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第一章

下の毛

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 まぁこんな状況でもそんなことを考えられるくらい頭が平常に近づいてきたところで考える。

 約二日。

 ――どうしてあいつらはこの間アンネを回収しにこなかったのだろうか。

 そもそもな話。佐伯が倒されたところでアンネを攫うことだってできたのにだ。

 もっといえばその間まったく結界を張れないわけだから、教会や他の連中が襲ってきてもおかしくないのに。

 謎を探すように周囲を見渡す。すぐに気がついた。

 ――俺がやられたからアンネの精神が不安定になって手が出せないんだ。

「真魚くん?」

 眉を顰めながら俯く佐伯をアンネは泣きそうな顔で見ていた。これ以上は彼女を心配させたくない。悪魔が支配するとかしないとか関係なく自分のことでそんな顔をさせたくなかった。

「おじやもらっていい?」

 茶碗をもらってがつがつと口に運んだ。

「口とか痛くないですか?」 

「いや痛いけど、それ以上に腹減ってんだ。にしてもせっかくのハンサムな顔がこれじゃあ台無しだよなぁ」 

「……」

 アンネは何も言わなかった。

 渾身の自虐ネタもスルーされ失笑するしかなくなる。

 その数秒後、またも流れる沈黙の中でアンネが目元を指先でこすった。

 文句を言われるより、理不尽に怒られるよりもよっぽど佐伯の心に突き刺さる。それからようやく自覚する。負けてはいけない勝負に負けたのだということに。

 佐伯は左手を眺めた。

 宇宙に繋がる力を持ちながらもいまだに上手く使えない自分の不甲斐ない左手。

「あのさ、アンネ前に言ってたよな。精神が不安定になると悪魔に襲われるってあれ今は大丈夫なのか?」

「……はい、心の中で神に祈りを捧げていますから……でも悪魔の声は絶え間なく聞こえてきます」

「なんて?」

 アンネは不安そうに、

「真魚くんには言えません」

「なんでだよ」

「だってあなたをもう巻き込みたくないから……その傷、私を追ってきた人たちにやられたんでしょう」

「お前、この期に及んでまだそんなこと言ってんのかよ、ちょっと下手こいちまっただけだよ。心配ねぇって」

「でも……」

「でもじゃねーよ。俺は強いんだ。大丈夫、次は負けないって、だから信じてくれよ」

「はい」

 アンネは笑っていた。

 しかしその笑顔は安堵からくるものではなく、佐伯に迷惑をかけないようにするための笑顔。

「ってこんななりじゃ頼りないよな」

 佐伯は我慢できずに茶化した。言ったまんま。言葉とは逆の恰好で偉そうにしている自分が可笑しくて情けなかった。

「そんなことないです」

 否定せずに微かに頬を緩める。

「ご飯食べたらシャワーでも浴びますか?」

「シャワーかぁ、二日も浴びてないならさっぱりしたいけどまだ傷にしみるだろうな」

「それじゃあ私が洗ってあげましょうか?」

「えぇ……本当ですか?」

 これ以上言いようのない感情に佐伯は今すぐにでもたちあがりそうになる。

 ――いやいやいや。

「イヤ大丈夫ダヨ、別ニソコマデシテクレナクテモ」

 音声AIのようにカタコトになって読み上げる。

「遠慮せずに、教会にいた時も小さな子どもの水浴びを手伝ってあげてましたから」

「……俺は大きな子どもなんだが」

「男の子なんていくつになっても変わらないでしょ」

 なんだろう。この高揚感と背中がぞくぞくする深夜二時の既視感は。

「善意で言ってくれたと思うんだけど、ちょっと言わせてくれ」

「はぁ」

 アンネは膝を突き合わせて向き合った。

「あのぉなんでしょう?」

「あのさ、俺はまだ子どもだけど大人になりかけてる部分もあるわけで、こうやってまじまじとお前の顔を見ているとな」

「見ていると?」

 のぞき込むように眺めているアンネに適当な言葉を探すが、言いようのない感覚に全身がこそばゆい。

 それでもなんとかこの胸のもやもやを伝えなければとも思う。

 だって自分のために涙を流してくれて、無垢で泣きっ面に頬を赤らめた彼女はとても……。

「いやぁアンネって下の毛も金髪なのかなって」

 その瞬間空気が凍った。さっきまで笑ってたのにピキンと氷が砕けたような音とともに彼女の右手が振り上げられる。

 うん。テンパって、恥ずかしまぎれに絶対に違う選択肢を選んだのに違いない。

「ち、違うんだ。落ち着けそうじゃなくて俺だって立派な男だって……」

 直後、佐伯はフルスイングされた右手に頬を撃ち抜かれ布団に倒れた。
 
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