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拾った天使になんとなく名前を付けてみた。

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 「何から話せばいいのかな──。えぇと、きみは。」
 「ハルト。田志摩タジマ陽翔ハルト。十九歳。」
 「…ありがとう。」

 とりあえず、自己紹介と言えば名前、あと精々歳からだろう。なるべく表情を見せないように前髪長めのマッシュにしている黒髪をボリボリと掻きながら、自称『天使』の言葉を待つ。彼は、眉間に悩ましげな皺を寄せ、俯きながら、必死で何かを思い出そうとしているように見えた。
 気まずい沈黙がしばらく続く。それを断ち切ったのは、彼の、深い、それは深い溜息の音だった。

 「──うん。参ったな。本当に参った。今のぼくは、自分の名前さえ思い出せないんだ。ハルトくん。きみに名乗る名も持ち合わせないぼくを許して欲しい。」
 「記憶喪失、ってこと?」
 「そうなるね。天使が地上に降りてくるときは、何らかの使命を持っていて、役目が終わったら誰にも知られないように天に還るんだ。──そこは覚えている。でも、ぼくは一体…何のために、ここに?気が付いたらすごい恰好の乱痴気騒ぎの中にいて、訳もわからず歩いていたら、そのうち、この翼に気付いた人間に追い回されて…。」
 「──あー。ハロウィンフェスの中にいた訳ね…。」

 そりゃ、ハロウィンの時にこの恰好なら、よくできたコスプレだと思われるのが普通だろう。幸か不幸か、ハロウィンの喧騒がしばらくの間、彼を他人の目から隠し通したのだ。しげしげと翼を眺める俺の視線に気づいたのか、その人は、灰色の綺麗な瞳を細めて力なく笑う。
 「この翼も、こんなに薄汚れて──。…うん、今貰った水で、少し元気になったよ。これは、この部屋の中では仕舞しまっちゃおうね…。」
 深呼吸と共に薄く目を閉ざす、彼。すると、あれだけ嵩張かさばっていた灰色の巨大な鳥の翼が、まるで折り紙が畳まれるように、音もなく、彼の背中の中にざわざわと吸い込まれて消えていくのだ。
 「うわ、それが無ければ、完璧にただの男の人だよね。もしかして、天使って世の中に案外ウジャウジャいたりする?」
 「そんな害虫みたいなオノマトペを付けないでくれよ。──ん?」
 彼の顔がハッと強張った。そして、白いワンピースのような服の上から、自分の身体をあちこち、叩くように触り始める。何か信じられないことでもあったかのように青ざめ、ついに、白い服の裾に手を掛けてバサリと勢いよく脱ぎ捨てる。彼はそれ以外、布というものを全く身に着けていない。あまりのことに、俺は軽い悲鳴と共に顔を隠して後ろを向くしかなかった。
 「ちょっと!いくら天使で男でも、他人の家でいきなり全裸はやべぇだろ!になるな、裸に!」
 「いや、違うよ!──男だ・・。男の身体だ。…そうだよね?──本来、天使には人間みたいな性別なんてないはずなのに…!」
 他人に裸を見せるということより何より、彼は自分の肉体に対して深い衝撃を覚えているようだった。指の間からチラリと覗いてみれば、こっちが恥ずかしくなるくらいに線の細い、綺麗な『男』の身体をしている。もし、彼が性別を示すもの・・を持っていなければ、かえって驚いて凝視していたかもしれない。しかし、背中から翼の消えた彼は、どこからどう見ても完璧なまでに『男』でしかなかった。そういえば昔、天使には性別がない、という話を何かの本かネットで読んだような気がしないでもない。ともかく、裸体を晒して呆然と座り込んでいるその人をそのままにしておくのは、それはもう、とても目の毒だった。
 
 「…ちょっと見た感じ、立派な男だね。あんた。まあ、事情はわからんがとりあえずしまえ!隠せ!」
 立ち上がり、プラスチックでできた安っぽいタンスを漁って、洗った下着と大きめのTシャツを一枚、まとめて放り投げる。百七十五センチで細めの俺より、十センチちょいは確実に背が高い彼に、とりあえず着せられるものと言えば、そんなところだろう。
 未だに信じられない、という顔つきで呆然とボクサーパンツを履き、Tシャツに袖を通す、彼。聞いたところで答えは決まり切っているのだが、とりあえずは質問してみることにする。
 「──で、こっからどうするの?行く場所とか、ある?」
 目の前で、項垂れた灰色の髪がふるふると揺れる。あ、やっぱ。と内心思った。
 「だって、自分の名前さえ思い出せないんだよ?──これから、どこに行けばいいんだろう。」
 「とりあえずは、さ。何日か、ここに居てもいいよ。」

 その時、俺がどうしてそんなに寛容な答えを出したのかは、解るようでいて解らないようでいて、それでも、俺にとっては間違いなく正解だったのだろう。
 都会の雑踏の中、素性も解らない『天使』を俺は拾い、拾ったものをそのまま投げ出したくはなかった。それに、彼の垂れ目気味の優しげな顔立ちを見ていると、どうにも放っておけない気分になる。
 驚きに見開かれる目は、すぐにほっと柔らかく細められた。そんな彼の表情は、不思議と、人の胸の中をじわっと温かくさせる。

 「──ありがたいな。きみが優しい子でよかった。…すぐに何か、思い出すといいんだけど。」
 「とりあえずさ、名前、思い出せないんでしょ?」 
 「…うん。」
 悲しげなその人の顔の真ん中を指差して、俺はニッと笑って見せた。
 「じゃ、仮の名前は、ユキヒト。──ユキヒトさん、でどう?」
 
 きっと本当は、何とかリエルみたいなカッコいい別の名前があると思うけれど、名無しのままではやりにくいし、第一、何とかリエルでは呼んだ瞬間に舌を噛みかねない。俺の提案した名前は、きっと彼にとてもよく似合うと思っていた。少なくとも、俺がイメージしたのは、この名前。これしかない。

 彼は、大きな灰色の眼をぱちぱちと瞬きさせて、俺の言葉を繰り返す。
 「ユキヒト。それが、きみがくれたぼくの名前かい?」
 「うん。──ユキヒトさん。ま、本当の名前を思い出したら、そっちの方がいいと思うけど。」
 「…うぅん。それでも、ハルトくんが考えてくれたぼくの名前だからね。大切にしなきゃ。」

 ニッコリと柔らかく微笑む、『ユキヒト』さんの顔を見ていると、不意に胃の腑の辺りがグゥ、と大きく鳴った。

 「あ、弁当まだだった。──ユキヒトさん、食い物は?」
 「いいや、要らない。」
 毎日をまかない飯か外食かコンビニで済ませている俺の家には、インスタントラーメン程度の食料しかない。冷蔵庫だって、一人分の小さなリサイクル品だ。なのに彼は、笑顔で緩やかに首を横に振って俺の質問を柔らかく辞退する。
 「ぼくは天使だよ。人間の善意や感謝で生きているんだ。…さっき、きみはぼくに水を恵んでくれた。そして今、名前を恵んでくれただろう?──それでお腹いっぱい。悪意をぶつけられると消耗するけど、食べるものなら今、たくさん貰ったよ。」
 「ふぅん…?」
 冷蔵庫の上に置いてある電子レンジで冷めた弁当を温め直しながら、そういうものか、と俺は首を捻る。ともあれ、食費がかさまないならば、天使の一人くらい家に置いておいても問題ないだろう。
 「──そういえばここ、ペット可だっけなぁ…。」
 「なんか言った?」
 「いえ、何でも。」
 
 柔らかく笑う嬉しそうなユキヒトさんを尻目に、一人で弁当を食べて酒を飲むのは少しばかり気が引けたけど。
 「俺、明日もバイトだからさ。家で大人しくしててくれる?」
 「もちろんだよ。掃除くらいはしておくからね。」

 缶チューハイをちびちび飲みながら、考える。
 明日は速めに家を出て、名前を付けた天使のために、古着屋で何枚か服を買ってこなければ。
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