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果たして天使は灰色の都会に順応できるのか。

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 「──じゃ、これ。合鍵渡しておくから、出る時にこれ使って。」
 「うん、ありがとう。じゃ、行ってくるからね。」

 入居の時、不動産屋に渡された二つの合鍵のうちのひとつを使う日が来るとは思っていなかった。一枚のカードキーをユキヒトさんの大きくて温かい掌の中に置くと、長い指がそれを大事そうにぎゅっと握り締める。
 シフトの都合上、俺の方が家を出る時間は少し早い。だから、ユキヒトさんには鍵の使い方だけ教えてバイト先に向かうことにした。ユキヒトさんはといえば、昨日渡されたスーツに消臭スプレーを掛け、せっせとシャツにアイロンを掛けている。

 「家を出たら、通りのスーツ屋でいい感じの革靴見とくといいよ。──じゃあね。」
 「はい。ハルトくんも頑張ってね。」

 ニッコリと屈託なく笑って見送ってくれる人がいるというのは、意外と悪くない。果たしてユキヒトさんはあのアングラっぽい仕事場に馴染めるのか、一抹の不安がなくはなかったが、取り敢えず家を出る時間が迫っていた。カードキーの電子ロックで扉を施錠し、バイト先の居酒屋に徒歩で向かう。いつものように黒いキャップを被り、黒いマスクで顔を半分隠していた。
 


 掃除と準備を終えて開店の準備をする頃には、俺の頭の中は不安でいっぱいだった。時計を見れば十七時、春香さんのBAR『ヲFeMiん』は、支度を終えてから十八時には開店するという。とかく一日中心配が絶えず、何かの拍子にふとユキヒトさんの顔を思い出しては手が止まってしまう有様だった。

 「え、こんな料理、頼んでないけど…。」
 「──あっ!すいません、失礼しました!」

 注文を間違えて隣の卓に出すこと二回。自分で言うのも何だが、バイト中にここまでぼんやりしたのは初めてだ。別に、ユキヒトさんを信用していない訳ではないし、いうて赤の他人の仕事っぷりを俺が心配するなんて、何かおかしい。でも、もし家に帰って、傷ついた顔の天使が壁際でうずくまっていたらどうしよう。あの、人のよさそうな灰色の垂れ目が悲しみの色に染まっていたらどうしよう。それを思うと、今日のバイト早く終われ!と願い続けずにはいられない。
 休憩中も、無駄にスマホを触っているだけで、画面に表示されている内容は一向に頭に入ってこなかった。せめてユキヒトさんがスマホを持っていればメッセージを送ることもできたけど、ユキヒトさんには皆が当たり前に持っているそれすらない。あまりにももどかしい時間だけが過ぎていき、スマホやアプリがなかった昔の人は、どうやってこの焦りをやり過ごしていたのか心底不思議に思えたほどだ。

 そして、午前零時。ようやく、俺の今日のシフトが終わった。
 嵐のようにタイムカードを押し、挨拶もそこそこに職場を飛び出していく。繁華街を足早に通り抜け、マンションのある路地に着く頃には、俺の足はもう駆け足になっていた。

 「ただいま!」

 ドアを開け、室内を覗き込んでみたが、返事はない。部屋の電気も消えている。

 「──帰ってない、のかな?」

 玄関には、俺が貸してあげているゴム製のサンダルもない。ということは、ユキヒトさんは、少なくともまだここには戻ってきていないということだろう。
 肩を落としながら、電気をつけて六畳一間のフローリングに敷いたラグの上に座り込んだ。膝を抱えて体育座りをしながら、そういえば今日、晩飯を買いにコンビニに寄るのを忘れたことを思い出す。とてもではないが、自分の食事のことを考えている余裕はなかった。『ヲFeMiん』の定時は春香さんの気紛れで、でもおおむね俺より一時間遅く働くというから、まだ帰ってきていないというのは至極もっともなことなのだ。
 でも、もし、何かのはずみに記憶を取り戻した天使が、使命を思い出して俺に何も言わずにこの世界を去ったとしたら?
 あのユキヒトさんが、挨拶もなく姿を消すとは思えない。でも、相手には相手の事情があるだろうし、人間の俺には天使の事情なんて特殊過ぎてわかるはずもない。
 そわそわとスマホの時計を見ながら、時間だけを無駄に消費する。いっそのこと外に出て店の前まで迎えに行ってやろうか、いや、それは早すぎるし、何事もなかった時に非常に気まずい。でも、もし二時になっても帰ってこなかったら、心配だからやっぱり迎えに行った方がいいか。よし、二時になったら探しに行こう。そんなことを考えながら、スマホの時計が午前一時十五分になったその瞬間、ドアの方で小さな電子音がして、ガチャリとノブが鳴った。

 「ユキヒトさん!」
 「やぁ、ただいま。ハルトくん。」

 サンダルを脱いで部屋に上がってきたユキヒトさんは、その灰色の瞳をニコニコと笑ませていた。黒いピンストライプのスーツの中にベストを着たユキヒトさんは、大人の男、という感じでとても格好よく見えたけど、全身には煙草の匂いが染み付いている。部屋中に広がる煙草臭さは、今は全く気にならなかった。思わず腰を上げて駆け寄る俺を見下ろし、ユキヒトさんは、内ポケットから大事そうに取り出した1万円を、じゃん!と両手で持って自慢げに見せてくれた。

 「思ったより、ぼくがお客さんと話すのが上手かったみたい。『ちょっと給料に色を付けておくから、アンタ、明日も来るのよ?』って言ってくれてさ、こんなに貰っちゃった。」
 「──っ、はー…。」

 やっぱり、春香さんは見た目よりずっと人情家で、いい人だったみたいだ。
 急激に押し寄せる安心感で、床に膝を付いてへたり込む俺を、ユキヒトさんは高いところから不思議そうに見つめていた。

 「よかった、上手く行かなかったらどうしようかって…。ずっと考えてて…。」
 「ハルトくんは優しいねぇ、ありがとう。その気持ちで、ぼくは心がいっぱいだ。帰り際にまかない料理のカレーもご馳走になってしまったから、本当に今日はいい日だよ。」

 俺の心配は、どうやら盛大な取り越し苦労だった。それがわかって、急速に脱力する。賄いのカレーって、あの春香さんが料理するの?とどうでもいいことを考え出した瞬間、胃の腑の辺りがグゥ、と大きな音を立てた。

 「やべ、カレーの話聞いたら、俺もカレー食いたくなってきた。…ちょっとコンビニまで行ってくるから、ユキヒトさん、シャワー浴びておくといいよ。すげぇ煙草臭いもん。」
 「おや、そうかい?──お店にいる時には気にならなかったんだけど。」

 スンスンとスーツの袖口を嗅いでいるユキヒトさんは、少々事情が特殊ではあるが、新しい労働環境でうまくやったのだ。それがわかって、本当に心の中が軽くなった。
 今までは、誰かの失敗や成功がこんなに気になったことなんてなかったのに。

 俺は、スマホと鍵だけを持って、コンビニへの道を軽い足取りで歩いていた。今日はカレーをひとつと、缶チューハイを二本買う。そう心に決めていた。
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