1 / 18
監督就任
しおりを挟む
「お前桜高校野球部の監督をやれ」
昼休憩中に監督室に呼び出された菱田康太は、困惑を隠せなかった。
「あの、おっしゃっている意味が……」
荒田監督はこれからしようとする説明があまりにめんどくさいのか、一瞬顔をしかめた。
「そもそも桜高校って知っているか」
「知りません、そもそも僕、埼玉県出身じゃないですし」
「そうだな、じゃあここから秘密の話しだ。我が大学の偏差値は年々少しずつだが上がってきている。そこで新たに指定校推薦枠の県内の高校を増やして、更に優秀な学生を集めようとしているらしい」
言っている意味がわからない、という表情で首を傾げる。
「つまりだ。桜高校と指定校の協定を結ぶために我が野球部が一役買うことになった」
荒田監督は右手で顎や肘をさわり、最後に帽子を触った。公式戦で使われるサインの動作だ。
「就活が終わり、選手も引退したお前が一番適任だと部長の石坂先生から昨日言われてな」
「それは断ることは出来ないのですか」
「出来ないな」
康太は流れ出した汗を止めることが出来ず、しばらく荒田監督の顔を見つめた。
レフトからホームベースへ吹き抜ける梅雨明けの生暖かい風がカーテンをそよかぜ、康太の頬を撫でる。その風に乗って、大学内から演奏サークルの音が外れたファンファーレがグラウンドに聞えてきた。
「あの、高野連的には他大学の学生が高校の監督を務めることは許されているのでしょうか」
康太がそう言うと、荒田監督は意味ありげに笑った。康太の表情を見ながら面白がっているようにも見える。
「その辺は石坂先生に確認済みだ」
「まさか、監督さんは詳しいこと知らないんですか」
「そうだ、俺はただ石坂先生からされた話をそのままお前に話しているだけで、なにも知らん。ただ話を聞いた時面白そうだと思った」
「面白そうって」
康太は荒田監督の言葉を繰り返し、一拍置いてから苦笑した。
荒田監督はなにか言いたげな康太の表情を窺って、「どうした」と呼びかけた。
「監督さんは、自分に高校野球の監督が務まると思っていますか」
「全く思っていない。だからこそ興味がある」
「えっ」
「まぁそう深く考えるな、石坂先生のことだ。おそらくそこまで深い意味なんてない気楽にやれよ。そう言えばバイト代も出るらしいぞ」
「はぁ」
「とにかく今日の練習後に石坂先生の研究室に行ってこい。話はそこからだ」
そう言うと、荒田監督は春のリーグ戦のビデオを見始めた。ライバル大学のピッチャーの癖を研究することに夢中になり、康太は一礼して監督室を退室した。
その日の練習後、康太はグラウンドの敷地から五十メートルほど離れたキャンパス内にある国際経営学部棟に足を運んだ。三十年ほど前までは短期大学だったが、いまでは規模が小さいながらも四大に名称を変え、昨年教育学部の他に社会人間学部が誕生した。
康太は直接グラウンドに繋がっている裏門からではなく、大回りして正門から歩みを向けた。狂ったように木やコンクリートを殴っている空手サークルの目に留まるのを避けて。
それにしてもここまでバットとボールが衝突する音が薄っすら聞こえてくるのは恐れ入る。おそらく我がチームの四番バッター山内の自主練習だろう。
「ランニングゥ」
空手部のキャプテンがいきなりそう叫んで、道着をきた一団が列を作り康太の方へ進んでくる。康太はすぐに道を開け、一般学生を装った。
強化指定され大学から多額の援助を受けている野球部が疎ましく思っているサークルや部活は多い。しかし、つい最近まで現役の選手だった康太は、その勇ましい体格から部活を偽ることは無理があった。かけ声をあわせ、足並みを揃えてこちらを睨み進むその姿はまさに熱気の塊だった。活気盛んな選手ならばこの集団に睨みの一つくらいかえそうものだが、蒸し暑さの中、大量の汗をかきながら殺気のような気合が漲っている彼らを相手にしようとはとても思えない。
このまま帰ってしまおうかな。康太の心は揺れ動き、体は自然にバス乗り場の方へ向いていた。
「菱田くん、どこにいくんですか」
先ほどまで目の前にあったキャンパスに背をむけた瞬間に声をかけられた。
振り返ると、小柄で眼鏡をかけた初老の男が、面白くなさそうにこちらに近づいてくる。
「こんにちは、石坂先生」
康太はその場に立ち止まり、深々と頭を下げた。
「はい、こんにちは。じゃないよ、お前いま帰ろうとしたよな」
「まさか、そんな」
石坂先生は、野暮ったいスーツを身に纏い大学教授らしからぬ威厳の無さを醸し出していた。理由は分からないがいつも野球部の公式戦用の帽子を被っているのはこの人が紛れもなく我が野球部の部長であるからだ。
「今日監督から話を聞いただろう」
「えぇまぁ、断片的ですが」
「なら話は早い、とりあえず俺の研究室に来い」
そう言って石坂先生はジャージの裾を掴んだ。
「先生恥ずかしいっす、どこにも行きませんって」
「あっそう、じゃあその言葉を信じよう。俺は学生を信じられる教授だからな、ところでお前長袖なんか羽織って熱くないわけ」
「ほっといてくださいよ、アンダーシャツがノースリーブの薄い奴しかなくてこれで外歩くの嫌なだけっす」
「あっそ」
石坂先生はとことことキャンパスに足を進める。康太はバレないようにため息をつきながらその歩みを合わせた。遠くの方で威勢のいい掛け声が聞こえてくる。あの集団がおり返してくる前に早くこの場を去らなければならない。
「あと言い忘れたけど」
首だけ振り返った石坂先生は事務的な口調で淡々と言った。
「お前高校生に野球だけじゃなくて勉強も教えるからな」
同じ時刻。埼玉県幸手市にある桜高校一階の校長室では、校長の金井智之が三学年の学年主任泉剛介とともに校庭に向かって歩みを進めていた。渡り廊下を抜けるとあけ放った窓のむこうに広大なグラウンドが眺められる。テニスコートやサッカーグラウンドよりも遥に広い敷地面積を野球部が持っていた。
「それにしても、もったいないですね校長この敷地は」
「広すぎることもないだろう」
「そもそも部活動をする生徒が少ないことが問題です」
ワールドカップやWBCと言った国際大会にて日本代表の大躍進により、再び集団スポーツの人気が沸騰していた。しかし、桜高校の部活志望者は例外に増加しなかった。
「やはり、運動部は野球部が活気づいてくれないといまいち盛り上がりにかけるな」
「残念ながら、その野球部が深刻な問題です」
「問題ではない、これは大問題だ」
「すみません、言葉を間違えました」
泉主任は、間髪入れずに訂正した。
そのとき、廊下を走る丸坊主の少年がちょっとした段差につまずいてそのまま派手に床に倒れ、鈍い音が響き渡る。金井は思わず身を退けた。床に体が勢いよく叩きつけられると転んだ本人より周りが驚くものだ。
「大丈夫か、大野」
「すみません、今補習が終わりまして」
大野雄大は素早く立ち上がると制服に付着した埃を払い照れ隠しのように鼻をかいた。
「元気がいいことは素晴らしいが、廊下は走るな」
金井の言葉に雄大はお説教が始まると思い、苦笑を浮かべる。
「すみません、気をつけます。でもグラウンドで太一を待たせているのでこれで失礼します」
風のように玄関に向かって走り去っていった雄大を二人は、呆気にとられたように見送った。
「本来なら、厳しく注意しなければならないが、彼のような生徒がもっと増えたらと思ってしまうな」
「そうですな」
元気な部員を見るのは楽しい。特に相手が野球部員だととても頼もしく感じる。昔は男のスポーツと言えば野球で、どんな高校球児でも甲子園を目指してひたむきに汗を流していたことを懐かしんでいるのかもしれない。
「野球部の件、高野連にはどう伝えますか?」
泉主任は振り返っていった。金井の顔が曇る。
「やむをえないだろう、単独で出場することが出来ない以上、しかし2年連続で棄権するわけにもいくまい」
そう言って踵を返し校長室に足を向ける。
「やはり三校の合同チームでの夏の大会出場になりますか」
「そうなるな」
校長室の室内にある中央にしつらえた野球部応援セットのテーブルに、創立五十周年記念に新調したユニフォームが置かれていた。オフホワイトの生地に黒の縦縞、胸には桜の花のエンブレムがよく映えている。
「なんでもいいんだ。私は彼らに勝利の喜びを感じてほしい」
「だからって、校長が指揮をとらないこととなんの関係があるんですか」
「私が監督を引き受けたって万に一つの奇跡は起こらんよ」
「それでいいのですか、提携を結ぶとはいえ見ず知らずの大学生に監督を任せるというのは」
泉主任が前のめりになりながら言った。
「だからある条件つきで提携を結ぶことにした」
若干色素が薄くなったしろ髪を撫でながら、金井は頷く。
「この夏を持って我が高校の野球部は廃部とする。私は部長として生徒たちの最後の夏を見届ける」
金井はそう言って真新しいユニフォームに目をやった。
「まぁ菱田くん座りなさい」
研究室に招かれた康太だったが、相変わらず、机の上に乱雑に積まれた書類に目が釘付けになる。
「先生、また何かの頼まれごとを引き受けたのですか」
「まぁいいから座れ、これから東ティモール産のおいしいコーヒーを作ってやろう」
「それってあれでしょう、学園祭の出し物に使ったやつでしょ」
苛立たしに反応した。
「失敬な、これはフェアトレードコーヒーだぞ」
フェアトレードとはその名の通り公正な取引を行い、発展途上国の貧困な生産者及び労働者の生活改善と自立を支援する国際的な運動のスローガンである。
じょじょと間の抜けたポットからお湯が注がれようやく一杯分のコーヒーが飲めるまでになった。石坂先生は康太になみなみ注いだカップを震えながら手渡す。コーヒーが零れ落ちる前に一口すするとスッキリした苦みが口の中に広がった。
「上手いっすね」
「そうだろう、なんてたって国際NPOから購入したんだからな」
「でも、お値段けっこうしたんじゃないすか、学祭のとき一杯百円で売ってましたけど利益出たんですか」
「俺は東ティモールの権威だぞ。知り合いから二割引きで仕入れたから問題ない」
康太が柔らかいまなざしで石坂先生を見上げた。フェアトレードなのに値切るってどうなんだろうか。その話し、深く掘り下げようと思ったが、長くなりそうなのと石坂先生の今後の進退に関わりそうなのでやめた。
「なんだよその顔」
「いえ、なんでも。ところで勉強も教えるってどういうことっすか?」
石坂先生は、自分の分のコーヒーを作るためにポットに水をためていたが急に戸棚から菓子箱をとりだした。康太の対面にあるソファーに座ると包装紙をびりびりに破り捨て中身を二人の間に置いてある小さなテーブルの上にひっくり返す。
「これ、学長にもらったんだけどやるよ」
「はぁいただきますけど」
一つずつ包装された菓子はフランス製のパウンドケーキだった、種類は三つありフランス語が読めない康太は適当にクリーム色をしたケーキを口に運んだ。計算された甘さのあとで舌に微かだがバターの味が残る。
「……」
「……」
無言のままパウンドケーキを食べる石坂先生は二つ目のケーキに手を付けようとする前に思い出したように口を開いた。
「お前さ、日商二級もってるじゃん」
「はい」
「だから簿記教えてやってよ」
「唐突すね。いいっすけど」
「じゃあよろしく」
「いやいや、もっと詳しく教えて下さいよ」
康太にそう言われテーブルの下に隠してあった資料をおもむろに菓子の上に広げた。康太は手にとって内容を事細かに読み始めた。
「教育サポーターのアルバイト?」
「そうだ、桜高校と大学が提携を結ぶための懸け橋として優秀な学生を送り込むことになった。そこで桜高校の校長先生から硬式野球部の学生を一人よこしてくれと言われたんだよ」
「それで、僕に白羽の矢が立ったと」
「そんなところだな」
康太はパウンドケーキを貪りながら、資料の概要を確認した。授業はあくまでもサポート役に徹し、実際に教壇に立つわけではないらしい。イメージ的には教室を見渡しながら、問題が分からない生徒がいたら近くに行って教えてあげればいいらしい。三枚に渡る資料の中でも康太が目を引いたのは時給の欄だ。
「先生、これ一時間二千円ってまじですか」
「そこに書かれているなら本当だろうな」
一時間二千円で三時間週四回。単純計算しても月十二万近くは稼ぐことが出来る。
「やりますよ、こんなおいしいバイト! いやぁむしろありがとうございます。僕はてっきり面倒ごとを押し付けられると思ってまして」
「それは良かった。コーヒーのおかわりはいかが?」
「いただきます」
ちょうど湯気が上がったポットに視線を移し、石坂先生はにこにこしながら腰を上げた。
「で、いつからなんすか? このアルバイトは?」
「今日の午後三時から説明会だよ」
あぁそうすかと言いながら康太は時間を確認するため壁にかけてあるアナログ時計に目を移した。
二時二分。
おぉぉぉぉぉぃ!
「ちょっと! 突然すぎるでしょ!」
「大きな声を出すな、大丈夫だよ北春日部の駅まで送ってやるから」
「あんたねぇ、高校って幸手市にあるんだろ? 電車調べたのか?」
「あぁうるさいなぁ調べたよ、調べたら30分の電車に乗れば五分前に幸手駅につく」
石坂先生は、ハンガーに吊るされたジャケットの内ポケットからスマホを取り出し調べた証拠に北春日部から幸手までの電車の時刻表を自慢げに見せてくる。康太はイライラしながらもグッと感情を抑えて深呼吸した。
「分かりましたよ、ところで学校は駅前にあるんすか?」
「えっ、あ」
「あって」
石坂先生の表情は一瞬で険しくなる。
「ごめん、それは計算に入れていなかった」
「案の定じゃないっすか!」
二人は慌てて研究室を飛び出した。
幸手駅に着いた康太はプラットホームを風のように駆け抜け、改札を飛び越える勢いで直進していた。(実際はしっかりスイカでタッチしている)電車の中でグーグルマップを開き住所をうちこむとなんと駅から歩いて十五分もかかる事実が発覚したのだ。
「先生無茶ぶりがすぎんだろ、なんで現役退いたのに一・五キロも全速力で走らなければならないんだ!」
すでに約束の集合時間から五分も過ぎている。右肩に部活で使用した野球道具が入ったエナメルバックを左肩にかけながら、終始ノーブレスで通学路を走る。途中ですれ違う中学生は康太に少なからず好奇の目を向けていた。
「ばかやろ、中坊スマホで撮影すんじゃねぇ」
康太はケラケラ笑いながらスマホを構えていた二、三人の男子の群れに二割ギャグ、八割本気の声量で注意する。しかし、それ以上追及するつもりはなかった。石坂先生はともかく荒田監督直々に頼まれた仕事だ。詳しいことはよく分からないとはいえ、自分の頑張り次第で大学と桜高校の間に友好関係が構築すれば、それはそれで誇らしいことだ。
「見えてきた」
スマホの時間を確認する。三時十五分。まぁなんとか許してもらえるだろう。康太は正門の柵に手をあて、もう一つの手を腰にあてて、息を整える。六月とはいえ気温は夏に向けて日に日に上昇していた。まったく地球温暖化とはよく言ったものだ。春日部駅近くにある学生寮の部屋でも滅多にエアコン使わないし、深いため息もつかない。オレはこんなに地球に優しい男なのに、誰もオレに優しくしてくれない。
「あぁなんか悲しくなってきた」
康太は一人つぶやき滴る汗をスポーツタオルで満遍なく拭った。更に車の中で石坂先生がこれ見よがしにくれた制汗スプレーを咳が出るほど体に吹かしまくった。
「これでよし!」
康太は遅刻したことも忘れ我が物顔で事務室に赴くと事務長を名乗る女性から校長室に案内された。
コンコン。
「はい」
ドアの向こうから低く威厳がある声が聞こえてくる。
「校長先生、お連れ致しました」
「どうぞ、お入りになってください」
事務長から促されると康太は一度深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
「失礼します。この度はお日柄もよく……」
その瞬間に、鋭い視線を感じた。
「遅い、遅すぎますよ。菱田くん!」
「はいぃ、すみませんでした」
康太が思わず後ずさりして、気がつけば頭を直角に下げていた。身長は康太より少し小さいくらいの男性は、鋭い眼光で、陽に焼けた肌の眉間にしわをよせ怪訝そうに康太を叱責したのだ。
「いいんだよ。さぁさぁ菱田くん座って座って」
「はい! 失礼いたします!」
校長室に備えられたソファーには、すでに他大学の学生がスーツ姿で、覚めるようなまなざしを康太に向ける。
「はは、失敬、失敬」
石坂先生の研究室にあるものとは比べものにならないくらいふかふかで、いつもより尻が深く沈む。
「この度は遅れまして申し訳ありません」
「菱田くん頭をあげて」
金井は、康太をなだめたが、泉主任は遅刻した康太に対して怪訝そうに横目をちらつかせていた。
「みなさん、まぁ若干一名遅れてきましたが、よく来てくれました。あなたたちには我が校の教育サポーターとして……」
欠伸を我慢しながら長ったるしい説明を聞く。どうやら康太以外の学生は基本的に教員志望で、このアルバイトもそのための予行練習の一環らしい。
「皆さんには、おもに一学年の生徒を担当して……、学生でありながら未来の教師であり、生徒たちには秩序正しい見本になってもらいたい……、若干一名そうでない学生もいますが、間違っても生徒とSNSでのやりとりや連絡先の交換をしないようにお願いしますよ」
一時間に及ぶ説明が終わると学生たちは泉主任から手渡された資料をカバンにしまい順番に校長室を後にする。康太もその流れにそって帰ろうとしたが、
「菱田くんは残ってくれ」
帰り際に声をかけられた。気づかれないように大人しくしていたのにも関わらず。
金井は泉主任に何かを持ってくるように指示をして、康太が頭を上げた時に目の前にさきほどまで食べていたものと同じフランス製のパウンドケーキの菓子箱が広がっていた。
「さぁさぁ食べながら話そう」
机の上に広がったパウンドケーキを眺めながら、恐るおそる手を伸ばす。これを食べたらもう断れない気がする。そんな猜疑心に駆られながらも康太はパウンドケーキを一口かじった。
「どうだい、これは貰い物なのだがね、なかなかおいしいだろ」
「はぁ、はい」
『さっき食べた奴と全く一緒だ、うちの学長の貰い物じゃね』その真意を確かめる術は残念ながらないが、康太はパウンドケーキを食べたことは事実だ。
「君には我が校の生徒に簿記の勉強を教えてもらう。というのは口実で、野球部の監督やってもらう。まずは……」
「そのことなんですけど、なんで僕なんすか」
「聞きたまえ」
言葉を遮った康太に憤懣やるかたなしと言った調子で、金井は康太の目の前に協定契約書と書かれた一枚の紙きれを差し出した。
六月の一週目、夏がもう顔を出してじりじりと肌を焦がし始める。
「これは我が校と菱田くんの大学との協定書だ」
「なるほど」
たしかにうちの大学と桜高校の協定書だ。間違えない。車の中で石坂先生が言っていた桜高校との指定校協定の話しで最後の最後でお互いの意見が合わず思うように言っていないと聞いた。
「ここの欄に私の捺印があればそちらとしては何の問題もないだろうね」
「まぁ僕には直接関係ないですが」
投げやりにそう言った時だった。校長室のドアがノックもなしに勢いよくいきなり開いた。康太はその意表をついた大きな音に驚きながらも振り返ると、大柄な男子と小柄だが筋肉質の男子がこちらを見つめていた。二人とも真っ白いユニフォームを着用していて左胸には、「穂浪」「大野」と書いてある。
「校長先生! この人が新しい監督ですか!」
「大野」と書かれた生徒が康太を尊敬のまなざしで見つめていた。
「もう、雄大失礼だろ」
「穂浪」と書かれた生徒はその恵まれた体格とは対照的におどおどした声だ。
「お前らなんだノックもしないで!」
「まぁまぁ主任、ほら二人とも新監督にご挨拶だ」
「まってください、僕はまだ何も……」
康太がしどろもどろして次の言葉を捜す前に、雄大は汗まみれの顔をほころばせる。
「俺、桜高校野球部主将大野雄大です!」
「え、いやそのはじめまして」
その熱気あふれる挨拶に康太はすっかり気分をのまれてしまい無意識の内に立ち上がってしまった。
「僕は、副主将でえっと、キャッチャーです。えっとよろしくお願いします」
体型は異なるものの、視線の高さは康太をゆうに超えている。穂浪太一は、身長一八〇センチはあるだろう。
「監督って言われたって俺経験ないぞ」
「それでも私が指揮をとるよりましだ」
金井はなし崩しに康太の肩口をたたいた。軽く触れた程度なのにそこになんとも言えない重みがある。更に雄大のまなざしは康太の顔から両手の平に注がれた。
「やっぱりすごく皮が厚いんですね!」
「えぇあぁ」
「やっぱり大学野球は毎日千本素振りですか!」
「いや、そうかな、結果的にそれだけ振ってたかも」
「す、すげぇ~ こんなすごい人が監督なら甲子園だって狙える!」
まずいな。康太はめんどくさくなる雰囲気を察して早くその場を去らなければいけないと感じた。
「こ、甲子園って、校長先生今日はこの辺で失礼しますよ」
康太は無理やりにも金井や雄大に一礼して踵を返した。
「菱田くん、これだけは覚えておいてくれ――」
背後から声が聞こえた。
「私はこの子達に良い思い出を残してあげたいんだ。最後の桜高校野球部員としてその花道を作ってやりたい。そのことを忘れないでくれ」
康太は現役を退く大学四年の春までに一度もリーグ戦のメンバーになったことがなかった。しかし決して康太が練習をサボっていたとか、チームにとって足を引っ張るような行動をしていたわけではなかった。部員百三十人を超えるチーム内で一軍のメンバーに入るだけでも大変なことで、いくら結果を残そうが、甲子園で活躍した新入生が入部してきたらすぐに入れ替わりが起きる。そんな無情にも儚い勝負の世界に身を置いて、ようやく掴んだ三年生の晩夏、康太にとっては初めて一軍に呼ばれ、時期的にも秋の大会のメンバーに選出される最後のチャンスだった。それなのに、
メンバー選考のための大事なオープン戦。六番ファーストで先発出場した康太は最終打席までヒットがなかった。この試合のスタメンはおもにベンチメンバー当確ぎりぎりの選手がピックアップされていたため、この打席で結果を残さなければ長年の夢は立たれてしまう。そんなプレッシャーの中、康太はバッターボックスで落ち着いていた。
八回裏ツーアウト三塁。ツーストライクと追い込まれながらも冷静にボールを見極め相手チームの守備位置を確認する。アウトコースを中心に攻めていたバッテリーも打ち取れないバッターにしびれを切らし、集中力が散漫になったところを康太は見逃さなかった。
思うように抑えられず、苛立った分だけ力みすぎたボールはキャッチャーの構えたところよりわずかに内に入ってきた。そのボールを康太は強引に引っ張って打球は三塁線を破った。このときレフトを守る選手が左利きであったため一塁到達の際のオーバーランを緩めることなく二塁に向かう。ライン際のボールを処理する時に左利きの選手は右利きの選手に比べて進行方向に体を回転させる分どうしてもワンテンポ遅れてしまう。これは野球のルール上仕方のないことで、左利きの選手は右利きが多い野球界では重宝されがちだが、守れるポジションが限られるなどデメリットもある。
「セーフ」
同点打を放った康太はベンチに向かってガッツポーズした。ベンチには同じように苦労してきた同級生や共に練習をしてきた後輩たちがいて、皆、自分のことのように喜んでくれている。
「ナイスバッティン! これでメンバーも決まったかな」
三塁コーチャーを務めていた星コーチがタイムをとりエルボーガードとバッティング手袋を回収しにきた。
「はい、ありがとうございます。あとは僕がホームインするだけです」
「そうだな、ツーアウトだし、バットにボールが当たった瞬間スタート切れるようにだけ意識して、一気に駆け抜けろ。オレは全力でまわす」
「わかりました。あとは松下を信じて駆け抜けます!」
松下は、康太と同じような境遇で努力をしてきた同級生で、苦しい時、つらい時に切磋琢磨してきた戦友だった。そしてここまでノーヒット。しかしプレッシャーのかかる場面で逆転打となれば監督の評価は高くなるはずだ。
――絶対打てよ松下。内野を抜けた瞬間ホームを駆け抜けてやるからな。
初球だった。康太の祈りが届いたかのように松下は肩口から甘く入ってきた変化球を完璧に捉えてレフトにはじき返した。
「よし!!」
スタートはいい。康太は一度打球を確認するともう迷うことなく三塁ベースを駆け抜けるためにトップスピードにのる。
「ダメだ! クロスプレーになる無理すんな止まれ!」
星コーチの声が響く。冗談じゃない。あいつの苦労を誰よりも知ってんだ、俺は止まれない。
「行きます!」
三塁ベースをまわる。星コーチと一瞬だけ目があった。今思えばあの瞬間から星コーチは事の結末が分かっていたのかもしれない。
「菱田さんそのまますべりこめ!」
八番バッターの上宮がネクストバッターズサークルを飛び出して指示を送る。 康太は指示通りにスライディングを始めた。その時、キャッチャーが急に康太の走路上に体を入れてきたのだ。「まずい」康太がう思った時にはもう遅かった。両者はそのまま激突しキャッチャーが康太に覆いかぶさるようにのしかかってきた。
ぶちっ。
鈍い音が聞こえ、数秒の間なにが起きたのか分からなかったがすぐに右足に激痛が走った。
「ぐあぁぁ」
真っ暗だった。汗が目にしみて目を開けられないわけでもないのに康太は、目を開けることが出来なかった。駆け寄ってくるチームメイトの心配そうな声と、季節外れのセミの鳴き声だけが虚しく鼓膜を揺らし、頭がい骨を振動させる。「やめてくれ、やめてくれ」そう叫ぶにはあまりに残酷すぎた。
すぐに医務室に運ばれ、応急処置を施した後病院に直行した。右足首靱帯断裂。そう診断を受けた時、悟ってしまった。
勝負の世界に長くいるからよくわかる。これで夢は断たれたも同然だった。
康太が電車に揺られ寮に帰ってくる頃には、食堂にはチームメイトの姿はなかった。机にぽつりと寂しく置いてあった辛すぎる麻婆豆腐だけが康太の帰りを待ちわびている。
「今夜ははずれだな、これ辛いだけで味しないもんな」
サランラップで丁寧に封をした皿を電子レンジに入れて三分待つ。その間冷蔵庫にあったマヨネーズを拝借して真っ白な白飯にかけて口にかき込んだ。現役を引退したとはいえ食べる量は依然とあまり変わっていない。それでも大盛りご飯はおかわり二杯までと決めていた。運動量が急激に減ったためこれまでと同じ食生生活だと体重の増加に歯止めが利かなくなるのだ。
しかし、腹を満たすだけの食事ではなんとも心持たない、そんな時康太は決まって自室の向かいの部屋に赴く。
「なんすか、菱田さん」
「ラージA行こうぜ、上宮」
上宮佐祐はめんどくさそうに両目をこすると「アイス食べたいっす」とだけ言って部屋を出てきた。
「どこ行ってたんすか、食堂のおっちゃん怒ってましたよ」
寮からラージAまでの道すがら上宮はさして興味もなさそうに尋ねてきた。
「うん、ちょっとな」
康太は財布の中身を気にしながら答える。午後九時に差し掛かろうとしていた。ラージAは二十四時間営業している小規模なスーパーマーケットだ。寮からグラウンドまでの道のり上にあるため大概の寮生は朝ここで昼飯や栄養ドリンクを買っていく。アルバイトが制限されている寮生にとって比較的安価な商品が揃っているラージAは第二の食堂のようなものだった。
「俺これがいいっす」
「ばかヤロー、ハーゲンダッツは誕生日に食うもんだ。ホームランバーにしなさい」
「アイス選ぶくらい野球から離れましょうよ」
渋々ホームランバーを手にとった上宮に康太は「なぁ」と声をかける。
「なんすか?」
「俺が高校野球の監督をやるって言ったらどう思う」
「できないでしょ、菱田さんに」
「だよな」
想像していた答えが返ってきてしかめっ面になる。そりゃそうだ。
「監督やるんすか?」
「成り行きで……な」
「成り行きで高校野球の監督にはなれませんよ」
「そうだな」
上宮は意外に冷静な口調で言った。上宮に渡した二百円でホームランバーを二本。会計レジにいる店長の川内さんはすっかり顔なじみになっていて、二人に軽い微笑みをくれる。
「一本よこせよ」
「立ち食いは厳禁ですよ」
「いいんだ、俺たちはもう上級生だぞ。監督、コーチに構うことはないさ」
「それもそうっすね」
レジ袋からホームランバーを一本康太に差し出す。味はチョコ味だった。
「バニラよこせよ」
「いやっす」
「俺の金だぞ」
「厳密には菱田さんの親のお金でしょ」
「そうだな。じゃあチョコで我慢するわ」
「我慢してください」
寮までの道を戻る。蒸し暑い気候に嫌気がさし、熱帯夜を過ごさなければならないことに心底嫌気がさす。
「……足はもういいんすか」
「あぁ」
「そうすか」
康太は自身の右足を叩いた。ケガをして、それでも僅かな望みをかけて半年間死ぬ気でリハビリと練習に励んできた。自分のわがままに最後まで付き合ってくれた体に今は感謝している。
「なんども言って悪いがお前まで俺と現役引退することなかったんだぞ」
「別に同じってわけじゃないすよ。僕は来年の就活のことを考えての引退ですから」
そういえば東京消防庁に行きたいんだよな。少し前に上宮が言っていたことを思い出す。
「お前もいろいろ考えてんだな」
「菱田さんほどじゃないすけどね」
康太からしてみれば上宮の才能には目を見張るものがあった。身長は平均的に比べて低いがその分並外れた運動センスがあり、守備に至ってはその非凡なセンスをいかんなく発揮していたのだ。しかし、それだけならこのチームにごまんといる。実力を見出される選手とそうでない選手の特徴はなんなんだろうか。康太は引退してからずっと探している。高みを目指すと誓ったあの日から突然始まった競争のゴング。更に縁やら運やら才能やらと言ったぼやついた、でもたしかにはっきりとした事柄が永遠のように付きまとう。スポーツマンシップに反する最もフェアじゃない戦いがそこで起きている。
「菱田さん」
「どうした?」
「明日、久しぶりにキャッチボールしませんか?」
「やるか」
上宮は軽くステップを踏んで夜空に向かってボールを投げる仕草を披露する。三分の力でも、バランスの良さを感じさせる美しいフォームだ。
練習の途中で荒田監督に高校に出向くことを説明すると快く承諾をもらい康太はグラウンドを後にした。みんなより早く練習を切り上げることに他の学生コーチの奴から少なからずの嫌みをもらい受けたが、そんなこといちいち気にしている暇などない。昨日の夜はあれから高校時代の簿記の教科書を机の引き出しから引っ張り出して、勘定科目から連結財務諸表のやり方まで細部にわたり復習してきた。生徒はおろか他の大学の学生に絶対に舐められるわけにいかないのだ。
寮に帰って素早く汗をシャワーで流し、制汗スプレーをかけまくる。少しきついスーツに身を纏い今度は余裕を持って電車に乗った。幸手駅から程遠く離れた桜高校はもともと桜商業高校という名前だったが、数年前に近隣の工業高校と普通高校と吸収合併し総合学科の高校として生まれ変わった。これも少子化の影響なのかと思いながらも康太は足を進める。
「君たちのために大学から勉強を教えにきてくれた先生方です」
泉主任の簡単な紹介が終わると、さっそく授業に入っていく。どうやらこの教室に集められた大半は中間試験や小テストで赤点をとってしまった生徒らしい。
『まったくこんなことなら昨日早く寝ればよかった』
康太は昨日の猛復習も虚しく、簡単な勘定科目で貸方、借方を間違える生徒にできるだけ優しく教えていた。
「菱田くん」
自分の名前が呼ばれたと思って振り向けばやっぱり校長の金井だった。ドアを半分ほど開けて手招きする。
「なんすか?」
「どうだね調子は?」
「まぁぼちぼちですよ、でなんすか?」
「そんなことより、今日はユニフォーム持ってきたかね?」
どうしてこの人は疑問を疑問で返してくるんだろう。康太は自分の頭を軽く撫でると明らかにめんどくさそうに「持ってきました」とだけ言って再び授業に戻った。しかし、金井は自室に戻ることはなくそれどころか教室の一番後ろに居座り周囲を見渡している。
『このおっちゃん、おれがばっくれると思ってんのかよ』
まるで信頼されていないのが腹を立たせるが、正直康太にとってバイト代がもらえればそれでいいのでバイト代がでない野球部の監督を最初から真剣に受けようとははなはだ思ってもいなかった。ただ後ろから感じる視線にひどく気疲れした。
授業が終わってから二十分が過ぎて、康太は金井に借りた教職員用の着替え室でユニフォームに着替えグラウンドに向かって歩いていた。野球部専用グラウンドは十分な広さはあれど手入れの行き届いていない乾いた土はダイビングキャッチをしようものならきっと怪我をするくらい固かった。内野に足を踏み入れたところでふと足を止めた。ユニフォーム姿の男子生徒が二人そこでキャッチボールをしていた。一人はピッチャーのように大きなモーションで思いっきり腕を振っていて、もう一人はその球をなにも言わずに受け止めている。その様子を立ち止まったまま見守った。
「おい太一もっとなんか感想とかないのかよ!」
雄大は不満そうに太一に言った。
「うん、ナイスボール」
「おいおい、もっと明るくやろうぜ」
雄大の笑いがはじける。その後も楽しそうに投球する雄大は勢いのあるストレートを投げ込んでいた。捕手役の太一は康太が見ている限りでは一度もグラブのシンでボールを捕ることが出来ていなかった。立派なキャッチャーミットをこさえているのに全部網の部分で捕球している。
それから十球ほど見たあと、康太は二人の元へ近づいて行った。
「なかなかのボールを投げるな。一球受けてもいいか」
「あ、菱田さん! ウスッ!」
康太に気が付いた雄大が帽子をとって元気よく挨拶する。
「どうも」
捕手をしていた太一は対照的に申し訳なそうに頭をちょっこんと下げた。
「大野くんだっけかきみはピッチャーじゃないだろう?」
雄大は首を縦に振る。
「そうです雄大は本来ならセンターなんですよ」
太一がすかさず補足しながらグラブを康太に渡した。
「穂浪くんせっかくいいミットを持ってるんだ。捕球はいい音をならさないと」
康太は腰を軽く落としミットを構えた。雄大は嬉しそうに振り被ってミット目掛けて腕を振った。勢いのあるボールは空気を裂くようにシュルルと音を立てて康太に迫るが、ピッチャーの投げる球ではない。スピードはたしかに一三〇キロほどだが回転数が圧倒的に少ない、つまりボールに伸びがないのだ。勢いがあるボー球だ。しかし、そんなボールが、康太の近くまでくると不規則な動きを僅かだがした。
なるほど。
康太のミットがバシッっと音を立てる。
「おおっ」と隣からもれた声が聞こえた。
「若干ボールが動くね、これは捕球が難しいわけだ」
「そうなんです、雄大は投げるときボールをわしづかみに持ちかえちゃうくせがあってしっかりした握りで投げれなくて」
「ナイスキャッチっす!」
雄大は康太に賞賛の言葉を贈ったが、太一は表情を曇らせていた。大学生とは言え一球で雄大の癖球を完璧に捕球され、自信を無くしているようだった。
康太は雄大にボールを渡そうと歩み寄る。
「わざわざどうもありがとうございます。」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
康太は周りを見渡したあとでボールを雄大のグラブの中に入れた。
「他の部員はどこにいるの?」
「いませんよ二人だけです俺と太一の」
はっきりと言った雄大の屈託のない笑顔とは裏腹に康太の顔は困惑を隠せず、苦し紛れに空を見上げる。文字通り雲行きが怪しくなってきた。
そのころ金井は午後の職員会議を終えて校長室でブラックコーヒーを飲んでいた。古艶が美しいデスクの上には最近発行されたスポーツ週刊誌が置かれている。
『高校野球特集 夏の甲子園連覇を狙う花咲徳栄高校の意識改革』
大きなキャッチコピーとともに甲子園のグラウンドを蹂躙する選手の姿が掲げられていた。
『強豪ひしめく埼玉県を制し全国の強豪を打ち破った花咲徳栄高校。ワンプレーに対する揺るぎない精神力は日々の練習の高い意識で養われていた』
何度も見た見出しに目をやりつつも、そもそもレベルの高い選手を県内外から集めている強豪校の躍進はうちのような総合学科の高校と比較するまでもないことは分かっていた。
それにしても、金井は神妙な面持ちになる。高校野球という監督が絶対主義の態勢の中でどうしたら個々の意識を高めることが出来たのだろうか。背景には選手一人ひとりが自ら考えて行動する力を養わせるために、あえて執拗な指導は控えて自主創造を促しているというが、そんなことが実際可能なのだろうか。まだ右も左も分からない高校生に大人でも難しいことを要求することは。
しかし、だからこそ我が校も、この意識の高さを見習わなければいけない。
金井は次のページを開こうとしたときドアにノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「校長先生、いったいどういうことなんですか」
現れたのはユニフォームを着た康太だった。
野球部員が二人しかいないなんて聞いてないですよ。そう伝えただけで康太は口ごもってしまった。顔には大量の汗を浮かべ神妙な面持ちで金井を見つめる。
「まぁ菱田くん、落ち着いて今お茶出すから」
金井は右手でソファーを指し示し、校長室と隣接している事務室の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してソファーに座る康太に手渡した。背筋をぴんと伸ばした康太はスポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干すと、そのまましばらく黙って金井を見つめた。二重瞼をぐっと見開いて威圧するように。
「菱田くん、そんな怖い顔しないで」
「先生、二人しかいない野球部がどうやって夏の大会に出場するんですか」
「まぁまぁ落ち着いて、そうだ菱田くん石坂先生からいろいろ聞いているよ。君は選手だったころ誰もが認める努力家だったそうだね」
苦し紛れにふとなにかを思い出したような表情で金井が身を乗り出した。
「だったらなんですか、それでもレギュラーになれなかった僕に何が言いたいんですか」
すぐに康太は返答した。その件に触れられることを恐れていたように。
「いや、これは嫌みとかではなくて、困ったな。でもその原因はケガなんだろう」
「ケガも実力のうちですよ。僕には才能がなかったそれだけです」
「才能か……、そう片づけられるものではないと思うが」
金井は腑に落ちないものがあるような口調で声を沈めた。
暗闇迫る窓の外から部活終わりの生徒の賑わいが伝わってくる。
「ともかく部員二人じゃ、野球にもなりません。監督は引き受けるつもりでしたが、試合に出られないのではまるで時間の無駄です」
康太が手の平で額の汗を拭いながら言った。
「いや、試合には出場できる」
「はい?」
康太は拍子抜けする声をもらした。
「合同チームだよ菱田くん。聞いたことないかね?」
「合同チームですか」
金井は頷いてこの地域一帯が描かれた地図を持ってきて康太の前で開いた。
「半径二キロ圏内にうちを含めた三校の高校がある。その三校の野球部員は合わせるとちょうど九人になるんだよ。だから私が先頭に立って今回の夏の大会限定の三校合同チームを作った。明日君にも紹介するよ」
「でしたら、なおさら僕ではなく監督は校長先生がやられるべきでは?」
「私ではあの子たちを勝たせることは出来ない」
金井はむきになって早口で言った。あまりに突然だったので康太も思わず口をつむる。
「私はね菱田くん。ただあの二人を三年間の内に一度でいいから勝たせてあげたいんだ。去年の夏、試合に出場できなくとも頑張って続けた二人にどうしても」
一気にまくし立てた金井の言葉には熱意が込められていた。それは康太にも感じることが出来た。
「しかし、合同チームとなると練習時間の確保とか大変です。僕が監督になったからって必ず勝てるとは約束できません」
「それなら協定書にサインはできない」
おいおい。
金井の真剣な表情を終始冷ややかな目で見つめる康太は最後の最後でめんどくさいことに首を突っ込んだと後悔の念を浮かべていた。
雄大と太一の実力ははっきり言って普通の高校野球レベルほどだった。バッティングや守備は最低限の動きはできるものの、それ以上の実力はないと感じた。康太の言うそれ以上というのは大学野球で通用する力があるかどうかという認識だ。だが雄大のポテンシャルは思っていたよりずっと高い。足は速いし、肩も強い。それにすこぶる明るくて元気だ。雄大の底知れない明るさは組織スポーツで最も大切なことである。金井が言うように二人しかいない野球部を辞めずにここまで続けてきた精神力は康太の目から見ても見上げたものだ。しかし問題なのは太一のほうだった。体つきは恵まれているが全体的にちぐはぐで動きと言うより反応が鈍い。分かりやすく言えば覇気がない。おそらく太一は雄大の明るさに引っ張られて野球部に残ったのだろうと直感的に思った。
たかが三時間足らずの練習でそこまで分かってしまう自分はこの世界に長く身を置きすぎたと帰りの電車に揺られながら康太は変わりすぎさる町や車の流れを横目で追い越していた。
たった二人の野球部員と寄せ集めの七人による合同チーム。
一ヶ月と数日か――。頭で思い浮かべて嫌になる。
そんな短い期間で個人の技量や力が向上するのだろうか? それよりもチームとして成り立つものなのか。野球はそんなに簡単なスポーツではない。それは康太が一番よく分かっている。付け焼刃の急造チームが勝てるほど野球の世界は甘くはない。例えどんなに個人や周囲がそれを望んだとしても、思いだけではどうにもならないことを痛切に誰よりも痛切に理解していた。
時間がない。とにかく時間がない。
考えて没頭しいて、気がつけば春日部を通り越し、せんげん台まで電車を乗り過ごしていた。
「やべぇ、またおっちゃんに怒られる」
つぶやいて慌てて下車し、反対ホームに向かって階段を登る。
人の波を避けようとして踊り場で対向者と体がぶつかりよろけそうになると、無意識に右足を庇い床に手をついてしまった。
「きびしいなぁ」
そうつぶやいて立ち上がり、康太はまた歩き出した。
次の日の朝練習後、松下にバッティングピッチャーを頼まれ室内練習場に向かおうとした康太は荒田監督に呼び止められしぶしぶ監督室に顔を出した。
ドアを開けた瞬間、クーラーの涼風が吹き込んでくる。
「今日あちぃな」
「そうですね」
そう言いながら目も合わさないでいきなり今春全国大会に出場した創世大学の試合のビデオを再生し始める。康太が驚いていると、
「菱田、お前勝てないとか後ろ向きなこと思ってるんじゃないだろうな」
『いきなりなんすか』
半ば不貞腐れた態度を監督さんに見せるわけにもいかずに康太はじっと荒田監督の微動だにしない横顔を見つめていた。
「なぁ菱田、俺が日頃からお前たちに教えてきたことはなんだ?」
背中に汗が滲んでお尻にすぅっと落ちていく。静かだが威厳のある声で荒田監督が諭すように喋る時、選手は特に言葉遣いに気を付けて発言しなければならない。
「はい、最初からやりもしないのにできないと決めつけるな、です」
「そうだよなぁ」
康太は無言でコクリと頷いた。
「監督さん、しかしもともと僕は……」
心の中にあるありったけの勇気を振り絞って康太は反論の意を唱えようとするがしかし、
「まだ腹が決まってないのか。よしこうしよう、お前のチームが夏の大会に勝てなかった場合、お前だけ卒業旅行なしな」
『な、な、なんですとぉ!!』
その悲痛な叫びを胸の内に秘め、それでも僅かな抵抗心を込め万感の思いで、
「勘弁してくださいよぉ」
実に弱々しく情けない声で一言だけ。そして再びの沈黙。固まる康太、微動だにせずビデオを眺める荒田監督、数秒間の静寂が何時間にも思える緊張感。
「し、失礼しました!」
気まずい空気から逃れたい一心でドアノブに手をかける。
「康太!」
背中越しに聞えた声に素早く反応して振り返る。首を傾け康太を正面から見据えた。
「大切なのはできそう、できなさそうじゃなく、やる意思があるか、ないか。これは野球に限ったことじゃないぞ」
康太が一礼し、監督室のドアを閉める。
ドアが完全に閉まる間にできるすき間に、そう言った荒田監督が一瞬笑ったように見えた。
「それでお前は勝たないと最後の旅行に連れてってもらえないのか、笑えてくるな」
「冗談じゃないぞ、まったく」
快音と共に松下の笑い声が室内練習場に響き渡る。康太は、かごいっぱいに積まれたボールをピッチング防護ネット越しに十八メートル離れた松下に投げ込んでいる。
「変化球ランダムで投げてくれよ」
「いいけど、バッティングの調子崩しても文句言うなよ」
「お前ので調子崩してたら試合で打てねぇだろ」
松下の嘲笑する笑い方に康太は面白くない顔をしながら思うままに縫い目に指をかけた。
人差し指と親指だけ縫い目にかけてボールを抜くように投げるスローカーブを松下は、踏み込んだ足でしっかり壁を作ってボールを引き付けながらバットを振り抜いた。
「今のはレフトスタンドだろ」
「ほらどんどんいくぞ」
スライダー、カーブ、チェンジアップ、ツーシーム。縫い目に指をかける位置をかえるだけで比較的簡単に変化をともなう変化球とストレートを織り交ぜながら松下と対峙する。
松下はアウトカウントや塁上のランナーを想定したバッティングを意識して打ち返していく。かごにあったボールが半分ほどなくなって二人は一度休憩をとった。
「ほらよ」
「サンキュー」
松下からドリンクを受け取って室内練習場の人工芝に腰を下ろした。
「昨日の食堂の話しまじかよ」
「まじだよ」
事の成り行きを昨夜、松下に一通り説明したばかりだった。
自主練習が終わった後東京消防庁の試験に備えて勉強をしている松下は、その日も大学の図書館に完備された自習室を閉館時間いっぱいまで利用していた。
「あれこんな時間にどうした?」
「いや、なんてことはないが」
食堂で松下と顔を合わせた康太はここ数日間のドタバタを話すつもりはなかったが、正直に言って誰かに愚痴を聞いてほしかった。「あのさ……」そう口を開いて五分後には松下に話したことを後悔する。人がこんなに真剣に悩んでいることを面白おかしく茶化してお前には無理だなんて、目の前で爆笑することはないだろう。
康太は昨日のことも相まって不機嫌にそうにスポーツドリンクを口に運ぶ。
「しかもさっきなんて勝たなきゃ卒業旅行に連れてかないって言われてよ。勘弁してほしいよ、もう俺にはそれしか楽しみがないんだぜ」
「そいつは良かったな」
「他人事だと思って」
「今日も行くのか」
「あぁ、今日は放課後等デイサービス監督だ」
遠い目をして松下に言った。それだけではない今日は他の二校の選手も交えた合同チーム初の練習になるのだ。
昼休憩中に監督室に呼び出された菱田康太は、困惑を隠せなかった。
「あの、おっしゃっている意味が……」
荒田監督はこれからしようとする説明があまりにめんどくさいのか、一瞬顔をしかめた。
「そもそも桜高校って知っているか」
「知りません、そもそも僕、埼玉県出身じゃないですし」
「そうだな、じゃあここから秘密の話しだ。我が大学の偏差値は年々少しずつだが上がってきている。そこで新たに指定校推薦枠の県内の高校を増やして、更に優秀な学生を集めようとしているらしい」
言っている意味がわからない、という表情で首を傾げる。
「つまりだ。桜高校と指定校の協定を結ぶために我が野球部が一役買うことになった」
荒田監督は右手で顎や肘をさわり、最後に帽子を触った。公式戦で使われるサインの動作だ。
「就活が終わり、選手も引退したお前が一番適任だと部長の石坂先生から昨日言われてな」
「それは断ることは出来ないのですか」
「出来ないな」
康太は流れ出した汗を止めることが出来ず、しばらく荒田監督の顔を見つめた。
レフトからホームベースへ吹き抜ける梅雨明けの生暖かい風がカーテンをそよかぜ、康太の頬を撫でる。その風に乗って、大学内から演奏サークルの音が外れたファンファーレがグラウンドに聞えてきた。
「あの、高野連的には他大学の学生が高校の監督を務めることは許されているのでしょうか」
康太がそう言うと、荒田監督は意味ありげに笑った。康太の表情を見ながら面白がっているようにも見える。
「その辺は石坂先生に確認済みだ」
「まさか、監督さんは詳しいこと知らないんですか」
「そうだ、俺はただ石坂先生からされた話をそのままお前に話しているだけで、なにも知らん。ただ話を聞いた時面白そうだと思った」
「面白そうって」
康太は荒田監督の言葉を繰り返し、一拍置いてから苦笑した。
荒田監督はなにか言いたげな康太の表情を窺って、「どうした」と呼びかけた。
「監督さんは、自分に高校野球の監督が務まると思っていますか」
「全く思っていない。だからこそ興味がある」
「えっ」
「まぁそう深く考えるな、石坂先生のことだ。おそらくそこまで深い意味なんてない気楽にやれよ。そう言えばバイト代も出るらしいぞ」
「はぁ」
「とにかく今日の練習後に石坂先生の研究室に行ってこい。話はそこからだ」
そう言うと、荒田監督は春のリーグ戦のビデオを見始めた。ライバル大学のピッチャーの癖を研究することに夢中になり、康太は一礼して監督室を退室した。
その日の練習後、康太はグラウンドの敷地から五十メートルほど離れたキャンパス内にある国際経営学部棟に足を運んだ。三十年ほど前までは短期大学だったが、いまでは規模が小さいながらも四大に名称を変え、昨年教育学部の他に社会人間学部が誕生した。
康太は直接グラウンドに繋がっている裏門からではなく、大回りして正門から歩みを向けた。狂ったように木やコンクリートを殴っている空手サークルの目に留まるのを避けて。
それにしてもここまでバットとボールが衝突する音が薄っすら聞こえてくるのは恐れ入る。おそらく我がチームの四番バッター山内の自主練習だろう。
「ランニングゥ」
空手部のキャプテンがいきなりそう叫んで、道着をきた一団が列を作り康太の方へ進んでくる。康太はすぐに道を開け、一般学生を装った。
強化指定され大学から多額の援助を受けている野球部が疎ましく思っているサークルや部活は多い。しかし、つい最近まで現役の選手だった康太は、その勇ましい体格から部活を偽ることは無理があった。かけ声をあわせ、足並みを揃えてこちらを睨み進むその姿はまさに熱気の塊だった。活気盛んな選手ならばこの集団に睨みの一つくらいかえそうものだが、蒸し暑さの中、大量の汗をかきながら殺気のような気合が漲っている彼らを相手にしようとはとても思えない。
このまま帰ってしまおうかな。康太の心は揺れ動き、体は自然にバス乗り場の方へ向いていた。
「菱田くん、どこにいくんですか」
先ほどまで目の前にあったキャンパスに背をむけた瞬間に声をかけられた。
振り返ると、小柄で眼鏡をかけた初老の男が、面白くなさそうにこちらに近づいてくる。
「こんにちは、石坂先生」
康太はその場に立ち止まり、深々と頭を下げた。
「はい、こんにちは。じゃないよ、お前いま帰ろうとしたよな」
「まさか、そんな」
石坂先生は、野暮ったいスーツを身に纏い大学教授らしからぬ威厳の無さを醸し出していた。理由は分からないがいつも野球部の公式戦用の帽子を被っているのはこの人が紛れもなく我が野球部の部長であるからだ。
「今日監督から話を聞いただろう」
「えぇまぁ、断片的ですが」
「なら話は早い、とりあえず俺の研究室に来い」
そう言って石坂先生はジャージの裾を掴んだ。
「先生恥ずかしいっす、どこにも行きませんって」
「あっそう、じゃあその言葉を信じよう。俺は学生を信じられる教授だからな、ところでお前長袖なんか羽織って熱くないわけ」
「ほっといてくださいよ、アンダーシャツがノースリーブの薄い奴しかなくてこれで外歩くの嫌なだけっす」
「あっそ」
石坂先生はとことことキャンパスに足を進める。康太はバレないようにため息をつきながらその歩みを合わせた。遠くの方で威勢のいい掛け声が聞こえてくる。あの集団がおり返してくる前に早くこの場を去らなければならない。
「あと言い忘れたけど」
首だけ振り返った石坂先生は事務的な口調で淡々と言った。
「お前高校生に野球だけじゃなくて勉強も教えるからな」
同じ時刻。埼玉県幸手市にある桜高校一階の校長室では、校長の金井智之が三学年の学年主任泉剛介とともに校庭に向かって歩みを進めていた。渡り廊下を抜けるとあけ放った窓のむこうに広大なグラウンドが眺められる。テニスコートやサッカーグラウンドよりも遥に広い敷地面積を野球部が持っていた。
「それにしても、もったいないですね校長この敷地は」
「広すぎることもないだろう」
「そもそも部活動をする生徒が少ないことが問題です」
ワールドカップやWBCと言った国際大会にて日本代表の大躍進により、再び集団スポーツの人気が沸騰していた。しかし、桜高校の部活志望者は例外に増加しなかった。
「やはり、運動部は野球部が活気づいてくれないといまいち盛り上がりにかけるな」
「残念ながら、その野球部が深刻な問題です」
「問題ではない、これは大問題だ」
「すみません、言葉を間違えました」
泉主任は、間髪入れずに訂正した。
そのとき、廊下を走る丸坊主の少年がちょっとした段差につまずいてそのまま派手に床に倒れ、鈍い音が響き渡る。金井は思わず身を退けた。床に体が勢いよく叩きつけられると転んだ本人より周りが驚くものだ。
「大丈夫か、大野」
「すみません、今補習が終わりまして」
大野雄大は素早く立ち上がると制服に付着した埃を払い照れ隠しのように鼻をかいた。
「元気がいいことは素晴らしいが、廊下は走るな」
金井の言葉に雄大はお説教が始まると思い、苦笑を浮かべる。
「すみません、気をつけます。でもグラウンドで太一を待たせているのでこれで失礼します」
風のように玄関に向かって走り去っていった雄大を二人は、呆気にとられたように見送った。
「本来なら、厳しく注意しなければならないが、彼のような生徒がもっと増えたらと思ってしまうな」
「そうですな」
元気な部員を見るのは楽しい。特に相手が野球部員だととても頼もしく感じる。昔は男のスポーツと言えば野球で、どんな高校球児でも甲子園を目指してひたむきに汗を流していたことを懐かしんでいるのかもしれない。
「野球部の件、高野連にはどう伝えますか?」
泉主任は振り返っていった。金井の顔が曇る。
「やむをえないだろう、単独で出場することが出来ない以上、しかし2年連続で棄権するわけにもいくまい」
そう言って踵を返し校長室に足を向ける。
「やはり三校の合同チームでの夏の大会出場になりますか」
「そうなるな」
校長室の室内にある中央にしつらえた野球部応援セットのテーブルに、創立五十周年記念に新調したユニフォームが置かれていた。オフホワイトの生地に黒の縦縞、胸には桜の花のエンブレムがよく映えている。
「なんでもいいんだ。私は彼らに勝利の喜びを感じてほしい」
「だからって、校長が指揮をとらないこととなんの関係があるんですか」
「私が監督を引き受けたって万に一つの奇跡は起こらんよ」
「それでいいのですか、提携を結ぶとはいえ見ず知らずの大学生に監督を任せるというのは」
泉主任が前のめりになりながら言った。
「だからある条件つきで提携を結ぶことにした」
若干色素が薄くなったしろ髪を撫でながら、金井は頷く。
「この夏を持って我が高校の野球部は廃部とする。私は部長として生徒たちの最後の夏を見届ける」
金井はそう言って真新しいユニフォームに目をやった。
「まぁ菱田くん座りなさい」
研究室に招かれた康太だったが、相変わらず、机の上に乱雑に積まれた書類に目が釘付けになる。
「先生、また何かの頼まれごとを引き受けたのですか」
「まぁいいから座れ、これから東ティモール産のおいしいコーヒーを作ってやろう」
「それってあれでしょう、学園祭の出し物に使ったやつでしょ」
苛立たしに反応した。
「失敬な、これはフェアトレードコーヒーだぞ」
フェアトレードとはその名の通り公正な取引を行い、発展途上国の貧困な生産者及び労働者の生活改善と自立を支援する国際的な運動のスローガンである。
じょじょと間の抜けたポットからお湯が注がれようやく一杯分のコーヒーが飲めるまでになった。石坂先生は康太になみなみ注いだカップを震えながら手渡す。コーヒーが零れ落ちる前に一口すするとスッキリした苦みが口の中に広がった。
「上手いっすね」
「そうだろう、なんてたって国際NPOから購入したんだからな」
「でも、お値段けっこうしたんじゃないすか、学祭のとき一杯百円で売ってましたけど利益出たんですか」
「俺は東ティモールの権威だぞ。知り合いから二割引きで仕入れたから問題ない」
康太が柔らかいまなざしで石坂先生を見上げた。フェアトレードなのに値切るってどうなんだろうか。その話し、深く掘り下げようと思ったが、長くなりそうなのと石坂先生の今後の進退に関わりそうなのでやめた。
「なんだよその顔」
「いえ、なんでも。ところで勉強も教えるってどういうことっすか?」
石坂先生は、自分の分のコーヒーを作るためにポットに水をためていたが急に戸棚から菓子箱をとりだした。康太の対面にあるソファーに座ると包装紙をびりびりに破り捨て中身を二人の間に置いてある小さなテーブルの上にひっくり返す。
「これ、学長にもらったんだけどやるよ」
「はぁいただきますけど」
一つずつ包装された菓子はフランス製のパウンドケーキだった、種類は三つありフランス語が読めない康太は適当にクリーム色をしたケーキを口に運んだ。計算された甘さのあとで舌に微かだがバターの味が残る。
「……」
「……」
無言のままパウンドケーキを食べる石坂先生は二つ目のケーキに手を付けようとする前に思い出したように口を開いた。
「お前さ、日商二級もってるじゃん」
「はい」
「だから簿記教えてやってよ」
「唐突すね。いいっすけど」
「じゃあよろしく」
「いやいや、もっと詳しく教えて下さいよ」
康太にそう言われテーブルの下に隠してあった資料をおもむろに菓子の上に広げた。康太は手にとって内容を事細かに読み始めた。
「教育サポーターのアルバイト?」
「そうだ、桜高校と大学が提携を結ぶための懸け橋として優秀な学生を送り込むことになった。そこで桜高校の校長先生から硬式野球部の学生を一人よこしてくれと言われたんだよ」
「それで、僕に白羽の矢が立ったと」
「そんなところだな」
康太はパウンドケーキを貪りながら、資料の概要を確認した。授業はあくまでもサポート役に徹し、実際に教壇に立つわけではないらしい。イメージ的には教室を見渡しながら、問題が分からない生徒がいたら近くに行って教えてあげればいいらしい。三枚に渡る資料の中でも康太が目を引いたのは時給の欄だ。
「先生、これ一時間二千円ってまじですか」
「そこに書かれているなら本当だろうな」
一時間二千円で三時間週四回。単純計算しても月十二万近くは稼ぐことが出来る。
「やりますよ、こんなおいしいバイト! いやぁむしろありがとうございます。僕はてっきり面倒ごとを押し付けられると思ってまして」
「それは良かった。コーヒーのおかわりはいかが?」
「いただきます」
ちょうど湯気が上がったポットに視線を移し、石坂先生はにこにこしながら腰を上げた。
「で、いつからなんすか? このアルバイトは?」
「今日の午後三時から説明会だよ」
あぁそうすかと言いながら康太は時間を確認するため壁にかけてあるアナログ時計に目を移した。
二時二分。
おぉぉぉぉぉぃ!
「ちょっと! 突然すぎるでしょ!」
「大きな声を出すな、大丈夫だよ北春日部の駅まで送ってやるから」
「あんたねぇ、高校って幸手市にあるんだろ? 電車調べたのか?」
「あぁうるさいなぁ調べたよ、調べたら30分の電車に乗れば五分前に幸手駅につく」
石坂先生は、ハンガーに吊るされたジャケットの内ポケットからスマホを取り出し調べた証拠に北春日部から幸手までの電車の時刻表を自慢げに見せてくる。康太はイライラしながらもグッと感情を抑えて深呼吸した。
「分かりましたよ、ところで学校は駅前にあるんすか?」
「えっ、あ」
「あって」
石坂先生の表情は一瞬で険しくなる。
「ごめん、それは計算に入れていなかった」
「案の定じゃないっすか!」
二人は慌てて研究室を飛び出した。
幸手駅に着いた康太はプラットホームを風のように駆け抜け、改札を飛び越える勢いで直進していた。(実際はしっかりスイカでタッチしている)電車の中でグーグルマップを開き住所をうちこむとなんと駅から歩いて十五分もかかる事実が発覚したのだ。
「先生無茶ぶりがすぎんだろ、なんで現役退いたのに一・五キロも全速力で走らなければならないんだ!」
すでに約束の集合時間から五分も過ぎている。右肩に部活で使用した野球道具が入ったエナメルバックを左肩にかけながら、終始ノーブレスで通学路を走る。途中ですれ違う中学生は康太に少なからず好奇の目を向けていた。
「ばかやろ、中坊スマホで撮影すんじゃねぇ」
康太はケラケラ笑いながらスマホを構えていた二、三人の男子の群れに二割ギャグ、八割本気の声量で注意する。しかし、それ以上追及するつもりはなかった。石坂先生はともかく荒田監督直々に頼まれた仕事だ。詳しいことはよく分からないとはいえ、自分の頑張り次第で大学と桜高校の間に友好関係が構築すれば、それはそれで誇らしいことだ。
「見えてきた」
スマホの時間を確認する。三時十五分。まぁなんとか許してもらえるだろう。康太は正門の柵に手をあて、もう一つの手を腰にあてて、息を整える。六月とはいえ気温は夏に向けて日に日に上昇していた。まったく地球温暖化とはよく言ったものだ。春日部駅近くにある学生寮の部屋でも滅多にエアコン使わないし、深いため息もつかない。オレはこんなに地球に優しい男なのに、誰もオレに優しくしてくれない。
「あぁなんか悲しくなってきた」
康太は一人つぶやき滴る汗をスポーツタオルで満遍なく拭った。更に車の中で石坂先生がこれ見よがしにくれた制汗スプレーを咳が出るほど体に吹かしまくった。
「これでよし!」
康太は遅刻したことも忘れ我が物顔で事務室に赴くと事務長を名乗る女性から校長室に案内された。
コンコン。
「はい」
ドアの向こうから低く威厳がある声が聞こえてくる。
「校長先生、お連れ致しました」
「どうぞ、お入りになってください」
事務長から促されると康太は一度深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
「失礼します。この度はお日柄もよく……」
その瞬間に、鋭い視線を感じた。
「遅い、遅すぎますよ。菱田くん!」
「はいぃ、すみませんでした」
康太が思わず後ずさりして、気がつけば頭を直角に下げていた。身長は康太より少し小さいくらいの男性は、鋭い眼光で、陽に焼けた肌の眉間にしわをよせ怪訝そうに康太を叱責したのだ。
「いいんだよ。さぁさぁ菱田くん座って座って」
「はい! 失礼いたします!」
校長室に備えられたソファーには、すでに他大学の学生がスーツ姿で、覚めるようなまなざしを康太に向ける。
「はは、失敬、失敬」
石坂先生の研究室にあるものとは比べものにならないくらいふかふかで、いつもより尻が深く沈む。
「この度は遅れまして申し訳ありません」
「菱田くん頭をあげて」
金井は、康太をなだめたが、泉主任は遅刻した康太に対して怪訝そうに横目をちらつかせていた。
「みなさん、まぁ若干一名遅れてきましたが、よく来てくれました。あなたたちには我が校の教育サポーターとして……」
欠伸を我慢しながら長ったるしい説明を聞く。どうやら康太以外の学生は基本的に教員志望で、このアルバイトもそのための予行練習の一環らしい。
「皆さんには、おもに一学年の生徒を担当して……、学生でありながら未来の教師であり、生徒たちには秩序正しい見本になってもらいたい……、若干一名そうでない学生もいますが、間違っても生徒とSNSでのやりとりや連絡先の交換をしないようにお願いしますよ」
一時間に及ぶ説明が終わると学生たちは泉主任から手渡された資料をカバンにしまい順番に校長室を後にする。康太もその流れにそって帰ろうとしたが、
「菱田くんは残ってくれ」
帰り際に声をかけられた。気づかれないように大人しくしていたのにも関わらず。
金井は泉主任に何かを持ってくるように指示をして、康太が頭を上げた時に目の前にさきほどまで食べていたものと同じフランス製のパウンドケーキの菓子箱が広がっていた。
「さぁさぁ食べながら話そう」
机の上に広がったパウンドケーキを眺めながら、恐るおそる手を伸ばす。これを食べたらもう断れない気がする。そんな猜疑心に駆られながらも康太はパウンドケーキを一口かじった。
「どうだい、これは貰い物なのだがね、なかなかおいしいだろ」
「はぁ、はい」
『さっき食べた奴と全く一緒だ、うちの学長の貰い物じゃね』その真意を確かめる術は残念ながらないが、康太はパウンドケーキを食べたことは事実だ。
「君には我が校の生徒に簿記の勉強を教えてもらう。というのは口実で、野球部の監督やってもらう。まずは……」
「そのことなんですけど、なんで僕なんすか」
「聞きたまえ」
言葉を遮った康太に憤懣やるかたなしと言った調子で、金井は康太の目の前に協定契約書と書かれた一枚の紙きれを差し出した。
六月の一週目、夏がもう顔を出してじりじりと肌を焦がし始める。
「これは我が校と菱田くんの大学との協定書だ」
「なるほど」
たしかにうちの大学と桜高校の協定書だ。間違えない。車の中で石坂先生が言っていた桜高校との指定校協定の話しで最後の最後でお互いの意見が合わず思うように言っていないと聞いた。
「ここの欄に私の捺印があればそちらとしては何の問題もないだろうね」
「まぁ僕には直接関係ないですが」
投げやりにそう言った時だった。校長室のドアがノックもなしに勢いよくいきなり開いた。康太はその意表をついた大きな音に驚きながらも振り返ると、大柄な男子と小柄だが筋肉質の男子がこちらを見つめていた。二人とも真っ白いユニフォームを着用していて左胸には、「穂浪」「大野」と書いてある。
「校長先生! この人が新しい監督ですか!」
「大野」と書かれた生徒が康太を尊敬のまなざしで見つめていた。
「もう、雄大失礼だろ」
「穂浪」と書かれた生徒はその恵まれた体格とは対照的におどおどした声だ。
「お前らなんだノックもしないで!」
「まぁまぁ主任、ほら二人とも新監督にご挨拶だ」
「まってください、僕はまだ何も……」
康太がしどろもどろして次の言葉を捜す前に、雄大は汗まみれの顔をほころばせる。
「俺、桜高校野球部主将大野雄大です!」
「え、いやそのはじめまして」
その熱気あふれる挨拶に康太はすっかり気分をのまれてしまい無意識の内に立ち上がってしまった。
「僕は、副主将でえっと、キャッチャーです。えっとよろしくお願いします」
体型は異なるものの、視線の高さは康太をゆうに超えている。穂浪太一は、身長一八〇センチはあるだろう。
「監督って言われたって俺経験ないぞ」
「それでも私が指揮をとるよりましだ」
金井はなし崩しに康太の肩口をたたいた。軽く触れた程度なのにそこになんとも言えない重みがある。更に雄大のまなざしは康太の顔から両手の平に注がれた。
「やっぱりすごく皮が厚いんですね!」
「えぇあぁ」
「やっぱり大学野球は毎日千本素振りですか!」
「いや、そうかな、結果的にそれだけ振ってたかも」
「す、すげぇ~ こんなすごい人が監督なら甲子園だって狙える!」
まずいな。康太はめんどくさくなる雰囲気を察して早くその場を去らなければいけないと感じた。
「こ、甲子園って、校長先生今日はこの辺で失礼しますよ」
康太は無理やりにも金井や雄大に一礼して踵を返した。
「菱田くん、これだけは覚えておいてくれ――」
背後から声が聞こえた。
「私はこの子達に良い思い出を残してあげたいんだ。最後の桜高校野球部員としてその花道を作ってやりたい。そのことを忘れないでくれ」
康太は現役を退く大学四年の春までに一度もリーグ戦のメンバーになったことがなかった。しかし決して康太が練習をサボっていたとか、チームにとって足を引っ張るような行動をしていたわけではなかった。部員百三十人を超えるチーム内で一軍のメンバーに入るだけでも大変なことで、いくら結果を残そうが、甲子園で活躍した新入生が入部してきたらすぐに入れ替わりが起きる。そんな無情にも儚い勝負の世界に身を置いて、ようやく掴んだ三年生の晩夏、康太にとっては初めて一軍に呼ばれ、時期的にも秋の大会のメンバーに選出される最後のチャンスだった。それなのに、
メンバー選考のための大事なオープン戦。六番ファーストで先発出場した康太は最終打席までヒットがなかった。この試合のスタメンはおもにベンチメンバー当確ぎりぎりの選手がピックアップされていたため、この打席で結果を残さなければ長年の夢は立たれてしまう。そんなプレッシャーの中、康太はバッターボックスで落ち着いていた。
八回裏ツーアウト三塁。ツーストライクと追い込まれながらも冷静にボールを見極め相手チームの守備位置を確認する。アウトコースを中心に攻めていたバッテリーも打ち取れないバッターにしびれを切らし、集中力が散漫になったところを康太は見逃さなかった。
思うように抑えられず、苛立った分だけ力みすぎたボールはキャッチャーの構えたところよりわずかに内に入ってきた。そのボールを康太は強引に引っ張って打球は三塁線を破った。このときレフトを守る選手が左利きであったため一塁到達の際のオーバーランを緩めることなく二塁に向かう。ライン際のボールを処理する時に左利きの選手は右利きの選手に比べて進行方向に体を回転させる分どうしてもワンテンポ遅れてしまう。これは野球のルール上仕方のないことで、左利きの選手は右利きが多い野球界では重宝されがちだが、守れるポジションが限られるなどデメリットもある。
「セーフ」
同点打を放った康太はベンチに向かってガッツポーズした。ベンチには同じように苦労してきた同級生や共に練習をしてきた後輩たちがいて、皆、自分のことのように喜んでくれている。
「ナイスバッティン! これでメンバーも決まったかな」
三塁コーチャーを務めていた星コーチがタイムをとりエルボーガードとバッティング手袋を回収しにきた。
「はい、ありがとうございます。あとは僕がホームインするだけです」
「そうだな、ツーアウトだし、バットにボールが当たった瞬間スタート切れるようにだけ意識して、一気に駆け抜けろ。オレは全力でまわす」
「わかりました。あとは松下を信じて駆け抜けます!」
松下は、康太と同じような境遇で努力をしてきた同級生で、苦しい時、つらい時に切磋琢磨してきた戦友だった。そしてここまでノーヒット。しかしプレッシャーのかかる場面で逆転打となれば監督の評価は高くなるはずだ。
――絶対打てよ松下。内野を抜けた瞬間ホームを駆け抜けてやるからな。
初球だった。康太の祈りが届いたかのように松下は肩口から甘く入ってきた変化球を完璧に捉えてレフトにはじき返した。
「よし!!」
スタートはいい。康太は一度打球を確認するともう迷うことなく三塁ベースを駆け抜けるためにトップスピードにのる。
「ダメだ! クロスプレーになる無理すんな止まれ!」
星コーチの声が響く。冗談じゃない。あいつの苦労を誰よりも知ってんだ、俺は止まれない。
「行きます!」
三塁ベースをまわる。星コーチと一瞬だけ目があった。今思えばあの瞬間から星コーチは事の結末が分かっていたのかもしれない。
「菱田さんそのまますべりこめ!」
八番バッターの上宮がネクストバッターズサークルを飛び出して指示を送る。 康太は指示通りにスライディングを始めた。その時、キャッチャーが急に康太の走路上に体を入れてきたのだ。「まずい」康太がう思った時にはもう遅かった。両者はそのまま激突しキャッチャーが康太に覆いかぶさるようにのしかかってきた。
ぶちっ。
鈍い音が聞こえ、数秒の間なにが起きたのか分からなかったがすぐに右足に激痛が走った。
「ぐあぁぁ」
真っ暗だった。汗が目にしみて目を開けられないわけでもないのに康太は、目を開けることが出来なかった。駆け寄ってくるチームメイトの心配そうな声と、季節外れのセミの鳴き声だけが虚しく鼓膜を揺らし、頭がい骨を振動させる。「やめてくれ、やめてくれ」そう叫ぶにはあまりに残酷すぎた。
すぐに医務室に運ばれ、応急処置を施した後病院に直行した。右足首靱帯断裂。そう診断を受けた時、悟ってしまった。
勝負の世界に長くいるからよくわかる。これで夢は断たれたも同然だった。
康太が電車に揺られ寮に帰ってくる頃には、食堂にはチームメイトの姿はなかった。机にぽつりと寂しく置いてあった辛すぎる麻婆豆腐だけが康太の帰りを待ちわびている。
「今夜ははずれだな、これ辛いだけで味しないもんな」
サランラップで丁寧に封をした皿を電子レンジに入れて三分待つ。その間冷蔵庫にあったマヨネーズを拝借して真っ白な白飯にかけて口にかき込んだ。現役を引退したとはいえ食べる量は依然とあまり変わっていない。それでも大盛りご飯はおかわり二杯までと決めていた。運動量が急激に減ったためこれまでと同じ食生生活だと体重の増加に歯止めが利かなくなるのだ。
しかし、腹を満たすだけの食事ではなんとも心持たない、そんな時康太は決まって自室の向かいの部屋に赴く。
「なんすか、菱田さん」
「ラージA行こうぜ、上宮」
上宮佐祐はめんどくさそうに両目をこすると「アイス食べたいっす」とだけ言って部屋を出てきた。
「どこ行ってたんすか、食堂のおっちゃん怒ってましたよ」
寮からラージAまでの道すがら上宮はさして興味もなさそうに尋ねてきた。
「うん、ちょっとな」
康太は財布の中身を気にしながら答える。午後九時に差し掛かろうとしていた。ラージAは二十四時間営業している小規模なスーパーマーケットだ。寮からグラウンドまでの道のり上にあるため大概の寮生は朝ここで昼飯や栄養ドリンクを買っていく。アルバイトが制限されている寮生にとって比較的安価な商品が揃っているラージAは第二の食堂のようなものだった。
「俺これがいいっす」
「ばかヤロー、ハーゲンダッツは誕生日に食うもんだ。ホームランバーにしなさい」
「アイス選ぶくらい野球から離れましょうよ」
渋々ホームランバーを手にとった上宮に康太は「なぁ」と声をかける。
「なんすか?」
「俺が高校野球の監督をやるって言ったらどう思う」
「できないでしょ、菱田さんに」
「だよな」
想像していた答えが返ってきてしかめっ面になる。そりゃそうだ。
「監督やるんすか?」
「成り行きで……な」
「成り行きで高校野球の監督にはなれませんよ」
「そうだな」
上宮は意外に冷静な口調で言った。上宮に渡した二百円でホームランバーを二本。会計レジにいる店長の川内さんはすっかり顔なじみになっていて、二人に軽い微笑みをくれる。
「一本よこせよ」
「立ち食いは厳禁ですよ」
「いいんだ、俺たちはもう上級生だぞ。監督、コーチに構うことはないさ」
「それもそうっすね」
レジ袋からホームランバーを一本康太に差し出す。味はチョコ味だった。
「バニラよこせよ」
「いやっす」
「俺の金だぞ」
「厳密には菱田さんの親のお金でしょ」
「そうだな。じゃあチョコで我慢するわ」
「我慢してください」
寮までの道を戻る。蒸し暑い気候に嫌気がさし、熱帯夜を過ごさなければならないことに心底嫌気がさす。
「……足はもういいんすか」
「あぁ」
「そうすか」
康太は自身の右足を叩いた。ケガをして、それでも僅かな望みをかけて半年間死ぬ気でリハビリと練習に励んできた。自分のわがままに最後まで付き合ってくれた体に今は感謝している。
「なんども言って悪いがお前まで俺と現役引退することなかったんだぞ」
「別に同じってわけじゃないすよ。僕は来年の就活のことを考えての引退ですから」
そういえば東京消防庁に行きたいんだよな。少し前に上宮が言っていたことを思い出す。
「お前もいろいろ考えてんだな」
「菱田さんほどじゃないすけどね」
康太からしてみれば上宮の才能には目を見張るものがあった。身長は平均的に比べて低いがその分並外れた運動センスがあり、守備に至ってはその非凡なセンスをいかんなく発揮していたのだ。しかし、それだけならこのチームにごまんといる。実力を見出される選手とそうでない選手の特徴はなんなんだろうか。康太は引退してからずっと探している。高みを目指すと誓ったあの日から突然始まった競争のゴング。更に縁やら運やら才能やらと言ったぼやついた、でもたしかにはっきりとした事柄が永遠のように付きまとう。スポーツマンシップに反する最もフェアじゃない戦いがそこで起きている。
「菱田さん」
「どうした?」
「明日、久しぶりにキャッチボールしませんか?」
「やるか」
上宮は軽くステップを踏んで夜空に向かってボールを投げる仕草を披露する。三分の力でも、バランスの良さを感じさせる美しいフォームだ。
練習の途中で荒田監督に高校に出向くことを説明すると快く承諾をもらい康太はグラウンドを後にした。みんなより早く練習を切り上げることに他の学生コーチの奴から少なからずの嫌みをもらい受けたが、そんなこといちいち気にしている暇などない。昨日の夜はあれから高校時代の簿記の教科書を机の引き出しから引っ張り出して、勘定科目から連結財務諸表のやり方まで細部にわたり復習してきた。生徒はおろか他の大学の学生に絶対に舐められるわけにいかないのだ。
寮に帰って素早く汗をシャワーで流し、制汗スプレーをかけまくる。少しきついスーツに身を纏い今度は余裕を持って電車に乗った。幸手駅から程遠く離れた桜高校はもともと桜商業高校という名前だったが、数年前に近隣の工業高校と普通高校と吸収合併し総合学科の高校として生まれ変わった。これも少子化の影響なのかと思いながらも康太は足を進める。
「君たちのために大学から勉強を教えにきてくれた先生方です」
泉主任の簡単な紹介が終わると、さっそく授業に入っていく。どうやらこの教室に集められた大半は中間試験や小テストで赤点をとってしまった生徒らしい。
『まったくこんなことなら昨日早く寝ればよかった』
康太は昨日の猛復習も虚しく、簡単な勘定科目で貸方、借方を間違える生徒にできるだけ優しく教えていた。
「菱田くん」
自分の名前が呼ばれたと思って振り向けばやっぱり校長の金井だった。ドアを半分ほど開けて手招きする。
「なんすか?」
「どうだね調子は?」
「まぁぼちぼちですよ、でなんすか?」
「そんなことより、今日はユニフォーム持ってきたかね?」
どうしてこの人は疑問を疑問で返してくるんだろう。康太は自分の頭を軽く撫でると明らかにめんどくさそうに「持ってきました」とだけ言って再び授業に戻った。しかし、金井は自室に戻ることはなくそれどころか教室の一番後ろに居座り周囲を見渡している。
『このおっちゃん、おれがばっくれると思ってんのかよ』
まるで信頼されていないのが腹を立たせるが、正直康太にとってバイト代がもらえればそれでいいのでバイト代がでない野球部の監督を最初から真剣に受けようとははなはだ思ってもいなかった。ただ後ろから感じる視線にひどく気疲れした。
授業が終わってから二十分が過ぎて、康太は金井に借りた教職員用の着替え室でユニフォームに着替えグラウンドに向かって歩いていた。野球部専用グラウンドは十分な広さはあれど手入れの行き届いていない乾いた土はダイビングキャッチをしようものならきっと怪我をするくらい固かった。内野に足を踏み入れたところでふと足を止めた。ユニフォーム姿の男子生徒が二人そこでキャッチボールをしていた。一人はピッチャーのように大きなモーションで思いっきり腕を振っていて、もう一人はその球をなにも言わずに受け止めている。その様子を立ち止まったまま見守った。
「おい太一もっとなんか感想とかないのかよ!」
雄大は不満そうに太一に言った。
「うん、ナイスボール」
「おいおい、もっと明るくやろうぜ」
雄大の笑いがはじける。その後も楽しそうに投球する雄大は勢いのあるストレートを投げ込んでいた。捕手役の太一は康太が見ている限りでは一度もグラブのシンでボールを捕ることが出来ていなかった。立派なキャッチャーミットをこさえているのに全部網の部分で捕球している。
それから十球ほど見たあと、康太は二人の元へ近づいて行った。
「なかなかのボールを投げるな。一球受けてもいいか」
「あ、菱田さん! ウスッ!」
康太に気が付いた雄大が帽子をとって元気よく挨拶する。
「どうも」
捕手をしていた太一は対照的に申し訳なそうに頭をちょっこんと下げた。
「大野くんだっけかきみはピッチャーじゃないだろう?」
雄大は首を縦に振る。
「そうです雄大は本来ならセンターなんですよ」
太一がすかさず補足しながらグラブを康太に渡した。
「穂浪くんせっかくいいミットを持ってるんだ。捕球はいい音をならさないと」
康太は腰を軽く落としミットを構えた。雄大は嬉しそうに振り被ってミット目掛けて腕を振った。勢いのあるボールは空気を裂くようにシュルルと音を立てて康太に迫るが、ピッチャーの投げる球ではない。スピードはたしかに一三〇キロほどだが回転数が圧倒的に少ない、つまりボールに伸びがないのだ。勢いがあるボー球だ。しかし、そんなボールが、康太の近くまでくると不規則な動きを僅かだがした。
なるほど。
康太のミットがバシッっと音を立てる。
「おおっ」と隣からもれた声が聞こえた。
「若干ボールが動くね、これは捕球が難しいわけだ」
「そうなんです、雄大は投げるときボールをわしづかみに持ちかえちゃうくせがあってしっかりした握りで投げれなくて」
「ナイスキャッチっす!」
雄大は康太に賞賛の言葉を贈ったが、太一は表情を曇らせていた。大学生とは言え一球で雄大の癖球を完璧に捕球され、自信を無くしているようだった。
康太は雄大にボールを渡そうと歩み寄る。
「わざわざどうもありがとうございます。」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
康太は周りを見渡したあとでボールを雄大のグラブの中に入れた。
「他の部員はどこにいるの?」
「いませんよ二人だけです俺と太一の」
はっきりと言った雄大の屈託のない笑顔とは裏腹に康太の顔は困惑を隠せず、苦し紛れに空を見上げる。文字通り雲行きが怪しくなってきた。
そのころ金井は午後の職員会議を終えて校長室でブラックコーヒーを飲んでいた。古艶が美しいデスクの上には最近発行されたスポーツ週刊誌が置かれている。
『高校野球特集 夏の甲子園連覇を狙う花咲徳栄高校の意識改革』
大きなキャッチコピーとともに甲子園のグラウンドを蹂躙する選手の姿が掲げられていた。
『強豪ひしめく埼玉県を制し全国の強豪を打ち破った花咲徳栄高校。ワンプレーに対する揺るぎない精神力は日々の練習の高い意識で養われていた』
何度も見た見出しに目をやりつつも、そもそもレベルの高い選手を県内外から集めている強豪校の躍進はうちのような総合学科の高校と比較するまでもないことは分かっていた。
それにしても、金井は神妙な面持ちになる。高校野球という監督が絶対主義の態勢の中でどうしたら個々の意識を高めることが出来たのだろうか。背景には選手一人ひとりが自ら考えて行動する力を養わせるために、あえて執拗な指導は控えて自主創造を促しているというが、そんなことが実際可能なのだろうか。まだ右も左も分からない高校生に大人でも難しいことを要求することは。
しかし、だからこそ我が校も、この意識の高さを見習わなければいけない。
金井は次のページを開こうとしたときドアにノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「校長先生、いったいどういうことなんですか」
現れたのはユニフォームを着た康太だった。
野球部員が二人しかいないなんて聞いてないですよ。そう伝えただけで康太は口ごもってしまった。顔には大量の汗を浮かべ神妙な面持ちで金井を見つめる。
「まぁ菱田くん、落ち着いて今お茶出すから」
金井は右手でソファーを指し示し、校長室と隣接している事務室の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してソファーに座る康太に手渡した。背筋をぴんと伸ばした康太はスポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干すと、そのまましばらく黙って金井を見つめた。二重瞼をぐっと見開いて威圧するように。
「菱田くん、そんな怖い顔しないで」
「先生、二人しかいない野球部がどうやって夏の大会に出場するんですか」
「まぁまぁ落ち着いて、そうだ菱田くん石坂先生からいろいろ聞いているよ。君は選手だったころ誰もが認める努力家だったそうだね」
苦し紛れにふとなにかを思い出したような表情で金井が身を乗り出した。
「だったらなんですか、それでもレギュラーになれなかった僕に何が言いたいんですか」
すぐに康太は返答した。その件に触れられることを恐れていたように。
「いや、これは嫌みとかではなくて、困ったな。でもその原因はケガなんだろう」
「ケガも実力のうちですよ。僕には才能がなかったそれだけです」
「才能か……、そう片づけられるものではないと思うが」
金井は腑に落ちないものがあるような口調で声を沈めた。
暗闇迫る窓の外から部活終わりの生徒の賑わいが伝わってくる。
「ともかく部員二人じゃ、野球にもなりません。監督は引き受けるつもりでしたが、試合に出られないのではまるで時間の無駄です」
康太が手の平で額の汗を拭いながら言った。
「いや、試合には出場できる」
「はい?」
康太は拍子抜けする声をもらした。
「合同チームだよ菱田くん。聞いたことないかね?」
「合同チームですか」
金井は頷いてこの地域一帯が描かれた地図を持ってきて康太の前で開いた。
「半径二キロ圏内にうちを含めた三校の高校がある。その三校の野球部員は合わせるとちょうど九人になるんだよ。だから私が先頭に立って今回の夏の大会限定の三校合同チームを作った。明日君にも紹介するよ」
「でしたら、なおさら僕ではなく監督は校長先生がやられるべきでは?」
「私ではあの子たちを勝たせることは出来ない」
金井はむきになって早口で言った。あまりに突然だったので康太も思わず口をつむる。
「私はね菱田くん。ただあの二人を三年間の内に一度でいいから勝たせてあげたいんだ。去年の夏、試合に出場できなくとも頑張って続けた二人にどうしても」
一気にまくし立てた金井の言葉には熱意が込められていた。それは康太にも感じることが出来た。
「しかし、合同チームとなると練習時間の確保とか大変です。僕が監督になったからって必ず勝てるとは約束できません」
「それなら協定書にサインはできない」
おいおい。
金井の真剣な表情を終始冷ややかな目で見つめる康太は最後の最後でめんどくさいことに首を突っ込んだと後悔の念を浮かべていた。
雄大と太一の実力ははっきり言って普通の高校野球レベルほどだった。バッティングや守備は最低限の動きはできるものの、それ以上の実力はないと感じた。康太の言うそれ以上というのは大学野球で通用する力があるかどうかという認識だ。だが雄大のポテンシャルは思っていたよりずっと高い。足は速いし、肩も強い。それにすこぶる明るくて元気だ。雄大の底知れない明るさは組織スポーツで最も大切なことである。金井が言うように二人しかいない野球部を辞めずにここまで続けてきた精神力は康太の目から見ても見上げたものだ。しかし問題なのは太一のほうだった。体つきは恵まれているが全体的にちぐはぐで動きと言うより反応が鈍い。分かりやすく言えば覇気がない。おそらく太一は雄大の明るさに引っ張られて野球部に残ったのだろうと直感的に思った。
たかが三時間足らずの練習でそこまで分かってしまう自分はこの世界に長く身を置きすぎたと帰りの電車に揺られながら康太は変わりすぎさる町や車の流れを横目で追い越していた。
たった二人の野球部員と寄せ集めの七人による合同チーム。
一ヶ月と数日か――。頭で思い浮かべて嫌になる。
そんな短い期間で個人の技量や力が向上するのだろうか? それよりもチームとして成り立つものなのか。野球はそんなに簡単なスポーツではない。それは康太が一番よく分かっている。付け焼刃の急造チームが勝てるほど野球の世界は甘くはない。例えどんなに個人や周囲がそれを望んだとしても、思いだけではどうにもならないことを痛切に誰よりも痛切に理解していた。
時間がない。とにかく時間がない。
考えて没頭しいて、気がつけば春日部を通り越し、せんげん台まで電車を乗り過ごしていた。
「やべぇ、またおっちゃんに怒られる」
つぶやいて慌てて下車し、反対ホームに向かって階段を登る。
人の波を避けようとして踊り場で対向者と体がぶつかりよろけそうになると、無意識に右足を庇い床に手をついてしまった。
「きびしいなぁ」
そうつぶやいて立ち上がり、康太はまた歩き出した。
次の日の朝練習後、松下にバッティングピッチャーを頼まれ室内練習場に向かおうとした康太は荒田監督に呼び止められしぶしぶ監督室に顔を出した。
ドアを開けた瞬間、クーラーの涼風が吹き込んでくる。
「今日あちぃな」
「そうですね」
そう言いながら目も合わさないでいきなり今春全国大会に出場した創世大学の試合のビデオを再生し始める。康太が驚いていると、
「菱田、お前勝てないとか後ろ向きなこと思ってるんじゃないだろうな」
『いきなりなんすか』
半ば不貞腐れた態度を監督さんに見せるわけにもいかずに康太はじっと荒田監督の微動だにしない横顔を見つめていた。
「なぁ菱田、俺が日頃からお前たちに教えてきたことはなんだ?」
背中に汗が滲んでお尻にすぅっと落ちていく。静かだが威厳のある声で荒田監督が諭すように喋る時、選手は特に言葉遣いに気を付けて発言しなければならない。
「はい、最初からやりもしないのにできないと決めつけるな、です」
「そうだよなぁ」
康太は無言でコクリと頷いた。
「監督さん、しかしもともと僕は……」
心の中にあるありったけの勇気を振り絞って康太は反論の意を唱えようとするがしかし、
「まだ腹が決まってないのか。よしこうしよう、お前のチームが夏の大会に勝てなかった場合、お前だけ卒業旅行なしな」
『な、な、なんですとぉ!!』
その悲痛な叫びを胸の内に秘め、それでも僅かな抵抗心を込め万感の思いで、
「勘弁してくださいよぉ」
実に弱々しく情けない声で一言だけ。そして再びの沈黙。固まる康太、微動だにせずビデオを眺める荒田監督、数秒間の静寂が何時間にも思える緊張感。
「し、失礼しました!」
気まずい空気から逃れたい一心でドアノブに手をかける。
「康太!」
背中越しに聞えた声に素早く反応して振り返る。首を傾け康太を正面から見据えた。
「大切なのはできそう、できなさそうじゃなく、やる意思があるか、ないか。これは野球に限ったことじゃないぞ」
康太が一礼し、監督室のドアを閉める。
ドアが完全に閉まる間にできるすき間に、そう言った荒田監督が一瞬笑ったように見えた。
「それでお前は勝たないと最後の旅行に連れてってもらえないのか、笑えてくるな」
「冗談じゃないぞ、まったく」
快音と共に松下の笑い声が室内練習場に響き渡る。康太は、かごいっぱいに積まれたボールをピッチング防護ネット越しに十八メートル離れた松下に投げ込んでいる。
「変化球ランダムで投げてくれよ」
「いいけど、バッティングの調子崩しても文句言うなよ」
「お前ので調子崩してたら試合で打てねぇだろ」
松下の嘲笑する笑い方に康太は面白くない顔をしながら思うままに縫い目に指をかけた。
人差し指と親指だけ縫い目にかけてボールを抜くように投げるスローカーブを松下は、踏み込んだ足でしっかり壁を作ってボールを引き付けながらバットを振り抜いた。
「今のはレフトスタンドだろ」
「ほらどんどんいくぞ」
スライダー、カーブ、チェンジアップ、ツーシーム。縫い目に指をかける位置をかえるだけで比較的簡単に変化をともなう変化球とストレートを織り交ぜながら松下と対峙する。
松下はアウトカウントや塁上のランナーを想定したバッティングを意識して打ち返していく。かごにあったボールが半分ほどなくなって二人は一度休憩をとった。
「ほらよ」
「サンキュー」
松下からドリンクを受け取って室内練習場の人工芝に腰を下ろした。
「昨日の食堂の話しまじかよ」
「まじだよ」
事の成り行きを昨夜、松下に一通り説明したばかりだった。
自主練習が終わった後東京消防庁の試験に備えて勉強をしている松下は、その日も大学の図書館に完備された自習室を閉館時間いっぱいまで利用していた。
「あれこんな時間にどうした?」
「いや、なんてことはないが」
食堂で松下と顔を合わせた康太はここ数日間のドタバタを話すつもりはなかったが、正直に言って誰かに愚痴を聞いてほしかった。「あのさ……」そう口を開いて五分後には松下に話したことを後悔する。人がこんなに真剣に悩んでいることを面白おかしく茶化してお前には無理だなんて、目の前で爆笑することはないだろう。
康太は昨日のことも相まって不機嫌にそうにスポーツドリンクを口に運ぶ。
「しかもさっきなんて勝たなきゃ卒業旅行に連れてかないって言われてよ。勘弁してほしいよ、もう俺にはそれしか楽しみがないんだぜ」
「そいつは良かったな」
「他人事だと思って」
「今日も行くのか」
「あぁ、今日は放課後等デイサービス監督だ」
遠い目をして松下に言った。それだけではない今日は他の二校の選手も交えた合同チーム初の練習になるのだ。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
プレッシャァー 〜農高校球児の成り上がり〜
三日月コウヤ
青春
父親の異常な教育によって一人野球同然でマウンドに登り続けた主人公赤坂輝明(あかさかてるあき)。
父の他界後母親と暮らすようになり一年。母親の母校である農業高校で個性の強いチームメイトと生活を共にしながらありきたりでありながらかけがえのないモノを取り戻しながら一緒に苦難を乗り越えて甲子園目指す。そんなお話です
*進行速度遅めですがご了承ください
*この作品はカクヨムでも投稿しております
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
彗星と遭う
皆川大輔
青春
【✨青春カテゴリ最高4位✨】
中学野球世界大会で〝世界一〟という称号を手にした。
その時、投手だった空野彗は中学生ながら152キロを記録し、怪物と呼ばれた。
その時、捕手だった武山一星は全試合でマスクを被ってリードを、打っては四番とマルチの才能を発揮し、天才と呼ばれた。
突出した実力を持っていながら世界一という実績をも手に入れた二人は、瞬く間にお茶の間を賑わせる存在となった。
もちろん、新しいスターを常に欲している強豪校がその卵たる二人を放っておく訳もなく。
二人の元には、多数の高校からオファーが届いた――しかし二人が選んだのは、地元埼玉の県立高校、彩星高校だった。
部員数は70名弱だが、その実は三年連続一回戦負けの弱小校一歩手前な崖っぷち中堅高校。
怪物は、ある困難を乗り越えるためにその高校へ。
天才は、ある理由で野球を諦めるためにその高校へ入学した。
各々の別の意思を持って選んだ高校で、本来会うはずのなかった運命が交差する。
衝突もしながら協力もし、共に高校野球の頂へ挑む二人。
圧倒的な実績と衝撃的な結果で、二人は〝彗星バッテリー〟と呼ばれるようになり、高校野球だけではなく野球界を賑わせることとなる。
彗星――怪しげな尾と共に現れるそれは、ある人には願いを叶える吉兆となり、ある人には夢を奪う凶兆となる。
この物語は、そんな彗星と呼ばれた二人の少年と、人を惑わす光と遭ってしまった人達の物語。
☆
第一部表紙絵制作者様→紫苑*Shion様《https://pixiv.net/users/43889070》
第二部表紙絵制作者様→和輝こころ様《https://twitter.com/honeybanana1》
第三部表紙絵制作者様→NYAZU様《https://skima.jp/profile?id=156412》
登場人物集です→https://jiechuandazhu.webnode.jp/%e5%bd%97%e6%98%9f%e3%81%a8%e9%81%ad%e3%81%86%e3%80%90%e7%99%bb%e5%a0%b4%e4%ba%ba%e7%89%a9%e3%80%91/
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。


切り札の男
古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。
ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。
理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。
そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。
その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。
彼はその挑発に乗ってしまうが……
小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる