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小話まとめ・短編・番外編
番外編 北青院 (上)
しおりを挟む運命の番に出逢った。
あの狂わんばかりの衝動は、一生忘れることが出来ないだろう。
俺には音和という同い年の番がいる。上位オメガの彼女と出逢ったのは十六歳の時。
父親が経営している北青院グループのパーティーで出逢った。
これまで色々なオメガと出会って来たが、音和ほどいい匂いがするオメガは初めてだった。長い滝のような黒髪をさらりと揺らし、まさに百合の花の如く立つ姿は高潔で清純。落ち着いた知的な美貌は目を惹く美しさだった。
話しも合うし、とても相性が良くて何もかもがピタリと嵌まるようだった。音和に対する俺の執着もかなりのものだ。
彼女こそ、俺の運命の番だと確信していた。
念の為、病院でも確認した。結果はかなり良く、運命の番で間違いないとお墨付きを貰った。
音和を誰にも奪われたくなくて、まだ十六歳だったが音和も望んでくれたので彼女の項を噛んで番になった。
運命の番を手に入れられた俺は、幸せだった。
それなのに、『運命の番』が現れた。
あの日は、入学希望の中学生とその親を集めた学園の見学会の日だった。
毎年、番持ちの在校生が手伝うのが慣習だ。
当然、二年生だった俺も音和と参加した。
校舎内に居たにも拘らず、感情の全てを揺さぶるような堪らなくいい匂いが香って来た。
「政親……!?」
衝動的に駆け出した俺を隣にいた音和が呼び止める。
何よりも愛おしんでいた音和の声を無視するなんて、有り得ないことだった。
それなのに、俺は音和を無視して走る。
この匂いが俺を呼んでいる。早く傍に来てと呼んでいる。
何を焦っているのか分からないまま、居ても立ってもいられない衝動に足を速める。
匂いに近付くほどに、心は歓びに浮き立ち溢れてくる愛おしさに頭の中がおかしくなりそうだ。
俺の運命の番は、可愛らしい男オメガだった。
しかも、有名な大神一族、希少種アルファの『狼王』の末息子だ。
あの恐ろしいほどの狂った衝動は、今思い出しても恐怖を感じる。
一度も会ったことがない、話したこともない相手を自分の一番愛おしい存在だと強く認識してしまう。どんなものを犠牲にしてでも手に入れたい、何処まででも愛して可愛がって大事に隠してしまいたい存在。ついさっきまであんなに愛おしんでいた音和でさえ、切り捨ててもいいと思ってしまうほどに強烈に惹き付けられる。
お互いに、お互いを強く求めていた。
あの異常とも呼べる狂った衝動は、強力な麻薬でも打たれたかのようだった。
俺の運命の番は、俺に既に番が居ると知って今にも壊れそうな顔をしてポロポロと涙を流していた。
その時、俺は音和と番ったことを激しく後悔した。
――――してしまった。
俺の運命の番は、言葉通り血の涙を流しながら俺という運命を切り捨てた……
知ってしまった運命の番の匂いは強烈で、まさに麻薬だ。
会いたくて会いたくて堪らなくなる。
傍に行きたい、傍におきたい、ずっと腕の中に抱き締めていたい。全てを貪り尽くしたい衝動で頭がおかしくなる。
側で音和が泣いていても何も感じない。
ただ、ただ、運命の番に拒絶されたことに胸が引き裂かれそうだった。
きっと、あの時の俺は本能の化け物だった。
自分で感情を制御するのは不可能だった。
会いたい、手に入れたい衝動だけで、どうにか運命の番が居る病院に連れて行って貰えた。
そこで俺は、運命の番を失った……
あの、狂おしいほど強烈な甘美な匂いは跡形もなく消え去っていた。恐ろしいほどの喪失感に精神がバラバラと崩れる。
何もかもが価値のないものに見える。何もかもが無意味だ。
何故、生きているのか分からない。
何故、生きていなければならないのか分からない。
全てがどうでもいい。
ある朝、俺はベッドから起きることが出来なくなった。
身体が重くて持ち上がらない。
でも、それすらもどうでもよかった。
周りの人間が認識出来ない。
確かに側に居て顔も見ているはずなのに、顔が分からない。話し掛けられる言葉が耳を素通りして、言葉が頭に残らない。
俺の身体と世界が切り離されてしまった。
でも、どうでもよかった。
俺は俺だけしか居ない世界で、独りだ。
そんな状態で、どのくらいの時間が経ったのか。
俺の身の回りの世話をする女が目に映った。
他人の顔を認識するのはいつ振りだろう。
毎日、その女の顔を見るようになった。
見るものがそれしかないから、ただ見ていた。
いつも沈んだ顔でニコリともしない。
――――辛気臭い女だ。
それでも、いつもその女が側に居る。
毎日、辛気臭い女だと思いながらただ見ていた。
それからどれくらい経ったのか。
辛気臭い女がいつものように俺の身体を拭いている時、ふわりといい匂いがした。
この匂い……何処かで嗅いだことがある。
それからは、女が近付くたびにそのいい匂いがふわりと香った。
日に日に、ほんの少しだけ匂いが濃くなっているような気がする。
日が経つにつれてその匂いをもっと嗅ぎたくなって、ある日、重い腕をなんとか動かして女を捕まえて引き寄せた。
引き寄せたといっても、驚くほど腕に力が入らなくて引き寄せることは出来なかったが。
女は驚いた顔をして、暫く固まっていたがぎこちなく俺の頭を抱いた。
ああ……いい匂いだ……
俺は、腕が疲れて力尽きるまで女を抱き締めて女の首筋の匂いを嗅いだ。
それから毎日女は俺を抱き締めた。俺は腕の力がなくなるまで女を抱いて、その匂いを嗅いだ。
とても、落ち着く匂いだった。
それを何日繰り返したのか分からないが、その日はいつもより女の匂いが濃かった。
その匂いを嗅いでいたら、唐突に分かった。
辛気臭い女は、音和だった。
「――――ぉ、と……ゎ……」
ずっと使っていなかった声帯は、上手く言葉を発せなかった。
「っ……私が、分かるの……?」
記憶にある音和より、ずっと痩せた音和が驚いた顔で目を見開いて暗い茶色の目を潤ませ、震える声で聞き返してくる。
「……ゎ……か、る゙……」
音和の目を見て頷く。
彼女は涙を流して俺を抱き締めた。
その日から、少しずつ身体を動かせるようになった。
音和が脚や腕を動かすリハビリを根気よく付き合ってくれる。音和と少しずつ言葉を交わして、徐々に話せるようになった。
ぼんやりとしていた頭の中が少しずつクリアになって行く。
そうやって時間を掛けて、色々と思い出した。
そうだ……運命の番を失ったんだった。
だけど、あのとき感じた喪失感が今は全く感じられなくなった。寧ろ、出会って数十分の僅かな時間しか会ったことがない相手に、何故あんなにも執着していたのかさえ不思議に思う。
俺の番は音和なのに。
どうして俺は、音和を捨ててまで運命の番を選ぼうとしていたのかさえ分からない。
音和を切り捨てようとした俺を音和はずっと側に居て寄り添っていてくれたのか……
罪悪感が重く伸し掛かってくる。
俺に項を噛まれた音和は、そうするしかなかったのだろう。
「音和……悪かった……本当に……悪かった」
音和を抱き締めて、何度も何度も謝った。
運命の番に出逢いさえしなければ、俺はずっと音和を溺愛して幸せでいられたのに……
運命の番と出逢うまでは、確かに音和を愛していた。あの、たった数十分間で全てが壊れた。
お互いに名乗ってすらいない。交わした言葉は決別の言葉だけ。愛を囁やき合った訳でもない。触れるどころか隣に立つことすらしていないのに、あの数十分間で俺は浮気男になってしまった。
たった数十分間で運命の番を失い、音和の信頼も失った。俺自身の意思では何もしていないのに、ただ運命の番だというだけで俺の人生は大きく狂った。
あの時、音和を切り捨てようとした自分に腹が立つ。俺の運命の番のように、血を流してでも拒絶すれば良かった。あの衝動に俺は抗えなかった。
あれに抗うのは並大抵のことじゃない。経験した者でなければ分からない。
あれはまるで、本能という名の俺が知らない俺の別人格だ。いや、本能という名の化け物に身体を乗っ取られた、と言った方がしっくりくる。
もし、俺が音和と番っていなければこんな風には思わなかったのかも知れない。運命の番と番えたのなら幸せの絶頂にいたのかも知れない。
そんな、もしかしたらの話など意味がない。
俺には音和がいた。運命と番えなかった。
――――それだけだ。
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応援して下さっている皆様、ありがとうございます。(*˘︶˘*).。*🌸
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