¿Quo Vadis ?─クォ・ヴァディス─

槇木 五泉(Maki Izumi)

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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)

Dio Perdito.11

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 唐突に、廃教会に垂れ込める重苦しい沈黙を破った者がある。

 「──く…あははははッ…!──背教…背教だって?こんな茶番があるものかよ、ミディアン神父とやら…。」
 「ジェダス…?」

 古い石造りの主壇の上で、憚ることもなくけたたましい笑声を立てる不死者。さも可笑しくてたまらない、といった風情で肩を揺らし、腹を抱えて一頻ひとしきり大きな笑い声を響かせてから、彼はおもむろに膝を上げ、すらりと祭壇の上に立ち上がった。舞台に佇む聖歌ホーロゥの独唱者のようなその佇まいからは、微塵の揺らぎすらも感じ取れない。
 矢を番えたミディアン、そしてユージィンから目を離すことは出来ず、気配だけでルゴシュの行動を追う外はない。されど、口角を捻じり上げて牙を覗かせ、高飛車に嗤うその表情は、たとえ直接目の当たりにしなくとも、ゲオルギウスの前にありありと描かれて浮かぶようだった。
 ルゴシュの低い声が続く。

 「オマエ達は、神に仕える身の上で不死鬼と慣れ合うことを聖霊教会への造反だと言いたいのか?…だとしたら、どの口が物を言うのか。──これは傑作だ。」
 「動かないでください、ルゴシュ伯爵。貴方が妙な動きをすれば、私はこの弓で、まだ審問の余地のあるゲオルギウス神父を撃たざるを得なくなる。その者は、貴方にとっても決して軽んじている存在ではない筈。…ご理解いただけますか?」

 凛々しい眉根を強く寄せる、張り詰めたミディアンの口調は、決して虚仮威こけおどしではないことは確かだった。司祭の身でありながら人ならざる不死者と密通する、見下げ果てた神敵も同然の立場のゲオルギウスに向けられたやじりには、躊躇ためらいの気配は一切見受けられない。たとえルゴシュが何の手を下さずとも、ゲオルギウスの行動や返答の如何によって、聖霊教会の敬虔な武装司祭としての彼は、引き金に掛かった指を逡巡なく押し込むであろう。
 そんなミディアンの様子を、ルゴシュはただ黙って凝と見詰めている風であった。主祭壇の上に佇む気配は、先程垣間見せた緊張感とは遠く懸け離れた、上位者としての驕慢と堂々たる平静とを保っている。
 ふ、と、不死者が吐息だけで笑うのが耳に届いた。

 「何もしないともさ。オマエにはね。──ただ、私は、この唇で音を綴るだけ。」
 
 そして、天を仰いで深々と息を吸い込む音が聞こえる。
 次の刹那。
 
 「──…オ…アアアァ────ッ!」
 
 キリリと白い喉を立てたルゴシュが、力の限りに大声でただ、『叫ぶ』。
 否、それは最早、人間の絶叫など遥かに凌駕した、地の底を揺るがし、空気をビリビリと震わせる雄々しく猛々しい獣じみた『咆哮』に他ならない。歌でもなければ狼の遠吠えでもない、暴力的な『音』。鼓膜の奥を鋭く突き刺す低く激しい叫び声は、元々聖歌を高らかに響かせるための教会の天井に幾重にも反響し、耳から頭の中に太い針を突き込まれたような鋭い痛みとなって、武器を構えて臨戦態勢を取るゲオルギウスの足許を惑わせ、ふらりと数歩の蹈鞴たたらを踏ませた。

 「──ッ…!」
 「ッく…、…音波かっ──!」

 不死鬼による不意の咆哮の衝撃を受けたのは、間近にいたゲオルギウスばかりではない。通路の中程にいたミディアンが、耳を貫く苦悶に顔を歪めて僅かに弓銃の照準を彷徨わせる。だが、その絶叫の波をまともに受けたのは、二人の神父ではなかった。

 「──…ぐ、…ガあァッ…!」
 「ユージィン…ッ──!」

 耐え難い苦痛の呻きと共に、凄まじい雄壮な音の反響に撃たれて床に突っ伏したのは、ミディアンの隣で槍斧ハルバードを構えていた長身の聖堂番だった。音に紛れて悲痛なまでに響く、友の名を呼ぶミディアンの叫び。
 銀色の歌を紡ぐ不死者の咆哮は、石造りの建物をも振動させる目に見えぬ音波となって反響と共に残響を生み、槍斧の射程圏外から長身の男を滅多打ちにしている。ルゴシュの、腹の底からの荒々しい叫声は、確かに耳の奥に刺さって激しい頭痛と目眩を催させるが、それにしてもユージィンの激しい苦しみ方は、ゲオルギウスが感じた痛みやミディアンの反応と比べて、いささか不可解なものだった。

 「…音の帯フォノーナだ。…続ける。」

 微かに囁くルゴシュの声と共に、間髪を入れず、息を吸い込んだその喉から破壊的な程に雄々しい絶叫の第二波が繰り出された。今度こそ、意識的に紡いだ振動の波を真っ直ぐに飛ばす、その見据えるところの標的が誰であるのかが、ゲオルギウスにも明瞭と理解できた。

 「…狙え、ミディアン──!オレが倒れても狙いを反らすな…!」
 「──でも…ッ…!」

 石の床に倒れ込むユージィンが、猛る音に打ち据えられて藻掻き苦しみながらも血を吐くように告げる。不死者ノスフェラトゥの激しい叫び、そのたった一撃の下に沈められ、命を護るべき武器の柄から手を離して、頭ごと抱え込みながら耳を塞ぎ身悶える親友の姿を目の当たりにして、ミディアンは明らかに激しい動揺の色を示していた。

 「次で終わりだ。その男の精神を粉々に砕く。よくてもろうだろうね。オマエの声も、音も、何もかも二度と聞こえなくなるだろう。」

 淡々と言い切り、三発目の凄まじい音の斬撃を紡ぐべく、ゆっくりと息を吸い込んで天井を仰ぐルゴシュ。片眉を下げて片目を眇め、今しもその喉から人間の力を超えた『音の帯フォノーナ』を繰り出そうとした矢先のこと。
 遂に、ミディアンが深々と息を吐き、絶望の表情と共に面輪を伏せて高らかに腕を掲げた。ゲオルギウスの心臓を真っ直ぐに射抜こうと狙いを定めていた銀のやじりは、弦の弾ける音と共に鋭く飛び立って天井の梁を撃ち抜く。そして、ミディアンは次弾を装填することもなく黒い弓銃クロスボウを床の上に置き、降参の意思を示して両手を挙げた。長い睫毛を伏せて俯くその面差しには、苦渋と焦燥とが満ち溢れている様子だった。
 黒衣の裾を広げて床に倒れ込んだユージィンは、最早ぴくりとも動かない。

 「言ったろう、オマエには何もしない、と。──真祖アルケの私が、そこに倒れている男の纏う気配を見抜けないとでも思ったか?…ま、ソレは随分人間に近いようだけどね。」
 「──あ…、ぁッ…!」

 ただその声だけを駆使し、指の一本も動かさず、主祭壇の上から激しい咆哮の音波のみで聖堂番を仕留めて見せたルゴシュは、人ならぬ存在として圧倒的な力と高い矜持とを隠しもせずに肩を揺らがせて嗤い、ミディアンを見据える翠の双眸をすっと細めた。たちまち大きく瞳を見開き、何事かを告げようとして唇を微かに震わせる小柄な武装神父の顔色が見る間に青褪めていくのが、やや離れた立ち位置からでもはっきりと見て取れる。
 僅かな沈黙を挟んだ後、ルゴシュの低い声が淡と酷薄な事実だけを告げた。
 
 「ギィ、その男は人間じゃない。…混血鬼ダンピールだ。」
 「何──?」

 眉間を寄せ、すっかり意識を喪失して床に倒れ伏す黒衣の男の姿を濃青の双眸に映す。そして、彼と深い絆を育んでいると知っている年嵩の司祭の、細かく震える肩先も。

 「だから、真祖アルケの駆使する音の帯フォノーナの影響を受ける。もっとも、これが並の吸血鬼ヴァンパイアだったら、たった一回だけで完全に聴覚を壊していたよ。聖堂番など務まるほどに混血していても、その気配は消せないものだ。──さあ、ミディアン神父。釈明せよ。翳りなく釈明せよ。混血鬼ダンピールを友と慕うオマエに、聖霊教会の司祭としてゲオルギウスを咎める資格があるとでも言うのかね?」
 「──それは…っ!…違う、ユージィンは──!」

 ルゴシュの、正鵠を射た断固たる追及の言の葉を受け、顔色を失って激しく取り乱すミディアンの姿を見ているだけで、それが自分自身の中にある深い逡巡と重なって心が酷く痛んだ。もし、自分自身に無二の友がいて、それが全き聖霊教徒セレスティオの心を持ちながら神の子の敵として石を投げつけられたとしたら、その時、自分ならどうするだろうか。
 この自問の答えも、或いはルゴシュと宿業の邂逅を果たす前であれば、また違ったものになっていたかも知れない。聖霊教会に属する司祭として、神と精霊の最大の敵とも言える不死者を断罪できないと知った後であるからこそ、ゲオルギウスは構えていた武装の手を静かに解き、緩やかに視線を巡らせて、倒れ伏すユージィンと傍らのミディアンとを順繰りに見詰めながら口を開く。仮令たとえ、つい今しがたまで彼らの冷ややかな武器の切っ先を突き付けられていたとしても、同種の苦悩を露わにするミディアンを自分自身の口でなじり、貶め、突き放そうという気にはどうしてもなれなかった。何より、そうであるのならば、彼らに尋ねてみたいことがある。

 「…告解が必要なのは、お互い様のようです。ミディアン神父。──まず、ユージィンの容態を確かめましょう。少々、長い夜になりそうだ…。」

 ゲオルギウスの言葉を聞いて、小さく息を飲んだ彼は弾かれたように親友の傍らにしゃがみ込み、顔を覗き込んで呼吸や意識を確かめ始めた。実のところ、一刻も早くそうしたくて仕方がなかったのだろう。弓銃隊の医術の手を全て尽くして瞼に、口許に、襟元に触れて友を気遣うミディアンの眼差しは、何よりも深い友情で繋がれた親友の為にどこまでも身を砕くという決意と覚悟に満ち溢れているようだった。

 「──耳から血を流していないな。気を失っているだけだろ。」

 そこがかつて聖霊教会の父なる神のための祭壇であったことなど意にも介さず、ルゴシュは再び、外套マントの長い裾を揺らしながら、両脚で踏み締めて立っていた石造りの主祭壇の上に鷹揚に腰を下ろす。下がり気味の眦を持つ、年齢による皺が刻まれた翠の眼許を細め、武器を置いたゲオルギウスがミディアンに手を貸し始める様子を、さして面白くもなさそうな表情でそこからじっと見つめていた。
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