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『勤勉』

土砂降りランナウェイ

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 ひどい雨だ。
 雨樋がけいれんを起こしながら水を吐き出し、それを受け止める側溝は溢れ、北からの強い風に流されて、雨足が何度も目の前を駆け抜けている。
 そんな中、傘もささずに、ミコは、つららとラブははしゃぎ回っていた。
 ミコの楽しそうな笑い声がよく響いている。

 俺は喉まで出かかった「ミコ」を飲み込んで、ネズミ色の空を見上げた。
 一緒に屋根も視界に入った。部室棟の玄関前にある小さな屋根だ。白いペンキがむらななく塗られている。横殴りの雨はその屋根を避けて、俺の右肩を濡らす。

「うわ、やばっ」

 亀戸鈴が一歩外に出るや、それだけ言って再び室内に引っ込み、鞄の中から取り出した数冊のノートと紙束をビニール袋に詰め込み始めた。
 真面目だな、と感心した。そういえば、亀戸鈴は宿題こそやって来ないが、授業は真面目に聞いている数少ない生徒だったこと思い出した。成績も上位クラスと引けを取っていなかったはずだ。

 そんなことを考えている間にも、俺の右肩はどんどんぬれていた。これでは屋根の下にいる意味がない。せっかく午前中をかけて乾かした俺のカッターシャツがこれ以上濡れてしまう前に傘をさすことにした。

 この傘は柄のところにスイッチがある。これを押すと、なんと自動で開き、さらにもう一回押すと自動で閉じるという、ちょっとお高い傘なのだ。貴四の家の玄関でたまたま拾ったやつだ。
 
 俺は傘を身体の正面に構え、スイッチに親指をかけた。その時、ミコが走ってきた。つららとラブも後ろに続いている。

「ミコも!」
 
 ミコが、勢いよく飛びついて傘を握り、俺の親指の上にミコの指が重なった。刻々と俺のカッターシャツが湿気を帯びてひんやり冷たくなっていくのを感じると同時に、一人からの突き刺さるような視線も感じた。たぶん、つららの視線だ思う。

 そんなことなどお構いなしにミコは「せーので押すよっ、いい? にぃに、せーのねっ!」とキラキラした目を俺に向けた。

「わかった、わかった」
「じゃいくよ、せーのっ」

 俺とミコはボタンを押した。バッと音を立てて傘が開き、突風が吹き抜けた。
 俺の目の前には裏返しになった傘が。
 スーッと、血の気が引いていく。

 大丈夫だ。貴四は傘の一本程度で怒ったりはしない、と心の中でもう一人の俺が俺に言い聞かせてくれた。俺もそうだと思う。貴四とは、同じ屋根の下で寝食を共にして一月ほど経ったと思うが、そんな小さい大人ではない。
 でも勝手に持ってきてるよね、と別の俺が俺に意見した。

 どうする? 直るのか、これは。何か裏返ったにしては、全体的に左に流れている気がする。風に凪ぐ萎れたチューップみたいな、いや、これから咲く蕾のようだった。
 
「にぃに……」

 ミコが両手で口を押さえて、ふるふると首を振った。毛先に溜まった雫が散る。
 ミコの後ろでは同じよう口を押さえるつららとラブも同様に首を振って雫を散らしていた。
 随分と仲良くなったな、と思った。

「随分と仲良くなったな」

 思わず、心の声が口を衝いて出てしまった。
 ミコ、つらら、ラブの三人はお互いを見合って、頬笑み合う。
 一番嬉しそうなつららは、ちらちらとミコに熱い視線を送りながら、長い髪を絞っている。その様子をラブは無表情でじっと見つめていた。切りっぱなしのボブだった髪型は濡れて潰れ、雫がポタポタと肩に落ちている。まるで、つららに取り憑いた幽霊のようだった。

「どうすんの、にぃに?」

 ミコが言った。現実に引き戻された俺は再び、傘を見る。どうすると言われても直すしかない。
 傘を回す。骨は折れていない、と思う。
 俺は露先と呼ばれる、傘の骨の出っ張った部分を摘まんで、一本一本、蕾をめくるように優しく修理を始めた。
 最初こそ、興味深げに覗き込んでいたミコだったが、すっかり飽きて、もう一回押して見たら直るんじゃない? とスイッチを押して傘を閉じようと柄に手を伸ばす。俺はその手を叩き、ミコをつららに押し付けた。

 俺が黙々と傘を修理していると、背後から「出来た!」と亀戸鈴の声がした。振り返って見てみれば、亀戸鈴は体操服とジャージを胸に抱いている。

「何ですか、それ?」

 つららが聞くと、亀戸鈴はフフンとそれを掲げ「学生鞄よ」と答えた。
 つららの質問はまだ続き、入っているものを聞く。亀戸鈴はネタ帳と原稿と答えた。

 そんなやり取りを聞きながら俺は傘の修理を完了した。曲がった骨を逆方向に曲げ直して修理した傘は、多少の歪みに目をつむれば、まだぜんぜん使える。スイッチを押して傘を閉じたり開いたりして、ちゃんと動くかをチェックしてみると異音が混じっていたが、問題なく動いてくれた。
 
 危機は脱した。さて帰ろうか、と示し合わせたようにそれぞれの荷物を持った。

「お前ら、放送聞こえなかったのかあ!?」

 体育館から怒声が鳴り響いた。
 
「うげ、桑崎だ」

 亀戸鈴が苦い顔をする。
 桑崎と呼ばれた人間は俺の記憶になかった。確認知るようにミコに視線を向けると、ミコは首を振って返した。
 俺とミコは貴四にお願いして、薩摩学園に入学する前に幸神会のメンバーの顔写真や名前、学校での役回りなどの情報に目を通していた。
 どちらも聞き覚えがないということは、桑崎はただの一般人。

「亀戸鈴、桑崎って誰だ?」
「え? 体育の先生じゃん。今日の体育の時間に会ったでしょ?」
「体育は三限だったから、会ってねえな」
「じゃあ、今までの体育のときに会ったでしょ」
「……ああ、あれか」

 桑崎は、真四角の顔が特徴的でいつもジャージ姿の暑苦しい男性教師だ。また、突発性の難聴を持っており、体育では毎回開始の挨拶をするのだが、必ず「聞こえない」と訴え、数回に渡って挨拶を強要する人間だった。

 俺たちはすぐに放送の指示の通り、退散しようとしたが、桑崎は「待て!」とそれを妨害した。
 嵐の中を貫通してくる桑崎の声の大きさに俺は足を止め、感嘆の声が漏れた。

「声デカいな」

 体育館は薩摩学園高等部の北端にあり、俺たちのいる部室棟は東側、直線距離にして少なくとも100メートルは離れているはずだ。しかも悪天候というコンディションの中で声を届ける桑崎の肺活量はすごい。

「にぃに、はよ! 逃げるよ!」

 ミコの切羽詰まった声、ついで先頭にいる鈴が振り返った。

「奥君、何してんの! 早く逃げないと!」

 亀戸鈴は東門に向かって走り出す。俺たちもそれに続く。
 東門は部室棟の玄関の裏にある。そのため俺たちは一度、体育館側に走らなければならない。幸い玄関は建物の端にあり、角を曲がればすぐに東門が目に飛び込んだ。しかし。

「閉まってますけど!?」

 つららが叫んだ。

「ここはいつも閉まってるから!」

 亀戸鈴が閉鎖されている門に足をかけた。乗り越えるつもりのようだ。しかし、亀戸鈴はジャージに包まれた鞄を抱えている。片手で乗り越えるのは難しいと思えた。

「鍵は!?」つららが叫べば、「鍵かかってる!」とラブが門に絡み付くチェーンを引っ張ってそこに繋がれている南京錠を見せた。
 
「待て、コラァァ!」

 体育館からカッパを着た桑崎が怒号をあげながら全力疾走でこちらに向かってきていた。さすが、体育教師というだけあって速い。俺たちがもたつく間にも、たった100メートルの距離を猛烈な勢いで食いつぶしている。

 このままでは数秒後には桑崎に捕まってしまう。
 俺は舌打ちして、桑崎を振り返った。
 雨がひどく、視界が悪い。だからまだ、桑崎の顔をはっきりと判別するのは難しかった。

「ミコ!」
「う!」

 俺はミコを呼んで顎で門の先をさした。ミコはそれだけで俺の考えを察し、門を軽々飛び越えた。

「亀戸鈴! その鞄ちゃんと抱えとけよ」
「え? きゃあ!?」

 俺は亀戸鈴を抱え上げて、門の向こうのミコに渡す。

「次!」

 振り返ると、すでにつららが待っていた。切羽詰まった状況に反して、目が輝いていて鼻息が荒い。

「さ、早く!」

 期待感いっぱいに両腕を広げたつららを持ち上げてミコに渡した。
 つららの口から「ほああ~~~!」という聞いたこともないような嬌声が上がる。
 その声を切り離すように振り返れると、もう誰もいなかった。

「つらら、逃げるよ」
「ああ、もうちょっと……」

 という会話を門の向こうから聞こえた。ラブは自分で門を乗り越えたようだった。

「にぃに!」
「あ、ああ」

 俺は部室棟を見上げた。三階の窓には確かに雨が当たっているように見えた。

「逃げるな、お前らあ!」
「にぃに!」
「奥君!?」
 
 俺は後ろ髪を引かれる思いのまま、門を飛び越えて逃げた。桑崎の悔しさの滲んだ怒声だけが俺たちの背中を追いかけた。
 走って、走って、東門が見えなくなって桑崎の声が届かなくなって、ようやく足を止めた。
 全員の顔が綻んでいる。俺も自然と頬が緩んだ。
 
「ブラボーだ、ミコ」
「にぃにも、ブラボー」

 隣にいるミコの頭に手を伸ばし、額に張り付いたミコの前髪をかきあげた。そこに、ジャージで包んだ鞄を両手に抱えている亀戸鈴がやってきて礼を言った。

「ありがとね」
「ああ」
「急に持ち上げられてビックリしたけど」
「ああ、悪い」
「ま、おかげで桑崎に捕まらなくてセーフだったし良しとするよ」
「……助かる」

 それで会話が途切れた。自分のターンで会話のラリーが途切れてしまって、なんとなく申し訳ないような気まずいような。
 俺は後頭部を軽くかきながら後ろを振り返ったが、特に意味があった訳ではないので、すぐに向き直った。
 亀戸鈴はまだ俺の前にいて、ミコがつららとラブと、三人で笑い合っているのを見つめていた。

「力あるよね、ミコちゃん」
「そう……だな」

 ミコのような小さい女の子が人一人抱えるのは不自然だったか、今更ながらに気が付いた。学校生活を穏便に過ごすなら、大人しく桑崎に捕まって説教を喰らっておくべきだった。
 けれどそんなこと、本当は、亀戸鈴を抱きかかえたときに気が付いていた。だから俺は亀戸鈴を投げずに、ミコに渡すという方法をとった。
 違うな、違う。
 俺はあの雰囲気に飲まれてしまっていたのだ。逃げなくては、と反射的に思ってしまった。
 俺は一人、悔いていると、前から車のクラクションが鳴った。

「車来ましたー」

 つららが路肩に寄りながら言った。
 車がゆっくり通り過ぎていく。心底不思議そうな運転手と目が合った。
 何でそんな目で見られるのか考えて、そういえば傘をさしていなかったことに気が付いた。

 修理した傘のスイッチに指をかけたとき、ミコの方を見た。ミコはすでにつららの傘に入っていた。
 俺はそれを確認してスイッチを押した。
 バッと勢い良く傘が開いた。綺麗なドーム型ではなく、片側が極端に曲がっているが、雨漏れはない。

「入れて」

 亀戸鈴が胸に抱えた鞄を見せながら言った。

「ああ」

 ミコ以外に誰かが隣にいるのはなんだか不思議な感じがした。
 とりあえず、傘はちゃんと修理するか、新しいものに変えようと心に決めた。
 肩が濡れるのはぜんぜんいいのだが、歩くたびに傘の露先が耳に当たって気持ち悪いかったのだ。
 
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