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第五章 Memorado pri Verda(メモラード・プリ・ヴェルダ)
Memorado pri Verda.3
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「そんな顔するなよ、ギィ。このラ・ルゴシュ辺境伯が、ヒトの子を直々に居城に招いてやったんだぞ…?」
「それは、いい。恩を着せるような言い方は気に食わないが、問題なのは招き方だろうが。」
「私としては、キミが少しでも苦しまないように配慮したつもりだったんだがなぁ…。」
眉尻を下げて溜息を吐く、壮年の貴人の姿をした存在。上体を起こすと、白いシャツに包まれた腕が伸びてきて、指の先が、短い小麦色の金髪をくるりと巻き取って柔らかく梳き流す。あたかも、子供をあやすような他愛もない仕草でゲオルギウスを懐柔しようとするルゴシュの所作には、恐らく本当に悪気というものがない。確かに、数カ月前の夜、気紛れなルゴシュに攫われ、抱きかかえられて空を飛んだ時の、方向感覚の全てを狂わされる耐え難い吐き気や目眩のことは、未だに思い出すだけで胸が悪くなりそうだった。
素早く首を締め上げ、失神の淵に落としてから抱えて飛行することで、人間であるゲオルギウスの身を慮ったというのは確かなのだろう。だが、何の前触れもなく間合いに踏み込んで、並の兵士より遥かに優れた武装神父であるゲオルギウスをあっさりと昏倒させたルゴシュに、不死鬼、吸血真祖としての凄まじい力が備わっていることを、許されざる馴れ合いのうちにすっかり忘れ去っていた己自身が、ゲオルギウスは大層不甲斐なく、情けなく感じた。なのに、唇を曲げた顰め面で視線を逸らそうとする若い神父の頬を両掌で包み、無理矢理に顔を向けさせようとしてくるルゴシュは、ゲオルギウスの内心の苦悩など全く気にしていない様子だ。寒い冬は殊更ひやりと冷たい感触のある彼の手が気にならないのは、この部屋の中が充分に暖かいから。人間であるゲオルギウスが凍えないように、わざわざ暖炉に薪をくべたのは、これもまたルゴシュの気紛れか。嘲笑でもなければ、小馬鹿にしているようにも見えない柔らかな表情で口角を軽く持ち上げ、くく、と咽喉を鳴らして彼は微笑う。
強引に視線を重ねられるのは業腹だったが、お陰で、その小さな体躯越しに部屋の中の様子をもう少し詳しく窺うことが出来た。聖堂よりは狭く、司祭館の寝室よりは遥かに広い部屋は灰色がかっていて、おおよそ、金持ちや貴族が持っていて然るべき豪華な調度の類はほとんど見当たらない。この寝台も、元は天蓋にカーテンの張り巡らされた立派なものであったのだろう。四方と天を覆う布は引き千切られ、彫刻の施された黒檀の支柱だけが残っていた。この地を数百年にも亘って支配してきた吸血真祖であり、遥かな昔に辺境伯の地位を賜った男は、人間が欲する華美や奢侈というものを好んではいないのだろう。しかし、子供の頃に姉と慕った修道女が、吸血鬼はそのようなものを好むのだと語り聞かせてくれたような、骸骨や動物の死骸や薄気味の悪い動物の姿はない。蚤も虱もいない寝台は小綺麗で、大きな羽根枕が幾つもあり、大層寝心地がいいものだった。
「大丈夫だ、事が終わったら、ちゃんと帰してあげよう。冬の朝日は足が遅い、それまでゆっくり愉しめる。」
「…別に、俺は穢れた快楽の為にお前を抱いている訳じゃない。」
「穢れ、ねぇ。」
頭を振ってその手を振り払おうとしても、見た目からは想像もつかないルゴシュの力がそれを許さない。揺るぎなくゲオルギウスを捕らえておきながら、ルゴシュは眦に薄く皺の刻まれた翠の睛をゆっくりと細め、二本の腕をするりとゲオルギウスの首筋に巻き付けた。壮齢の男の姿をした小柄な闇から発せられる、得も言われぬ誘引の色香は、どんなに美しく咲き誇った大輪の白百合より尚、若い神父の心を捕らえて離さないのだ。不完全な誘引の力、それを知っているが故にルゴシュは勝ち誇ったように微笑い、ゲオルギウスは自己嫌悪と煩悶に灼かれながら顔を顰めて溜息を吐く。如何に見下げ果てた行いであろうとも、神と精霊の御使いに重罪を咎められようとも、己は決してこの誘惑を撥ね退けることはできないのだ。よしんば神罰が下るのであれば、今すぐにでも怒れる神の御手から雷霆が下され、心臓を突き抜かれても不思議はない大罪であるというのに、神も精霊も、この身にただちに死という名の罰を下すことはない。
かたや聖霊教会に仕える司祭として民衆に神と精霊の教えを説き、その一方では神敵である吸血真祖の胸に杭を打ち込むことが出来ないばかりか、教義によって禁じられた後ろのとば口で、人の男とおおよそ変わらぬ姿をしたモノと交じらいを持っている。こんな秘密を知られたら、村を護る武装司祭への弛まぬ敬意を裏切られた村人たちの手で、石打と共に火刑に処されても何らおかしくはない。心を引き裂く葛藤は、棘草で出来た脱げない帷子だ。故に、ルゴシュと相対する時、ゲオルギウスは如何なる時も張り詰めた気を抜くことが出来ずにいた。現に、まさか他者の訪れなどある筈もないと鷹を括っていた、森の奥の密会の現場に踏み込まれたばかりなのだから。
そんなゲオルギウスの内心を見透かすように、翡翠色の瞳がすぅと細い笑みを象った。
「──ここは、吸血真祖の塒。何人たりとも、この砦には近づけやしない。百人の武装神父の隊列であっても、ね。それこそ、オマエ達の神と精霊の目さえ届かないだろうよ。…おいで、ゲオルギウス。」
囁きほどの大きさの声は、幾度でもゲオルギウスの名を呼び、そして聖霊教徒が堕落と呼ぶ感情を促す。するりと巻き付いた手に武装神服の背を撫でられ、ゲオルギウスは瞑目しながら小柄で痩せた体躯を力任せに、息も絶えよとばかりに強く抱き締め、短く吐き捨てた。
「──悪魔め。」
「何とでも言うがいいさ。──早く。私は、もうすっかり渇いてるんだ…。」
甘い魔性の囁きは、いつもゲオルギウスに深い諦念と荒れ狂う凶暴な欲望とを同時にもたらした。大柄な人間の若者の、抱き殺さんばかりに力強い抱擁を愉悦とばかりに受け止め、ルゴシュの咽喉が微かに笛のような歓喜の音を立てる。若く荒々しい、貪るような接吻を小さな牙のある口で受け止めながら、壮齢の麗しい貴人は長い銀色の睫毛を伏せて身を委ね、そっと目を瞑った。仮に、これから若い奔馬の如き激しい情欲の贄に据えられようとも構わない、そんな風に見える仕草だった。
「それは、いい。恩を着せるような言い方は気に食わないが、問題なのは招き方だろうが。」
「私としては、キミが少しでも苦しまないように配慮したつもりだったんだがなぁ…。」
眉尻を下げて溜息を吐く、壮年の貴人の姿をした存在。上体を起こすと、白いシャツに包まれた腕が伸びてきて、指の先が、短い小麦色の金髪をくるりと巻き取って柔らかく梳き流す。あたかも、子供をあやすような他愛もない仕草でゲオルギウスを懐柔しようとするルゴシュの所作には、恐らく本当に悪気というものがない。確かに、数カ月前の夜、気紛れなルゴシュに攫われ、抱きかかえられて空を飛んだ時の、方向感覚の全てを狂わされる耐え難い吐き気や目眩のことは、未だに思い出すだけで胸が悪くなりそうだった。
素早く首を締め上げ、失神の淵に落としてから抱えて飛行することで、人間であるゲオルギウスの身を慮ったというのは確かなのだろう。だが、何の前触れもなく間合いに踏み込んで、並の兵士より遥かに優れた武装神父であるゲオルギウスをあっさりと昏倒させたルゴシュに、不死鬼、吸血真祖としての凄まじい力が備わっていることを、許されざる馴れ合いのうちにすっかり忘れ去っていた己自身が、ゲオルギウスは大層不甲斐なく、情けなく感じた。なのに、唇を曲げた顰め面で視線を逸らそうとする若い神父の頬を両掌で包み、無理矢理に顔を向けさせようとしてくるルゴシュは、ゲオルギウスの内心の苦悩など全く気にしていない様子だ。寒い冬は殊更ひやりと冷たい感触のある彼の手が気にならないのは、この部屋の中が充分に暖かいから。人間であるゲオルギウスが凍えないように、わざわざ暖炉に薪をくべたのは、これもまたルゴシュの気紛れか。嘲笑でもなければ、小馬鹿にしているようにも見えない柔らかな表情で口角を軽く持ち上げ、くく、と咽喉を鳴らして彼は微笑う。
強引に視線を重ねられるのは業腹だったが、お陰で、その小さな体躯越しに部屋の中の様子をもう少し詳しく窺うことが出来た。聖堂よりは狭く、司祭館の寝室よりは遥かに広い部屋は灰色がかっていて、おおよそ、金持ちや貴族が持っていて然るべき豪華な調度の類はほとんど見当たらない。この寝台も、元は天蓋にカーテンの張り巡らされた立派なものであったのだろう。四方と天を覆う布は引き千切られ、彫刻の施された黒檀の支柱だけが残っていた。この地を数百年にも亘って支配してきた吸血真祖であり、遥かな昔に辺境伯の地位を賜った男は、人間が欲する華美や奢侈というものを好んではいないのだろう。しかし、子供の頃に姉と慕った修道女が、吸血鬼はそのようなものを好むのだと語り聞かせてくれたような、骸骨や動物の死骸や薄気味の悪い動物の姿はない。蚤も虱もいない寝台は小綺麗で、大きな羽根枕が幾つもあり、大層寝心地がいいものだった。
「大丈夫だ、事が終わったら、ちゃんと帰してあげよう。冬の朝日は足が遅い、それまでゆっくり愉しめる。」
「…別に、俺は穢れた快楽の為にお前を抱いている訳じゃない。」
「穢れ、ねぇ。」
頭を振ってその手を振り払おうとしても、見た目からは想像もつかないルゴシュの力がそれを許さない。揺るぎなくゲオルギウスを捕らえておきながら、ルゴシュは眦に薄く皺の刻まれた翠の睛をゆっくりと細め、二本の腕をするりとゲオルギウスの首筋に巻き付けた。壮齢の男の姿をした小柄な闇から発せられる、得も言われぬ誘引の色香は、どんなに美しく咲き誇った大輪の白百合より尚、若い神父の心を捕らえて離さないのだ。不完全な誘引の力、それを知っているが故にルゴシュは勝ち誇ったように微笑い、ゲオルギウスは自己嫌悪と煩悶に灼かれながら顔を顰めて溜息を吐く。如何に見下げ果てた行いであろうとも、神と精霊の御使いに重罪を咎められようとも、己は決してこの誘惑を撥ね退けることはできないのだ。よしんば神罰が下るのであれば、今すぐにでも怒れる神の御手から雷霆が下され、心臓を突き抜かれても不思議はない大罪であるというのに、神も精霊も、この身にただちに死という名の罰を下すことはない。
かたや聖霊教会に仕える司祭として民衆に神と精霊の教えを説き、その一方では神敵である吸血真祖の胸に杭を打ち込むことが出来ないばかりか、教義によって禁じられた後ろのとば口で、人の男とおおよそ変わらぬ姿をしたモノと交じらいを持っている。こんな秘密を知られたら、村を護る武装司祭への弛まぬ敬意を裏切られた村人たちの手で、石打と共に火刑に処されても何らおかしくはない。心を引き裂く葛藤は、棘草で出来た脱げない帷子だ。故に、ルゴシュと相対する時、ゲオルギウスは如何なる時も張り詰めた気を抜くことが出来ずにいた。現に、まさか他者の訪れなどある筈もないと鷹を括っていた、森の奥の密会の現場に踏み込まれたばかりなのだから。
そんなゲオルギウスの内心を見透かすように、翡翠色の瞳がすぅと細い笑みを象った。
「──ここは、吸血真祖の塒。何人たりとも、この砦には近づけやしない。百人の武装神父の隊列であっても、ね。それこそ、オマエ達の神と精霊の目さえ届かないだろうよ。…おいで、ゲオルギウス。」
囁きほどの大きさの声は、幾度でもゲオルギウスの名を呼び、そして聖霊教徒が堕落と呼ぶ感情を促す。するりと巻き付いた手に武装神服の背を撫でられ、ゲオルギウスは瞑目しながら小柄で痩せた体躯を力任せに、息も絶えよとばかりに強く抱き締め、短く吐き捨てた。
「──悪魔め。」
「何とでも言うがいいさ。──早く。私は、もうすっかり渇いてるんだ…。」
甘い魔性の囁きは、いつもゲオルギウスに深い諦念と荒れ狂う凶暴な欲望とを同時にもたらした。大柄な人間の若者の、抱き殺さんばかりに力強い抱擁を愉悦とばかりに受け止め、ルゴシュの咽喉が微かに笛のような歓喜の音を立てる。若く荒々しい、貪るような接吻を小さな牙のある口で受け止めながら、壮齢の麗しい貴人は長い銀色の睫毛を伏せて身を委ね、そっと目を瞑った。仮に、これから若い奔馬の如き激しい情欲の贄に据えられようとも構わない、そんな風に見える仕草だった。
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これが性癖という方に刺されば嬉しいです。(同作はpixivに一部掲載しています)SNS(ブルースカイ)のフォローいただけますと幸いです→@makiizumi.bsky.social
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