運命の番に為る

夢線香

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04. 眠る性

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 嗅ぎ慣れない、消毒液の匂いがする。

 身体が固まっていて、伸ばしたくて身動ぐけれど思うように動けない。

 何処か腫れぼったい瞼をのろのろと開く。白い天井を見て、掛かり付けの病院だと分かった。目を動かすと、スタンドに吊るされた薬剤が入った袋が見える。どうやら、点滴を打たれているみたいだ。

 何で、病院に居るんだろう……?

 ぼんやりとする頭で記憶を辿る。

 ――そうだ……高校の見学会に参加して、運命の番に出逢ったんだった。……僕の運命の番には、既に番が居た。――だから、運命の番を切り捨てた……

 不思議と、出逢った時の激情はなく、心は凪いでいた。

 ただ、ぽっかりと穴が空いたように喪失感だけが残っている。

 ぼんやりとしたまま天井を眺めていると、部屋の扉が開いて女性の看護師が入って来た。

「雪乃さん……? 目が覚めたんですね、良かった。具合が悪いところはありませんか?」

 僕は、僅かに首を横に振った。

 看護師は微笑んで頷くと、医師を呼びに病室から出て行った。

 暫くすると、いつも僕を診てくれている神田先生が病室に入って来た。

 神田先生は、男性の上位オメガで三十三歳。百五十二センチの小柄な体で、童顔のとても可愛らしい顔をしている。実年齢よりも、ずっと若く見える先生だ。でも、見た目に反して毒舌だったりする。

「漸く、目が覚めたんだね、雪乃くん」

 神田先生はバイタルをチェックしたり触診や問診をした後、ベッドの横にある椅子に腰掛けて説明をしてくれた。

「君は一ヶ月の間、意識がない状態で寝込んでいたんだよ」

「いっ……ケホッ……ゲホッ……!」

 驚いて喋ろうとしたら、口の中が乾いていて喉が張り付いてせる。

 神田先生は、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してキャップを外し、ストローを挿して渡してくれた。

 ベッドのリクライニングを少し起こした状態だったので、ストローを挿してくれたのは有り難かった。冷たい水が喉に心地良い。一頻り飲んでから息を吐く。

「―― 一ヶ月も、寝ていたんですか……?」

 漸く、聴きたいことが訊けた。

「そうだよ。――解りやすく言えば、君は精神的なショックから、自身を護る為に眠りに就いた。運命の番なんていう強烈な本能から逃げる為にね」

 神田先生は、いたわし気に僕を見てくる。

「自分を護る……?」

「そう。本能が求める欲求に抗ったんだ。身体に負荷が掛かって、目、鼻、耳、喉から血を流す程、本能に抗って、ヒートですら止めてしまった。――とんでもないことだよ……」

「…………」

「君の身体に起こったことは、医学的に説明が付かないことなんだよ。こんなケースは初めてで、どうしてこうなったのか解らない。だから暫くは、検査入院して貰うことになるね」

 よく、解らなかったけれど……取り敢えず頷いた。正直に言えば、どうでも良かった。


 心は、凪いでいる。


 静かで、穏やかで、――――何もない。


 何もないから、荒れようもない。


 何もかもがどうでも良くて、誰かと話すことさえ面倒に感じる。

 瞼が重くなって来て、目を閉じる。

「眠いかい? 眠って良いよ。――おやすみ、雪乃くん」

 そのまま、眠りに落ちた。



 目を覚まし、消毒液の匂いで病院に居ることを思い出す。定期検診等で、泊まる時に使う個室だ。何度か泊まったことがあるので、余所余所しさは感じない。

「雪乃……? 目が覚めたんだな」

 声を掛けられて驚く。声の主は、ベッドのすぐ脇の椅子に腰掛けている父さんだった。

 父さんの存在に、気が付かなかった……?

 どんなアルファよりも、強烈な存在感を持つ父さんに気付かないなんて、有り得ない……父さんが側に居れば安心出来る匂いがするし、毎日のマーキングでその匂いに包まれて、護られていた。


 ――匂い……?


 そういえば、ずっと、消毒液の……病院の匂いしかしない。

 父さんの匂いも、仁乃兄さんの匂いも、都乃姉さんの匂いも、禅乃兄さんの匂いも……感じられない……

 いつも、当たり前にあった匂いが全くしない。

「――父さん……」

 父さんに手を伸ばすと、握ってくれた。その手を顔まで引き寄せて匂いを嗅ぐ。

「――父さんの……匂いがしない……」

「っ⁉」

 父さんは、驚いて凝視してくる。

「……兄さん達の匂いも……しない……」

 僕は、茫然とした。

「雪乃……神田先生を呼んでくるよ」

 父さんは病室を出て行って、暫くして神田先生を連れて戻って来た。

「雪乃くん。匂いが分からないんだって?」

 茫然としたまま、頷く。

「全部の匂いが分からないのかな? それとも、フェロモンの匂いだけが分からない?」

 神田先生が尋ねてくる。

「病院の……消毒液とかの匂いはします。……でも、父さんのフェロモンの匂いはしません。父さんだけじゃなく、兄さん達のも……感じられないです……」

 いつもの匂いがしない。

「そう……じゃあ、僕の匂いはどうかな?」

 神田先生がベッドに身を乗り出して、顔を近付けて来る。僕も神田先生の首筋に顔を近付けて匂いを嗅ぐ。シャンプーの匂いしかしなかった。オメガのフェロモンの匂いがしない。

「――シャンプーの匂いしか、しません」

 顔を離して答える。

「そっか……フェロモンの匂いが全く感じられない、ということだね」

 身を引いた神田先生が思案顔で黙り込む。

「今の君は、オメガ因子が極端に減った状態なんだよね。――もしかしたら、そのせいでフェロモンの匂いが分からなくなっているのかもね。それが、一時的なものなのかどうかは、詳しく検査してみないと何とも言えないけれどね」

「…………」

「神田先生、雪乃の匂いもしないみたいだが……それも、オメガ因子が減っている所為なのか?」

 父さんが、難しい顔で神田先生に尋ねる。

「恐らくは。検査して診ないことには何とも言えませんが……」

「――そうか」

 父さんは、苦々しく頷いた。



 それからは、毎日毎日、検査、検査、検査を受ける日々。

 病室には、父さん母さんを始め、兄さん達やその番の皆が毎日、交代で見舞いに来てくれた。

 誰の匂いも分からなかった。それでも、父さん達は僕にマーキングすることを止めなかった。僕には分からないけれど、他のアルファやオメガには分かるから。

 一度だけ、禅乃兄さんに運命の番だった彼のことを聴いた。禅乃兄さんは、渋い顔をしながらも教えてくれた。

 彼……北青院さんは、見学会の日から僕に会わせてくれと、何度も大神家を訪ねて来たそうだ。だけど、僕が入院していること、フェロモンが分からなくなったことを伝え、追い返していたらしい。

「番の俺が側に行けば、治るかも知れないでしょう?」

 そう言われ、一理あるかもと思い直し、一度だけ、僕に内緒で病室の外に連れて来たらしい。だけど、僕も彼も、匂いが分からなかった。北青院さんは愕然として、一言、呟いたそうだ。


「――運命じゃ、なくなった……?」


 匂いは分からなくても、繋がりは感じられるはずなのに、それさえも失くなってしまったようだ。

 北青院さんは、それから大神家には訪ねて来なくなった。学校も休んでいて、番の彼女とも、ぎくしゃくしているらしい。

 その話を聴いて、安心した。

 彼女とぎくしゃくしていることにじゃない。

 運命の繋がりが断ち切れたことにだ。

 彼を見ても、もう激情に苦しむことはない。そのことに安堵した。



 そして、一ヶ月後。検査結果を聞かされた。

 神田先生が言うには、今の僕はオメガではなくなってしまったらしい。

 正確には、ちゃんとオメガだ。でも、今の僕は、オメガの全機能を停止させた状態なんだって。この症状がいつまで続くかは、分からないそうだ。

 オメガの因子を薬で投与することは可能だけれど、心因性のものだから、無理に投与するのは危険だと言われた。

 僕がオメガに戻りたいと思えるようになるまでは、経過観察をして行こうという方針になった。

 僕は、その話を聞いても何も思わなかった。唯、そうか、としか感じなかった。

「雪乃くん。あまり、深く考えないでね」

 僕が落ち込んでいるとでも勘違いしたのか、神田先生が慰めて来る。

「オメガの君は、静かに眠る時間が必要なんだと思うよ」

「――そうですね」

 僕は頷いた。別に、オメガであることにこだわりはない。拘りは失くなった。


 運命と一緒に……失くなった。





 その後は、定期的に診察を受けることに決まり、退院出来ることになった。

 家に帰ると、皆がハグをして来た。

 是迄、当たり前のように感じていた匂いは、アルファもオメガも分からなかった。

 今迄と同じ家なのに、見た目だけが同じ別の家に来たみたいだ。

 兄さん達が家族の匂いを『家』だと言っていたことが漸く理解出来た。

 僕も間違いなく、『家』の匂いに安心していたのだと初めて知った。

 この家で、僕だけ番が居ない。

 家族の皆はここに居るし、僕は一人じゃない。


 だけど、僕だけが独りぼっちだ――




 高校は、兄さん達とは別の所に入ることにした。

 上位ベータが多く通う進学校だ。少ないけれどアルファやオメガも居る高校だ。

 二ヶ月間、入院していたので遅れを取り戻すのが大変だった。一応、入院している間も勉強はしていたけれど、頭がぼんやりしていることが多くて、あまり、身に付かなかった。

 余計なことを何も考えたくなくて、一人で部屋に籠もり勉強に没頭した。笑うことも減った気がする。

 家族の皆は、心配してくれていたけれど、何も言っては来なかった。

 そんな感じで勉強だけはしていたから、高校の受験にも合格出来た。

 何度か通っている定期検診で、神田先生に言われた。

「雪乃くん。こう云うことを医者の僕が言って良いことなのか、分からないけれど……この際、ベータの生活を楽しんでみるのも良いんじゃないかな?」

「――ベータの……?」

 意味がわからず、首を傾げる僕に神田先生は頷いた。

「そう。ヒートもない、匂いに影響されることもない、フェロモンに当てられることもない。オメガは、アルファの番にされると自由が失くなる人が多いだろう? 囲われて、外に出して貰えなくなったりさ。まあ、君のお家のオメガ達は、恵まれているから別だけれど……大神家以外のオメガ達は、愛される程に自由は失くなるものだよ」

 僕は、いまいちピンと来なくて首を傾げる。

「要するに、アルファやオメガに関係なく友達を作ったり、その友達と遊んだり、スポーツをやってみたり、自由に行動出来るんじゃないかな? 勿論、恋愛もね」


 友達……スポーツ……恋愛……


「早い話が、今のうちに遣りたいことを遣っておいた方が良いってこと」

 神田先生は、苦笑しながら肩を竦めた。

 ベータの生活を楽しむ……? 考えてもみなかったな。僕は、ずっとオメガであることを当たり前のものとして受け入れていたから。

 高校には、ベータが多くいる。番とか関係なく、普通に友人として付き合ったり、遊んだり出来るんだ……恋愛だって、ベータは性に縛られない。アルファとオメガのように、本能が剥き出しになる理由じゃない。

 もし、この先、僕がアルファと番になっても……そのアルファには、運命の番が他に居る。だったら、このままオメガに戻らないのなら、ベータと結婚するのも良いかも知れない。

 でも、僕は、誰かを好きになれるんだろうか? 誰かを愛せるようになるのかな?

 もう、何も感じなくなったとはいえ、運命の番に抱いた激情は覚えている。

 あれを超える程の想いを誰かに抱くことはあるんだろうか……?

 とてもじゃないけど、あるとは思えない。


「そんなに、深く悩まないでよ」


 黙り込んでしまった僕に、神田先生は困ったように笑った。

 









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