しているとはいえ、その仕事は一般的なマネージメント業だった。体育会の裏方の特徴は、学生らしさと社会人っぽさを兼ね備えていることだろう。学生コーチになっての歴史が浅い康太には知ったことじゃないが、
「一年使えばいいじゃん、俺らも散々こき使われただろう」
「そう言う問題じゃない、授業の日程もあるし……マネージャー室行って一人ひとりのスケジュール確認しなきゃ」
「俺も手伝うよ」
「サンキュー菱田。じゃあさっそく全体LINEで言っておいてくれ、俺もうスマホの充電ないから」
相づちをうって康太はスマホを開いた。まだ七〇パーセントもある。音楽を聴きながら高校に行ってもおつりがくる残量だ。着信が鳴る。スマホに設定されたコミカルな着信音と液晶に表示された名前に違和感を覚えた。
「はいはい、どうした臼井?」
「おぉ菱田、そこに駒井ちゃんはいるか?」
「さっきまでいたけど」
「帰ったのか? あいつ電話に出ないんだ」
「いやまだグラウンドにいる」
「そうか、じゃあ伝えてくれ」
臼井の言葉には戸惑いに似た焦りがあった。若干息も荒い気がする。
「臼井、落ち着けどうしたんだ」
「関口が……」
「関口がどうしたって?」
「関口がバックホームの送球で肩を……今季絶望どころか選手としても……」
康太は臼井の次の言葉を待たずして何が起こったのか理解した。
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