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そして都会の片隅で天使と暮らし始める。
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「…ただいま──。」
一年ほど住んだマンションの玄関ドアを開け、少しばかりの緊張と共に挨拶の言葉を発してみた。すると、狭いキッチンとユニットバスが並ぶ廊下の向こうから、ヒョイと顔を出してくる人がいる。
「おかえりなさい、ハルトくん。」
「あー、よかった…。もし挨拶して、昨日のことが全部夢だったら、俺、ぼっちで挨拶してる限界野郎みたいじゃん…?」
片手に少し重たいコンビニ袋を下げたまま、俺は、靴を脱いでワンルームの中に歩いて行った。俺より少し背の高い男の人が、Tシャツにボクサーパンツ一枚でいるのは仕方がない。何せ、昨日拾ったばかりの天使には、俺が無理矢理に着せたその服以外に着るものがない。部屋の電気を付けながら、俺は一人用の折り畳みテーブルの上にコンビニ袋を置き、被っていたキャップと付けていた黒いマスクを外した。
「つか、部屋の電気くらい付けても良かったんだよ?別に。」
「うぅん、特に…天使には必要ないからねぇ。ただ何もしないでお祈りだけしてる、そんな日もあるでしょ?」
「ねぇよ。悪いけど。」
柔らかな眦を笑ませて首を傾げるユキヒトさんは、俺が昨日偶然拾った天使だ。灰色のミディアムウェーブの髪は多分癖っ毛で、本当は、背中には灰色の大きな羽根だって生えている。本当の名前も、目的も忘れたという天使を、俺はしばらくこの部屋に住まわせることにした。物を食べない、何もしない天使の一人くらい置いておいたとしても、そこまでコスパは変わらない。何より、自分好みの名前までつけた存在を見捨てて放り出すほど、俺は鬼でも悪魔でもない。
そんなユキヒトさんの前に、もう片手で持っていた大きめの紙袋をずいっと差し出した。
「何かな?」
「とりあえず、服と下着を買ってきたんだよ。──服はさ、やっすい古着で悪いけど。でも、似合うと思うよ。俺、そんなセンス悪くないと思ってるから。」
「これを、ぼくに?…あぁ、それできみは、出がけにぼくの肩幅や足の長さを測っていたのか!」
灰色の、垂れ目気味の瞳をきらきらと輝かせながら、ユキヒトさんはぱっと笑顔になって紙袋を開け始めた。黒い、シルエット細めのスラックス。白いカッターシャツに、レイヤードで着られるチェックのロングシャツ。あとは下着が少々。たった数千円の出費でも正直なところ痛くないとは言えなかったけど、そこは、残業を積極的にやっていくことでカバーできる。早速、いそいそとシャツを羽織り、パンツに足を通し始めるユキヒトさんのとても嬉しそうな顔を見ていると、ちょっとの残業くらいは全然我慢できるという気持ちになってくる。
「うん、これでどうかな?──似合う?」
「でしょ?やっぱ俺って天才だわ。サイズもぴったりだし、ちゃんといい感じだよ。」
実際、きちんと人間らしい、年相応の恰好をしたユキヒトさんは、半裸に近い恰好でいた時よりスラリとして遥かに格好よく見える。うきうきと顔を輝かせている様子は少し子供っぽいけど、何と言うか、見ていてとても胸の中があったかくなるような気がするのだ。
さて、と、俺は背負っていた小さなリュックサックを降ろした。そしてテーブルを挟んで座ると、目の前に、二人分のコンビニ弁当を展開する。もちろん、缶チューハイも二本分用意した。
「えぇと…?」
「うん。ユキヒトさんの食事がお供えレベルだっていうのは、昨日聞いた。でも、俺だけ飲み食いしてると気まずいんだわ。食べれない訳じゃないんでしょ?」
「うん、もちろんだけど──。でも、いいの…?」
上目遣いに聞いてくるのは、多分、金銭的なもののことを言っているのだ。正直に言うと、毎日毎日二人分の食費を払うのはきついけれど、食べられるかどうかだけでも聞いておく価値はあると思う。
「いいよ、今日は特別。とりあえず、出会いに乾杯しとくか。」
レモンハイの缶をプシュッと開けながら、買ってきた唐揚げ弁当をつまみに食事をする。カツンと缶を合わせると、ユキヒトさんは丁寧に手を合わせていただきますのお辞儀をした。彼の目鼻立ちは少し西洋人というか、ハーフのような感じだけど、箸はきちんと使えるようで少しだけ安心する。
「天使にも、ちゃんと味覚はあります。飲んだり食べたりしても、それはおいしいというパワーになって消えちゃうだけで。──うん、ハルトくんが買ってきてくれたっていうだけで、めちゃくちゃに美味しいねえ。この調子で元気を取り戻せば、思い出す…かな。」
最後の方は、少し自信がなさそうだった。溜息交じりにレモンハイを啜る様子を見ていたら、こっちまで妙に悲しい気持ちになってくる。
「…別に、記憶が戻るまでここにいてくれてもいいんだけど。」
「流石にそれはまずいよ。タダで住まわせてもらって、こんなに良くしてもらって、それできみに何もしなかったら、ぼくは本当に堕天してしまうかもしれない。…今でさえ、だいぶ翼が薄汚れているのにね…。」
俺は、なんとなく察した。雰囲気で。
この人は、元から野良鳩みたいな羽根をしていた訳じゃないんだと。
ユキヒトさんには多分何かの思い出せない理由があって、ギリギリまで何とかして、それで今、ギリギリの状態で俺の目の前にいるのだと。
あ、とユキヒトさんが思いついたように言う。
「ぼくも働きに行けばいいんじゃないかな?そうすれば──。」
「…あー、ユキヒトさんってさ。──印鑑とか、身分証明書とか、持ってる…?」
「え?」
やっぱそうだよね、と思って、俺は遠い眼で天井を見上げた。
免許証も、戸籍も、印鑑もない。名前も解らない『天使』を雇ってくれる、しかし反社会的ではない場所が、果たしていくつあるだろうか。いや、あるにはあるだろうが、このふんわりした人に風俗の送迎の仕事とか、ホストとか、そういった場所が向いているとはちっとも思えない。
「──ちょっと考えさせて。…いや、ちょっと相談させて。どうにかなる、かも、しれない。」
店長は、確か、十年以上この街の飲み屋界隈にいるはずだった。プライベートの話はほとんどしないけど、残業多めの話も含めて、ワンチャン聞いてみる価値はあるかもしれない。
缶の酒をちびっと舐め、噛み締める弁当の唐揚げは、どこかしょっぱく感じられた。
一年ほど住んだマンションの玄関ドアを開け、少しばかりの緊張と共に挨拶の言葉を発してみた。すると、狭いキッチンとユニットバスが並ぶ廊下の向こうから、ヒョイと顔を出してくる人がいる。
「おかえりなさい、ハルトくん。」
「あー、よかった…。もし挨拶して、昨日のことが全部夢だったら、俺、ぼっちで挨拶してる限界野郎みたいじゃん…?」
片手に少し重たいコンビニ袋を下げたまま、俺は、靴を脱いでワンルームの中に歩いて行った。俺より少し背の高い男の人が、Tシャツにボクサーパンツ一枚でいるのは仕方がない。何せ、昨日拾ったばかりの天使には、俺が無理矢理に着せたその服以外に着るものがない。部屋の電気を付けながら、俺は一人用の折り畳みテーブルの上にコンビニ袋を置き、被っていたキャップと付けていた黒いマスクを外した。
「つか、部屋の電気くらい付けても良かったんだよ?別に。」
「うぅん、特に…天使には必要ないからねぇ。ただ何もしないでお祈りだけしてる、そんな日もあるでしょ?」
「ねぇよ。悪いけど。」
柔らかな眦を笑ませて首を傾げるユキヒトさんは、俺が昨日偶然拾った天使だ。灰色のミディアムウェーブの髪は多分癖っ毛で、本当は、背中には灰色の大きな羽根だって生えている。本当の名前も、目的も忘れたという天使を、俺はしばらくこの部屋に住まわせることにした。物を食べない、何もしない天使の一人くらい置いておいたとしても、そこまでコスパは変わらない。何より、自分好みの名前までつけた存在を見捨てて放り出すほど、俺は鬼でも悪魔でもない。
そんなユキヒトさんの前に、もう片手で持っていた大きめの紙袋をずいっと差し出した。
「何かな?」
「とりあえず、服と下着を買ってきたんだよ。──服はさ、やっすい古着で悪いけど。でも、似合うと思うよ。俺、そんなセンス悪くないと思ってるから。」
「これを、ぼくに?…あぁ、それできみは、出がけにぼくの肩幅や足の長さを測っていたのか!」
灰色の、垂れ目気味の瞳をきらきらと輝かせながら、ユキヒトさんはぱっと笑顔になって紙袋を開け始めた。黒い、シルエット細めのスラックス。白いカッターシャツに、レイヤードで着られるチェックのロングシャツ。あとは下着が少々。たった数千円の出費でも正直なところ痛くないとは言えなかったけど、そこは、残業を積極的にやっていくことでカバーできる。早速、いそいそとシャツを羽織り、パンツに足を通し始めるユキヒトさんのとても嬉しそうな顔を見ていると、ちょっとの残業くらいは全然我慢できるという気持ちになってくる。
「うん、これでどうかな?──似合う?」
「でしょ?やっぱ俺って天才だわ。サイズもぴったりだし、ちゃんといい感じだよ。」
実際、きちんと人間らしい、年相応の恰好をしたユキヒトさんは、半裸に近い恰好でいた時よりスラリとして遥かに格好よく見える。うきうきと顔を輝かせている様子は少し子供っぽいけど、何と言うか、見ていてとても胸の中があったかくなるような気がするのだ。
さて、と、俺は背負っていた小さなリュックサックを降ろした。そしてテーブルを挟んで座ると、目の前に、二人分のコンビニ弁当を展開する。もちろん、缶チューハイも二本分用意した。
「えぇと…?」
「うん。ユキヒトさんの食事がお供えレベルだっていうのは、昨日聞いた。でも、俺だけ飲み食いしてると気まずいんだわ。食べれない訳じゃないんでしょ?」
「うん、もちろんだけど──。でも、いいの…?」
上目遣いに聞いてくるのは、多分、金銭的なもののことを言っているのだ。正直に言うと、毎日毎日二人分の食費を払うのはきついけれど、食べられるかどうかだけでも聞いておく価値はあると思う。
「いいよ、今日は特別。とりあえず、出会いに乾杯しとくか。」
レモンハイの缶をプシュッと開けながら、買ってきた唐揚げ弁当をつまみに食事をする。カツンと缶を合わせると、ユキヒトさんは丁寧に手を合わせていただきますのお辞儀をした。彼の目鼻立ちは少し西洋人というか、ハーフのような感じだけど、箸はきちんと使えるようで少しだけ安心する。
「天使にも、ちゃんと味覚はあります。飲んだり食べたりしても、それはおいしいというパワーになって消えちゃうだけで。──うん、ハルトくんが買ってきてくれたっていうだけで、めちゃくちゃに美味しいねえ。この調子で元気を取り戻せば、思い出す…かな。」
最後の方は、少し自信がなさそうだった。溜息交じりにレモンハイを啜る様子を見ていたら、こっちまで妙に悲しい気持ちになってくる。
「…別に、記憶が戻るまでここにいてくれてもいいんだけど。」
「流石にそれはまずいよ。タダで住まわせてもらって、こんなに良くしてもらって、それできみに何もしなかったら、ぼくは本当に堕天してしまうかもしれない。…今でさえ、だいぶ翼が薄汚れているのにね…。」
俺は、なんとなく察した。雰囲気で。
この人は、元から野良鳩みたいな羽根をしていた訳じゃないんだと。
ユキヒトさんには多分何かの思い出せない理由があって、ギリギリまで何とかして、それで今、ギリギリの状態で俺の目の前にいるのだと。
あ、とユキヒトさんが思いついたように言う。
「ぼくも働きに行けばいいんじゃないかな?そうすれば──。」
「…あー、ユキヒトさんってさ。──印鑑とか、身分証明書とか、持ってる…?」
「え?」
やっぱそうだよね、と思って、俺は遠い眼で天井を見上げた。
免許証も、戸籍も、印鑑もない。名前も解らない『天使』を雇ってくれる、しかし反社会的ではない場所が、果たしていくつあるだろうか。いや、あるにはあるだろうが、このふんわりした人に風俗の送迎の仕事とか、ホストとか、そういった場所が向いているとはちっとも思えない。
「──ちょっと考えさせて。…いや、ちょっと相談させて。どうにかなる、かも、しれない。」
店長は、確か、十年以上この街の飲み屋界隈にいるはずだった。プライベートの話はほとんどしないけど、残業多めの話も含めて、ワンチャン聞いてみる価値はあるかもしれない。
缶の酒をちびっと舐め、噛み締める弁当の唐揚げは、どこかしょっぱく感じられた。
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