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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)
Dio Perdito.9
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*****
グレンツドルフの村の中心から、各村や都市を繋ぐ街道までは少々の距離があった。二頭の軽種馬の轡を並べ、アウエンブルフへの遠い道のりを歩ませる。
不意に、ユージィンが手綱を引いて馬の歩みを止めた。ミディアンが振り返れば、彼は、鳶色の眼を細め、じっと何かに耳を澄ましている風である。血の薄い、しかし、人間より遥かに鋭い聴覚を持つ混血鬼の察知した物事を、ミディアンは決して軽んじることはない。
「ユージィン…?」
「──いや、歌が聞こえるんだよ。間違いなく。梟や夜鳴き鶯の声じゃない。…こんな夜に、森の方角からだ。──まさか、森の中で人が迷ってるんじゃないよねぇ…?」
「歌…?」
怪訝な面持ちで、眉間に皺を寄せて首を傾げる。確かに、それは奇妙なことだった。グレンツドルフの東側に広がる広大な糸杉の森と言えば、不死の辺境伯ラ・ルゴシュが根城にしている、闇の眷属や凶暴な獣たちが徘徊する禍々しい土地だ。生まれた時からその恐怖について言い聞かせられている村人が、こんな夜に森に近付くとは思えない。しかし、ユージィンの耳には確かに、不思議な歌声が聞こえるのだという。
「声は近いのかい?なら、少し寄り道して様子を見に行ってみよう。流石に、武装司祭として看過はできないな。」
「そう言うと思った。──よし、こっちだ。」
ミディアンの言葉に二つ返事で応じ、ユージィンは先に立って手綱を鳴らし、馬の進む方向を変えた。後は、聴覚だけを頼りに森へと続く細い道を進んでゆく。間もなく、行く手には、穢れの新月の晩に聖火を燃やす櫓が見えた。この先は、広大な魔性の森。そしてその頃には、ミディアンの耳にも、細く一本の線のように響く男の歌声が確かに届いていた。
「──実に見事な歌声だね。この歌い手は、聖歌の名手に違いない。」
それは、教会音楽に精通するミディアンが思わず目を細めて聞き惚れるほどの音色だ。まるで、銀色の凛とした糸のように、音程を外すこともなく、高い音も低い音も錦の如く織り交ぜて歌い分ける技は、聖都の聖歌隊でも存分に、上位の独唱の担い手として通用するものだろう。しかし不思議なのは、それが何故、寂れた辺境の村、凶つ森の宵闇深くから聞こえてくるのか、ということだ。
高い生垣で村と隔てられた森の入口には、旧い樫の木が一本、生えている。陽の高いうちは、猟師や採取などを生業とする村人が訪れることもあるのだろうが、この時間には当然、人影ひとつない。
樫の木の幹には、馬止め用の金具が打ち込まれていた。ひらりと鞍から飛び降りて手綱を繋ぐと、肩に携えた弓銃を、武器帯具に止めていた槍斧を銘々に構え、深い森の入口に分け入っていく。歌声は、そう遠くないところから聞こえていた。
「何かあったら、すぐに馬の場所まで駆け戻る。──いいね?」
「了解。」
ユージィンとの間で策を取り決め、固く踏み慣らされた森の道を彼の後に続いて進みながら、耳を澄ませて歌声の源を探そうとする。近づけば近づくほど、溜息が出るほど美しい歌声であることが解る。
──蓮の花の慈悲と 欠けた月の道しるべ…
──水に浮かぶ星の影は 未踏の迷路の地図となり…
何とも不思議な音色と詞だった。聖歌でもなければ、童歌でもない。例えるならば、辺境の国で紡がれた古い祭歌に少しだけ似ている。そして、先に異変に気付いたのは、優れた聴覚を持つユージィンだった。
「──上?」
何故か、歌は、高い糸杉の枝の方角から聞こえてくる。梯子でもなければ人間には到底登れない場所から降り注ぐ、妙なる歌声。その時までただただ美しいとばかり思っていた甘い音色を、ミディアンは俄かに空恐ろしく感じた。
不意に、ぴたりと歌声が止む。後は、耳鳴りがするほどの沈黙。
「──ゲオルギィ…?どうしたんだ。なぜ会いに来た?穢れの新月まで、まだ遠いぞ。それに、お前の精気ならば、満月の晩に嫌というほど貰ったばかりだ…。あぁ、嫌というほどに。」
上方から聞こえてきたのは、この場には似つかわしくない程に暢気な声だった。遥か上方で木の枝が微かに鳴り、梢から、ひとつの黒い影が軽やかに飛び降りてくる。同時に、闇を見通すユージィンが俄かに緊張感を漲らせて山猫のように飛び退り、槍斧を構えた。ミディアンには、未だ何が起きたのか、正確なところは解らない。だが、長年の親友が異常を察知した時は、確かめるまでもなくそこによからぬモノがあるのだということを経験で知っている。故に、腰の矢筒から矢を抜き取り、ガチン、と鐙を踏んで弓銃に矢を番えた。
闇に目を凝らせば、十歩ほど離れたところに、一人の小柄な男が立っている。背丈はミディアンとそう変わらない、黒い、古風な貴族の装束に身を包んだ男の鮮やかな短い銀髪と、そして、闇に煌めく翠色の双眸が視えた。
ふ、とユージィンが乾ききった声を零してへらりと笑う。
「──ったく、好奇心は猫をも殺す、ってのは、よく言ったもんだわ…。ねぇ、ミディアン。今日の目標は、とりあえず無事にアウエンブルフに帰還すること、にしとこっか…。」
常の調子を崩すまいと努力している親友の言葉に反して、周囲の空気は重苦しいほどに張り詰め、びりびりと緊張感が伝わってくる。弓銃の引き金に指を掛け、標的を銀髪の男に定めたミディアンにも、壮齢の痩せた男が醸し出す途方もない威圧感は明瞭に伝わっていた。
「──解ってる。…相手は不死伯だ。」
その存在と相対するだけで、背筋には本能的な恐れが生じさせた冷や汗が伝わるのが解る。喉がからからに乾き、自分自身の鼓動だけが耳の奥でうるさいくらいに反響する。
数百年にも亘り、何百もの人間を嬲り殺して餌食にしてきた神敵・高位の不死鬼は、その下がり気味の眦を細めて、期待外れだ、と言わんばかりに露骨に鼻を鳴らした。
「何だ。神服に染み付いた香の匂いがするから、てっきりギィかと思ったのにね──。見覚えのない武装神父、それに、よく訓練された従者?こんな夜に余所者が我が所領を荒らそうとは、いい度胸だ。それを無謀、とも言うがね…。」
「──ゲオルギウス神父のことか…?」
真横で、ユージィンが片眉を跳ね上げて問い掛ける。想像していたよりもずっと小柄で、ミディアンより十歳以上年嵩に見える不死鬼は、額の中央で分けた銀色の前髪を掻き上げながら心底煩わしげに溜息を吐いた。
「何だ、貴様等。ギィを知っているのか。」
「知ってるも何も、神と精霊に縁を繋がれた大の親友だからな、彼とオレ達は。」
不死伯を相手に、咄嗟の出まかせをいとも簡単に吐ける友の機転と豪胆な口の上手さを、この時ほど驚嘆したことはない。この場をユージィンに委ね、余計なことを口走らないように唇をぎゅっと引き結びながら、銀の矢の照準を定めてルゴシュ伯爵の出方を窺う。
「アンタの話は、少しばかり彼から聞いているよ。ラ・ルゴシュ辺境伯。お目に掛かれて光栄だ。もっとも、実はオレ達はそれほど有難いとは思ってないけど。」
「私は、貴様等の事なんか聞いてないぞ。」
鼻の頭に皺を寄せる辺境伯からは、露骨な敵意というものを感じることは出来ない。だが、決して気を抜けない相手であることを疑う余地はなかった。そも、あの見事な歌声の主が、穢れた神の敵である最高位の不死鬼だということが、俄かには信じ難い。目の前の男は確かに歌声の主と同じ声で喋り、ただ、闇夜に輝く二つの瞳と、僅かに形の違う耳の他は、人間の男とさして変わらない姿をしている。
「──私たちは、貴方の命を狙いに来た訳ではありません。第一、この教区の者ではない。森で迷う人を探して、たまたまこの地に足を踏み入れただけです。…だが、それも思い違いであったようだ。貴方が此方を害さないのなら、我らも貴方に聖具を向けることは、ない。」
武装司祭として精一杯の威厳を保って凛と張り上げた声に、ルゴシュはことりと首を斜めに傾ける仕草を見せた。ふむ、と呟き、口許に拳を当てて何事かを考えている風である。
「…ま、いいか。近頃の武装神父は、どんな奥の手を隠しているのか解ったもんじゃないからな。無駄に痛いのはイヤだし、司祭殺しは報復が面倒。それに、貴様等がギィの知己であるならば、余計に話が拗れるだろ──。」
あたかも、興が醒めた、と言わんばかりの尊大で高慢な態度だった。人間をはるかに凌ぐ強大な力を持った不死伯は、ゆっくりと天を仰いで木々の合間から覗く月を眩しげに見上げる。
その細い喉がすいと垂直に立ち、獣の遠吠えのような、物悲しく長く響く切ない音色が絞り出された。
──Lu…u、Lah…La…Lai…──
「な──ッ…。」
大きく見開いたミディアンの茶色い視野の中で、一人の男の姿が見る間に解けて黒い霧となる。否、霧だと思っていたものは、無数の蝙蝠の集合体だった。自らの肉体を蝙蝠の群れに変えて見せ、それは、高い糸杉の天辺を更に超えて瞬く間に空へと上昇していく。
「…クソ、弓銃の矢では落とせないように、か──。」
傍らで、ユージィンがチッと舌打ちを鳴らす。確かに、あの群体を相手にするには通常の銀の弓矢では心許ないだろう。狙い澄まそうとしても、上に昇る飛翔の速度があまりに早すぎる。
「爆散弾を込めれば、どうにかなるかも──だけど、あれはどう考えても迂闊に手を出していい相手じゃない。…命拾いしたね。」
深閑とした森の中、構えていた弓銃の照準を外して降ろしながら、ミディアンは今更のように全身から汗が噴き出してくるのを感じた。捕食者を前にした生き物が覚える本能的な恐怖は、並の屍人や吸血鬼とはとても比較にならない。仮に、今のミディアンとユージィンが二人掛かりで抵抗して、多少の手傷を負わせられたとしても、あの相手は易々とこの命をふたつとも奪い去るだろう。
不死伯と相対して途方もない緊張を抱えていたのは、ユージィンもまた同じ様であった。深い溜息と共に構えていた武器を降ろし、冷汗で額に貼り付く黒髪を掻き上げている。
「──や、冗談抜きで、マジでこんだけヤバい、怖い思いしたのは久しぶりかも…。まさか、あれが辺境伯の歌声だとはねぇ…。」
「先入観とは恐ろしいものだ。暗闇の中から誘う歌声…なんて、お伽噺の魔物みたいじゃないか。それにしても、君、咄嗟によくあんな大嘘を吐けたな…。」
彼が口にした名前、ゲオルギウス神父が、自分たちの親友だ等と。
その会話を思い返せば、ユージィンの機転に助けられたという半面、どうにも恐ろしく腑に落ちないところがある。
「…ルゴシュ伯爵は、僕とゲオルギウス神父を間違えていた。大体、香の染み付いた神服の匂いをさせて来る人間なんて、グレンツドルフには一人しかいないだろうからね。それに、あの呼び方…あの口調──。」
「あぁ。──ありゃあ、確実に顔見知り以上の『何か』だ。…一度仕留め損なったとはいえ、不死鬼と武装神父が、一体何をやり取りしてたんだかな…。」
険しい面持ちで眉を寄せているミディアンと、首を傾げるユージィンの心の中にある疑念は、恐らく同じものだ。
「…確かに、一度痛手を与えたという不死伯が、その武装神父を何カ月もそのまま捨ておくだろうか。自分自身の命を脅かした相手を。」
「あんなモン、念入りに計画を立てたオレ達二人掛かりの巻き狩りでも成功するかどうかだぞ?ゲオルギウス神父にそれ程の作戦が幾つもあるとは思えないし、第一、そんな作戦があるとしたら、とっくに不死伯を灰に還してるだろ。なのに、ゲオルギウス神父が不死鬼と通じる理由は何だ?──考えたくないけど、奴を見逃して便宜を図っているとしたら。」
「利敵行為──。」
その圧倒的な力に魅せられたか、あるいは他の何かに。考えたくはない。聖霊教会の武装司祭が、神の敵である不死鬼と通じ、魂を譲り渡していたとしたら、それは全き神と精霊への叛逆行為となる。弛まぬ信仰と教義に基づく退魔の武術とを会得した誉れ高き武装司祭の身が、何故、という疑問と想いは絶えなかった。
それでも、仮にミディアンとユージィンの共通疑念が真実だとしたら。
「──その背教の犠牲になるのは、無辜の辺境の村人たちだ…。」
眼鏡のレンズ越しに、険しい視線を地面に落としながら、ミディアンはぽつりと呟く。そして、順を追ってひとつずつ、不死伯の言葉を具に思い出してみた。
「穢れの新月にはまだ早い、と。そう言っていたね。」
「ああ。──新月の聖課の晩に、神父と不死鬼が逢い引きってぇのは、ちょっとシャレにならない、笑えない不敬だ。中央なら間違いなく審問沙汰だろ。」
「けど、不死伯にはあんな荒唐無稽な嘘で僕らを騙す理由がない…。」
重苦しい時間が過ぎだ。森の梢で梟が高らかに啼く声を聞き、考えても詮のないことを考えるのはひとまず止めにしようとユージィンに提案する。彼も、ミディアンのこの意見にはおおむね賛同だった。
「このままじゃ、帰りは真夜中だ。──早くアウエンブルフに戻ろう。」
「…そうだね。」
弓銃から矢を外して矢筒に戻しながら、ミディアンは深い溜息を吐いた。辺境の地で闇の眷属と対峙する心強い同胞だと思っていた若い神父の隠し事を知り、心に憂いの緞帳が降りるのを止めることは出来ない。密通の目的は、果たして何なのだろう。そして、よしんば善人だと信じていた彼の神父が神と精霊と人間に害を及ぼそうとしているのであれば、その黒い霧に包まれた恐るべき蛮行の正体は、暴けるものが暴き、止められる者が止めるしかないのではないか。
「──考えたくない…。」
嘘だと言って欲しい。そう、ぽつりと零す。
ミディアンが第一に抱いた『怖れ』は、決して罪なき村人たちの犠牲が由縁ではない。万に一つでも、聖霊教会の、そして武装司祭への村人の揺らぎない信頼に罅が入るような事態になれば、追及の目はさらに厳しくなるだろう。その時に、真っ先に疑念の矛先が向かうのは『誰』なのか。肉体に、通常の人間とは異なる時間の流れを課された己の親友の秘密を、無事に隠し通すことができるだろうか。
これがいかに利己的な発想であるというのか、それはもう分かり切っている。解った上で、ミディアンにはどうしても曲げられない信念というものがあった。
グレンツドルフの地に始まり、隣の村まで果てしなく広がる猜疑と懸念を従えて、ミディアンとユージィンは重い足取りで深い糸杉の森を後にしたのだった。
グレンツドルフの村の中心から、各村や都市を繋ぐ街道までは少々の距離があった。二頭の軽種馬の轡を並べ、アウエンブルフへの遠い道のりを歩ませる。
不意に、ユージィンが手綱を引いて馬の歩みを止めた。ミディアンが振り返れば、彼は、鳶色の眼を細め、じっと何かに耳を澄ましている風である。血の薄い、しかし、人間より遥かに鋭い聴覚を持つ混血鬼の察知した物事を、ミディアンは決して軽んじることはない。
「ユージィン…?」
「──いや、歌が聞こえるんだよ。間違いなく。梟や夜鳴き鶯の声じゃない。…こんな夜に、森の方角からだ。──まさか、森の中で人が迷ってるんじゃないよねぇ…?」
「歌…?」
怪訝な面持ちで、眉間に皺を寄せて首を傾げる。確かに、それは奇妙なことだった。グレンツドルフの東側に広がる広大な糸杉の森と言えば、不死の辺境伯ラ・ルゴシュが根城にしている、闇の眷属や凶暴な獣たちが徘徊する禍々しい土地だ。生まれた時からその恐怖について言い聞かせられている村人が、こんな夜に森に近付くとは思えない。しかし、ユージィンの耳には確かに、不思議な歌声が聞こえるのだという。
「声は近いのかい?なら、少し寄り道して様子を見に行ってみよう。流石に、武装司祭として看過はできないな。」
「そう言うと思った。──よし、こっちだ。」
ミディアンの言葉に二つ返事で応じ、ユージィンは先に立って手綱を鳴らし、馬の進む方向を変えた。後は、聴覚だけを頼りに森へと続く細い道を進んでゆく。間もなく、行く手には、穢れの新月の晩に聖火を燃やす櫓が見えた。この先は、広大な魔性の森。そしてその頃には、ミディアンの耳にも、細く一本の線のように響く男の歌声が確かに届いていた。
「──実に見事な歌声だね。この歌い手は、聖歌の名手に違いない。」
それは、教会音楽に精通するミディアンが思わず目を細めて聞き惚れるほどの音色だ。まるで、銀色の凛とした糸のように、音程を外すこともなく、高い音も低い音も錦の如く織り交ぜて歌い分ける技は、聖都の聖歌隊でも存分に、上位の独唱の担い手として通用するものだろう。しかし不思議なのは、それが何故、寂れた辺境の村、凶つ森の宵闇深くから聞こえてくるのか、ということだ。
高い生垣で村と隔てられた森の入口には、旧い樫の木が一本、生えている。陽の高いうちは、猟師や採取などを生業とする村人が訪れることもあるのだろうが、この時間には当然、人影ひとつない。
樫の木の幹には、馬止め用の金具が打ち込まれていた。ひらりと鞍から飛び降りて手綱を繋ぐと、肩に携えた弓銃を、武器帯具に止めていた槍斧を銘々に構え、深い森の入口に分け入っていく。歌声は、そう遠くないところから聞こえていた。
「何かあったら、すぐに馬の場所まで駆け戻る。──いいね?」
「了解。」
ユージィンとの間で策を取り決め、固く踏み慣らされた森の道を彼の後に続いて進みながら、耳を澄ませて歌声の源を探そうとする。近づけば近づくほど、溜息が出るほど美しい歌声であることが解る。
──蓮の花の慈悲と 欠けた月の道しるべ…
──水に浮かぶ星の影は 未踏の迷路の地図となり…
何とも不思議な音色と詞だった。聖歌でもなければ、童歌でもない。例えるならば、辺境の国で紡がれた古い祭歌に少しだけ似ている。そして、先に異変に気付いたのは、優れた聴覚を持つユージィンだった。
「──上?」
何故か、歌は、高い糸杉の枝の方角から聞こえてくる。梯子でもなければ人間には到底登れない場所から降り注ぐ、妙なる歌声。その時までただただ美しいとばかり思っていた甘い音色を、ミディアンは俄かに空恐ろしく感じた。
不意に、ぴたりと歌声が止む。後は、耳鳴りがするほどの沈黙。
「──ゲオルギィ…?どうしたんだ。なぜ会いに来た?穢れの新月まで、まだ遠いぞ。それに、お前の精気ならば、満月の晩に嫌というほど貰ったばかりだ…。あぁ、嫌というほどに。」
上方から聞こえてきたのは、この場には似つかわしくない程に暢気な声だった。遥か上方で木の枝が微かに鳴り、梢から、ひとつの黒い影が軽やかに飛び降りてくる。同時に、闇を見通すユージィンが俄かに緊張感を漲らせて山猫のように飛び退り、槍斧を構えた。ミディアンには、未だ何が起きたのか、正確なところは解らない。だが、長年の親友が異常を察知した時は、確かめるまでもなくそこによからぬモノがあるのだということを経験で知っている。故に、腰の矢筒から矢を抜き取り、ガチン、と鐙を踏んで弓銃に矢を番えた。
闇に目を凝らせば、十歩ほど離れたところに、一人の小柄な男が立っている。背丈はミディアンとそう変わらない、黒い、古風な貴族の装束に身を包んだ男の鮮やかな短い銀髪と、そして、闇に煌めく翠色の双眸が視えた。
ふ、とユージィンが乾ききった声を零してへらりと笑う。
「──ったく、好奇心は猫をも殺す、ってのは、よく言ったもんだわ…。ねぇ、ミディアン。今日の目標は、とりあえず無事にアウエンブルフに帰還すること、にしとこっか…。」
常の調子を崩すまいと努力している親友の言葉に反して、周囲の空気は重苦しいほどに張り詰め、びりびりと緊張感が伝わってくる。弓銃の引き金に指を掛け、標的を銀髪の男に定めたミディアンにも、壮齢の痩せた男が醸し出す途方もない威圧感は明瞭に伝わっていた。
「──解ってる。…相手は不死伯だ。」
その存在と相対するだけで、背筋には本能的な恐れが生じさせた冷や汗が伝わるのが解る。喉がからからに乾き、自分自身の鼓動だけが耳の奥でうるさいくらいに反響する。
数百年にも亘り、何百もの人間を嬲り殺して餌食にしてきた神敵・高位の不死鬼は、その下がり気味の眦を細めて、期待外れだ、と言わんばかりに露骨に鼻を鳴らした。
「何だ。神服に染み付いた香の匂いがするから、てっきりギィかと思ったのにね──。見覚えのない武装神父、それに、よく訓練された従者?こんな夜に余所者が我が所領を荒らそうとは、いい度胸だ。それを無謀、とも言うがね…。」
「──ゲオルギウス神父のことか…?」
真横で、ユージィンが片眉を跳ね上げて問い掛ける。想像していたよりもずっと小柄で、ミディアンより十歳以上年嵩に見える不死鬼は、額の中央で分けた銀色の前髪を掻き上げながら心底煩わしげに溜息を吐いた。
「何だ、貴様等。ギィを知っているのか。」
「知ってるも何も、神と精霊に縁を繋がれた大の親友だからな、彼とオレ達は。」
不死伯を相手に、咄嗟の出まかせをいとも簡単に吐ける友の機転と豪胆な口の上手さを、この時ほど驚嘆したことはない。この場をユージィンに委ね、余計なことを口走らないように唇をぎゅっと引き結びながら、銀の矢の照準を定めてルゴシュ伯爵の出方を窺う。
「アンタの話は、少しばかり彼から聞いているよ。ラ・ルゴシュ辺境伯。お目に掛かれて光栄だ。もっとも、実はオレ達はそれほど有難いとは思ってないけど。」
「私は、貴様等の事なんか聞いてないぞ。」
鼻の頭に皺を寄せる辺境伯からは、露骨な敵意というものを感じることは出来ない。だが、決して気を抜けない相手であることを疑う余地はなかった。そも、あの見事な歌声の主が、穢れた神の敵である最高位の不死鬼だということが、俄かには信じ難い。目の前の男は確かに歌声の主と同じ声で喋り、ただ、闇夜に輝く二つの瞳と、僅かに形の違う耳の他は、人間の男とさして変わらない姿をしている。
「──私たちは、貴方の命を狙いに来た訳ではありません。第一、この教区の者ではない。森で迷う人を探して、たまたまこの地に足を踏み入れただけです。…だが、それも思い違いであったようだ。貴方が此方を害さないのなら、我らも貴方に聖具を向けることは、ない。」
武装司祭として精一杯の威厳を保って凛と張り上げた声に、ルゴシュはことりと首を斜めに傾ける仕草を見せた。ふむ、と呟き、口許に拳を当てて何事かを考えている風である。
「…ま、いいか。近頃の武装神父は、どんな奥の手を隠しているのか解ったもんじゃないからな。無駄に痛いのはイヤだし、司祭殺しは報復が面倒。それに、貴様等がギィの知己であるならば、余計に話が拗れるだろ──。」
あたかも、興が醒めた、と言わんばかりの尊大で高慢な態度だった。人間をはるかに凌ぐ強大な力を持った不死伯は、ゆっくりと天を仰いで木々の合間から覗く月を眩しげに見上げる。
その細い喉がすいと垂直に立ち、獣の遠吠えのような、物悲しく長く響く切ない音色が絞り出された。
──Lu…u、Lah…La…Lai…──
「な──ッ…。」
大きく見開いたミディアンの茶色い視野の中で、一人の男の姿が見る間に解けて黒い霧となる。否、霧だと思っていたものは、無数の蝙蝠の集合体だった。自らの肉体を蝙蝠の群れに変えて見せ、それは、高い糸杉の天辺を更に超えて瞬く間に空へと上昇していく。
「…クソ、弓銃の矢では落とせないように、か──。」
傍らで、ユージィンがチッと舌打ちを鳴らす。確かに、あの群体を相手にするには通常の銀の弓矢では心許ないだろう。狙い澄まそうとしても、上に昇る飛翔の速度があまりに早すぎる。
「爆散弾を込めれば、どうにかなるかも──だけど、あれはどう考えても迂闊に手を出していい相手じゃない。…命拾いしたね。」
深閑とした森の中、構えていた弓銃の照準を外して降ろしながら、ミディアンは今更のように全身から汗が噴き出してくるのを感じた。捕食者を前にした生き物が覚える本能的な恐怖は、並の屍人や吸血鬼とはとても比較にならない。仮に、今のミディアンとユージィンが二人掛かりで抵抗して、多少の手傷を負わせられたとしても、あの相手は易々とこの命をふたつとも奪い去るだろう。
不死伯と相対して途方もない緊張を抱えていたのは、ユージィンもまた同じ様であった。深い溜息と共に構えていた武器を降ろし、冷汗で額に貼り付く黒髪を掻き上げている。
「──や、冗談抜きで、マジでこんだけヤバい、怖い思いしたのは久しぶりかも…。まさか、あれが辺境伯の歌声だとはねぇ…。」
「先入観とは恐ろしいものだ。暗闇の中から誘う歌声…なんて、お伽噺の魔物みたいじゃないか。それにしても、君、咄嗟によくあんな大嘘を吐けたな…。」
彼が口にした名前、ゲオルギウス神父が、自分たちの親友だ等と。
その会話を思い返せば、ユージィンの機転に助けられたという半面、どうにも恐ろしく腑に落ちないところがある。
「…ルゴシュ伯爵は、僕とゲオルギウス神父を間違えていた。大体、香の染み付いた神服の匂いをさせて来る人間なんて、グレンツドルフには一人しかいないだろうからね。それに、あの呼び方…あの口調──。」
「あぁ。──ありゃあ、確実に顔見知り以上の『何か』だ。…一度仕留め損なったとはいえ、不死鬼と武装神父が、一体何をやり取りしてたんだかな…。」
険しい面持ちで眉を寄せているミディアンと、首を傾げるユージィンの心の中にある疑念は、恐らく同じものだ。
「…確かに、一度痛手を与えたという不死伯が、その武装神父を何カ月もそのまま捨ておくだろうか。自分自身の命を脅かした相手を。」
「あんなモン、念入りに計画を立てたオレ達二人掛かりの巻き狩りでも成功するかどうかだぞ?ゲオルギウス神父にそれ程の作戦が幾つもあるとは思えないし、第一、そんな作戦があるとしたら、とっくに不死伯を灰に還してるだろ。なのに、ゲオルギウス神父が不死鬼と通じる理由は何だ?──考えたくないけど、奴を見逃して便宜を図っているとしたら。」
「利敵行為──。」
その圧倒的な力に魅せられたか、あるいは他の何かに。考えたくはない。聖霊教会の武装司祭が、神の敵である不死鬼と通じ、魂を譲り渡していたとしたら、それは全き神と精霊への叛逆行為となる。弛まぬ信仰と教義に基づく退魔の武術とを会得した誉れ高き武装司祭の身が、何故、という疑問と想いは絶えなかった。
それでも、仮にミディアンとユージィンの共通疑念が真実だとしたら。
「──その背教の犠牲になるのは、無辜の辺境の村人たちだ…。」
眼鏡のレンズ越しに、険しい視線を地面に落としながら、ミディアンはぽつりと呟く。そして、順を追ってひとつずつ、不死伯の言葉を具に思い出してみた。
「穢れの新月にはまだ早い、と。そう言っていたね。」
「ああ。──新月の聖課の晩に、神父と不死鬼が逢い引きってぇのは、ちょっとシャレにならない、笑えない不敬だ。中央なら間違いなく審問沙汰だろ。」
「けど、不死伯にはあんな荒唐無稽な嘘で僕らを騙す理由がない…。」
重苦しい時間が過ぎだ。森の梢で梟が高らかに啼く声を聞き、考えても詮のないことを考えるのはひとまず止めにしようとユージィンに提案する。彼も、ミディアンのこの意見にはおおむね賛同だった。
「このままじゃ、帰りは真夜中だ。──早くアウエンブルフに戻ろう。」
「…そうだね。」
弓銃から矢を外して矢筒に戻しながら、ミディアンは深い溜息を吐いた。辺境の地で闇の眷属と対峙する心強い同胞だと思っていた若い神父の隠し事を知り、心に憂いの緞帳が降りるのを止めることは出来ない。密通の目的は、果たして何なのだろう。そして、よしんば善人だと信じていた彼の神父が神と精霊と人間に害を及ぼそうとしているのであれば、その黒い霧に包まれた恐るべき蛮行の正体は、暴けるものが暴き、止められる者が止めるしかないのではないか。
「──考えたくない…。」
嘘だと言って欲しい。そう、ぽつりと零す。
ミディアンが第一に抱いた『怖れ』は、決して罪なき村人たちの犠牲が由縁ではない。万に一つでも、聖霊教会の、そして武装司祭への村人の揺らぎない信頼に罅が入るような事態になれば、追及の目はさらに厳しくなるだろう。その時に、真っ先に疑念の矛先が向かうのは『誰』なのか。肉体に、通常の人間とは異なる時間の流れを課された己の親友の秘密を、無事に隠し通すことができるだろうか。
これがいかに利己的な発想であるというのか、それはもう分かり切っている。解った上で、ミディアンにはどうしても曲げられない信念というものがあった。
グレンツドルフの地に始まり、隣の村まで果てしなく広がる猜疑と懸念を従えて、ミディアンとユージィンは重い足取りで深い糸杉の森を後にしたのだった。
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