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天使、料理という概念を覚える。
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「ユキヒトさん。今日も遅くまで仕事してたんじゃない?」
人間界に降りた天使が、怪しげな、しかし予想よりずっと人情家らしいBARのマスターの元で働くようになってから、ざっくり十日ほどが経過していた。
最近は、俺が居酒屋のバイトで少しばかり残業をして帰ってきても、ユキヒトさんがまだ帰宅していないことがある。ラグの上に胡座をかき、仕事帰りに買った息抜きの缶チューハイを呷りながら、一張羅のスーツに丁寧に消臭スプレーを掛けているユキヒトさんに問えば、彼は淡い色をした垂れ目を柔らかく細めてニコニコと微笑みながら答える。
「うん、春香さん…店長が、色々気にかけてくれてね。仕事を教わったり、掃除や料理を教わったり、ぼくが早く仕事を覚えられるようにしてくれてるんだ。今日も賄い料理をご馳走になったよ。オムライスっていうんだっけな。とても美味しかったし、店長の気遣いの味がしたよ。」
「ほぉ…。」
訳アリのアルバイトを薄給でこき使うと宣言していた割に、あのイカつい店長は、意外と面倒見がいいらしい。夜の街によくある人の情、というやつだろうか。
ユキヒトさんいわく、『天使は、人の感謝や祈りや善行を食料としている』らしいので、そのユキヒトさんが言うなら春香さんの真心は本物だということになる。そして俺自身の気付きはというと、買ってきたコンビニ弁当をつまみ代わりに一本の缶チューハイを空けるいつもの生活の中に、気兼ねなく会話ができる人がいる、ということは不思議と心安らぐものだということだ。
物心ついてから、母親がしょっちゅう家にいないことは当たり前で、保育園や小学校を転々としたせいか付き合いの長い友達もいない。父親と母親がいて兄弟がいるっていう、いわゆる『普通の家庭』というものを知らない俺は、学校以外ではどこか浮いたし、クラスメイトの集団に馴染めないのは『そういうものだ』と思っていた節がある。逆に、プライベートについてあれこれ聞かれるのは苦手で、近づかれ過ぎるとウザいと感じることもあったし、それが原因で、彼女ができても半年以上長続きした試しはない。
でも、今、同じ六畳一間のワンルームに、たとえ正体が天使であるとはいえ、赤の他人が住んでいるという生活を送っていても、俺は全く苦にならないどころか、自分でも意味不明な充足感すら覚えている。ユキヒトさんが俺に助けを求めてきた天使で、見た目も中身も大人で、そのくせどこか頼りなくて放ってはおけないように見えてしまうせいかもしれないが、ユキヒトさんがいる家のドアを開ける、もしくは待っていればユキヒトさんが帰ってくる生活というのは、実際悪いものじゃない。何となく、不思議な安心感がある。
「あぁ、そうそう。ぼく、練習してみようと思うことがあるんだ。」
シャワーを浴びる前に、風呂上がりに着るパジャマや下着を準備しながら、ユキヒトさんが唐突に切り出してくる。
「ん、何?」
「家庭料理、ってやつ。」
「へ…?」
「…春香さんに料理を教わりながら、聞いたんだ。コンビニで買うお弁当は栄養のバランスが悪いって。保存料や着色料も多いから、あんまり食べない方がいいんだってさ。ぼくは、タダでここに住まわせて貰ってるじゃない?だからせめて、ハルトくんの料理くらいはぼくが用意しようと思って。…迷惑かな?」
「や、迷惑じゃないけどさ…。そんな、気を使わなくてもいいのに…。」
決意と共にぐっと拳を握った後、少しだけ自信がなさそうに上目遣いで見つめてくる年上の天使の顔を見てしまったら、遠慮しますなんて言えるわけがない。
ふっ、とユキヒトさんが口許を綻ばせる。
「よかった。…実は、店長…春香さんに言われちゃってね。『若いうちからカップラーメンだのコンビニ弁当だのを主食にしてるなんて、あり得ないわぁ!ちゃんと家事を覚えた方が健康とお金の貯金になるのよ!いいわね?』なんて、さ。」
ああ、と、俺は全てに納得がいった。
きっと、日頃の雑談の中で、春香さんは、気の毒なユキヒトさんを匿っている(という設定になっている)俺のことも、それとなく聞き出していたのだろう。働こうにも身分証明書がない男を雇い、事情について細かい立ち入ったことは聞かないから、とは言え、それ以外のことはしっかり気にかけてくれているのだ、と、少なくとも俺はそう思った。
「今度の休みの日に、料理道具を買いに行かないとね。ハルトくんの家、最低限の鍋とかフライパン以外、何にもないからね──。」
「あぁ、まあ、そうね…。」
何せ、一人暮らしの自炊は思ったより金も手間もかかる。だから、本当に最低限の皿やコップしか置いていないし、それすらしばらく使われずに流し台の上の棚の中に放置されている有り様だ。
灰色の髪に灰色の瞳をした天使は、うん、と一つ頷くと、ポケットの中からフェイクレザーの二つ折りの財布を取り出して、中を覗き込んだ。日払いされる賃金の中から必要なものを少しずつ買い揃え、余ったお金が大事にしまわれているということは知っていた。
「元々、天使にお金なんていう概念はありません。自分のために欲しいと思う物もない。だから、これはハルトくんのために使うよ。…さ、頑張って、簡単な料理から覚えないとね…。」
「そんなに気合いを入れんでもいいってば。」
笑いながら、俺ははたと気づく。
もしかして、春香さんがユキヒトさんに料理を教えると言い出したのは、ただ純粋な店の手伝いの為ではなく…?
「──気のせい、かな。」
「うん?何が?」
「うぅん、何でもない。」
確かに、これは単なる俺の妄想かもしれない。しかし、働きながら少しずつ、普通の人間の生活に必要なことを覚えているユキヒトさんと、それを教えてくれる、見た目はアレでも心は優しい人がこの灰色の街角にいるのだという事実だけで、胸の中が感じたこともないくらいほわりと暖かくなるのが自分でもちょっとだけ不思議だった。
人間界に降りた天使が、怪しげな、しかし予想よりずっと人情家らしいBARのマスターの元で働くようになってから、ざっくり十日ほどが経過していた。
最近は、俺が居酒屋のバイトで少しばかり残業をして帰ってきても、ユキヒトさんがまだ帰宅していないことがある。ラグの上に胡座をかき、仕事帰りに買った息抜きの缶チューハイを呷りながら、一張羅のスーツに丁寧に消臭スプレーを掛けているユキヒトさんに問えば、彼は淡い色をした垂れ目を柔らかく細めてニコニコと微笑みながら答える。
「うん、春香さん…店長が、色々気にかけてくれてね。仕事を教わったり、掃除や料理を教わったり、ぼくが早く仕事を覚えられるようにしてくれてるんだ。今日も賄い料理をご馳走になったよ。オムライスっていうんだっけな。とても美味しかったし、店長の気遣いの味がしたよ。」
「ほぉ…。」
訳アリのアルバイトを薄給でこき使うと宣言していた割に、あのイカつい店長は、意外と面倒見がいいらしい。夜の街によくある人の情、というやつだろうか。
ユキヒトさんいわく、『天使は、人の感謝や祈りや善行を食料としている』らしいので、そのユキヒトさんが言うなら春香さんの真心は本物だということになる。そして俺自身の気付きはというと、買ってきたコンビニ弁当をつまみ代わりに一本の缶チューハイを空けるいつもの生活の中に、気兼ねなく会話ができる人がいる、ということは不思議と心安らぐものだということだ。
物心ついてから、母親がしょっちゅう家にいないことは当たり前で、保育園や小学校を転々としたせいか付き合いの長い友達もいない。父親と母親がいて兄弟がいるっていう、いわゆる『普通の家庭』というものを知らない俺は、学校以外ではどこか浮いたし、クラスメイトの集団に馴染めないのは『そういうものだ』と思っていた節がある。逆に、プライベートについてあれこれ聞かれるのは苦手で、近づかれ過ぎるとウザいと感じることもあったし、それが原因で、彼女ができても半年以上長続きした試しはない。
でも、今、同じ六畳一間のワンルームに、たとえ正体が天使であるとはいえ、赤の他人が住んでいるという生活を送っていても、俺は全く苦にならないどころか、自分でも意味不明な充足感すら覚えている。ユキヒトさんが俺に助けを求めてきた天使で、見た目も中身も大人で、そのくせどこか頼りなくて放ってはおけないように見えてしまうせいかもしれないが、ユキヒトさんがいる家のドアを開ける、もしくは待っていればユキヒトさんが帰ってくる生活というのは、実際悪いものじゃない。何となく、不思議な安心感がある。
「あぁ、そうそう。ぼく、練習してみようと思うことがあるんだ。」
シャワーを浴びる前に、風呂上がりに着るパジャマや下着を準備しながら、ユキヒトさんが唐突に切り出してくる。
「ん、何?」
「家庭料理、ってやつ。」
「へ…?」
「…春香さんに料理を教わりながら、聞いたんだ。コンビニで買うお弁当は栄養のバランスが悪いって。保存料や着色料も多いから、あんまり食べない方がいいんだってさ。ぼくは、タダでここに住まわせて貰ってるじゃない?だからせめて、ハルトくんの料理くらいはぼくが用意しようと思って。…迷惑かな?」
「や、迷惑じゃないけどさ…。そんな、気を使わなくてもいいのに…。」
決意と共にぐっと拳を握った後、少しだけ自信がなさそうに上目遣いで見つめてくる年上の天使の顔を見てしまったら、遠慮しますなんて言えるわけがない。
ふっ、とユキヒトさんが口許を綻ばせる。
「よかった。…実は、店長…春香さんに言われちゃってね。『若いうちからカップラーメンだのコンビニ弁当だのを主食にしてるなんて、あり得ないわぁ!ちゃんと家事を覚えた方が健康とお金の貯金になるのよ!いいわね?』なんて、さ。」
ああ、と、俺は全てに納得がいった。
きっと、日頃の雑談の中で、春香さんは、気の毒なユキヒトさんを匿っている(という設定になっている)俺のことも、それとなく聞き出していたのだろう。働こうにも身分証明書がない男を雇い、事情について細かい立ち入ったことは聞かないから、とは言え、それ以外のことはしっかり気にかけてくれているのだ、と、少なくとも俺はそう思った。
「今度の休みの日に、料理道具を買いに行かないとね。ハルトくんの家、最低限の鍋とかフライパン以外、何にもないからね──。」
「あぁ、まあ、そうね…。」
何せ、一人暮らしの自炊は思ったより金も手間もかかる。だから、本当に最低限の皿やコップしか置いていないし、それすらしばらく使われずに流し台の上の棚の中に放置されている有り様だ。
灰色の髪に灰色の瞳をした天使は、うん、と一つ頷くと、ポケットの中からフェイクレザーの二つ折りの財布を取り出して、中を覗き込んだ。日払いされる賃金の中から必要なものを少しずつ買い揃え、余ったお金が大事にしまわれているということは知っていた。
「元々、天使にお金なんていう概念はありません。自分のために欲しいと思う物もない。だから、これはハルトくんのために使うよ。…さ、頑張って、簡単な料理から覚えないとね…。」
「そんなに気合いを入れんでもいいってば。」
笑いながら、俺ははたと気づく。
もしかして、春香さんがユキヒトさんに料理を教えると言い出したのは、ただ純粋な店の手伝いの為ではなく…?
「──気のせい、かな。」
「うん?何が?」
「うぅん、何でもない。」
確かに、これは単なる俺の妄想かもしれない。しかし、働きながら少しずつ、普通の人間の生活に必要なことを覚えているユキヒトさんと、それを教えてくれる、見た目はアレでも心は優しい人がこの灰色の街角にいるのだという事実だけで、胸の中が感じたこともないくらいほわりと暖かくなるのが自分でもちょっとだけ不思議だった。
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