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第五章 Memorado pri Verda(メモラード・プリ・ヴェルダ)
Memorado pri Verda.1※
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緑の記憶。
ジェダスがそう名付けた歌がある。
その歌は、人間が歌い継いできたものではなく、ジェダス自身が音を定め、詞を書き綴った歌だ。
もっとも、この歌を知っている者は、既に地上にはジェダスの他に誰一人としていない。遠い昔、人間たちと交じらう中で歌って聞かせていたこの曲は、人々が天から授けられた寿命に従ってこの地を後にする中で、いつの間にやら風化して消えていった。
白い月の煌めきと共に冬の星座が頭上に輝く半月の夜、糸杉の森の中でとりわけ高い木の梢に腰を降ろし、ジェダスは本当に久方ぶりにこの旋律を口遊んでいた。その昔、人々の間を渡り歩きながら弾き鳴らした六弦の楽器は、今は手元にない。代わりに、右手の指で荒い枝の樹皮をコツコツと叩いて調子を取る。
時は大河と共に流れ 海に交わり 消ゆ──
人は皆 なべて一睡の緑の夢の中──
遠い夜、正体を隠したまま、砂漠で焚火を囲む隊商の商人たちに歌って聞かせた曲を、ジェダスはまだ紡ぐことができた。目の前で流れていく、目まぐるしく移り変わる人の世や、人の命の儚さを織り込んで作った歌の真意を知る者は、昔も今もいない。頑として揺らがぬ己という長命種の前で、ヒトは旅芸人が演じる影絵芝居のようにどんどん入れ替わっていく。
ヒトとはそういうものだ、とジェダスは考えていた。いかに目を掛けようが、親しもうが、不死者という存在を解いて聞かせようが、いずれすぐにこの世から消えてしまう。そしてヒトは、自分自身と異なる存在を酷く恐れる生き物だった。
獣を飼い慣らし、畑地を広げ、余分な財を蓄えるようになった人間は、いつしか各々の『神』という存在を祀り上げ始める。そして、ジェダスをはじめ、闇に属する吸血鬼や食人鬼たちを酷く恐れ、排斥するようになった。のみならず、自分自身とは違う『神』を祀る同じヒトすら受け入れられなくなっていく様子は、何とも滑稽で理解しがたいものであるようにこの目に映る。砂漠の向こうに住む『異教徒』と袂を分かち、『神と精霊』を信仰する『聖霊教会』の教えは、もう千年以上ヒトの子らを纏め上げて、揺るぎない思想の基盤として根付いていた。ジェダスという存在を吸血真祖と位置づけ、穢れた不死鬼と呼び始めたのも、また聖霊十字の許に集う聖霊教徒たちだった。
一人ではさしたる力も知恵も持たないヒトがひとつに纏まるには、同じ価値観というものが必要なのだとジェダスは理解していた。価値観とは住む場所であり、話す言葉であり、肌や瞳の色であり、そして信じる『神』もそのひとつである。バラバラだったヒトの子をより強固に縒り合わせるための思想こそが『神』の存在であり、今では、ヒトは生まれてすぐに教会の洗礼を受けることで、その思想の中に閉じ込められているということにすら気が付かなくなっている。
それは、実に不自由なモノであるように思えた。ひとつの神の許に集った人間たちは、意味の解らぬ規律を造り出し、従わぬ人間を異端として排斥する。場合がどうあれ、状況が合理的にどうであれ、神や精霊や教会が禁じたモノを一律で悪徳とみなして禁じるなど、ジェダスにしてみれば実にくだらない、不条理の極みでしかない。しかし、そんな不条理を不条理だと気付かずに生き続けることしかできないヒトの子の世の仕組みは、最早覆ることはないだろう。
何せ、あれらは一人では弱くて、脆くて、集団で群れていなければ生きられないから。
銀色の睫毛を伏せて重苦しい溜息を吐くのは、そんなくだらない規範に縛られて、大昔にはありもしなかった『罪』に縛られて生きるヒトの子の心境を久しぶりに目にしたからだ。
聖霊教会の聖職者でありながら、闇の眷属の血を引く親友を庇うために人々を偽り、戒律により禁じられた男色の罪を被ったミディアン。
混血鬼として生まれたが故に抑圧的なヒトの世で正体を隠し通さねばならず、結果的に親友に罪を押し付け、傷付けることしかできなかったユージィン。
「──実に、くだらない。」
旋律が終わると、ジェダスは誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
互いに好き合っているのなら、歓びを交わし合って何が悪いのだろう。子を為せない肉体を持つ者同士で快楽に耽ることが、なぜ『罪』とされるのだろう。それらは、ヒトの子が勝手に作り出した『罪』だ。そして戒律を破ったが最後、同じヒトの子であっても容赦なく迫害し、追及し、遂には命を奪うほど苦しめることで告解させるという発想の方が、生きるためにヒトを捕食する闇の眷属よりよほど残虐でおぞましいとしか思えない。
高い梢に夜鳥のように止まり、遠く、ヒトの子が小さく群れて暮らす村の方角を見詰める。短い銀色の髪を冷たい夜風が梳き流し、羽織った長い外套の裾を揺らめかせた。
一陣の風のようにその生涯を終える人間の中で、格別だと感じたヒトに出会ったのは何百年ぶりなのか、もう覚えていない。その村に住む若い男は、ジェダスが今まで関わりを深めた他のどの人間とも違う、いわば別格の存在だった。
ゲオルギウス・シュルツ。吸血鬼や食人鬼、そして低俗な屍人らに対抗する武装神父という存在でありながら、彼は、神敵と見做したジェダスと敢えて交わることを選んでいる。否、そのように仕向けたのは、そんなつもりは微塵もなかったとしても、ジェダス自身の起こした気紛れの結果だった。朧気に思い出す襲撃の夜、血に染まるこの姿を目にしても逃げも恐れもしなかったヒトの子供に、確かに己は興味を引かれたのである。もし、その子供が他の子供たちと同じように、この姿を恐れ、泣き叫んで逃げ惑っていたなら、きっとその場で躊躇いなく手に掛けていただろう。
不死鬼の姿を恐れないヒトの子供との暮らしは、ジェダスの心に、遠い郷愁めいた感情を呼び起こしたことは確かなのだ。
しかし、結果的に、事態はジェダス自身も全く想定していなかった方向に舵を切って流れていくことになる。
『長らく待ち焦がれていたぞ、この時を。その姿、決して見忘れるものか。俺は、その為にここまで来た…。貴様は…貴様だけは、この手で心臓に杭を打ち込んでやる──!』
この翠の眸には、無防備な人間の心を捕らえて意のままに操る力がある。しかし、ほんの小さなヒトの子に向けて誘引の力を使おうとは思っていなかったし、その必要性もない。にもかかわらず、その力は発動してしまったのだ。それも、実に不完全な形で。
誘惑という言葉の意味も知らないまま、吸血真祖という存在を濃青の瞳の奥に焼き付けられた少年は、それを同族殺しへの憎悪にすり替えて、実に十七年もの間、ただこの姿だけを追い求めて、闇の眷属を殲滅することを良しとする教えの道を歩んできた。たった十七年の間に、小さな子供は逞しい武装神父の青年になり、その背丈はジェダスを遥かに超えて、様々な聖具を駆使することで一時はこの命を奪う間際まで迫り来たのである。
その内で培われていたのは、不死者であるジェダスすら驚嘆するほどの凄まじい執念だった。何せ、普通の憎悪ではない。憎悪だと思い込むことしかできなかった誘引に支配され、この身を追い詰めた彼は、その捩れて歪んだとしか言いようのない激情を所有欲という形で恣にぶつけてきた。一体、ただの虚弱なヒトでしかない男の手で押さえ込まれ、無理矢理に矜持まで犯されるという屈辱を被ったことは、長い生涯の中で一度たりともありはしない。元々、仇敵であるジェダスを討伐する為だけにただただ敬虔な聖霊教徒として在った彼は、目的を果たすため以外、戒律というものに対して無頓着であるかのように見えた。
故にか、その若い武装神父は、誘引の制約のせいで殺せないと知ったこの身を不浄とされた方法で貫くことに逡巡がない。心臓に杭を打ち込むことができない代わりに、彼は劣情という楔で宿疾のジェダスを幾度も穿ち続ける。
「──力を抜けよ、ジェダス…。」
何せ、己の身体に対して、ヒトの若者の体格はあまりにも大きすぎるのだ。受け容れるその瞬間の息苦しさと疼痛に耐えるジェダスの耳許で彼は囁き、熱い指先で、唇で、繋がる身体を開こうと丹念に肌の上をなぞってくる。
娼婦を買ったことはあっても、男を抱いたことはない。他の男を抱こうとも思わない。事も無げにそう告白した若い男の性技は、最初は乱暴なだけの拙いものだった。只管に、荒れ狂う激情に任せて雄馬のように身体をぶつけてくる激しい情交の中、彼は次第に、ジェダスの肉体の喜悦を高めることに歓びを見出すようになっていった。
純潔というものをあまり重視しない世の中で生きてきたジェダスは、無論、ヒトの女の肌も、男の欲情も知らぬ身体ではない。だが、この身体の上を通り過ぎていった男たちは、誰しも自分自身の慾を満たすことにしか興味がなかった。ヒトの男の精気を食餌に出来るジェダスにとって、肉欲と食欲という利害が一致していればそれ以外のことは気にも掛けなかったが、闇の眷属を神敵と見做す武装司祭のゲオルギウスだけは、遠い過去に身体を重ねた男とは全く異なる方法で執拗にジェダスの慾を掻き立ててくる。
「──気持ちが悦いか、ジェダス…。もっと鳴いて、イイ声を聞かせろよ…。」
「…ヒ──ぁ、…や…ッ、──もう…ヤだぁ…ッ…!」
身体を重ねる度に新しいことを覚える若い神父は、自分自身の欲望を発散させるより、むしろジェダスを果てしない快楽の中に突き落として溺れさせることを好んだ。ヒトと対等に交わることを止め、食餌と見做して襲い続けることを選ぶようになった辺境伯としての数百年の間、誰にも暴かせなかった狭い肉の路を、彼は己の怒張で巧みに突き上げて、ジェダスですら知らなかった悦楽をこれでもかとばかりに思い知らせてくる。
ヒトのそれとは形の違う耳も、ツンと尖り立った胸の先も、彼に貫かれるだけで絶頂することを覚えさせられた雄の部分をも容易く掻き立ててくる彼の指は、いつも火傷をしそうな程に熱くて、いかにみっともないと感じても、蕩けていく肉体に歯止めを掛けることは出来なかった。逞しい腕に抱かれて雌のように愉悦を極めるジェダスを見て、その碧玉の眸はこの上ない満悦の色を浮かべる。
「ジェダス──。」
この世に生きる人間の中で、彼にだけ預けた本当の名前。
他の人間とは違うからこそ授けたその名を行為の中で呼ばれる度に、心ごと融かされそうな気持ちになった。名を呼ばれ、熱い腕で丹念に触れられる。身に宿る快楽の全てを曝け出し、彼に捧げるように求められる。そんな風に扱われたのは初めてだった。
お互いに、利害を一致させるための契約でしかなかった筈の不埒な行為が、特別な意味を持ち始めたのはいつからだろう。ミディアンに言わせてみれば、『父と子ほどに歳が違う』ように見えるという相手に、ここまで執心するゲオルギウスの内心は解らなかったが、少なくともジェダスにとって、彼が他の武装司祭とは全く異なる意味を持つ存在であることは、もはや否定すべくもない。
陽光の下で穂を靡かせる一面の麦畑というものを、星空の下で生きるジェダスは目にしたことがない。だが、ゲオルギウスの短い金髪は、頭の中に見たこともない景色を思い描かせる。彼の濃青の瞳は、いつか迷い込んだ鍾乳洞の奥底で目にした地底湖と同じ、深く澄み渡った美しい色をしていた。
「──参ったな。ヒトなんぞ、どうせすぐに弱り、年老いて死んでしまうというのに…。」
数千年変わらぬようでいて、その実少しずつ位置を変えている夜空の天体を見上げ、高位の吸血真祖である不死者は、詮方のない溜息を零した。
いくら大事にしても、心を通わせても、いずれはジェダスを置き去りにしてこの世から去ってしまう、それがヒトという存在であることをジェダスは痛い程に熟知していた。
あとどれだけ、穢れの新月が、満月の晩が巡ってくるのだろう。ヒトとは比べ物にならないほど長い年月を生きてきたジェダスにさえ、辿り着く先を見通すことは出来なかった。
ジェダスがそう名付けた歌がある。
その歌は、人間が歌い継いできたものではなく、ジェダス自身が音を定め、詞を書き綴った歌だ。
もっとも、この歌を知っている者は、既に地上にはジェダスの他に誰一人としていない。遠い昔、人間たちと交じらう中で歌って聞かせていたこの曲は、人々が天から授けられた寿命に従ってこの地を後にする中で、いつの間にやら風化して消えていった。
白い月の煌めきと共に冬の星座が頭上に輝く半月の夜、糸杉の森の中でとりわけ高い木の梢に腰を降ろし、ジェダスは本当に久方ぶりにこの旋律を口遊んでいた。その昔、人々の間を渡り歩きながら弾き鳴らした六弦の楽器は、今は手元にない。代わりに、右手の指で荒い枝の樹皮をコツコツと叩いて調子を取る。
時は大河と共に流れ 海に交わり 消ゆ──
人は皆 なべて一睡の緑の夢の中──
遠い夜、正体を隠したまま、砂漠で焚火を囲む隊商の商人たちに歌って聞かせた曲を、ジェダスはまだ紡ぐことができた。目の前で流れていく、目まぐるしく移り変わる人の世や、人の命の儚さを織り込んで作った歌の真意を知る者は、昔も今もいない。頑として揺らがぬ己という長命種の前で、ヒトは旅芸人が演じる影絵芝居のようにどんどん入れ替わっていく。
ヒトとはそういうものだ、とジェダスは考えていた。いかに目を掛けようが、親しもうが、不死者という存在を解いて聞かせようが、いずれすぐにこの世から消えてしまう。そしてヒトは、自分自身と異なる存在を酷く恐れる生き物だった。
獣を飼い慣らし、畑地を広げ、余分な財を蓄えるようになった人間は、いつしか各々の『神』という存在を祀り上げ始める。そして、ジェダスをはじめ、闇に属する吸血鬼や食人鬼たちを酷く恐れ、排斥するようになった。のみならず、自分自身とは違う『神』を祀る同じヒトすら受け入れられなくなっていく様子は、何とも滑稽で理解しがたいものであるようにこの目に映る。砂漠の向こうに住む『異教徒』と袂を分かち、『神と精霊』を信仰する『聖霊教会』の教えは、もう千年以上ヒトの子らを纏め上げて、揺るぎない思想の基盤として根付いていた。ジェダスという存在を吸血真祖と位置づけ、穢れた不死鬼と呼び始めたのも、また聖霊十字の許に集う聖霊教徒たちだった。
一人ではさしたる力も知恵も持たないヒトがひとつに纏まるには、同じ価値観というものが必要なのだとジェダスは理解していた。価値観とは住む場所であり、話す言葉であり、肌や瞳の色であり、そして信じる『神』もそのひとつである。バラバラだったヒトの子をより強固に縒り合わせるための思想こそが『神』の存在であり、今では、ヒトは生まれてすぐに教会の洗礼を受けることで、その思想の中に閉じ込められているということにすら気が付かなくなっている。
それは、実に不自由なモノであるように思えた。ひとつの神の許に集った人間たちは、意味の解らぬ規律を造り出し、従わぬ人間を異端として排斥する。場合がどうあれ、状況が合理的にどうであれ、神や精霊や教会が禁じたモノを一律で悪徳とみなして禁じるなど、ジェダスにしてみれば実にくだらない、不条理の極みでしかない。しかし、そんな不条理を不条理だと気付かずに生き続けることしかできないヒトの子の世の仕組みは、最早覆ることはないだろう。
何せ、あれらは一人では弱くて、脆くて、集団で群れていなければ生きられないから。
銀色の睫毛を伏せて重苦しい溜息を吐くのは、そんなくだらない規範に縛られて、大昔にはありもしなかった『罪』に縛られて生きるヒトの子の心境を久しぶりに目にしたからだ。
聖霊教会の聖職者でありながら、闇の眷属の血を引く親友を庇うために人々を偽り、戒律により禁じられた男色の罪を被ったミディアン。
混血鬼として生まれたが故に抑圧的なヒトの世で正体を隠し通さねばならず、結果的に親友に罪を押し付け、傷付けることしかできなかったユージィン。
「──実に、くだらない。」
旋律が終わると、ジェダスは誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
互いに好き合っているのなら、歓びを交わし合って何が悪いのだろう。子を為せない肉体を持つ者同士で快楽に耽ることが、なぜ『罪』とされるのだろう。それらは、ヒトの子が勝手に作り出した『罪』だ。そして戒律を破ったが最後、同じヒトの子であっても容赦なく迫害し、追及し、遂には命を奪うほど苦しめることで告解させるという発想の方が、生きるためにヒトを捕食する闇の眷属よりよほど残虐でおぞましいとしか思えない。
高い梢に夜鳥のように止まり、遠く、ヒトの子が小さく群れて暮らす村の方角を見詰める。短い銀色の髪を冷たい夜風が梳き流し、羽織った長い外套の裾を揺らめかせた。
一陣の風のようにその生涯を終える人間の中で、格別だと感じたヒトに出会ったのは何百年ぶりなのか、もう覚えていない。その村に住む若い男は、ジェダスが今まで関わりを深めた他のどの人間とも違う、いわば別格の存在だった。
ゲオルギウス・シュルツ。吸血鬼や食人鬼、そして低俗な屍人らに対抗する武装神父という存在でありながら、彼は、神敵と見做したジェダスと敢えて交わることを選んでいる。否、そのように仕向けたのは、そんなつもりは微塵もなかったとしても、ジェダス自身の起こした気紛れの結果だった。朧気に思い出す襲撃の夜、血に染まるこの姿を目にしても逃げも恐れもしなかったヒトの子供に、確かに己は興味を引かれたのである。もし、その子供が他の子供たちと同じように、この姿を恐れ、泣き叫んで逃げ惑っていたなら、きっとその場で躊躇いなく手に掛けていただろう。
不死鬼の姿を恐れないヒトの子供との暮らしは、ジェダスの心に、遠い郷愁めいた感情を呼び起こしたことは確かなのだ。
しかし、結果的に、事態はジェダス自身も全く想定していなかった方向に舵を切って流れていくことになる。
『長らく待ち焦がれていたぞ、この時を。その姿、決して見忘れるものか。俺は、その為にここまで来た…。貴様は…貴様だけは、この手で心臓に杭を打ち込んでやる──!』
この翠の眸には、無防備な人間の心を捕らえて意のままに操る力がある。しかし、ほんの小さなヒトの子に向けて誘引の力を使おうとは思っていなかったし、その必要性もない。にもかかわらず、その力は発動してしまったのだ。それも、実に不完全な形で。
誘惑という言葉の意味も知らないまま、吸血真祖という存在を濃青の瞳の奥に焼き付けられた少年は、それを同族殺しへの憎悪にすり替えて、実に十七年もの間、ただこの姿だけを追い求めて、闇の眷属を殲滅することを良しとする教えの道を歩んできた。たった十七年の間に、小さな子供は逞しい武装神父の青年になり、その背丈はジェダスを遥かに超えて、様々な聖具を駆使することで一時はこの命を奪う間際まで迫り来たのである。
その内で培われていたのは、不死者であるジェダスすら驚嘆するほどの凄まじい執念だった。何せ、普通の憎悪ではない。憎悪だと思い込むことしかできなかった誘引に支配され、この身を追い詰めた彼は、その捩れて歪んだとしか言いようのない激情を所有欲という形で恣にぶつけてきた。一体、ただの虚弱なヒトでしかない男の手で押さえ込まれ、無理矢理に矜持まで犯されるという屈辱を被ったことは、長い生涯の中で一度たりともありはしない。元々、仇敵であるジェダスを討伐する為だけにただただ敬虔な聖霊教徒として在った彼は、目的を果たすため以外、戒律というものに対して無頓着であるかのように見えた。
故にか、その若い武装神父は、誘引の制約のせいで殺せないと知ったこの身を不浄とされた方法で貫くことに逡巡がない。心臓に杭を打ち込むことができない代わりに、彼は劣情という楔で宿疾のジェダスを幾度も穿ち続ける。
「──力を抜けよ、ジェダス…。」
何せ、己の身体に対して、ヒトの若者の体格はあまりにも大きすぎるのだ。受け容れるその瞬間の息苦しさと疼痛に耐えるジェダスの耳許で彼は囁き、熱い指先で、唇で、繋がる身体を開こうと丹念に肌の上をなぞってくる。
娼婦を買ったことはあっても、男を抱いたことはない。他の男を抱こうとも思わない。事も無げにそう告白した若い男の性技は、最初は乱暴なだけの拙いものだった。只管に、荒れ狂う激情に任せて雄馬のように身体をぶつけてくる激しい情交の中、彼は次第に、ジェダスの肉体の喜悦を高めることに歓びを見出すようになっていった。
純潔というものをあまり重視しない世の中で生きてきたジェダスは、無論、ヒトの女の肌も、男の欲情も知らぬ身体ではない。だが、この身体の上を通り過ぎていった男たちは、誰しも自分自身の慾を満たすことにしか興味がなかった。ヒトの男の精気を食餌に出来るジェダスにとって、肉欲と食欲という利害が一致していればそれ以外のことは気にも掛けなかったが、闇の眷属を神敵と見做す武装司祭のゲオルギウスだけは、遠い過去に身体を重ねた男とは全く異なる方法で執拗にジェダスの慾を掻き立ててくる。
「──気持ちが悦いか、ジェダス…。もっと鳴いて、イイ声を聞かせろよ…。」
「…ヒ──ぁ、…や…ッ、──もう…ヤだぁ…ッ…!」
身体を重ねる度に新しいことを覚える若い神父は、自分自身の欲望を発散させるより、むしろジェダスを果てしない快楽の中に突き落として溺れさせることを好んだ。ヒトと対等に交わることを止め、食餌と見做して襲い続けることを選ぶようになった辺境伯としての数百年の間、誰にも暴かせなかった狭い肉の路を、彼は己の怒張で巧みに突き上げて、ジェダスですら知らなかった悦楽をこれでもかとばかりに思い知らせてくる。
ヒトのそれとは形の違う耳も、ツンと尖り立った胸の先も、彼に貫かれるだけで絶頂することを覚えさせられた雄の部分をも容易く掻き立ててくる彼の指は、いつも火傷をしそうな程に熱くて、いかにみっともないと感じても、蕩けていく肉体に歯止めを掛けることは出来なかった。逞しい腕に抱かれて雌のように愉悦を極めるジェダスを見て、その碧玉の眸はこの上ない満悦の色を浮かべる。
「ジェダス──。」
この世に生きる人間の中で、彼にだけ預けた本当の名前。
他の人間とは違うからこそ授けたその名を行為の中で呼ばれる度に、心ごと融かされそうな気持ちになった。名を呼ばれ、熱い腕で丹念に触れられる。身に宿る快楽の全てを曝け出し、彼に捧げるように求められる。そんな風に扱われたのは初めてだった。
お互いに、利害を一致させるための契約でしかなかった筈の不埒な行為が、特別な意味を持ち始めたのはいつからだろう。ミディアンに言わせてみれば、『父と子ほどに歳が違う』ように見えるという相手に、ここまで執心するゲオルギウスの内心は解らなかったが、少なくともジェダスにとって、彼が他の武装司祭とは全く異なる意味を持つ存在であることは、もはや否定すべくもない。
陽光の下で穂を靡かせる一面の麦畑というものを、星空の下で生きるジェダスは目にしたことがない。だが、ゲオルギウスの短い金髪は、頭の中に見たこともない景色を思い描かせる。彼の濃青の瞳は、いつか迷い込んだ鍾乳洞の奥底で目にした地底湖と同じ、深く澄み渡った美しい色をしていた。
「──参ったな。ヒトなんぞ、どうせすぐに弱り、年老いて死んでしまうというのに…。」
数千年変わらぬようでいて、その実少しずつ位置を変えている夜空の天体を見上げ、高位の吸血真祖である不死者は、詮方のない溜息を零した。
いくら大事にしても、心を通わせても、いずれはジェダスを置き去りにしてこの世から去ってしまう、それがヒトという存在であることをジェダスは痛い程に熟知していた。
あとどれだけ、穢れの新月が、満月の晩が巡ってくるのだろう。ヒトとは比べ物にならないほど長い年月を生きてきたジェダスにさえ、辿り着く先を見通すことは出来なかった。
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これが性癖という方に刺されば嬉しいです。(同作はpixivに一部掲載しています)SNS(ブルースカイ)のフォローいただけますと幸いです→@makiizumi.bsky.social
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