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『節制』
渡る世間は化け物ばかり
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宝山ホールに一番ホテルにて。
「今から飲みに行ってくる」
ずっとにらめっこしていたスマホから顔を上げたかと思ったらジジイがそんなことを抜かした。
時刻は十一時五十分。遅すぎるだろ。一体どこで酒を飲むというのか。
俺はベッドに変身するソファーで、ミコと一緒になって遊んでいた手を止めて、感じた疑問をそのままぶつけた。
返ってきた返事はお前達も来い、だった。
「先生が若者の意見も取り入れたいから来て欲しいそうだ。来るだろ? 食べ放題飲み放題だぞ」
最後の条件にミコが耳聡く反応した。
チラチラと俺の顔色を窺うその表情には「もちろん行くに決まってるよね?」と書かれている。
ミコには悪いが、俺は首を横に振った。その呼び出しは明らかに不自然だ。
「何でだ? もう眠いのか? さっきまで遊んでいたのに? 先生が来いって行ってるんだぞ? 何か有り難い話が聞けるかもしれないんだぞ? もしかしたらお前達の抱える問題を解決してくれるかもしれないんだぞ?」
あるで人が変わったように、目をかっ開いて詰め寄って来る。
同じだ。前住んでたボロアパート近くに、よくこんな風に金をせがんで来るおやじがたくさんいた。そいつらは決まって目が落ち窪み頬が痩けていた。
そんな人生捨てた人間と同じように、ジジイの目の周りに影が落ち、頬が黒ずんだ。
いや、化粧全体が滲んでいるんだ。
外国人ぽかたった顔の起伏が平坦になる。骨格そのものが変化を始めた。
それを見てようやく、ジジイの使っている化粧品はただの化粧品じゃないと思い始めた。
「ジジイ、どんな化粧品使ってるんだ? 一度見せてくれ」
「使い切って今はないが、行けば見せることは出来るぞ」
そういってジジイがスマホの画面を俺に見せた。
そこに映った白い吹き出しには「輸入に成功。一人一本の羽根を用意しています」と。
「……飲みに行くんじゃないのか?」
「行くさ。ただ俺達はお冷やと突き出ししか口にしないがな」
明らかに罠。この画面の向こうに幸神会の影が透けて見える。
明け透けだ。明け透けだが、クソ。
このジジイを助けたいと思ってしまった。
「うどんとハンバーグ、その他もろもろの恩を今から返しに行く」
「……う」
ミコも神妙に頷いた。
「おお! ありがとう!」
俺はジジイがこんなに気色悪い笑い方をするんだと今更ながらに知った。
俺達は例の軽トラに乗り込んだ。
ハンドルを握るジジイの表情は薬を貰えると知った薬中患者のソレ。
額が痒い。
幸神会のやり方と、それに気付かずにまんまと網にかかった自分に対する怒りがこみ上げ、額に二つ、瘤起する。
ミコは心配そうにジジイを見ながらも戦う覚悟を決めている。
フロントガラスに三者三様の表情が反射していた。
キーを回すと、車内に深夜ラジオのおどけたトークが流れた。
軽トラがパーキングを出て車道に入った瞬間に、ジジイはアクセルと一気に踏んだ。
エンジンの爆音からの急加速。信号が黄色に変わってもスピードは上がり続ける。
「ジジイ! 信号! 赤だぞ、オイ!」
ジジイは血走った目を前一直線に固定したまま、止まらない。
そのとき、ラジオから時報が鳴った。
『二月十八日、0時です』
「にぃに! ジジイが!」
「オ……ゴオ……ア、アア……」
ジジイが白目を向き、泡を拭き始めた。ボキボキと謎の音がジジイの体の中から漏れる。
「ジジイ、止まれ! ブレーキ踏め!」
信号はとっくに赤。繁華街前の交差点、たとえ日付が変わっても交通量は変わらない。ビュンビュンと車が行き交っている。
その向こうには天井まで届く大きな壁が目に入る。天文館を封鎖する鉄扉。
俺はジジイからハンドルを奪おうとした。
「何だこれ……」
植物の根がハンドルに絡み付いている。それはジジイの腕から伸びていた。
力任せに回してみるがびくともしない。ガチガチに固定されている。
エンジンが悲鳴を上げ、車はさらに加速した。
ブレーキを踏もうと、ジジイの体を押しやるがこちらもびくとも動かない。
ジジイの腰から下が既に植物と化し、根が隙間なくペダルのあった空間を埋めている。
「にぃに、サイドブレーキ!」
言うが早いか、ミコはサイドブレーキをいっぱいに引いた。
ガガガガッと金属同士がぶつかり合う、激しい音が鳴り響く。
しかし、軽トラは止まらない。壁が迫る。
「ジジイ!! しっかりしろよ! オイ、ジジイ!」
耳元で叫んだが、俺の心には諦念が広がっていた。もうコイツはダメだ、と。
跳ね上がるほどの金属音、サイドブレーキが損壊。車は元のスピードに戻る。
ジジイを見捨てて脱出する、決断は早かった。
「ミコ! 脱——」
「にぃに、扉が開いてる!」
天文館を封鎖していたはずの鉄扉にちょうど車一台分の隙間が出来ていた。
車はその隙間に向かってさらに加速。
「ミコぉ、どけッ、脱出する!」
「う!」
ミコが退き、俺が足を上げたとき、ジジイの体から伸びた無数の枝が俺達を飲み込んだ。俺とミコは苦しい姿勢のまま、蹴破るはずの車窓に押し付けられる。
車は鉄扉を抜け減速。天文館通の中程で停車した。
枝は今も伸び続け、ガラスを割り、車のドアを内側から壊した。結果的に俺とミコは車外に出ることができた。
ミコも俺も運転席の木を呆然と見つめる。
いや、まだ、終わってない。
そう切り替えられたのは、ミコが視界に入った時だった。
まだ、始まってない。
俺達はここに連れて来られたんだ、人っ子一人おらず、シャッター街と化した天文館に。
真っ暗な繁華街は得も言えぬ不気味さに包まれていた。
普段は多くの人が行き交っていたはずの道には、この軽トラが一台ポツンとおかれているのみ。ヘッドライドの光が反対側の鉄扉を照らしている。
目に見える範囲に人はいない、その筈なのに、たくさんの人の気配はヒシヒシと感じた。
間違いなく、ここの建物の中から俺達は見られている。攻撃される前にとっととここから逃げるべきだ。そう思って振り返ったとき、開いていたはずの鉄扉がしまっていた。
「はぁ~~い、奥播磨ぁ。三つの柱は健在かい?」
格ゲーの世界から出てきたような筋骨隆々な体を花柄のワンピースで包み、さらに軍服のようなジャケットを着込んだ女がどこからか姿を現した。
女は仏のような微笑を浮かべ、タトゥーだらけの三本指を突き立てた。
「誰だ、あんた?」
俺は当然の疑問を打つけた。
女の小指に引っ掛かった拳銃、敵であるのことは確かだ。
俺は立ち位置をずらし、ミコを女の視線から切る。
女は銃口で下唇を押し上げながら唸り、名乗った。
「ん~~……キッド」
仏のような笑みが爬虫類的なそれに一変した。
「今までありがとう」
突然、キッドと名乗った女は腰を直角に折った。
突然の感謝の言葉と深いお辞儀に俺の思考は一瞬フリーズした。
しかし、キッドが顔だけ上げ、奴と目が合った瞬間、俺は明確に死を意識させられた。
「ミコ!」
「う!」
戦うとか絶対に無理だ。確実に殺される。逃げるしかない。
「跳躍型節足キリギリス!」
「いッ~~アァッ!」
額から伸びるキリギリスの脚。額から流れた血が瞼にかかり頬へ流れる。
ミコの頬が頭蓋から剥がれアリの大顎に変化し、複眼の目尻から血が伝う。
キッドが俺達の後ろへ銃口を向けた。
「私が播磨を殺すまで、お前はミコちゃんのお相手になれ。勝とうとするな、死ぬぞ」
「はいッ、頑張ります……」
俺とミコの後ろで鉄扉を守るように剣を構える変態がいた。
おかしなフルフェイスのヘルメットを着用し、全身タイツに身を包んだ男、これを変態と言わずして何と言おう。
こんな見るからにヤベー奴に気づけないほど、俺はキッドを恐れていたんだ。
キッドは俺を殺すと簡単に言ったが、多分本当にそうなんだろう。だが、それは俺がまともにやり合ったときの話だ。
俺がとる行動は逃げの一手のみ。
幸い天文館の天井は白っぽい半透明の強化ガラスもしくはプラスチックだ。シンキ化した俺ならあんなもん障子紙と同じ。ここからの脱出は簡単だ。
「ミコ、乗れ!」「う!」
ミコが俺の背に負ぶさる。同時に轟く六発の銃声。
発砲のタイミングと狙いを一発ずつ微妙にずらした弾丸を俺は節足を持って全て弾いた。
「はぁ~~い、播磨ぁあ!」
いや、弾かされたんだ。
キッドの拳が顔面にめり込んだ時、俺は理解した。
キッドの人間らしからぬ重い拳が振り抜かれ、俺の体は大きく仰け反った。
「にぃに!」
ミコの声に続いて敵の声。
「瀧ぃ!」
「うおおおおお!」
全身タイツが青い電流ほとばしる剣を振り下ろした。
「ングググッ!」
ミコのうめき声、反射的にキリギリスの爪が地面を噛んだ。節足は態勢を無視してミコのもとまで跳ぼうとバネを軋ませる。
「つれないじゃん? 播磨ぁ」
キッドはそれを分かっていたかのように、節足を脚払い。俺は無様に地に腹をつけさせられた。
起き上がった時には既に俺とミコの間に敵が二人立ちはだかっていた。
「……クソが」
「いぃ~~ひひひひ……」
「……ミコに刃物は効かないよ。外骨格だから」
「このパイルバンカーならどうかな……?」
俺とキッドが、ミコと全身タイツが向き合った。
どうするどうするどうする!?
キッドに勝つ、無理、可能性はゼロ。キッドを出し抜き、全身タイツを不意打ちで倒してミコを回収し逃げる、かなり難しい。キッドも全身タイツも出し抜いて逃げる、むずい。
俺がキッドに勝っているものは跳躍力だけだ。これは誰にも負けねぇ。
それも活かして出来ることを……!
先に、天井を壊して、退路を確保しておく。先ずはそれから。
そう決めて、節足を畳んだとき、キッドが耳を塞いだ。
爆発。
業火が天文館内の全てのシャッターを吹き飛ばし、地鳴りのような爆発音と熱波が衝撃となって俺の体を挟撃する。道を挟む壁という壁が火を纏った。
キッドの口端が耳まで届くほど不気味にしなる。手から握りつぶされた起爆スイッチが落ちた。
「やれ」
今爆破された建物の中、目から角を生やした元人間達が轟々と燃えさかる炎を切り裂き現れる。記憶に新しいワーウルフのシト達だ。
火だるまのシト達が俺目がけて雪崩れ込む。その中には更生施設で同じだった同年代の不良少年の姿と、俺達を施設まで送り届けた岩井の姿。
四方を囲まれ、逃げ道は一つ。
角を突き出し突撃するシトの雪崩をキリギリスの跳躍で回避した。
上空から見下ろした光景はまるで岸壁打ちつけられた白波そっくりで、人波の先頭を走っていたシトの体は後続のシトの角に貫かれ圧し潰され無惨に壊された。
「あぁーはぁぁ~~~~。やっぱそっち逃げるよねぇ」
キッドは装填を済ませ、気持ちよくなった顔のまま俺を目で追う。
あの女はどんな人間よりも逝かれてる。
俺は天井に爪を引っかけ張り付いた。これで脱出経路確保だ。
天井のガラスに達成感が滲んだ自分の顔が反射した。同時にミコのもとに向かうキッドの姿。キッドは一度、俺を見上げ不気味に舌なめずりを見せつけた。
「キィーーッドーーーーォオ!」
脱出のことは頭から消えた。
全力の飛び蹴り。レーザーのように一直線にキッドを強襲する。
「へぇ~~い、播磨ぁ!」
対するキッドは満面の笑みで迎え撃つ。もともと俺を釣る演技だったのだろうが知ったことではない。
蹴りが確かにキッドの腹を捉えた、はず。
「ンギュひひッ!」
キッドの光悦にゆるむ口から苦悶と愉悦を漏らし、かっ開かれた目をグンと近づける。
腹に沈む自前の足に鋭い痛みが突き抜ける。ナイフが深々と刺さっていた。
キッドが銃口を俺の額に押し付ける。
ダンダンダンダンダンダンッ!
額の肉がはげ上がり、節足の付け根が露になる。
脳は激しく振動し無音になった世界が幾度と点滅を繰り返す。
途切れかけの意識で足を引いた。幸い脳機能が麻痺しているおかげで突き刺された痛みは感じない。
「ま~だ、私のターンッ!」
ナイフを握るタトゥーだらけのキッドの手から蔦が伸び俺の足に絡み付いた。
「アッッヒャーーー!」
ぶん回す。地面から電柱、キッドが目についたもの全てに打ちつけられた。
俺は節足で頭を囲み耐える。ミコと同じ外骨格の節足がガリガリ削られる。
ヤバいヤバいヤバい! どうにかしてキッドの手から逃れなければ。
キッドは俺の体を燃えさかる壁に向けて振りかぶった。
一か八か。節足を畳み、バネに力を蓄える。
炎の壁が迫る。
節足の爪先が炎に触れた瞬間、バネを弾く。節足が壁を蹴り、後頭部がキッドの鼻頭を強打した。
キッドがたたらを踏む。
キッドの踏ん張りが効かない今、思い切り掴まれた足を引き戻す。キッドは前につんのめった。
「はーい、キッドぉ!」
掴まれてない足でキッドの顎を蹴り上げ、節足で頭を引っ掴み頭突き、さらにそのまま地面に向けてキッドの頭を蹴り付けた。
ゴッと言う鈍い音を立て、鼻血にまみれたキッドが大の字に倒れた。
「……エヘ、なんてね」
キッドは舌を出して靴に仕込んでいたナイフで斬り掛かる。ナイフの切っ先が俺の下瞼をかすめた。
俺は節足で上空に一時避難し、距離をとった。掴まれていた足からドクドクと血が流れる。
キッドは枕代わりにした蔦を先程のタトゥーに戻しつつ「焦った焦った」と起き上がる。
本当に勝てる気がしない。逃げの一手に再シフト。
長めに息を吐いた。
ミコだけはなんとしても逃がす。
「あ~うん。やっぱ上に逃げられるのは面倒くさいなぁ」
キッドがボリボリとそのワカメみたいな頭を掻いた。
「……よし、いっちょ実験しますか」
キッドは軍服のポケットから銀の笛を取り出し咥えた。
ピュロロロロロロロロォーー……。
森林で聞く野鳥の鳴き声のような場違いすぎる優しい音色が戦場にこだました。
シトがその音色に反応した。
シトは直立不動のまま痙攣を始め、ブブブブと徐々に激しさをます。そしてそこかしこで何かを破る音がする、バリ……バリ……と。
シトの角が縦に割れた。中からストロー状の口吻を持った頭部が出てきた。
角もとい蛹の割れ目はさらに裂け、全面真っ青の羽根を持った蝶が羽化。
蝶はシトの頭部にしがみつき羽根を乾かす。パタパタと羽根を動かし始めた蝶たち、しかし一匹たりとも飛ばない。
「あやぁ?」
キッドは首を傾げたが、俺には関係ないことだ。奴の注意が俺から逸れた。
千載一遇のチャンスが巡ってきた。
俺が全身タイツと対峙しているミコを拾いに向かおうとした時、蝶達がシトの脳天に口吻を突き刺した。
蝶の口吻が脳漿ごとシトの血液を吸い上げる。
まるで鼻水を啜ったような耳を塞ぎたくなる不快音の大合奏。
蝶の翅に深紅の模様が浮かび上がる。
「ハッハッハ! スゲーだろ? 幸神会自信作のウルトラバタフラーイッ」
蝶達は死体の山を築き上げ、飛び立った。
天井からの脱出経路が潰された。
「これで、やすやすとジャンプは出来なくなりましたぁ」
キッドはだらりと腕を垂らす。手にびっしりあったはずのタトゥーはインクに戻り指先に雫となって溜まっていた。
小指に引っ掛けた拳銃のマガジンがカチンと落ちた。
「播磨ぁあ!」
「うらああああ!」
もうやるしかねえ!
やけくそ気味に節足で地面を蹴り、ドロップキックを打ち上げる。キッドのタトゥーが鎌に形を変えた。
「ポーー! アメージング!」
防御をかなぐり捨てた俺の胸に鎌が振り下ろされる絶望的な視界。そこに小さな影が飛び込んだ。
「お待たせ、にぃに!」
キッドの横っ面をミコのドロップキックがジャストミート!
キッドの巨体が火の海に飲み込まれた。
「ミコぉ!」「う!」
抱きしめてやりたい気持ちをぐっと堪え、ミコを背中に乗せる。
ミコの不意打ちは綺麗に入ったが、あれでキッドがやられるはずがない。
気持ち悪い笑い方と一緒に襲ってくる前にここから逃げることが先決だ。
「つっっっかえねぇぇぇええええええなぁぁああああああああ!!」
炎の中から腹に振動が来るほどの化け物じみた咆哮が上がった。
「まぁ~~てぇ~~よぉ……」
ヤバい! 来る急げ!
扉まで一気に跳ぶ。そんでその勢いのまま扉壊して脱走。これしかないんだ、気張れよ俺!
節足を畳む……キリギリスの足に備わっている留め金構造で間接を固定。バネを全力で引き絞る。百数メートルの距離を食いつぶす。ロケットのように射出して鉄扉をぶち破る。一秒にも満たない溜め、放つ。
バチィンッ!
……ドッ!!
「ヘェェェーーーーーーーェイッ!」
「来た来た来た来た来たッ! にぃに! アイツ飛んで来てるッ!」
「ミコ! 音!」
「あ、う!」
ミコが大顎を合わせ、指パッチンと同じ要領で音をならした。
ミコが鳴らす音は衝撃波となって縦横斜め三六〇度球状に放たれる。
これはキッドを退かせるためでもあり、同時に俺達の推進力になる。
バチィン………バチィン……バチィン…バチンバチンバチンバチンッ!
ミコの顎鳴りの音の間隔が狭くなる。それでキッドとの距離感が手に取るように分かった。
そして、遂に俺は大きな影に飲まれる。
「播磨ぁぁあああ!!」
俺の顔くらいある大きな平手が振り下ろされた。
パチィン!!
キッドのスパイクが俺の肩をかすめた。俺の体が空中で横にスライドしたんだ。
背負ったミコが俺の胴に足を回し、両腕をスライドさせた逆方向に伸ばして、指パッチンした親指と中指をクロスさせていた。
「二体一、絶対逃げるよにぃに!」
「おう、俺達なら余裕だ」
励まし合う俺達にキッドは歯を見せて笑った。
「希望を見いだしたか」
同時に着地。
キッドの左手に、さっきまでなかったはずの金の指輪が嵌まっていた。
「最期にいい顔できたね。奥播磨ぁ」
さらにキッドは懐から黄金色の液体が入ったチューブを取り出し一気に煽った。
液体を飲み干したキッドの筋肉が一回り大きくなる。キッドはいよいよ花柄が似合わなくなった。
キッドが腰を落とし、膝を曲げた前傾姿勢、左手の中指を俺に向けると太腿が土管のように膨張した。
地面のアスファルトを抉るキッドの跳躍、およそ人間のなし得る音でないドッという爆音と共に急接近。
俺達の跳ぶべき手段は一つ、逃げの一手のみ。俺は横に跳んだ。
キッドの左手が俺を追う。勢いそのままでキッドが中空でほぼ直角に曲がった。
確かに避けた。今までの敵なら確実避けられたはずだ。キッドの平手が眼前に迫る。
「ミコ!」「う!」パチィン!
キッドのスパイクが横っ面をかすめる。まだ金の指輪が嵌まった中指が俺を差し続けている。
『キッド様! 地下駐車場でグリフォンが見つかりました! 予想外の反転が始まってます! このままだと最悪の形で幸神会が世間に出てしまいます!』
キッドの軍服のポケットの一つから切羽詰まった声が飛び出した。
グリフォン……雨寺拓也さんだ。ミコが幼い時、一緒の子供部屋に入れられてたって、ミコが昔話していた。
「ああ!? そっちでなんとか出来ないのか!?」
『厳しいです! ただの凶暴化じゃなく、シト同じくいやそれ以上の巨樹化が始まってます!』
「チッ、世間様の注目雨あられじゃねーか!」
キッドの意識がそっちに流れ、攻撃が単調になる。それでも圧倒的膂力とスピードで避けていなすのがやっとだが、余裕が出来た。チャンスが到来した!
『そ、それに呼応してシトが軒並み樹化! コントロールが効きません!』
無線から拓也さんのやろうとしていることも理解した。
「ミコ、思いっきり上に跳ぶ!」「う!」
天井に張り付き翅を休める蝶達の群れに俺達は躊躇なく飛び上がった。続いて地面を抉る鈍い音が俺達を追う。
蝶達が舞い上がり、俺達に群がる。キッドが左手を突き出し迫る。
「ミコ!」「う!」バチン!
天井に手がと届く寸前、ミコの音で直角にスライド。節足で天井を蹴り地表へバウンドする。
俺達はキッドとすれ違いで急降下。蝶達が獲物をキッドに変更し、群がる。
着地。誰も守るものがいない鉄扉へ全力跳躍、水平射出のドロップキック。
バチィン!……バチィン!…バチィン!バチンバチンバチンッ!
ミコの推進力が加わって、着弾。
扉が轟音とともにひしゃげ。
「シャッ、ブラボォーー!!」「ブラボーー!! イェーーイ!」
脱出成功ォ!
だが、俺にはもう一つやりたいことが芽生えていた。拓也さんを守りたいと言う願いだ。
拓也さんがやろうとしている復讐に俺も一枚噛みたい。
やられっぱなしは気にくわねぇ、せめてキッドに一泡吹かせてやる。
俺の背中で喜びの狂宴に興じるミコを誘った。
「にぃに! ブラボッブラボッ! いぇぃいぇぃいぇぃいぇぃいぇぃいぇぃ!」
「ミコ! 拓也さんに会いにいってみるか?」
「拓也って誰か知らんけど、うー! 行ってみよう!」
「今から飲みに行ってくる」
ずっとにらめっこしていたスマホから顔を上げたかと思ったらジジイがそんなことを抜かした。
時刻は十一時五十分。遅すぎるだろ。一体どこで酒を飲むというのか。
俺はベッドに変身するソファーで、ミコと一緒になって遊んでいた手を止めて、感じた疑問をそのままぶつけた。
返ってきた返事はお前達も来い、だった。
「先生が若者の意見も取り入れたいから来て欲しいそうだ。来るだろ? 食べ放題飲み放題だぞ」
最後の条件にミコが耳聡く反応した。
チラチラと俺の顔色を窺うその表情には「もちろん行くに決まってるよね?」と書かれている。
ミコには悪いが、俺は首を横に振った。その呼び出しは明らかに不自然だ。
「何でだ? もう眠いのか? さっきまで遊んでいたのに? 先生が来いって行ってるんだぞ? 何か有り難い話が聞けるかもしれないんだぞ? もしかしたらお前達の抱える問題を解決してくれるかもしれないんだぞ?」
あるで人が変わったように、目をかっ開いて詰め寄って来る。
同じだ。前住んでたボロアパート近くに、よくこんな風に金をせがんで来るおやじがたくさんいた。そいつらは決まって目が落ち窪み頬が痩けていた。
そんな人生捨てた人間と同じように、ジジイの目の周りに影が落ち、頬が黒ずんだ。
いや、化粧全体が滲んでいるんだ。
外国人ぽかたった顔の起伏が平坦になる。骨格そのものが変化を始めた。
それを見てようやく、ジジイの使っている化粧品はただの化粧品じゃないと思い始めた。
「ジジイ、どんな化粧品使ってるんだ? 一度見せてくれ」
「使い切って今はないが、行けば見せることは出来るぞ」
そういってジジイがスマホの画面を俺に見せた。
そこに映った白い吹き出しには「輸入に成功。一人一本の羽根を用意しています」と。
「……飲みに行くんじゃないのか?」
「行くさ。ただ俺達はお冷やと突き出ししか口にしないがな」
明らかに罠。この画面の向こうに幸神会の影が透けて見える。
明け透けだ。明け透けだが、クソ。
このジジイを助けたいと思ってしまった。
「うどんとハンバーグ、その他もろもろの恩を今から返しに行く」
「……う」
ミコも神妙に頷いた。
「おお! ありがとう!」
俺はジジイがこんなに気色悪い笑い方をするんだと今更ながらに知った。
俺達は例の軽トラに乗り込んだ。
ハンドルを握るジジイの表情は薬を貰えると知った薬中患者のソレ。
額が痒い。
幸神会のやり方と、それに気付かずにまんまと網にかかった自分に対する怒りがこみ上げ、額に二つ、瘤起する。
ミコは心配そうにジジイを見ながらも戦う覚悟を決めている。
フロントガラスに三者三様の表情が反射していた。
キーを回すと、車内に深夜ラジオのおどけたトークが流れた。
軽トラがパーキングを出て車道に入った瞬間に、ジジイはアクセルと一気に踏んだ。
エンジンの爆音からの急加速。信号が黄色に変わってもスピードは上がり続ける。
「ジジイ! 信号! 赤だぞ、オイ!」
ジジイは血走った目を前一直線に固定したまま、止まらない。
そのとき、ラジオから時報が鳴った。
『二月十八日、0時です』
「にぃに! ジジイが!」
「オ……ゴオ……ア、アア……」
ジジイが白目を向き、泡を拭き始めた。ボキボキと謎の音がジジイの体の中から漏れる。
「ジジイ、止まれ! ブレーキ踏め!」
信号はとっくに赤。繁華街前の交差点、たとえ日付が変わっても交通量は変わらない。ビュンビュンと車が行き交っている。
その向こうには天井まで届く大きな壁が目に入る。天文館を封鎖する鉄扉。
俺はジジイからハンドルを奪おうとした。
「何だこれ……」
植物の根がハンドルに絡み付いている。それはジジイの腕から伸びていた。
力任せに回してみるがびくともしない。ガチガチに固定されている。
エンジンが悲鳴を上げ、車はさらに加速した。
ブレーキを踏もうと、ジジイの体を押しやるがこちらもびくとも動かない。
ジジイの腰から下が既に植物と化し、根が隙間なくペダルのあった空間を埋めている。
「にぃに、サイドブレーキ!」
言うが早いか、ミコはサイドブレーキをいっぱいに引いた。
ガガガガッと金属同士がぶつかり合う、激しい音が鳴り響く。
しかし、軽トラは止まらない。壁が迫る。
「ジジイ!! しっかりしろよ! オイ、ジジイ!」
耳元で叫んだが、俺の心には諦念が広がっていた。もうコイツはダメだ、と。
跳ね上がるほどの金属音、サイドブレーキが損壊。車は元のスピードに戻る。
ジジイを見捨てて脱出する、決断は早かった。
「ミコ! 脱——」
「にぃに、扉が開いてる!」
天文館を封鎖していたはずの鉄扉にちょうど車一台分の隙間が出来ていた。
車はその隙間に向かってさらに加速。
「ミコぉ、どけッ、脱出する!」
「う!」
ミコが退き、俺が足を上げたとき、ジジイの体から伸びた無数の枝が俺達を飲み込んだ。俺とミコは苦しい姿勢のまま、蹴破るはずの車窓に押し付けられる。
車は鉄扉を抜け減速。天文館通の中程で停車した。
枝は今も伸び続け、ガラスを割り、車のドアを内側から壊した。結果的に俺とミコは車外に出ることができた。
ミコも俺も運転席の木を呆然と見つめる。
いや、まだ、終わってない。
そう切り替えられたのは、ミコが視界に入った時だった。
まだ、始まってない。
俺達はここに連れて来られたんだ、人っ子一人おらず、シャッター街と化した天文館に。
真っ暗な繁華街は得も言えぬ不気味さに包まれていた。
普段は多くの人が行き交っていたはずの道には、この軽トラが一台ポツンとおかれているのみ。ヘッドライドの光が反対側の鉄扉を照らしている。
目に見える範囲に人はいない、その筈なのに、たくさんの人の気配はヒシヒシと感じた。
間違いなく、ここの建物の中から俺達は見られている。攻撃される前にとっととここから逃げるべきだ。そう思って振り返ったとき、開いていたはずの鉄扉がしまっていた。
「はぁ~~い、奥播磨ぁ。三つの柱は健在かい?」
格ゲーの世界から出てきたような筋骨隆々な体を花柄のワンピースで包み、さらに軍服のようなジャケットを着込んだ女がどこからか姿を現した。
女は仏のような微笑を浮かべ、タトゥーだらけの三本指を突き立てた。
「誰だ、あんた?」
俺は当然の疑問を打つけた。
女の小指に引っ掛かった拳銃、敵であるのことは確かだ。
俺は立ち位置をずらし、ミコを女の視線から切る。
女は銃口で下唇を押し上げながら唸り、名乗った。
「ん~~……キッド」
仏のような笑みが爬虫類的なそれに一変した。
「今までありがとう」
突然、キッドと名乗った女は腰を直角に折った。
突然の感謝の言葉と深いお辞儀に俺の思考は一瞬フリーズした。
しかし、キッドが顔だけ上げ、奴と目が合った瞬間、俺は明確に死を意識させられた。
「ミコ!」
「う!」
戦うとか絶対に無理だ。確実に殺される。逃げるしかない。
「跳躍型節足キリギリス!」
「いッ~~アァッ!」
額から伸びるキリギリスの脚。額から流れた血が瞼にかかり頬へ流れる。
ミコの頬が頭蓋から剥がれアリの大顎に変化し、複眼の目尻から血が伝う。
キッドが俺達の後ろへ銃口を向けた。
「私が播磨を殺すまで、お前はミコちゃんのお相手になれ。勝とうとするな、死ぬぞ」
「はいッ、頑張ります……」
俺とミコの後ろで鉄扉を守るように剣を構える変態がいた。
おかしなフルフェイスのヘルメットを着用し、全身タイツに身を包んだ男、これを変態と言わずして何と言おう。
こんな見るからにヤベー奴に気づけないほど、俺はキッドを恐れていたんだ。
キッドは俺を殺すと簡単に言ったが、多分本当にそうなんだろう。だが、それは俺がまともにやり合ったときの話だ。
俺がとる行動は逃げの一手のみ。
幸い天文館の天井は白っぽい半透明の強化ガラスもしくはプラスチックだ。シンキ化した俺ならあんなもん障子紙と同じ。ここからの脱出は簡単だ。
「ミコ、乗れ!」「う!」
ミコが俺の背に負ぶさる。同時に轟く六発の銃声。
発砲のタイミングと狙いを一発ずつ微妙にずらした弾丸を俺は節足を持って全て弾いた。
「はぁ~~い、播磨ぁあ!」
いや、弾かされたんだ。
キッドの拳が顔面にめり込んだ時、俺は理解した。
キッドの人間らしからぬ重い拳が振り抜かれ、俺の体は大きく仰け反った。
「にぃに!」
ミコの声に続いて敵の声。
「瀧ぃ!」
「うおおおおお!」
全身タイツが青い電流ほとばしる剣を振り下ろした。
「ングググッ!」
ミコのうめき声、反射的にキリギリスの爪が地面を噛んだ。節足は態勢を無視してミコのもとまで跳ぼうとバネを軋ませる。
「つれないじゃん? 播磨ぁ」
キッドはそれを分かっていたかのように、節足を脚払い。俺は無様に地に腹をつけさせられた。
起き上がった時には既に俺とミコの間に敵が二人立ちはだかっていた。
「……クソが」
「いぃ~~ひひひひ……」
「……ミコに刃物は効かないよ。外骨格だから」
「このパイルバンカーならどうかな……?」
俺とキッドが、ミコと全身タイツが向き合った。
どうするどうするどうする!?
キッドに勝つ、無理、可能性はゼロ。キッドを出し抜き、全身タイツを不意打ちで倒してミコを回収し逃げる、かなり難しい。キッドも全身タイツも出し抜いて逃げる、むずい。
俺がキッドに勝っているものは跳躍力だけだ。これは誰にも負けねぇ。
それも活かして出来ることを……!
先に、天井を壊して、退路を確保しておく。先ずはそれから。
そう決めて、節足を畳んだとき、キッドが耳を塞いだ。
爆発。
業火が天文館内の全てのシャッターを吹き飛ばし、地鳴りのような爆発音と熱波が衝撃となって俺の体を挟撃する。道を挟む壁という壁が火を纏った。
キッドの口端が耳まで届くほど不気味にしなる。手から握りつぶされた起爆スイッチが落ちた。
「やれ」
今爆破された建物の中、目から角を生やした元人間達が轟々と燃えさかる炎を切り裂き現れる。記憶に新しいワーウルフのシト達だ。
火だるまのシト達が俺目がけて雪崩れ込む。その中には更生施設で同じだった同年代の不良少年の姿と、俺達を施設まで送り届けた岩井の姿。
四方を囲まれ、逃げ道は一つ。
角を突き出し突撃するシトの雪崩をキリギリスの跳躍で回避した。
上空から見下ろした光景はまるで岸壁打ちつけられた白波そっくりで、人波の先頭を走っていたシトの体は後続のシトの角に貫かれ圧し潰され無惨に壊された。
「あぁーはぁぁ~~~~。やっぱそっち逃げるよねぇ」
キッドは装填を済ませ、気持ちよくなった顔のまま俺を目で追う。
あの女はどんな人間よりも逝かれてる。
俺は天井に爪を引っかけ張り付いた。これで脱出経路確保だ。
天井のガラスに達成感が滲んだ自分の顔が反射した。同時にミコのもとに向かうキッドの姿。キッドは一度、俺を見上げ不気味に舌なめずりを見せつけた。
「キィーーッドーーーーォオ!」
脱出のことは頭から消えた。
全力の飛び蹴り。レーザーのように一直線にキッドを強襲する。
「へぇ~~い、播磨ぁ!」
対するキッドは満面の笑みで迎え撃つ。もともと俺を釣る演技だったのだろうが知ったことではない。
蹴りが確かにキッドの腹を捉えた、はず。
「ンギュひひッ!」
キッドの光悦にゆるむ口から苦悶と愉悦を漏らし、かっ開かれた目をグンと近づける。
腹に沈む自前の足に鋭い痛みが突き抜ける。ナイフが深々と刺さっていた。
キッドが銃口を俺の額に押し付ける。
ダンダンダンダンダンダンッ!
額の肉がはげ上がり、節足の付け根が露になる。
脳は激しく振動し無音になった世界が幾度と点滅を繰り返す。
途切れかけの意識で足を引いた。幸い脳機能が麻痺しているおかげで突き刺された痛みは感じない。
「ま~だ、私のターンッ!」
ナイフを握るタトゥーだらけのキッドの手から蔦が伸び俺の足に絡み付いた。
「アッッヒャーーー!」
ぶん回す。地面から電柱、キッドが目についたもの全てに打ちつけられた。
俺は節足で頭を囲み耐える。ミコと同じ外骨格の節足がガリガリ削られる。
ヤバいヤバいヤバい! どうにかしてキッドの手から逃れなければ。
キッドは俺の体を燃えさかる壁に向けて振りかぶった。
一か八か。節足を畳み、バネに力を蓄える。
炎の壁が迫る。
節足の爪先が炎に触れた瞬間、バネを弾く。節足が壁を蹴り、後頭部がキッドの鼻頭を強打した。
キッドがたたらを踏む。
キッドの踏ん張りが効かない今、思い切り掴まれた足を引き戻す。キッドは前につんのめった。
「はーい、キッドぉ!」
掴まれてない足でキッドの顎を蹴り上げ、節足で頭を引っ掴み頭突き、さらにそのまま地面に向けてキッドの頭を蹴り付けた。
ゴッと言う鈍い音を立て、鼻血にまみれたキッドが大の字に倒れた。
「……エヘ、なんてね」
キッドは舌を出して靴に仕込んでいたナイフで斬り掛かる。ナイフの切っ先が俺の下瞼をかすめた。
俺は節足で上空に一時避難し、距離をとった。掴まれていた足からドクドクと血が流れる。
キッドは枕代わりにした蔦を先程のタトゥーに戻しつつ「焦った焦った」と起き上がる。
本当に勝てる気がしない。逃げの一手に再シフト。
長めに息を吐いた。
ミコだけはなんとしても逃がす。
「あ~うん。やっぱ上に逃げられるのは面倒くさいなぁ」
キッドがボリボリとそのワカメみたいな頭を掻いた。
「……よし、いっちょ実験しますか」
キッドは軍服のポケットから銀の笛を取り出し咥えた。
ピュロロロロロロロロォーー……。
森林で聞く野鳥の鳴き声のような場違いすぎる優しい音色が戦場にこだました。
シトがその音色に反応した。
シトは直立不動のまま痙攣を始め、ブブブブと徐々に激しさをます。そしてそこかしこで何かを破る音がする、バリ……バリ……と。
シトの角が縦に割れた。中からストロー状の口吻を持った頭部が出てきた。
角もとい蛹の割れ目はさらに裂け、全面真っ青の羽根を持った蝶が羽化。
蝶はシトの頭部にしがみつき羽根を乾かす。パタパタと羽根を動かし始めた蝶たち、しかし一匹たりとも飛ばない。
「あやぁ?」
キッドは首を傾げたが、俺には関係ないことだ。奴の注意が俺から逸れた。
千載一遇のチャンスが巡ってきた。
俺が全身タイツと対峙しているミコを拾いに向かおうとした時、蝶達がシトの脳天に口吻を突き刺した。
蝶の口吻が脳漿ごとシトの血液を吸い上げる。
まるで鼻水を啜ったような耳を塞ぎたくなる不快音の大合奏。
蝶の翅に深紅の模様が浮かび上がる。
「ハッハッハ! スゲーだろ? 幸神会自信作のウルトラバタフラーイッ」
蝶達は死体の山を築き上げ、飛び立った。
天井からの脱出経路が潰された。
「これで、やすやすとジャンプは出来なくなりましたぁ」
キッドはだらりと腕を垂らす。手にびっしりあったはずのタトゥーはインクに戻り指先に雫となって溜まっていた。
小指に引っ掛けた拳銃のマガジンがカチンと落ちた。
「播磨ぁあ!」
「うらああああ!」
もうやるしかねえ!
やけくそ気味に節足で地面を蹴り、ドロップキックを打ち上げる。キッドのタトゥーが鎌に形を変えた。
「ポーー! アメージング!」
防御をかなぐり捨てた俺の胸に鎌が振り下ろされる絶望的な視界。そこに小さな影が飛び込んだ。
「お待たせ、にぃに!」
キッドの横っ面をミコのドロップキックがジャストミート!
キッドの巨体が火の海に飲み込まれた。
「ミコぉ!」「う!」
抱きしめてやりたい気持ちをぐっと堪え、ミコを背中に乗せる。
ミコの不意打ちは綺麗に入ったが、あれでキッドがやられるはずがない。
気持ち悪い笑い方と一緒に襲ってくる前にここから逃げることが先決だ。
「つっっっかえねぇぇぇええええええなぁぁああああああああ!!」
炎の中から腹に振動が来るほどの化け物じみた咆哮が上がった。
「まぁ~~てぇ~~よぉ……」
ヤバい! 来る急げ!
扉まで一気に跳ぶ。そんでその勢いのまま扉壊して脱走。これしかないんだ、気張れよ俺!
節足を畳む……キリギリスの足に備わっている留め金構造で間接を固定。バネを全力で引き絞る。百数メートルの距離を食いつぶす。ロケットのように射出して鉄扉をぶち破る。一秒にも満たない溜め、放つ。
バチィンッ!
……ドッ!!
「ヘェェェーーーーーーーェイッ!」
「来た来た来た来た来たッ! にぃに! アイツ飛んで来てるッ!」
「ミコ! 音!」
「あ、う!」
ミコが大顎を合わせ、指パッチンと同じ要領で音をならした。
ミコが鳴らす音は衝撃波となって縦横斜め三六〇度球状に放たれる。
これはキッドを退かせるためでもあり、同時に俺達の推進力になる。
バチィン………バチィン……バチィン…バチンバチンバチンバチンッ!
ミコの顎鳴りの音の間隔が狭くなる。それでキッドとの距離感が手に取るように分かった。
そして、遂に俺は大きな影に飲まれる。
「播磨ぁぁあああ!!」
俺の顔くらいある大きな平手が振り下ろされた。
パチィン!!
キッドのスパイクが俺の肩をかすめた。俺の体が空中で横にスライドしたんだ。
背負ったミコが俺の胴に足を回し、両腕をスライドさせた逆方向に伸ばして、指パッチンした親指と中指をクロスさせていた。
「二体一、絶対逃げるよにぃに!」
「おう、俺達なら余裕だ」
励まし合う俺達にキッドは歯を見せて笑った。
「希望を見いだしたか」
同時に着地。
キッドの左手に、さっきまでなかったはずの金の指輪が嵌まっていた。
「最期にいい顔できたね。奥播磨ぁ」
さらにキッドは懐から黄金色の液体が入ったチューブを取り出し一気に煽った。
液体を飲み干したキッドの筋肉が一回り大きくなる。キッドはいよいよ花柄が似合わなくなった。
キッドが腰を落とし、膝を曲げた前傾姿勢、左手の中指を俺に向けると太腿が土管のように膨張した。
地面のアスファルトを抉るキッドの跳躍、およそ人間のなし得る音でないドッという爆音と共に急接近。
俺達の跳ぶべき手段は一つ、逃げの一手のみ。俺は横に跳んだ。
キッドの左手が俺を追う。勢いそのままでキッドが中空でほぼ直角に曲がった。
確かに避けた。今までの敵なら確実避けられたはずだ。キッドの平手が眼前に迫る。
「ミコ!」「う!」パチィン!
キッドのスパイクが横っ面をかすめる。まだ金の指輪が嵌まった中指が俺を差し続けている。
『キッド様! 地下駐車場でグリフォンが見つかりました! 予想外の反転が始まってます! このままだと最悪の形で幸神会が世間に出てしまいます!』
キッドの軍服のポケットの一つから切羽詰まった声が飛び出した。
グリフォン……雨寺拓也さんだ。ミコが幼い時、一緒の子供部屋に入れられてたって、ミコが昔話していた。
「ああ!? そっちでなんとか出来ないのか!?」
『厳しいです! ただの凶暴化じゃなく、シト同じくいやそれ以上の巨樹化が始まってます!』
「チッ、世間様の注目雨あられじゃねーか!」
キッドの意識がそっちに流れ、攻撃が単調になる。それでも圧倒的膂力とスピードで避けていなすのがやっとだが、余裕が出来た。チャンスが到来した!
『そ、それに呼応してシトが軒並み樹化! コントロールが効きません!』
無線から拓也さんのやろうとしていることも理解した。
「ミコ、思いっきり上に跳ぶ!」「う!」
天井に張り付き翅を休める蝶達の群れに俺達は躊躇なく飛び上がった。続いて地面を抉る鈍い音が俺達を追う。
蝶達が舞い上がり、俺達に群がる。キッドが左手を突き出し迫る。
「ミコ!」「う!」バチン!
天井に手がと届く寸前、ミコの音で直角にスライド。節足で天井を蹴り地表へバウンドする。
俺達はキッドとすれ違いで急降下。蝶達が獲物をキッドに変更し、群がる。
着地。誰も守るものがいない鉄扉へ全力跳躍、水平射出のドロップキック。
バチィン!……バチィン!…バチィン!バチンバチンバチンッ!
ミコの推進力が加わって、着弾。
扉が轟音とともにひしゃげ。
「シャッ、ブラボォーー!!」「ブラボーー!! イェーーイ!」
脱出成功ォ!
だが、俺にはもう一つやりたいことが芽生えていた。拓也さんを守りたいと言う願いだ。
拓也さんがやろうとしている復讐に俺も一枚噛みたい。
やられっぱなしは気にくわねぇ、せめてキッドに一泡吹かせてやる。
俺の背中で喜びの狂宴に興じるミコを誘った。
「にぃに! ブラボッブラボッ! いぇぃいぇぃいぇぃいぇぃいぇぃいぇぃ!」
「ミコ! 拓也さんに会いにいってみるか?」
「拓也って誰か知らんけど、うー! 行ってみよう!」
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