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天使がくれた贈り物:中編

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 「ほら、起きた起きた!ハルトくん。誕生日で、成人の日の朝だよ!あーさーだーよ!」
 「ふぇ…?」

 居酒屋店員として、夜型の生活をはじめてかれこれ二年あまり。
 スマホのアラームが鳴るよりも前、俺が寝場所にしているロフトに続く梯子を上ってきたユキヒトさんの、パンパン!と手を叩く大きな音と共に叩き起こされたのは、これが初めてだった。

 まだ夢うつつで、ぼんやりとする頭で布団からもぞもぞと起き上がってスマホを見れば、時間は朝の七時だった。昨日の夜、『ちょっと早めに寝よう』と提案されて寝ついたのが夜の二時で、まだ五時間しか経っていない。それは当然さっぱりと起きられるはずもない低血圧気味の俺は、一体何が起こったのかも解らずに、妙に浮き浮きとしたユキヒトさんの顔をボーっと眺めていることしかできなかった。

 「忘れたのかい?今日は、ぼくのために予定を空けておいてくれる約束だったじゃないか。早く起きてシャワーを浴びてくれ。その間に、パンを焼いて目玉焼きを作っておくから──。」
 「だって、まだ朝早いじゃん…。一体何なのさ──。」

 ブツブツと回らない舌で文句を言う俺に、二言は許さないとばかり、ユキヒトさんの手が強引に掛け布団を剥がしていった。まだエアコンを入れていない部屋の寒気がひやりと全身を包み、嫌でも目が覚めてしまう。
 今日のユキヒトさんは、いつになく強気だった。今日は成人の日、そして俺の二十歳の誕生日。そんな日にサプライズがしたいのだと言い出した彼が一体何を企んでいるのか俺には解らず、渋々と布団を這い出して、ロフトに掛かる梯子をギシギシきしませながら降り始める。多分、二度寝をしたいと言い出したところで、絶対に聞いて貰えない空気だった。


 寝不足の眠気は、シャワーを浴びるとある程度スッキリ流れ落ちてくれる。言うてもまだ二十歳になったばかりの俺にはさほどキツいことでもなく、ただただ早起きが面倒臭いだけなのだが、下着一枚で髪を拭きながらユニットバスから出てくる頃には、小さなテーブルの上には湯気の立つコーヒーとトースト、そして目玉焼きが二人分、きちんと用意されていた。

 「食べ終わったら着替えて、外出する用意をして。ぼく、その間に洗い物を済ませておくよ。」
 「…あのさ、誕生日祝いのケーキとか用意するにしては、時間早くない──?」

 ドリップのブラックコーヒーをゴクリとひとくち流し込めば、さっきまで感じていた眠気は割ときれいに吹き飛んでしまった。わからないのは、こんな朝早くから俺を叩き起こしておいてせかせかと動き回るユキヒトさんが、一体何を企んでいるのかということだった。

 「いいから、ぼくに全部任せてほしいんだ。大丈夫、悪いようにはしないから。」
 「セリフが完全に悪役のそれだな。」

 まあしかし、『誕生日の予定は空けておいて欲しい』という申し出を受け容れたのは俺だし、そこに今更嫌だなどと言えるはずもない。流石に、男に二言はない。タルいからという理由で約束を破れるほど人でなしでもない。首を傾げながらコーヒーカップに残った最後のコーヒーを飲み干すと、膝を上げて外出の支度を始める。
 普段通りのデニムに、黒のインナーに、黒いカーディガン。あとはキャップとコートにフリースのマフラーがあれば、それで充分だろう。

 「今日、そんなに寒くならないらしいね。最高気温は十五度だってさ…。」

 ドア一枚隔てた廊下の向こうのキッチンから、食器を洗う水音を立てながらユキヒトさんが話し掛けてくる。

 「あ、そう?じゃあマフラーはいらないかな──。」

 後はスマホと財布、鍵だけあれば十分だろう。ユキヒトさんの支度が終わるまでの間、ラグの上に胡坐あぐらを掻き、手持ち無沙汰のままスマホで動画を見ながら、ベランダから差し込む朝日というあまり馴染みのない光景を少しだけ新鮮に感じていた。



 新しく買ったスーツにネクタイをきっちり締め、コートを羽織ったユキヒトさんは、百八十五センチという高身長に整った顔立ちをしていて、朝の光の中で横顔をまじまじと眺めると、改めてカッコイイと思えてしまう。灰色のミディアムレングスの天パの髪に、すらりと長い手足をしていて、睫毛が長くて顔もいいのに、どこか人間離れしてぼんやりとして、常識や価値観のズレた天使。
 俺はいつものように黒いマスクとキャップで顔を隠し、改めて、こんな不思議な、しかし表情や挙動を愛せても絶対に憎めない存在と並んで道を歩いている奇跡を不思議に思っていた。

 「──ねぇ、どこ行くの?」
 「もうすぐそこさ。…ほら。もう着いた。」
 「え──?」

 俺はパチパチとまばたきをする。そこは、大通りから離れた路地裏にある、一件の古い美容院の前だった。普段、こんな時間には絶対に開いていないだろう美容院の扉を、ユキヒトさんはためらうこともなくキィ、と押し開ける。

 「おはようございます。──予約の、田志摩タジマです。」
 「あらぁ~!ユキちゃん!おはよ。…あぁ、その子が親戚の子ね。待ってたのよ。さ、入って入って。」
 「ねえ、ちょっと、ユキヒトさん…?」

 控えめに見ても今どきのオシャレな美容室とは程遠い、長年の常連だけで持っているような古い美容院の中にいたのは、クルクルのパーマを当てて派手な紫色に髪を染めたおばちゃんだった。どうやら、俺のオカンより年上に見えるそのおばちゃんが、ここの従業員らしい。
 見知らぬ人に対して途端に挙動不審になる俺の手を掴み、店の中に引き込みながら、ユキヒトさんの優しい目が穏やかに、しかし悪戯っぽく笑っている。

 「新成人おめでとう。…あんた、お名前は?」
 「──えっと、は、陽翔ハルトです…!」
 「あらまぁ~、ユキちゃんに似てなくて、ちょっと人見知りなのかしらねぇ…。うん、いいわ。男の子用の成人式用の晴れ着、丁度一着だけ残ってたのよ。とはいっても、ウチの息子のおさがりだけどね。さ、着付けて、髪の毛もちゃんとセットするわよ。」
 「えっ──。…えっ…?」

 おばちゃんとユキヒトさんのアイコンタクトでとんとん拍子に進む話の中、俺だけが置き去りだった。おろおろとキョドっている俺の背中をポンと押しながら、ユキヒトさんの手が、俺が被っていたキャップを取り上げてしまう。

 「行っておいで。ぼくはここで待っているからね。…ここの店長さんは、春香さんのBARの常連さんなんだ。きみの成人式の話をしたら、引き受けてくれるって。だから、これはぼくからのプレゼント。…大事な一日だからね。」
 「──いや、そんな…、いきなり、こんなこと…さぁ…。」

 考えてもいなかったサプライズについていけない俺の手を引いて、おばちゃん店長はさっさと別の部屋に入って行ってしまった。ユキヒトさんから切り離され、ただでさえ混乱したままの俺はさらに口数が少なくなる。そんな俺の固さは一向にお構いなしか、美容師のおばちゃんは、箱の中からオーソドックスな黒い紋付き袴の着物を取り出してテキパキと着付けの準備に入っているのだ。

 「ハルトちゃん、いい親戚のお兄さんを持ったわねぇ…。ユキちゃん、ちょっと不思議系だけどね。」
 「──あ、…は、はぁ…。」
 「あんたが成人式に行かないっていうからさ、それはダメだって春香ちゃんにお給料の前借りまでして、着付けのできるところはないかって言うもんだから。何せ、式まで中一日なかいちにちでしょ…?普通は予約なんか取れっこない。ユキちゃんの頼みだったら、おばさん一肌脱ごうと思って、うちの子のお古の晴れ着で久しぶりに着付けやったげることにしたのよ。もうトシだし疲れるから、成人式の予約は受けないことにしてたんだけどねぇ…。」
 「──ユキヒトさんが?…給料の前借り…?」
 
 美容師のおばちゃんは、さすが熟練の客商売といった様子で、人見知りの俺を相手にしても立て板に水の如く延々としゃべり続けている。下着とインナー以外の服を脱ぎながら、俺は、着物を着せてくれるおばちゃんが語る話に、半ば呆然と聞き入っていた。

 「そ、晴れ着と髪のセット、きっちり前払いで頂いてるから、あんたは気楽にしてていいわよ。──うん、小物も、うちの息子のヤツでいけそうね。一生に一度しかない式なんだから、行けるなら行っときなさい。」
 「…そんな。──俺、てっきり…誕生日ケーキを選びに行くとか…そんなことだとばっか…。」

 ぎゅっと紐を引き締められながら、どんどん着せ付けられていくシンプルだが高級そうな和服。ちょっと苦しいけど我慢してね、と言われて袴を締められたが、実際に苦しいのは腰ではなかった。俺のために借金までして、生まれてこの方袖を通したこともない、豪華な晴れ着を用意してくれたユキヒトさんの想いが、俺の胸の中に重く積もって、下手につつくと爆発してしまいそうだった。

 いくら家主であるとはいえ、ピンチを助けたとはいえ、赤の他人である俺のために、どうして他の誰かがそこまでしてくれるんだろう。親は子供に無関心気味、おまけに転校ばかりで親友もいない。社交辞令以外、そんな掛け値なしの『慈愛』のような優しさなんか貰ったことがなくて、この気持ちをどうさばいていいかちっとも解らなかった。

 軽く俯いて黙りこくる俺を余所に、熟練の技で和装を着付けてくれるおばちゃん。最後に、羽織の前の紐を締めると、全身を眺めて出来栄えに満足したように、うん、とひとつ頷いた。

 「さぁ、できた。じゃ、サロンの方にいって、ちょっとその重い前髪だけチャチャッと上げちゃわないと、もったいないからねぇ…。」
 


 果たして、サロンの待合用の椅子で、それしかないから熟年女性向けの週刊誌を読んでいたユキヒトさんは、とても複雑な表情を貼り付けて出てきた俺の和服姿を眺め、眩しそうに目を細めて心からの笑顔を浮かべてくれる。俺が、その優しさでもう一押しされれば決壊してしまいそうな感情のダムを内側に抱えていることなんか、彼は知るよしもないのだろう。

 「やぁ、よく似合うよ。着物って、とてもすてきな服だ。」
 「でしょう?──ハルトちゃん、紋付き袴の時は、背筋伸ばして前向いてシャッキリ歩くのよ。猫背だとカッコ悪いったらありゃしないから。」
 「…あ。は、はぁ…。」

 当然、マスクで顔を隠すことなんか許される空気じゃない。ベシッと背中を叩かれて喝を入れられ、そのまま鏡の前の椅子に座らされて、和服の上からカバーを掛けられる。好きでも嫌いでもない、でも好き好んで他人に見せようとは思わない俺の平凡な顔が鏡に映っていた。それだけでも気恥ずかしいのに、おばちゃんは、見た目に似合わない今風のセンスを出して櫛を器用に使いながら俺の前髪を上げ、スプレーでシュッと固めていく。

 これじゃあもう、どこにも隠れ場所も、逃げる場所もないじゃないか。
 今、美容院の床に立って全身鏡に映る俺は、一生身に着けることもないと思っていた晴れ着を着て、その晴れ着には相応しくないぼんやりとした表情で自分自身を見詰めているのだった。

 「これね、その子の着てた服、紙袋にまとめといたから、これはユキちゃんが持って行ったげて。式場まで、電車でしばらくかかるわよ。あの会場、広いけど、最寄り駅からタクシーの距離だからね。」
 「ルリ子さん。急に無理を言ったのに、こんなに立派にしてくれて──本当にありがとうございました。これで、ハルトくんも成人式に行けます。」

 おばちゃん、ことルリ子さんに深々と頭を下げるユキヒトさんの前で、ルリ子さんは豪快に笑った。

 「ユキちゃんの頼みって、なんだか、どうも断れないのよねぇ…。あ、着物、返すのは後でいいわよ。記念に取ってはあるけど、すぐ使うもんじゃないからね。今日一日、ちゃんと楽しんできなさい。」
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