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Spring Season
第32投
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蔵田菜穂の授業はいつも静かだ。
その理由は徹底した授業づくりにある。初回の講義でうるさくする運動部の人たちを強制退室させたり、無駄口をたたいて授業の妨害をした学生の出席を取り上げたりとやることなすこと厳しかった。
単位欲しさの出席だけしている学生や不真面目な強化部の学生排除した結果、第三回目の講義にして静寂を勝ちとったのだ。
しかしその代償として鉄血宰相、暴君などの異名が大学内に浸透することになったのだが、
「……というわけで次回からプレゼンテーション用の資料を作ってもらいます」
小さな学生のため息と嘆きの声が聞こえそしてまた静寂が訪れる。
「なにか質問がありますか?」
菜穂はそう言って時間を確認した。授業終了まであと五分。何事もなく終わるはずだった。
「はい!!」
ひとりの学生が手を挙げた。久留美は恐るおそる隣にいるあんこを見た。
あんこの右手は天井をさし指先までピンとまっすぐに伸びている。
「安城さんなにか分からないところがありましたか?」
「先生はなんで野球が嫌いなの?」
おいおい! 何言っちゃてくれてんのあんこ。
野球という言葉に菜穂の笑顔がひきつる。そして教室はいきなり氷河期を迎えたかのように凍り付く。
「何が言いたいのかな?あと授業に関係ないよねその質問」
「関係ありますよ。だって先生は全日本のエースだったんでしょ」
「……」
久留美は迷っていた。
あんこは別に悪気があって言っているのではない。
知りたいと言う自分自身の探求心がそうしているのだ。
その探求心は気まぐれで周りの空気などを気にしない。こうなると何をいっても聞かないしどうしようもない。
沈黙がこの教室を支配してチャイムが鳴った。他の学生はそそくさと退室する中で梃子でも動かぬあんこと菜穂。
蛇に睨まれた蛙の久留美。
「あなたたち私の研究室に来なさい」
菜穂は教室を出る。あんこは笑って私に言った。
「くるみちゃんあとでノート見せてね」
菜穂の研究室は経学部等の二階にある。研究室の中は資料や専門書があってきちんと整理されていて、無駄なものが一切ない。
「それであなたたちは何が目的なの?私の授業の邪魔をするなら排除しますよ」
菜穂は本気だった。その証拠に顔は笑って目が笑っていない。
二人に対しての敵意が伝わってくる。
「先生! 私たちの監督になってください」
「いやです」
「そこをなんとか」
「いやです」
あんこはしつこかった。それでも菜穂は一向に首を横に振りまるで聞く耳を持たない。
「あのあんこが失礼なことを言ったのは謝ります。でも先生、断る理由くらい教えてくれてもいいじゃないですか」
とうとう久留美も我慢できなくなり間に入った。あんこの無礼は許されることではないがこんなに真剣に頭を下げるあんこのことを邪険に扱う態度に腹が立った。
「少しまえに研究室に来た早乙女さんにも言ったのだけれど、あなたたちは何のために貴重な四年間を費やして野球をやっているの?」
菜穂は続ける。
「あなたたち野球部は男女問わず見ていると思うのよ。野球をやっているから偉いの? 一般学生をバカにできるの? 授業も適当でいいの? まさかと思うけど一生野球ができるなんて勘違いしていない? もしそうだとしたら大間違い。あなたたちは自分の野球の消費期限に気が付いていない」
諭すように菜穂は二人に言った。
一度ため息をつくと上着を脱ぎ始め、シャツの右腕の袖をまくりあげ肩を真横に水平に伸ばす。
「これが全日本エースのなれの果てよ」
普通ならまっすぐになるはずの右ひじが大きく曲がりそこには痛々しい手術のあとがあった。
「私は二十六歳の時突然野球を失ったわ。そして気が付いたのよ私の人生野球がすべてで野球しかなかったってことを、野球を取り上げられた私には何も残らなかった。そこで初めて分かったのプロ時代の控え選手や補欠の選手の気持ちが、痛いほどね。努力しても出場機会さえ与えられなかった彼女たちのやるせなさが……今のあなたたちに分かるの? 一年生から試合に出ているあなたたちにその人たちの気持ちが」
「分かりますよ」
「いいえ分かるはずがないわ」
あんこの返答を聞くと間髪入れずに否定した。
「それに大学に来たからには高卒以上の企業に就職しないと親不孝よ。この一回一回の講義だってお金に換算すると五千円くらいするし、野球なんかやっていないで勉強しなさい。資格をとりなさい。将来役に立つわ」
「せんせぃ」
久留美は力なく視線を下げた。
菜穂の言葉は久留美の胸を押さえつけて離れない。
なぜなら久留美にも分からないからだ。
「さぁもういいでしょ。かえってちょうだい私に監督をする意思はないわ」
菜穂は研究室のドアを開けると私たちに一礼した。
「先生の言いたいことは分かりました。でも……」
久留美がその先の言葉を見つけようとしているとあんこがにこりと笑った。
「また遊びに来ますよ」
あんこはそう言うと久留美の手を握って外に出た。
その理由は徹底した授業づくりにある。初回の講義でうるさくする運動部の人たちを強制退室させたり、無駄口をたたいて授業の妨害をした学生の出席を取り上げたりとやることなすこと厳しかった。
単位欲しさの出席だけしている学生や不真面目な強化部の学生排除した結果、第三回目の講義にして静寂を勝ちとったのだ。
しかしその代償として鉄血宰相、暴君などの異名が大学内に浸透することになったのだが、
「……というわけで次回からプレゼンテーション用の資料を作ってもらいます」
小さな学生のため息と嘆きの声が聞こえそしてまた静寂が訪れる。
「なにか質問がありますか?」
菜穂はそう言って時間を確認した。授業終了まであと五分。何事もなく終わるはずだった。
「はい!!」
ひとりの学生が手を挙げた。久留美は恐るおそる隣にいるあんこを見た。
あんこの右手は天井をさし指先までピンとまっすぐに伸びている。
「安城さんなにか分からないところがありましたか?」
「先生はなんで野球が嫌いなの?」
おいおい! 何言っちゃてくれてんのあんこ。
野球という言葉に菜穂の笑顔がひきつる。そして教室はいきなり氷河期を迎えたかのように凍り付く。
「何が言いたいのかな?あと授業に関係ないよねその質問」
「関係ありますよ。だって先生は全日本のエースだったんでしょ」
「……」
久留美は迷っていた。
あんこは別に悪気があって言っているのではない。
知りたいと言う自分自身の探求心がそうしているのだ。
その探求心は気まぐれで周りの空気などを気にしない。こうなると何をいっても聞かないしどうしようもない。
沈黙がこの教室を支配してチャイムが鳴った。他の学生はそそくさと退室する中で梃子でも動かぬあんこと菜穂。
蛇に睨まれた蛙の久留美。
「あなたたち私の研究室に来なさい」
菜穂は教室を出る。あんこは笑って私に言った。
「くるみちゃんあとでノート見せてね」
菜穂の研究室は経学部等の二階にある。研究室の中は資料や専門書があってきちんと整理されていて、無駄なものが一切ない。
「それであなたたちは何が目的なの?私の授業の邪魔をするなら排除しますよ」
菜穂は本気だった。その証拠に顔は笑って目が笑っていない。
二人に対しての敵意が伝わってくる。
「先生! 私たちの監督になってください」
「いやです」
「そこをなんとか」
「いやです」
あんこはしつこかった。それでも菜穂は一向に首を横に振りまるで聞く耳を持たない。
「あのあんこが失礼なことを言ったのは謝ります。でも先生、断る理由くらい教えてくれてもいいじゃないですか」
とうとう久留美も我慢できなくなり間に入った。あんこの無礼は許されることではないがこんなに真剣に頭を下げるあんこのことを邪険に扱う態度に腹が立った。
「少しまえに研究室に来た早乙女さんにも言ったのだけれど、あなたたちは何のために貴重な四年間を費やして野球をやっているの?」
菜穂は続ける。
「あなたたち野球部は男女問わず見ていると思うのよ。野球をやっているから偉いの? 一般学生をバカにできるの? 授業も適当でいいの? まさかと思うけど一生野球ができるなんて勘違いしていない? もしそうだとしたら大間違い。あなたたちは自分の野球の消費期限に気が付いていない」
諭すように菜穂は二人に言った。
一度ため息をつくと上着を脱ぎ始め、シャツの右腕の袖をまくりあげ肩を真横に水平に伸ばす。
「これが全日本エースのなれの果てよ」
普通ならまっすぐになるはずの右ひじが大きく曲がりそこには痛々しい手術のあとがあった。
「私は二十六歳の時突然野球を失ったわ。そして気が付いたのよ私の人生野球がすべてで野球しかなかったってことを、野球を取り上げられた私には何も残らなかった。そこで初めて分かったのプロ時代の控え選手や補欠の選手の気持ちが、痛いほどね。努力しても出場機会さえ与えられなかった彼女たちのやるせなさが……今のあなたたちに分かるの? 一年生から試合に出ているあなたたちにその人たちの気持ちが」
「分かりますよ」
「いいえ分かるはずがないわ」
あんこの返答を聞くと間髪入れずに否定した。
「それに大学に来たからには高卒以上の企業に就職しないと親不孝よ。この一回一回の講義だってお金に換算すると五千円くらいするし、野球なんかやっていないで勉強しなさい。資格をとりなさい。将来役に立つわ」
「せんせぃ」
久留美は力なく視線を下げた。
菜穂の言葉は久留美の胸を押さえつけて離れない。
なぜなら久留美にも分からないからだ。
「さぁもういいでしょ。かえってちょうだい私に監督をする意思はないわ」
菜穂は研究室のドアを開けると私たちに一礼した。
「先生の言いたいことは分かりました。でも……」
久留美がその先の言葉を見つけようとしているとあんこがにこりと笑った。
「また遊びに来ますよ」
あんこはそう言うと久留美の手を握って外に出た。
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