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曽根川君と加賀さん
1.二週間の始まり
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加賀が元妻と別れたのは、十五年も前のこと。直接の原因は加賀の機能不全を理由にした元妻の浮気だったのだが、思えば、結婚した当初から、性格や価値観の違いによるボタンの掛け違いはあったように思う。
友人の紹介で知り合った元妻は早く子供を授かることを望んだが、平社員で役職のなかった若き日の加賀は収入もそれほど高くはなく、妻子を養えるだけの安定した生活基盤を作ろうとするあまり、我武者羅に出世を急いで、急な出張や残業も進んで買って出た。
当時は、結婚すれば女性は寿退社し、専業主婦になるのが当たり前という風潮だった。時代が変わった今にして思えば、家に一人きりで、随分と淋しい思いをさせていたのだろう。そしてそのうち夜の生活もすれ違い、誘われても、疲労のあまり求めに応じられないこともしばしばだった。妻の要望に応えられなかったのは、男性としての機能が上手く働かない自分自身を、そうだと認めたくなかったせいもある。
そして、度々家を空けるようになった妻の、『友人と旅行に行っている』という言葉を愚直に信じていた結果が、ある日突然自宅を訪れ、加賀に土下座で詫びた間男と、義理の両親である。
加賀とは年単位で性交渉のない妻が、現在妊娠3ヶ月だと聞かされた時の衝撃は、しばらくの間フラッシュバックして加賀を苦しめた。どうしても子供が欲しかった、仕方がないと泣きながら詰られ、加賀は何一つ言い返すことができなかったのだ。
浮気相手と義理の両親から、慰謝料と、義両親の援助で購入したマンションの権利とを譲り受け、早くに両親を亡くしていた加賀は、天涯孤独の身となった。
そしてその時から、自分自身の男性としての機能が一切働かなくなったことを、加賀ははっきりと自覚したのである。
独りになってからも、再婚しようという気は一切起きなかった。男としてのプライドは大いに傷ついたままであったし、こんなバツイチの男と結婚を望む物好きな女性もいないだろうと考えていた。
気分が落ち込まないように、日課として身体を動かし、少しでも体に良い美味いものを食べようと、家庭料理にこだわるようになる。後は少々映画を見たり、一人でハイキングや美術館に出掛けたりする以外は、仕事を生き甲斐と定めていたのだ。
束の間の週末が終わり、アラームの音と共に起床する。
眠い目を擦りながらスマートフォンを取り上げた加賀の目に、実に見慣れないアイコンが飛び込んできたのだ。
「…えっ──」
それは、滅多に連絡の来ないメッセンジャーアプリのアイコンだった。
送信者名は『S.Sakuto』。画面を開いてみれば、鏡の前で自撮りした晴れやかな笑顔の曽根川の写真に、絵文字が盛り込まれた短いメッセージが添えられている。
『おはようございます。いい週末を過ごせましたか?お身体の具合はどう?今日からまたお仕事だと思いますけど、無理しないでくださいね。どこか身体が痛くなったら、すぐ連絡してください』
そして、やたらと凝った、デフォルト設定ではない絵文字のスタンプ。
滞っていた眠気も一気に覚める衝撃に、加賀の時間はしばらくの間、停止していた。ベッドから立ち上がることもできず、これは一体どうしたものかと顔を引き攣らせる。
しかしながら、メッセージを読んだことは、アプリの仕組み上相手に伝わってしまうのだから、返信しないのは非常に気が引けた。だが、こういったメッセージを送られた場合、どのように答えればいいのか、まるで見当がつかない。
自分の顔写真を撮影して送り返すのは、断じて御免だった。第一そんなもの、相手だって望んでいるはずがない。
これ以上悩めば遅刻する、そういった時間帯まで悩みに悩んだ末、指先を動かして送った文章は、ただのこれだけだ。
『おはよう 大丈夫だよ』
自分ながら何ら飾り気のない、素っ気ない文章。俺は何をやっているんだ、と頭を抱えながら、加賀は遠い目で朝の身支度を始めたのだった。
友人の紹介で知り合った元妻は早く子供を授かることを望んだが、平社員で役職のなかった若き日の加賀は収入もそれほど高くはなく、妻子を養えるだけの安定した生活基盤を作ろうとするあまり、我武者羅に出世を急いで、急な出張や残業も進んで買って出た。
当時は、結婚すれば女性は寿退社し、専業主婦になるのが当たり前という風潮だった。時代が変わった今にして思えば、家に一人きりで、随分と淋しい思いをさせていたのだろう。そしてそのうち夜の生活もすれ違い、誘われても、疲労のあまり求めに応じられないこともしばしばだった。妻の要望に応えられなかったのは、男性としての機能が上手く働かない自分自身を、そうだと認めたくなかったせいもある。
そして、度々家を空けるようになった妻の、『友人と旅行に行っている』という言葉を愚直に信じていた結果が、ある日突然自宅を訪れ、加賀に土下座で詫びた間男と、義理の両親である。
加賀とは年単位で性交渉のない妻が、現在妊娠3ヶ月だと聞かされた時の衝撃は、しばらくの間フラッシュバックして加賀を苦しめた。どうしても子供が欲しかった、仕方がないと泣きながら詰られ、加賀は何一つ言い返すことができなかったのだ。
浮気相手と義理の両親から、慰謝料と、義両親の援助で購入したマンションの権利とを譲り受け、早くに両親を亡くしていた加賀は、天涯孤独の身となった。
そしてその時から、自分自身の男性としての機能が一切働かなくなったことを、加賀ははっきりと自覚したのである。
独りになってからも、再婚しようという気は一切起きなかった。男としてのプライドは大いに傷ついたままであったし、こんなバツイチの男と結婚を望む物好きな女性もいないだろうと考えていた。
気分が落ち込まないように、日課として身体を動かし、少しでも体に良い美味いものを食べようと、家庭料理にこだわるようになる。後は少々映画を見たり、一人でハイキングや美術館に出掛けたりする以外は、仕事を生き甲斐と定めていたのだ。
束の間の週末が終わり、アラームの音と共に起床する。
眠い目を擦りながらスマートフォンを取り上げた加賀の目に、実に見慣れないアイコンが飛び込んできたのだ。
「…えっ──」
それは、滅多に連絡の来ないメッセンジャーアプリのアイコンだった。
送信者名は『S.Sakuto』。画面を開いてみれば、鏡の前で自撮りした晴れやかな笑顔の曽根川の写真に、絵文字が盛り込まれた短いメッセージが添えられている。
『おはようございます。いい週末を過ごせましたか?お身体の具合はどう?今日からまたお仕事だと思いますけど、無理しないでくださいね。どこか身体が痛くなったら、すぐ連絡してください』
そして、やたらと凝った、デフォルト設定ではない絵文字のスタンプ。
滞っていた眠気も一気に覚める衝撃に、加賀の時間はしばらくの間、停止していた。ベッドから立ち上がることもできず、これは一体どうしたものかと顔を引き攣らせる。
しかしながら、メッセージを読んだことは、アプリの仕組み上相手に伝わってしまうのだから、返信しないのは非常に気が引けた。だが、こういったメッセージを送られた場合、どのように答えればいいのか、まるで見当がつかない。
自分の顔写真を撮影して送り返すのは、断じて御免だった。第一そんなもの、相手だって望んでいるはずがない。
これ以上悩めば遅刻する、そういった時間帯まで悩みに悩んだ末、指先を動かして送った文章は、ただのこれだけだ。
『おはよう 大丈夫だよ』
自分ながら何ら飾り気のない、素っ気ない文章。俺は何をやっているんだ、と頭を抱えながら、加賀は遠い目で朝の身支度を始めたのだった。
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