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本 編
02. 運命の番
しおりを挟む六月一日。今日は高校の見学会の日。
朝、目を覚ましてからずっとそわそわする。
見学会を楽しみにしていたけれど、こんなにだったかな? 何だか、遠足前の子供みたいで恥ずかしい。
窓から見える外の天気は清々しいほどの青空。モコモコの白い雲がところどころに浮いている。今日も暖かくなりそう。
部屋に付いている洗面所へ向かって、朝の身支度をする。因みに、それなりに裕福なオメガやアルファの部屋には洗面所やお風呂、トイレは標準装備。この二つのバース性は、どうしてもね。
僕の通っている中学校では今日から制服の衣替え。元々、シンプルな黒の詰め襟の学生服だったから黒いズボンに白いワイシャツになるだけなんだけどね。
白のタンクトップを着て長袖のワイシャツを着る。その上に薄いクリーム色のニットのベストを着れば、準備完了。
朝食を摂りにダイニングへ向かう。
「おはようございます。香山(かやま)さん」
ダイニングテーブルに料理を並べている、和服姿の割烹着がよく似合う香山さんに挨拶をする。
「あら? おはようございます、雪乃さん。今朝は随分とお早いんですね」
五十代半ばの香山さんは、我が家の家政婦さんの一人。
「ふふっ、何だか目が覚めちゃって……」
何だかそわそわして気が逸ったからだ、なんて恥ずかしくて言えないので、料理を並べるのを手伝いながら曖昧に誤魔化した。
「そうですか? 座って待っててくださいな。今、お茶を淹れてきますから。コーヒーの方が良いかしら?」
「大丈夫。食後に頂くので今は要らないです」
料理を二人で並べながら穏やかに話す。
「お手伝い、ありがとうございます。雪乃さん」
料理を並べ終わると香山さんに、にこやかに礼を言われて僕も微笑んだ。香山さんは、お袋さんって感じで一緒に居ると和んでしまうんだよね。
「おはよう。雪乃、香山さん」
「おはようございます。雪乃くん、香山さん」
仁乃兄さんに腰を抱かれた史人さんが、挨拶をしながらダイニングに入って来た。
「あ、おはよう。仁乃兄さん、史人さん」
「お二人とも、おはようございます」
僕と香山さんも挨拶を返す。
仁乃兄さんが近付いて来て、ハグして来る。
「今日は、高校の見学会だったな……いつもより、ちょっと濃い目にしておくか」
仁乃兄さんは、僕をぎゅうぎゅう抱き締めてから離れて行った。いつもして貰っているマーキングだ。
「皆のマーキングに近付けるアルファなんて居ないよ。オメガの子が避難所代わりに近付いて来るだけだからね?」
呆れたように苦笑する。
「念には念を入れておくべきよ? おはよう、雪乃」
後ろから靭やかな腕が伸びて来て抱き締められる。都乃姉さんだ。
「わっ、おはよう。都乃姉さん、蘭花さん」
「おはよう、雪乃くん。皆さんも、おはようございます」
蘭花さんは、にこにこ笑いながら全員に挨拶した。
都乃姉さんは、僕から離れると蘭花さんを後ろから抱き締めた。
「雪乃、鼻の悪いアルファだっているのよ? それに、襲ってくるのがアルファだけとは限らないわ。ベータにだって鼻が良い奴がいるんだから」
都乃姉さんが心配顔で窘めてくる。
「そうだよ、雪乃。――今日の雪乃は……ちょっと匂いが出ているから気を付けなきゃ駄目だよ」
いつの間にか来ていた禅乃兄さんに正面から抱き締められた。
「禅乃兄さん、おはよう。……匂い、出てるの?」
「ええ……僅かだけどするわね」
後ろからセレイアさんが抱き着いてきて、首に付けた貞操帯の上から鼻をすんっと鳴らした。
「おはよう、セレイアさん。……ふふっ、擽ったいよ」
フランス人のセレイアさんはスキンシップが激しい。そして、とても鼻が良い。
禅乃兄さんがセレイアさんのお父さんに仕事で手紙を出した。その手紙に付いていた禅乃兄さんの匂いで自分の運命の番だと分かったんだって。
遠い国に手紙が届くまで色んな人の手に触れているはずなのに、それでも禅乃兄さんの匂いを嗅ぎ分けるなんて……凄すぎる。
そして、直ぐさま来日して禅乃兄さんを手に入れた行動力も凄い。早く番わないと他のオメガに取られると思ったみたい。
そんな鼻の利くセレイアさんが言うのなら、本当なんだろうな。
「皆、おはよう」
「おはよう」
父さんと母さんがダイニングに入って来た。皆、口々に挨拶を交わす。
父さんは、真っ直ぐに僕の所に来てハグをする。背中を丸めて僕の首に顔を近付ける。
「うん、少し匂いが出ているね。――雪乃、念の為に軽い抑制剤を飲んでおきなさい」
父さんにまで言われたので頷いた。
朝からそわそわするのは、そのせいなのかな?
皆にマーキングをして貰って、朝食を摂る。
因みに、アルファのマーキングには色々な種類がある。皆が僕にしてくれているのは番にするマーキングとは別物。簡単に言えば、これは俺のお気に入りだから手を出すな、というものらしい。
皆はアルファ同士の匂いが気にならないの? と尋ねたことがある。家族の匂いは気にならないんだって。寧ろ、『家』って感じがするんだって。皆にとって、『家』と『巣』は別物みたい。
そんなアルファの番であるオメガの皆に、自分の番の匂いが僕に付いていても大丈夫なのかと聴いたら、全然平気なのだと答えた。情欲を孕んだ匂いではないから気にならないんだって。『家族』のマーキングだから問題無いらしい。匂いだけでそんなに細かく解るんだと感心した。
朝食を摂った後、歯磨きを済ませて錠剤タイプの効果が軽い抑制剤を飲んだ。これから人の集まる場所に行くので、飲んでおくに越したことはない。
身支度を終えてリビングに降りると、父さんと母さんが居た。
「あれ? 母さんも一緒に行くの?」
てっきり、父さんだけかと思っていたので尋ねる。
「ええ、そうよ。折角だし、帰りに何か美味しいものを食べましょう?」
微笑む母さんに父さんが頷く。
父さんは、こんなところもアルファの常識を逸脱している。一般的なアルファは番を外に出したがらない。でも、父さんは番が望むことなら何でも叶える。
実際は、行きたい場所を貸し切りにした上で、そうとは分からないように一族の者で一般客を装う。母さんには自由があると見せかけて、その実、しっかりと囲っている。
あれ? じゃあ、逸脱していないのかな? いや、でも……学校は流石に貸し切りになんて出来ないよね……? 僕には、よく分からないけど。
まあ、でも、強者の余裕ってやつなのかな。父さんの番に手を出すような命知らずはいないだろうから。
都乃姉さんと禅乃兄さんは先に学校へ行ってしまったから、父さんと母さんの三人で車に乗る。
運転手は、三十代ベータ男性の畑野(はたの)さん。元F1レーサーなんだって。流石に速さを競うような走り方はしないけれど、運転が凄く上手。父さんの専属運転手だ。
我が家は郊外に在るので見学する高校まで時間が掛かる。家の敷地を出るだけでも一苦労だ。父さんが、周囲がごちゃごちゃと煩いのを嫌ったからだ。
「ねえ、父さん。父さんは、母さんの街頭ポスターを見て運命だと分かったんでしょう? どんな感じになるの?」
父さんは、偶々見掛けた街頭ポスターに写る母さんを見て自分の運命だと確信した。母さんは、運命の番に見付けて欲しくてモデルをしていたんだって。そうしたら、希少種のとんでもないアルファが迎えに来て物凄く驚いたらしい。
「んー、そうだな……街頭ポスターに写る朱乃を見た瞬間、見付けたっ、と思ったよ。あれは、私のオメガだっ、てな」
父さんは、懐かしむように目を細めて母さんを見詰める。
「そこからは、早く手に入れなければならない衝動に襲われて……理性なんかどっかに吹っ飛んでしまったな」
父さんが苦笑する。
「父さんが理性を失くしたの?」
父さんが理性を手放したところなんて見たことがなかったから意外に思う。
「ふふっ。昂雅ったら、私がファションショーに出ている会場にやって来て私を拐ったのよ?」
母さんが、くすくすと笑う。
「あ~……あの時は暴漢と間違われて大変だったな……」
父さんは遠い目をして車窓の外を眺めた。
「邪魔をされて怒った昂雅が威圧フェロモンを出して、人がバタバタと倒れていたわね。――私は……早く連れて行って貰いたかったけれど……」
母さんが両手で自分の顔を挟んで頬を染める。
「結局は昂雅が大神一族の人間だと分かって、その後はあっさりと送り出してくれたわよね」
ああ、大神家には手を出すなってやつだね。
「ちゃんと、朱乃の代わりに別のモデルをおいて来たんだから問題ない」
母さんの代わりに、大神一族の中から母さんの背格好に似ているアルファ女性を選んでおいて来たんだって。その人は今でもモデルをしているらしい。
希少種の父さんでさえ、抑えられない衝動なのか。
運命の番に逢ったら、僕はどんな風になるんだろう? 早く逢いたいな……
父さんと母さんがいちゃいちゃし始めたので、スモークの貼られた車窓から流れる景色へと目を背向けた。
何だか、気持ちが落ち着かない。緊張している訳でもないのに。朝からのそわそわが治まらない。
高校の見学会には在校生の人達もお手伝いでいるみたいだけれど、ベータか番持ちのアルファとオメガだけしか居ないと説明を受けていた。だから、運命の番は居ないと分かっていた。
都乃姉さんと禅乃兄さんも、蘭花さん、セレイアさんと一緒に会場に居るんだって。今日の見学会に参加できるのはベータとオメガのみ。別の日にアルファとベータの見学会がある。
だからこそ、父さんも母さんを連れて行くことにしたんだろうな。
この高校は上位のバース性が多く通うので、裕福な家の生徒が多い。生徒の殆どは自家用車で送迎されて通うことになる。
その為に、送迎車専用の中央に噴水がある広いロータリーが設置されているんだ。駐車場は別の場所にある。畑野さんはそこに車を停めて待機するみたい。
建物自体はシンプルな箱型の造りだけれど、至る所に品の良い拘りがあって面白い。
車を降りて真っ直ぐに歩いて行くと正門に辿り着く。赤茶色の石板を敷き詰めた広い道が校舎へと続いている。その両脇には、緑の葉を生い茂らせた桜の木がずらりと並んでいた。生憎、桜の花の季節は過ぎてしまったけれど、花が咲けば見事な景観を楽しめそうだ。
僕達と同じく、見学会に来た保護者連れの生徒達がぱらぱらと歩いている。皆、父さんをチラチラと見てくる。父さんは希少種アルファとして有名人だから仕方がない。
正門を潜って歩いていたら、ふわっと微かに良い匂いがした。
何だろう……この匂い……
無意識に鼻をスンスンと鳴らす。
何とも言えない……いい匂いがする。何の匂い?
この匂いを表現するものが見付からない。爽やかな……それでいて濃厚な何か。甘いと言えば甘いような……落ち着くような……安心感? だけど、身体の底から湧き立つような……何かを引き出される……
身体が火照ってくる……
この匂いの元へ行きたい……
「――何だか……いい匂いがする……」
思わず、ポツリと呟くと父さんの表情が硬くなって腕を掴まれた。
「――雪乃……緊急用の抑制剤を出しなさい」
「?」
有無を言わせぬ強い口調で言われて、理由がわからなかったけれど、いつも首から下げている薬達を服の中から引き摺り出す。父さんは、それを僕の首から外して手に取った。
いい匂いが……どんどん濃くなる……身体の熱も、じわじわと上がって来る……
校舎の方へ目を向けると、都乃姉さんと禅乃兄さんが蘭花さんとセレイアさんを連れてこちらに歩いて来ていた。
――だけど、僕が気になるのは……その更に後ろ……
近付いて来る……僕に、会いに来る……
身体が、ふらりと前に進もうとするけれど、父さんに掴まれた腕が外れない。
「――父さん。……離して」
僕は父さんの腕を外そうと藻掻いた。けれど、びくともしない。そのことに酷く苛立ちを覚える。
早く、行かなくちゃ。早く、会いたい。どうして邪魔をするの? 何故、離してくれないの?
「やだっ……父さん! 離してよっ……!」
匂いが、どんどん近付いて来る。
早くっ……! 早く来てっ……!
身体が火照る。熱い、熱い。下腹がじんじんする。自分の身体から何かが……フェロモンが滲み出ている。
こちらに歩いて来ていた都乃姉さん達が異変に気が付いて駆け寄って来る。そのずっと後ろ、背の高い男子生徒が一人、校舎から出て来た。
この高校の制服を着ているから、在校生だ。濃紺のズボンにライトグレーのワイシャツ。深いワインレッドのネクタイ。薄い水色のニットのベストを着ている。
あっ……! 運命の番だっ!!
「見付けたっ……僕の……運命の番っ……!」
父さんに片腕を掴まれたまま、反対の手を彼に向かって伸ばす。側に駆け着けた都乃姉さんと禅乃兄さんが僕の伸ばした手の先に視線を奔らせて……顔を強張らせた。
「北青院(ほくせいいん)が……雪乃の運命……?」
禅乃兄さんが、愕然として呟く。
「っ……! 父さん、抑制剤を打ってっ……! 早くっ!」
都乃姉さんは、父さんを急かしながら禅乃兄さんと一緒に僕と運命の番の間に立ち塞がった。
どうして……? どうして……皆、邪魔をするのっ……!?
首に、チクリと痛みを感じた。父さんに緊急用の抑制剤を打たれた。
でも、そんなことはどうでも良かった。どんどん近付いて来る運命の匂いに頭の中が一杯で、他のことなど考えられない。
「父さんっ……! 離してっ……! 何で皆……邪魔をするのっ……!?」
都乃姉さんと禅乃兄さんの身体に隠されて、僕の運命の番の姿が見えない。直ぐ、そこまで来ているのにっ……!
「――雪乃。これまでに話して来た、運命の番のことを覚えているか? 運命の番と出逢うことが必ずしも幸福ではないって教えただろ?」
父さんは、僕を後ろから抱き込むように押さえ付けながら静かな低い声で囁いて来る。
身体の底から熱い血が全身を巡り、頭に血が上っている僕には、父さんの言葉の意味が理解出来ない。
運命の番との出逢いが幸福じゃない? こんなに全身で運命の番を欲しているのに?
本能が彼を求めている。心も既に彼が必要だと叫んでいる。
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい!
あのアルファが欲しいっ……!
あれは……僕のアルファだっ……!!
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