俺の幸せの為に

夢線香

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本編

28. アスローク・ヌーケハマー侯爵 ☆

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 私はアスローク・ヌーケハマー侯爵。

 元は、しがない子爵家の四男で、家の援助と引き換えにヌーケハマー侯爵家に婿入した。本来なら、何れ平民の私が侯爵となったのだから玉の輿だ。

 だが、私の妻となったブーベルナは、社交界で頗る評判の悪い女だった。顔は可愛い方だが頭が悪く、わがままで短気、浪費家で身持ちも悪い。あらゆる人に無礼を働き、婿に来る者が居なかった。それでも、ヌーケハマー侯爵家の一人娘だった為、世継ぎを作らねばならず、その当時学園の文官科で首席だった私に白羽の矢が立った。

 正直……嫌だったが、家計が苦しかった両親に頭を下げられ結婚した。




 そして、今、私は草臥れた服を着て執務を熟している。

 ブーベルナの浪費した金を何とか捻出しても、次から次へと浪費される。注意をしても、そのくらいの金も稼げないお前が悪いと逆切れされる。商会を立ち上げ利益を出しても稼いだ端から消えて行く。

 屋敷の中では、彼女の金切り声が絶えない。使用人は次々と辞めていき、質の悪い使用人が増える。

 私の顔を見れば、罵倒ばかり浴びせて来る。

 それほど嫌なら、食事など一緒に摂らなければ良いのに、態々同じテーブルに付いて喚き散らす。

 …………疲れる。

 私達の間には、息子が二人居る。十四になる長男と十二になる次男だ。長男は私の子だが次男は違う。執事とも呼べない男との間に生まれた子供だ。その男は、今も執事だといって家に居るが、どうでもいい。

 ブーベルナは、次男を可愛がり長男を虐げる。それに次男も加わる。あの女のせいで仕事が忙しい私は、なかなか長男に関わる暇がない。

 それでも、あいつ等に注意するのだが……聞くわけもなく、口汚い罵倒が飛んでくる。次男など、何様かと思う。

 偶に――大丈夫か? と長男に声を掛けるが、私の前では笑って大丈夫だと答えるばかり……長男が不憫でならない。

 そんな時、私の実家である子爵家に何年か振りで寄ることが出来た。

 酷く痩せて、顔色の悪い私を見て両親は泣いて謝った。

 そして、侯爵家からの援助金は、何年も前から子爵家には入っていないのだと聞かされた。

 そんな馬鹿な……振り込んでいるのは、私だ。三ヶ月毎にちゃんと振り込んでいる。

 そう言うと、振り込まれた日にブーベルナが必ずやって来て、返せと言って奪い取って行くのだと聞かされた。

「……じゃあ……私は……何の為に…………」

 一気に力が抜けた。

 両親は頻りに謝って、離縁したいならもうしてもいいと言ってくれた。

 今日は商会の集金日。今、手元には金貨五十枚程ある。このまま屋敷に戻れば、待ち構えているブーベルナにすべて奪い取られる……馬鹿なくせに金の入る日だけはちゃんと覚えている。

 家に帰る気にもなれず、娼館に向かった。女など暫く抱いたこともない……よくよく、思い出してみれば、ブーベルナしか抱いたことがなかった。しかも、長男を身籠る前の数回だけだ。後は仕事と罵声、時には暴力に耐える日々。

 毎日毎日、来る日も来る日もっ……! それに耐えていたのは、実家の子爵家の為……その契約を反故にされた。

 もう、あの家の為に、あの女の為に、何一つしたくない。商会は私が立ち上げたのだから、私の金だ。何に使っても許されるはずだ。

 適当な娼館に入って娼婦を選ぶ。写し絵の下にある魔石に触れて魔力の相性を見る。

 どの女もピンとこない……女と言うだけでブーベルナが思い出されて……嫌悪感が酷い。

「――女の気分じゃないみたいだ……」

 受付の者にそう言って、店を出た。

 少し歩くと、男娼の娼館があった。

 女が駄目なら……男ならいけるか……?

 男など抱いたことはないけれど……折角だ……試してみよう。

 そう思い、ふらりと店に入る。流行っているのか、人が多い様に思えた。

 受付で男娼を選ぶ。綺麗な男や女のような男、可愛いのや厳ついのまで様々だ。

 だが、どれもピンと来なくて選び倦ねていた。

 ふと、顔を上げると、受付の後ろの壁に貼り出された紙が目に入った。

 愛に飢えているあなた。とことん愛され官能に溺れてみたくはありませんか……? 一夜限りの最愛の恋人をあなたに――先着十名様限り。金貨二十枚で承ります。


 金貨二十枚!? 巫山戯ているのか!?


 娼婦や男娼を買う時の相場は銀貨一枚か二枚だ。なのに、金貨二十枚!? ぼったくりもいいトコだ!

 私は、呆然とその貼り紙を見ていた。

 あからさまな、ぼったくりだと思うものの……貼り紙の文言が私を捉えている。


 愛に飢えているあなた。一夜限りの最愛の恋人をあなたに――


 今の私には、刺さる文言だった……

「――旦那様、気になりますか?」

 いつの間にか、ひょろりとした中年男性が隣に立っていた。身形の良い服を着ているところから……店主だろうか?

「宜しければ、説明だけでも聞かれませんか?」

 そう聞かれ、反射的に頷いていた。

 別室に案内され説明を受ける。

 どうやら、私が抱かれる方らしい。相手は男娼ではないそうだ。店側と何かしらの契約を結び、その代償として客を取るらしい。

 私が難色を示していると、店主が力強く言った。

「満足頂けると、絶対の自信を持っておりますっ!」

 そこまで言い切るのか……

 だが……正直、他の男娼を相手にしたところで私の股間のものが役に立つかどうか……いっそ、抱かれる方が何もしなくて良いし楽かもしれない……それに、ブーベルナに金をやるぐらいならここで投げ捨てたほうがまだいい。


 私は、金貨二十枚を擲って男を買うことにした。




 相手の都合があるから、明日夕刻の六時に来て欲しいと言われ、家に帰りたくなかったので良い宿を取る。家では食べられない、豪華な食事と酒を呑んで寝た。

 目が覚めると昼を過ぎていた。こんなに眠ったのは久しぶりだ……遅い昼食を摂る。

 ふと、長男のことを思い出し罪悪感が湧いた。私だけ逃げ出してしまった……

 ブーベルナと離縁すれば、私は平民になる。長男にも平民になれと言っていいものか。だが、あそこに残して行きたくはない……

 そんなことを思い悩んでいたら、約束の時間が近付いて来た。

 取り敢えず娼館に向かった。




 部屋に付くと、入り口の傍に赤い髪の物凄く端正な顔をした男が膝と手を突いて頭を下げて来た。

 もしかして……この美麗な男に抱かれるのだろうか……?

「お相手がお着きになる迄、お世話をさせて頂きます、赤と申します。こちらにお召し替えをして頂きます」

 渡してきたのは、シルクで出来たゆったりとしたガウンだった。

 赤に手伝われながら着替える。料理や酒も整えてくれた。料金の内らしい。

 カウチの様なベッドの様な広いソファに座って、料理を摘みながら酒を呑んで相手を待った。

 暫くすると、ノックと共に男が入ってきた。

 丈夫そうな茶色のズボンに生成りのシャツ。その上に黒いシルクのガウンを羽織った背の高い男。癖っ毛のボサボサ頭は白銀髪。ぽっちゃりとした顔と身体、半眼の眼。


 ああ……やはり、ぼったくりだったか…………


 分かっていたから悔しくはないが、がっかりはした。

 男は控えていた赤を下がらせると、するりと私の隣に座った。

「魔法契約は、済ませてくれたかな?」

 開口一番にそれを聞いてきた。

「ああ、済ませてある」

「そっか……なら、大丈夫だね」

 男はそう言うと首のペンダントに触れた。

 冴えない男が――恐ろしい程、美麗な男に変わった。

 サラサラの結い上げられた白銀髪。スッと切れた涼やかな眼は蒼みを帯びた透き通るようなシルバー。白銀色の長いまつ毛に、スッと通った鼻筋。薄すぎない仄かに色付いた唇。逞しくて、それでいて靭やかな身体……

「あんな大金を払ったんだ。見た目は良い方が良いだろ?」

 たっぷり――見惚れていた。

 男は、笑って私を抱き寄せた。

「ねぇ、なんて呼ばれたい? 俺のことは、なんて呼びたい?」

「私のことは……アークと。……君は……君のことはシルバーと呼ぶよ」

 男……シルバーは頷いて、更に問い掛けてくる。

「キスはしてもいいの?」

 私は、迷ってから頷いた。そうしたら、二人の身体に浄化魔法が掛けられた。

 そして、流れるように頭を引き寄せられて優しく口付けられる。一気に顔に血が上った。何度も唇をふにふにと合わせられ……顔から火が出そうだった。


「あ、あの……ちょっと待って……その……男は初めてでっ……その……ずっと、こういうことは、してなくて……久しぶりで……」

 私は生娘のようにのぼせ上がって、自分で何を言っているのか、分からなくなって来た。

「そっか……じゃあ……ここ……ちゃんと解さなきゃね……」

 彼は、そう言って……私のガウンの裾から足に手を滑らせ、スルリと下着を抜き取り、私を軽々と彼の脚の上に跨がせるように乗せ、抱き締められて尻の狭間を指で撫で上げられた。

 凄い……早業だった……

「傷付けたくないから……最初から……ここ解すね?」

 優しく頭を撫でられて、ぬるりとした指が一本、何の抵抗もなく後ろの穴に入って来た。

「はっ……!?」

 何が起こっているか分からない私の唇にシルバーは、そっと口付けてから耳元で囁いた。

「大丈夫……スライ厶ジェルだよ……力を抜いて……」

 ヌルヌルと動く指を……無意識に絞め上げていた。言われた通り、息を吐き出すように力を抜く。

「解すのに時間が掛かるから――話しでもしようか?」

「はなし……?」

「こんなに痩せて……顔色も良くない……辛いことがあったんじゃないの……? あんな大金を払っちゃうくらいには……さ」

「っ……」

 私の顔は丁度彼の肩辺り。優しく暖かい手で背中をゆっくり撫でられて力が抜けていく。ヌルヌルと動く指もゆっくりで、あり得ない場所を触られているはずなのに……何だか心地良い。現実じゃないみたいに……ふわふわしてる。


 その内に――ぽつぽつと話していた。


 後ろに入れられた指が増えていることにも気付かずに、溜まった鬱憤を吐き出すように、何もかも洗い浚い喋っていた。

 離縁したいことや長男のことまで、全部。

 長男を平民にしてしまって良いのかどうか、悩んでいることまで……

「ちゃんと話して、長男に選ばせればいい。勝手に決めないで……ちゃんと話して」

 シルバーは、あっさり答えをくれた。

 そして、後ろの穴から指を引き抜かれる。話しに夢中で気にしていなかった……

 浄化魔法が……また、掛けられた。

 シルバーは、私を子どものように抱き上げたまま、ベッドへ移動して私を降ろした。

 覆いかぶさるようにして、私を覗き込み唇に触れるだけのキスをする。何度も何度も……そして……徐々に口付けが深くなっていく。

 嫌悪感は……なかった。もっと、私に触れて欲しい。

 彼の身体が、少し離れるだけで……寂しくなる……


 ――その夜、私は、地獄のような天国に居た。


 優しく、優しく、身体を開かれ、今まで知らなかった快楽を知った。

 ドロドロに甘やかされて……執拗に求められて……何度、自分が達したかわからない……

 気を失っても、何度も優しく揺り起こされて……

 水を……時々、飲ませて貰いながら……続く行為。

 どれほど、哭きながら嬌声を上げたか、わからない……

 後半は……声も出なくて、それでも掠れた声を上げ続けた。

 何度も……何度も……絶頂へ押し上げられる……

 上ったまま、降りることが出来ない……

 何も……考えられない程に高みに追い立てられ……高みの……更に高みへと連れて行かれる……


 もう……やめて欲しい…………けれど…………やめて欲しくなかった…………


 私を見詰める彼の眼が……私に触れる彼の唇が……私に囁く彼の声が……私を撫でる彼の手が……私の体内に埋め込まれる彼の……

 私に与えられる、彼の総ての行為が……


 私を……こんなにも愛してくれているのだと……錯覚させる……


 優しい彼は――きっと……酷い人だ……



 目が覚めたけれど瞼が固くて……重くて……なかなか眼を開けられなかった。

 ああ……散々、哭かされたせいで瞼が腫れ上がっているんだな……あんなに涙を流したのは、子供の時でもなかったように思う。そのせいか、何もかも出し切ったような、すっきりとした気分だった。
 
 身体を起こそうにも上手く動かせない……当たり前か……

 彼は、私が買った時間いっぱいを私を愛することに使ってくれた。

「――目が覚められましたか?」

 声を掛けられ、視線だけを向けると赤が居た。

「お水か、お茶はいかがですか?」

 声にならない掠れた声で、みず……とだけ答える。

 吸口の付いたガラス容器で、ゆっくりと飲ませてくれる。もっと飲むかと聞かれて頷く。満足行くまで飲んで、一息吐いた。

「今日一日、この部屋は旦那様の貸し切りになります。お世話は私がさせて頂きます。……ゆっくりとお休みになって下さい」

 頷く。

「何か、お召し上がりになりますか?」

 首を振った。掠れた空気の様な声で、寝るとだけ伝えて眼を閉じた。

 次に、眼を覚ますと、昼を大分過ぎた頃だった。

 身体は、大分楽にはなったけれど……足腰に力が入らなかった。

「お目覚めですか?……何か飲みますか?」

 頷くと水を差し出された。受け取って飲む。ミントの香りがした。

「……るく……べ……る」

 軽く食べられる物をと言ったつもりが、上手く声が出なかった。

「軽く食べられる物ですね?」

 伝わったようだ。彼は部屋を出て行き、パン粥と酸味の少ない果物と蜂蜜、お茶を持ってきてくれた。

 一通り食べて落ち着く。

「――腰に塗る薬があるのですが、塗りますか?」

 頷いて、ガウンを脱いでうつ伏せになる。

「軽く揉みほぐすことも出来ますが……?」

 それには、首を横に振った。まだ、シルバーの感触を失いたくないから――

 腰に塗られた薬は、じわじわと暖かくなるものだった。

「……さ……ヶ……」

「お酒ですか?……そう言えば、お相手の方がこれを置いて行かれました。大きなジョッキに、これを一つ入れて、キンキンに冷えた水を注ぐそうです。気つけ薬になると」

 良く分からないが彼が置いて行ったものなら、飲みたい。

 頷くと、作ってくれた。シュワシュワと音のする泡の浮いた黒い液体……恐る恐る、飲んでみると喉にビリビリと染みる! 痛いけど……今は、それが気持ちいい。喉には良くない気がしたが、癖になる苦味が気に入り、ついつい飲んでしまった。

 喉は駄目な感じだが気分は、ほんの少し上向いた。

 もう一度、横になると直ぐに眠りに落ちた。

 そして、夜に目が覚めた。そろそろと動けるようになった。控えていた赤に食事と酒を頼んだ。

 食事を終えて、ぼんやりしていると風呂に入るかと聞かれて、入ることにした。薬湯が入った風呂は、身体がほぐれるようで気持ちが良かった。浄化魔法で済ませてばかりだったから、風呂に入るのは何年振りだろう……

 ホカホカになって風呂から上がり、また腰に薬を塗って貰った。何時まで居て良いのか聞くと、明日の朝の十時までは居て良いそうだ。――助かる。

 酒を呑んで穏やかな気持ちで眠りに付いた。



 随分と、すっきりした朝を迎えた。

 今までの自分とは、違う自分のようだった。


 家に戻ったら長男と話そう。あの女と離縁する為の準備をしよう。なるべく早く。

 朝食を摂って、気付け薬だと言う飲み物を作ってもらい、呑んだ。

「帰るよ」

 赤は頷いて着替えを手伝ってくれた。

「……あの、旦那様は、満足ですか……?」

 彼は、おずおずと聞いてきた。

「ああ、大満足だ」

 私は、心から笑うことが出来た。

「……そうですか。――あの、お相手の方がこれを旦那様にと。ここを出たら見るように言付かりました」

 渡されたのは、手紙と掌程の茶色い革で出来た、四角い小銭入れみたいな物。それを懐にしまって店を出た。

 見送りに来た店主に、赤と同じことを聞かれた。



「金貨二十枚の価値はあった。大満足だよ」




 店を出て辻馬車を拾う。馬車の中で手紙を開けると、一枚の転移陣と簡単な手紙が出て来た。


 平民になる決心が付いたなら、息子と一緒においで。住む所と美味しい食事は約束する。

 革のケースには、一週間分の食事が二人前入ってるよ。まだまだ、収納に余裕があるから、必要なものを入れると良い。

 もう、貴方を抱くことはしないけど、それでも良いなら来てね。


 恋人にはならないくせに、傍には置いてくれると云うことだろうか……

「本当に、――酷いね……君は……でも……」


 きっと、それでも……傍に行ってしまう……


 そう、彼は酷くなんかない。私が金貨二十枚で、一晩買った男なんだから。




 家に着くと、ブーベルナがすっ飛んできた。

 何処に行っていた? お金はどうした? 仕事をしろ!

 矢継ぎ早に捲し立てる彼女を無視して、執務室に入って鍵を掛ける。
 
 叩いているのか、蹴っているのか、扉がガンガン鳴る。

 遮音魔法で音を消して、早速仕事に取り掛かる。勿論、離縁に向けての書類作りだ。

 私の立ち上げた商会は私の物だ。平民になったとしても、金は必要だからな。不貞の証拠もたくさんある。離縁できないと諦めていたが……念の為に集めておいて良かった。

 私の実家の援助金の件も契約違反だ。それが、そもそもの婚姻の理由なのだから重大だ。

 破られても良いように、複写も用意する。

 そうだ、先ずは長男と話さなければ。


 長男の部屋に転移すると、息子は勉強をしていた。

「――父上?」

 遮音魔法を掛けて、息子と二人ソファに腰掛ける。

「お前に、聞きたいことがある。――私はブーベルナと離縁する。そうなると、私は平民になる……お前は、どうしたい? このまま、貴族としてここに残るか、私と一緒に平民として生きて行くか……決めて欲しい」

 息子は、眼を見開いて私を見詰めた。

「父上は……私にどうして欲しいですか……? 私が邪魔じゃないですか……?」

 息子は、俯いて唇を噛んだ。

「何故、そうなる? 私は、お前の意見を聞きたいんだ」

 息子は泣きそうな顔で私を見詰める。

 私は、その細い身体を抱き寄せた。息子はピクリと震えて涙を零した。

「父上が迷惑じゃなければ……父上と、一緒に行きたいですっ……」

 息子は、私に縋り付いてわんわん泣いた。

 ずっと……我慢させていたのか……

 シルバーがしてくれたように、息子の頼りない背中をゆっくり撫でる。暫くして、息子が落ち着くと彼の薄い腹が鳴った。

「昼食は、食べたんだよな?」

「その……母上の機嫌が悪くて……夕べから食べてません」

 息子は、恥ずかしそうに答えた。――あの女っ!

「……そうか、私が帰らなかったせいだな……悪かった……」

 そういえば、シルバーがくれた革のケースに食料が入っていると手紙に書いてあった。

 ケースを取り出し指を入れると、中に入っている物の一覧が出た。その中から、なるべく消化に良さそうな物を選ぶ。野菜スープとパン、果物とお茶を取り出す。

「一緒に、食べよう」

 息子は嬉しそうに笑って、美味しい美味しいと食べていた。――本当に美味かった……




 その後は、持って行く荷物をこっそり纏めて置くように言って、執務室に転移で戻り書類作りを進める。商会のものは、総て彼のくれた革のケースに入れた。商会にも連絡を取らなければ……

 こちらの動きに勘づかれても困るので、食事は一緒に摂った。ブーベルナと次男が、喧しかった。無視していたら……料理の乗った皿を投げ始めたので、長男と私に結界を張った。そのまま、知らん顔で食事を進める。益々、怒り狂って、ヒステリックに叫びながら物を壊しまくっていた。


 そんなことを続けながら、五日で準備が整った。


 朝食の席で、あいつ等をとことん怒らせてやろう。



 朝食に向うと、朝からイライラしているブーベルナに笑いそうになりながら必死で堪える。予め、私と長男に結界を張っておく。

「……貴方、一体どう言うつもり? どうしてお金を寄越さないのよっ!」

 いつもなら無視するが、今日は答えてやる。

「お前に金を渡しても、無駄だからだよ」

「なんですってっ……!?」

「父上っ! 酷いですっ! 母上に謝って下さいっ!」

 次男が私を睨みながら怒鳴ってくる。

「お前は、黙っていなさい」

「なっ……!」
 
 次男を睨みつけて、低い声で注意する。

「ちょっとっ! 私にお金を渡すのが無駄って、どういうことよっ!?」

「言葉通りだ。お前に金を渡しても、何ににもならない。似合いもしないドレスを買って、着けもしない宝石を買って、男漁りをするだけだろ? 無駄だ」

「このっ! 私が私のお金を使って何が悪いのよっ!?」

 顔を真っ赤にして怒鳴る、ブーベルナ。

「勘違いするな。お前が私から奪い取っている金は、私が稼いだ金だ。侯爵家の金は、お前の所にあるだろう? それを使えば良い。ああ、でも、良く考えて使えよ? 使うと不味い金もあるからな」


 手遅れだろうがな。


「っ! 巫山戯ないでよっ! 貴方のお金は、私のお金と決まっているでしょっ!?」

「巫山戯ているのは、お前だよ。馬鹿が」

「なんですってっ……!?」

 ブーベルナは、テーブルの上の皿を投げ付けて来た。

 結界に弾かれて割れる。

「貴方なんてっ! 私が結婚してあげなきゃ平民になるしかなかったくせにっ! 誰のお陰で侯爵を名乗れていると思ってるのよっ!?」

 ブーベルナは、魔物みたいな形相で怒りにぶるぶる震えている。

「お前と結婚するぐらいなら、平民で良かったけどな。誰にも相手にして貰えなかったから、金と引き換えに私が結婚させられる破目になったんだ」

「っ……! へぇ~、そうっ! いいわ、そんなに言うなら離縁してあげるわよっ……! 平民になればいいわっ!!」

「……本気か?」

「当たり前よっ! 今更、泣き付いたって遅いわよっ!?」

 良い流れになった。笑うのを堪えて唇を噛む。

「……わかった……じゃあ、これにサインしてくれ……」

 私が、悔しがっていると思っているのだろう。ブーベルナは、勝ち誇った顔でサラサラとサインして行く。

 サインが必要な書類を次々と出して、サインさせた。 

 碌に読みもしないでサインするなんて……本当に馬鹿だな。

 離縁の書類に、長男の侯爵家からの離籍、婚姻契約の反故による賠償金、不貞による慰謝料。――大丈夫か?

 全部にサインを貰うと、破られない内にさっさと仕舞う。懐に入れると見せかけて、革のケースに入れる。

「じゃあ、私達は出ていくよ」

「私達……?」

 ブーベルナが怪訝な顔をする。

「勿論、私の息子は連れて行く」

「ぼ、僕はっ、絶対に行きませんっ!」

 何故か次男が噛み付いてくる。


「ん? 私は、と言ったんだ」


 私の隣に長男が寄って来る。

「なっ……! 僕だって、父上の息子でしょう!?」

 付いて来ないと言ったくせに、何故、怒るのか……

「違うぞ。私の息子は、このカイヒルだけだ」

 そう言って、長男……カイヒルの肩を抱き寄せる。

「なっ、なんで……そんな、酷いことを言うんですかっ……!?」

 次男が泣きそうになっている。

「お前こそ、何を言っている? お前の父親なら、そこに居るだろう? 私は最初から、お前を私の息子だとは認めていないぞ? 何故、父上と呼んで来るのか不思議だったが……もう間違えるなよ?」

 そう言って、仕事の出来ない自称執事を示した。

「「っ……!?」」

 自称執事が息を飲んだ。ブーベルナも。

 次男は、呆然と私を見ていた。

 カイヒルを連れて、さっさと、この場を離れる。後ろで何か喚いていたが知ったことではない。


 次男を侯爵家の跡取りにしようと思ったら、ブーベルナは、あの平民の執事と結婚するしかない。

 プライドの高いブーベルナが、平民と結婚なんて出来るのか? 先代侯爵も黙っていないぞ?

 ――多分、解ってないだろうな。私生児は、貴族の跡取りにはなれないんだよ? 他の貴族の養子にして、更にそれを養子として引き取れば結婚しなくてもいいかもな?

 あいつ等が来ない内に、シルバーから貰った転移陣で転移した。




 何処かの屋敷にある転移部屋だった。転移部屋は、どこの屋敷でも石壁のシンプルな部屋だ。

 正面に飾られている布製の大きな旗。黒地に金糸と銀糸で織り込まれているのは、水と風の女精霊を模したもの。

 この家紋は……確か、キディリガン辺境伯爵家のものじゃなかったか?

 先代の莫大な借金に苦しむ、貧乏貴族。

 だが、その割には領内が荒れているとは聞かない。


 扉が開いて、白髪の美丈夫が入って来た。

「キディリガン家に、何用で?」


 訊かれて、なんと答えればいいか分からなかった。

「えーと……シルバーに転移陣を頂いて……」

 シルバーって……私があの場で付けただけの名前じゃないか。おまけに、私の本名をシルバーは知らない。名乗っても通じる訳がない。どうすれば……

 白髪の美丈夫は、眉を寄せて思案した。

「シルバー……? 転移陣? もしかして、白銀髪の美麗な男?」

 言われて頷いた。白髪の美丈夫は納得した様に頷くと私達を案内してくれた。

 美丈夫に連れられて来た部屋には美麗な集団がいて、朝食を摂っていた。


 しまった……こんな時間に訪ねるなんて非常識過ぎるっ……! 今更、遅いが……


「ハーシャ様のお客人ですよね?」

 白髪の美丈夫の視線の先には、シルバーがいた。

「ああ、来たんだね」

「ハーシャ……? まさか……拾って来たの……?」

 私達の方を見て微笑む彼に、隣りに居た白金髪の……これまた、恐ろしく美麗な男がシルバーを見て何か言いたげだ。

 シルバーがその男の耳元に何事か囁くと、白金髪の男は溜息を吐いた。金と銀で、対の様な二人。……何とも、麗しい世界だった。

 長男を見れば、すっかり萎縮している。


 大丈夫だ。――お前だって可愛いぞ。


「この様な姿で失礼します。貴方様はアスローク・ヌーケハマー侯爵様ですよね? こうして、お話するのは初めてですが……私はミーメナ・キディリガン。隣は私の夫、カドリス・キディリガンです」

 いつの間にか傍に来ていた男女は、間違いなくキディリガン夫妻だ。舞踏会で、何度か見かけたことがある。

 確か……私とそう歳は変わらなかったはずだ。懐妊しているようだが。

「はい。この様な時間に突然訪問したこと、深くお詫び申し上げます……改めまして、私はアスローク。元ヌーケハマー侯爵です。隣に居るのは、息子のカイヒル。ブーベルナ・ヌーケハマーとは、本日を持って離縁いたしました。ですので、唯の平民です。――実は、そちらにいらっしゃるシルバー……彼の、ご厚意に甘え……頼って参りました」

 取り敢えず、貴族の礼を執る。息子のカイヒルもそれに倣う。

「まあ、それは……きっと深いご事情がお有りなのでしょうね……ハーシャ、説明してくれるわよね……?」

 ミーメナ辺境伯がシルバーに圧の籠もった視線を送っている……私達は来てよかったのか……?

「はい、母上」

 ……母上……? 私は三十三歳だ……辺境伯もそれぐらいのはず……彼女が生んだ訳じゃないよな? シルバーは二十歳前後に見える。養子……?

「改めまして、私はハニエル・アシャレント・キディリガン。ハーシャと呼んで下さい。隣は兄のシュザーク・キディリガン。アスローク様の事情をお聞きしたところ、何やら非常に辛い立場にいらしたようで……平民になるかもとお聞きして、ならばその時は我が家にいらして下さいとお誘いしました」

「どうして、我が家に……?」

「アスローク様は、ヌーケハマー侯爵家を取り仕切っていらっしゃったお方です。唯の平民になるなど、勿体ないではありませんか。我が家に来て頂ければ、きっと母上の力になります」

 シルバー……ハーシャは、にこやかに言い放ち、辺境伯の耳元で短く何かを囁いた。辺境伯はハーシャを驚いた顔で暫く凝視した後、深く溜息を吐いた。

 ハーシャは、まるで私がヌーケハマー侯爵だと分かっていたような口振りだ……

「……事情は、分かりました。アスローク様さえ宜しければ、私の領地経営にお力をお貸し下さい」

 辺境伯は、美しい顔で微笑んだ。

 私と息子は、感謝の言葉を述べて深く頭を下げた。

「――朝食は、お済みかしら? よかったら、ご一緒にいかが?」

 そういえば、ブーベルナと言い合っていて朝食を摂っていなかった。有り難く頂戴することにした。

 朝食の席で色々と教えて貰った。

 ここにいる皆は、貴族然としていたが平民で使用人なのだとか。使用人でもキディリガン家の一員で、家族同然だと聞かされた。

「カイヒルは、いくつなの? 王太子のお茶会に居たよね?」

 ハーシャがカイヒルに尋ねる。息子は頬を染めながら十四歳だと答えた。


「へぇ~、俺の一つ上かぁ」


 ――――は?


 息子と私が固まる。


「身体は大きいけれど、ハーシャは十三歳、シュザークは十五歳よ」

 辺境伯が、苦笑して私達を見てくる。


 は? ……十三歳?……は?……十三歳の子供に……あんなに……ドロドロに愛されたのか……? あんな……閨事の技法を……私より、二十も年下の彼が……?



 ――――嘘だろ……



 私は、そのまま気を失ってしまった……



 目覚めた時、あまりの衝撃に彼への執着にも似た恋心は、跡形もなく消し飛んでいた。



 きっと、これで良かったのだろう。



 ――――心身共に、疲れていたんだ…………



 









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