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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)
Dio Perdito.5
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暑い夏は、鎌を持って麦を刈り取る村人たちの喜びの歌声で終わりを告げる。この時期は、老いも若いもよく実った麦の穂を刈り取り、乾かして脱穀し、袋に詰める作業で天手古舞だった。しかし、刈り入れ時が忙しければ忙しい程、それはその年が豊作であったということを意味している。日の出から日の入りまで続く労働が苦であることを喜び、農作業の疲れを癒して神と精霊に感謝を捧げるため、収穫が終われば収穫祭が執り行われるのが聖霊教徒の習わしだった。もっとも、農業より交易が盛んな大きな街では、収穫の喜びというものはさほど重要視されず、代わりに、神の御使いである精霊が地上に降り立った日とされる降臨祭の方が華やかに執り行われていた。故に、ゲオルギウスが農村の収穫祭を目の当たりにするのは、物心ついてからこれが初めてであると言っても過言ではない。家々の窯では素朴なパンが焼かれ、焼き立てのパンは、山羊の乳のチーズや豚肉の腸詰、白葡萄酢に漬け込んだ野菜と共に供される。一月前に刈り取った麦で作られた今年初めての麦酒の樽が開かれると、人々からは素朴な歓声が上がった。
振り香炉を手に家々を巡り、豊穣への感謝と、寒い冬を安寧に過ごせるように祈りを捧げる代わりに、食料や麦酒の寄進を受け取って回るのが収穫祭における司祭ゲオルギウスの役目だった。村外れの、最も小さな畑を耕す貧しい老夫婦の家を最初に祝福し、伝統に従って順番に家々を巡ってゆく。長く司祭のいなかった村に転任すると同時に、この地を徘徊する闇の眷属を次々と葬って回ったゲオルギウス神父の祝福訪問を、人々は殊更の礼を尽くして出迎えてくれた。心尽くしの僅かな金貨や銀貨、食料などで、いつの間にか家々を巡る馬の鞍には重たいばかりの荷袋が詰まれている。教会のために飼われている大人しい重種の青鹿毛馬は、不満のひとつも表さずに長い時間を掛けて村中を回ってくれた。時折、馬の首を撫でて労わりながら、最後の祝福の家である村長の家に辿り着いた時は、既に日は森の向こうに大きく傾き、紫色の夕暮れが迫ってきていた。
「──この年の実りを神と精霊に感謝し、我らの血である供物を捧げ、翌年もまた、清き汗と共に地を耕さん。…聖なるかな。」
「聖なるかな。」
同じ収穫祭の祈りを、今日幾度唱えたかはもう覚えていない。左手で振り香炉を揺らしながら右手で開いた祈祷書など、途中から目を通す必要さえない程に暗誦していた。最後の聖句が終わり、大きく頑丈な家に住まう一族が、声を揃えて詠唱を終え、十字を切る。これで、収穫祭の儀式は大事なく終わったのだ。
「さぞお疲れになられたでしょう、ゲオルギウス神父。…宜しければ、我が家で晩餐を召されてゆかれますか?」
「いいえ、お気遣いは有り難く、村長。教会に戻って、馬を小屋に戻して労ってやらなければなりません。あれは、私以上によく歩きました。」
首を横に振って、年老いた村長からの申し出を辞するゲオルギウスを、老人は皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべて頷きながら見上げた。
「お優しいお心掛けです、神父さま。今宵は、ゆっくりお休みになってください。──村の民は皆、あなた様に深く感謝しております。わずかの間に、この村は屍人や吸血鬼の脅威とは無縁になりました。街の者は皆、こんな小さな村のことは気にも掛けなかったものを、今やこの村には不死伯を撃退するほどの武装神父さまのお力があるなど、今でも夢のように思えてしまいます。これも神と精霊の思し召しでしょう。お困りごとがございましたら、いつでも何なりとお申し付けください。村の人々は皆、喜んで手を貸しましょう。」
「…私のような若輩者には、勿体ないほどのお言葉です。村長。──このグレンツドルフに、神と精霊の祝福あれかしと祈っています。」
押し黙っていれば厳しいと思われがちな濃蒼の双眸に努めて笑みを置きながら、ゲオルギウスは、どうにか当たり障りのない言葉を発して村長の家を後にした。帰り際、初めての子供を身籠っているという村長の孫息子の嫁に、どうかと望まれて祝福を送っている間も、心の中は決して村人と同じ平穏だけでは有り得なかった。
十七年前、惨劇の夜から変わらずに抱き続けてきたのは、慎ましくも幸せに暮らしていた教会孤児の生き方を一変させた、たった一人の存在への弛まぬ憎悪と殺意だった。不死なる辺境伯ラ・ルゴシュの命に迫り、そして、その胸に杭を打ち込もうとしたあの夜、鴻大な矛盾の正体を知らされてしまう。曰く、『不死鬼の誘引に掛かった者は、その主を殺すことはできない』。そして、その不両立は、道ならぬ逢瀬を重ねるごとにゲオルギウスの中で明瞭になっていった。
仮に、この手の届くところにある細く白い首に手を掛けて胴体から切り落としたとしたら。その薄い胸の奥で確かにトクトクと脈打つ心臓に銀色の杭を突き立てたとしたら。
それは同時に、ゲオルギウスが武装神父である意味の喪失をも示している。この胸を満たす『憎悪』と名付けた不死伯への感情の矛先が無くなれば、そこにあるのは栄光に包まれた天国への階段ではない。ただ何もない、果ての見えない荒野のような、どこまでも続く空と乾いた大地。そんな人生の中でただひたすらに神と精霊を敬い、敬虔な民草のために命を燃やせるかと言えば、即座に是とは答えられないゲオルギウスがいる。
宵闇に沈もうとする村の秋風に吹かれ、馬の背に揺られながら、何たる不徳か、と思わずにはいられなかった。ただ一人の神父の愁嘆を除き、家々は蝋燭の明かりと、収穫祭への喜びで満ち溢れている。
「…たとえ何処から来たかを知る術がなくとも、何処へ行くのかを定めるのは汝自身の足である。…自らの足を運命の枷に繋ぎ、奴隷の身に貶めることなかれ──。」
人知れず呟くのは、もう幾度も唱え続けてきた、あの新月の丘でルゴシュに説いて聞かせた祈祷書の中の一節である。あたかも己自身に言い聞かせるようにその聖句を口にし、そして、ゲオルギウスは想う。
未だどうやっても形に出来ない、宿敵であるはずの不死伯ルゴシュへのこの感情の正体は、一体何であるのか、と。
瞳を伏せれば、幻聴のように歌声が聞こえる。
一本の銀色の線のような、麗しい旋律だった。千年以上も前から、一人の男が紡ぎ続ける、妙なる歌。
繰り返し、また繰り返しては、誘う声。
くらりと目の前が二重に霞む心地を覚えて、手綱を握り締めたまま激しく頭を振る。空に浮かぶのは、半分に欠けた月。たった一人の無力な神父の心など置き去りにして、満ちては消える気紛れな月だけが、憂いに沈むゲオルギウスをじっと見下ろし続けていた。
*****
満月の夜は、訳もなく人の気をそぞろにする。その青白い狂気に支配されるのは、何も人間ばかりではない。
司祭館で夕べの祈祷を終えた後、頑丈な窓の鎧戸をしっかりと閉ざし、扉に閂を掛ける。それは、人ならざるモノの来訪を拒む為ではなかった。
闇の眷属の出現に苛まれる村にある家や教会の例に漏れず、侵入を拒む背の高い生垣に囲まれた聖堂と司祭館は堅牢な石造りで、結果的に人目にはつきづらい。それでも厳重に戸締りをするようになったのは、ゲオルギウスが抱える秘密が、万が一にも他人の目に触れるようなことがあってはならないからだ。
寝台に横たわると、程なくして、室内に灯してある燭台の蝋燭の炎がゆらりと揺れた。同時に、鼻孔を擽る甘く熟れた芳香。
あの夜以来、ゲオルギウスは、この男の満月の晩の気紛れな来訪については半ば諦めの境地にあった。いかに守りを固めようが、不死鬼は己の身体を黒い霧に変えて何処にでも忍び込んでくる。茫洋と天井を見上げるゲオルギウスの濃青の視野の中で、霧はたちまち人の姿を編み上げ、下がり気味の眦を持つ二つの翡翠の瞳が、寝台の傍らに佇んでじっとゲオルギウスを見下ろしていた。
「御機嫌よう、神父さま。私が来るのを待っていた?」
「──別に、こっちはお前を歓迎している訳じゃないんだがなぁ…。」
露骨に眉根を寄せて溜息を吐くゲオルギウスを眺めながら、ルゴシュは、眼尻に皺を浮かべてニッと笑った。キシ、と寝台を軋ませながらゲオルギウスの胸の横に腰を下ろし、悪戯をするように身を屈め、コツリと額を重ね合わせる。額の中央で左右に分けた銀色の前髪が零れ落ちて頬を擽り、妙にむず痒い。鼻先の触れ合う距離、呼吸の混じらう位置で戯れ掛かってくる細く小柄な不死者の背を抱き取り、クスクスと笑声を響かせる唇を嘆息しながら軽く啄む。
一体、この年嵩の男の何がここまで己を駆り立てるのか、ゲオルギウスには自分自身というものがさっぱり理解できなかった。目元に、口許に刻まれている年齢の証は、彼が微笑すると顕著に面輪に浮かび上がってくる。しかしそれは、彼が匂わせる壮絶なまでの妖艶さを損なうものでは、決してない。壮齢の男の姿を取っていながら、その肢体に蠱惑の瑕疵になるものは何ひとつ見当たらず、無駄な肉の削げ落ちた華奢な体躯は、雪花石膏の彫像の如く滑らかで、肌の上には染みや翳りは愚か、傷跡らしい傷跡すら全く存在しないのだ。かえって、この忌々しいほどに大人びて余裕に満ち溢れた表情を突き崩してやる瞬間に覚える愉悦の方が、若い神父の昏い劣情をそそって止まなかった。これが全て『誘引』のもたらした心境変化なのかどうか、考えても答えは出ない。
不死者の邪眼に囚われた人間は、自らの意思を食われて逆らう術を失うという。しかし、ゲオルギウスは未だ、ルゴシュを撥ね退けるだけの意思を持ち合わせていた。そうであるというのに、ルゴシュが誘い掛ける所作のひとつひとつが若い情動を毛羽立たせ、奔馬のような荒々しい衝動をこれでもかとばかりに掻き立ててくれた。
性質の悪い病であるのか、それともこの心は既に闇に侵されているのか。何れを考えるにせよ惨めになるばかりで、ゲオルギウスは遂に、逢瀬の晩には懊悩を放棄することを選んだ。満月の夜毎、大胆にも聖域に忍び込んでくることを覚えた不死者の黒い、上等の外套に包まれた細い背筋を片腕でグイと引き寄せ、耳先を隠す程に切り揃えられた短い銀髪を掴むように撫でて乱す。
「…そういえば、試してやりたいものがあったんだった。」
「なぁに?」
穏やかに下がっている眉尻を持ち上げ、不思議そうに首を傾げるルゴシュの外套の留め具をさっさと外して脱がしてやりながら、若い神父は口許に含み笑いを浮かべる。悪友の持ち込んだ眉唾ものの遊び道具は、人間ではない存在にも通用するのかどうか。兎角、使いどころはここしか思い当たらない。衣服や靴を自ら脱ぐよう、横柄に顎で示しながら、思惑を含んで笑んだ唇を再び彼の朱い唇に押し付けて塞いでいった。
暑い夏は、鎌を持って麦を刈り取る村人たちの喜びの歌声で終わりを告げる。この時期は、老いも若いもよく実った麦の穂を刈り取り、乾かして脱穀し、袋に詰める作業で天手古舞だった。しかし、刈り入れ時が忙しければ忙しい程、それはその年が豊作であったということを意味している。日の出から日の入りまで続く労働が苦であることを喜び、農作業の疲れを癒して神と精霊に感謝を捧げるため、収穫が終われば収穫祭が執り行われるのが聖霊教徒の習わしだった。もっとも、農業より交易が盛んな大きな街では、収穫の喜びというものはさほど重要視されず、代わりに、神の御使いである精霊が地上に降り立った日とされる降臨祭の方が華やかに執り行われていた。故に、ゲオルギウスが農村の収穫祭を目の当たりにするのは、物心ついてからこれが初めてであると言っても過言ではない。家々の窯では素朴なパンが焼かれ、焼き立てのパンは、山羊の乳のチーズや豚肉の腸詰、白葡萄酢に漬け込んだ野菜と共に供される。一月前に刈り取った麦で作られた今年初めての麦酒の樽が開かれると、人々からは素朴な歓声が上がった。
振り香炉を手に家々を巡り、豊穣への感謝と、寒い冬を安寧に過ごせるように祈りを捧げる代わりに、食料や麦酒の寄進を受け取って回るのが収穫祭における司祭ゲオルギウスの役目だった。村外れの、最も小さな畑を耕す貧しい老夫婦の家を最初に祝福し、伝統に従って順番に家々を巡ってゆく。長く司祭のいなかった村に転任すると同時に、この地を徘徊する闇の眷属を次々と葬って回ったゲオルギウス神父の祝福訪問を、人々は殊更の礼を尽くして出迎えてくれた。心尽くしの僅かな金貨や銀貨、食料などで、いつの間にか家々を巡る馬の鞍には重たいばかりの荷袋が詰まれている。教会のために飼われている大人しい重種の青鹿毛馬は、不満のひとつも表さずに長い時間を掛けて村中を回ってくれた。時折、馬の首を撫でて労わりながら、最後の祝福の家である村長の家に辿り着いた時は、既に日は森の向こうに大きく傾き、紫色の夕暮れが迫ってきていた。
「──この年の実りを神と精霊に感謝し、我らの血である供物を捧げ、翌年もまた、清き汗と共に地を耕さん。…聖なるかな。」
「聖なるかな。」
同じ収穫祭の祈りを、今日幾度唱えたかはもう覚えていない。左手で振り香炉を揺らしながら右手で開いた祈祷書など、途中から目を通す必要さえない程に暗誦していた。最後の聖句が終わり、大きく頑丈な家に住まう一族が、声を揃えて詠唱を終え、十字を切る。これで、収穫祭の儀式は大事なく終わったのだ。
「さぞお疲れになられたでしょう、ゲオルギウス神父。…宜しければ、我が家で晩餐を召されてゆかれますか?」
「いいえ、お気遣いは有り難く、村長。教会に戻って、馬を小屋に戻して労ってやらなければなりません。あれは、私以上によく歩きました。」
首を横に振って、年老いた村長からの申し出を辞するゲオルギウスを、老人は皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべて頷きながら見上げた。
「お優しいお心掛けです、神父さま。今宵は、ゆっくりお休みになってください。──村の民は皆、あなた様に深く感謝しております。わずかの間に、この村は屍人や吸血鬼の脅威とは無縁になりました。街の者は皆、こんな小さな村のことは気にも掛けなかったものを、今やこの村には不死伯を撃退するほどの武装神父さまのお力があるなど、今でも夢のように思えてしまいます。これも神と精霊の思し召しでしょう。お困りごとがございましたら、いつでも何なりとお申し付けください。村の人々は皆、喜んで手を貸しましょう。」
「…私のような若輩者には、勿体ないほどのお言葉です。村長。──このグレンツドルフに、神と精霊の祝福あれかしと祈っています。」
押し黙っていれば厳しいと思われがちな濃蒼の双眸に努めて笑みを置きながら、ゲオルギウスは、どうにか当たり障りのない言葉を発して村長の家を後にした。帰り際、初めての子供を身籠っているという村長の孫息子の嫁に、どうかと望まれて祝福を送っている間も、心の中は決して村人と同じ平穏だけでは有り得なかった。
十七年前、惨劇の夜から変わらずに抱き続けてきたのは、慎ましくも幸せに暮らしていた教会孤児の生き方を一変させた、たった一人の存在への弛まぬ憎悪と殺意だった。不死なる辺境伯ラ・ルゴシュの命に迫り、そして、その胸に杭を打ち込もうとしたあの夜、鴻大な矛盾の正体を知らされてしまう。曰く、『不死鬼の誘引に掛かった者は、その主を殺すことはできない』。そして、その不両立は、道ならぬ逢瀬を重ねるごとにゲオルギウスの中で明瞭になっていった。
仮に、この手の届くところにある細く白い首に手を掛けて胴体から切り落としたとしたら。その薄い胸の奥で確かにトクトクと脈打つ心臓に銀色の杭を突き立てたとしたら。
それは同時に、ゲオルギウスが武装神父である意味の喪失をも示している。この胸を満たす『憎悪』と名付けた不死伯への感情の矛先が無くなれば、そこにあるのは栄光に包まれた天国への階段ではない。ただ何もない、果ての見えない荒野のような、どこまでも続く空と乾いた大地。そんな人生の中でただひたすらに神と精霊を敬い、敬虔な民草のために命を燃やせるかと言えば、即座に是とは答えられないゲオルギウスがいる。
宵闇に沈もうとする村の秋風に吹かれ、馬の背に揺られながら、何たる不徳か、と思わずにはいられなかった。ただ一人の神父の愁嘆を除き、家々は蝋燭の明かりと、収穫祭への喜びで満ち溢れている。
「…たとえ何処から来たかを知る術がなくとも、何処へ行くのかを定めるのは汝自身の足である。…自らの足を運命の枷に繋ぎ、奴隷の身に貶めることなかれ──。」
人知れず呟くのは、もう幾度も唱え続けてきた、あの新月の丘でルゴシュに説いて聞かせた祈祷書の中の一節である。あたかも己自身に言い聞かせるようにその聖句を口にし、そして、ゲオルギウスは想う。
未だどうやっても形に出来ない、宿敵であるはずの不死伯ルゴシュへのこの感情の正体は、一体何であるのか、と。
瞳を伏せれば、幻聴のように歌声が聞こえる。
一本の銀色の線のような、麗しい旋律だった。千年以上も前から、一人の男が紡ぎ続ける、妙なる歌。
繰り返し、また繰り返しては、誘う声。
くらりと目の前が二重に霞む心地を覚えて、手綱を握り締めたまま激しく頭を振る。空に浮かぶのは、半分に欠けた月。たった一人の無力な神父の心など置き去りにして、満ちては消える気紛れな月だけが、憂いに沈むゲオルギウスをじっと見下ろし続けていた。
*****
満月の夜は、訳もなく人の気をそぞろにする。その青白い狂気に支配されるのは、何も人間ばかりではない。
司祭館で夕べの祈祷を終えた後、頑丈な窓の鎧戸をしっかりと閉ざし、扉に閂を掛ける。それは、人ならざるモノの来訪を拒む為ではなかった。
闇の眷属の出現に苛まれる村にある家や教会の例に漏れず、侵入を拒む背の高い生垣に囲まれた聖堂と司祭館は堅牢な石造りで、結果的に人目にはつきづらい。それでも厳重に戸締りをするようになったのは、ゲオルギウスが抱える秘密が、万が一にも他人の目に触れるようなことがあってはならないからだ。
寝台に横たわると、程なくして、室内に灯してある燭台の蝋燭の炎がゆらりと揺れた。同時に、鼻孔を擽る甘く熟れた芳香。
あの夜以来、ゲオルギウスは、この男の満月の晩の気紛れな来訪については半ば諦めの境地にあった。いかに守りを固めようが、不死鬼は己の身体を黒い霧に変えて何処にでも忍び込んでくる。茫洋と天井を見上げるゲオルギウスの濃青の視野の中で、霧はたちまち人の姿を編み上げ、下がり気味の眦を持つ二つの翡翠の瞳が、寝台の傍らに佇んでじっとゲオルギウスを見下ろしていた。
「御機嫌よう、神父さま。私が来るのを待っていた?」
「──別に、こっちはお前を歓迎している訳じゃないんだがなぁ…。」
露骨に眉根を寄せて溜息を吐くゲオルギウスを眺めながら、ルゴシュは、眼尻に皺を浮かべてニッと笑った。キシ、と寝台を軋ませながらゲオルギウスの胸の横に腰を下ろし、悪戯をするように身を屈め、コツリと額を重ね合わせる。額の中央で左右に分けた銀色の前髪が零れ落ちて頬を擽り、妙にむず痒い。鼻先の触れ合う距離、呼吸の混じらう位置で戯れ掛かってくる細く小柄な不死者の背を抱き取り、クスクスと笑声を響かせる唇を嘆息しながら軽く啄む。
一体、この年嵩の男の何がここまで己を駆り立てるのか、ゲオルギウスには自分自身というものがさっぱり理解できなかった。目元に、口許に刻まれている年齢の証は、彼が微笑すると顕著に面輪に浮かび上がってくる。しかしそれは、彼が匂わせる壮絶なまでの妖艶さを損なうものでは、決してない。壮齢の男の姿を取っていながら、その肢体に蠱惑の瑕疵になるものは何ひとつ見当たらず、無駄な肉の削げ落ちた華奢な体躯は、雪花石膏の彫像の如く滑らかで、肌の上には染みや翳りは愚か、傷跡らしい傷跡すら全く存在しないのだ。かえって、この忌々しいほどに大人びて余裕に満ち溢れた表情を突き崩してやる瞬間に覚える愉悦の方が、若い神父の昏い劣情をそそって止まなかった。これが全て『誘引』のもたらした心境変化なのかどうか、考えても答えは出ない。
不死者の邪眼に囚われた人間は、自らの意思を食われて逆らう術を失うという。しかし、ゲオルギウスは未だ、ルゴシュを撥ね退けるだけの意思を持ち合わせていた。そうであるというのに、ルゴシュが誘い掛ける所作のひとつひとつが若い情動を毛羽立たせ、奔馬のような荒々しい衝動をこれでもかとばかりに掻き立ててくれた。
性質の悪い病であるのか、それともこの心は既に闇に侵されているのか。何れを考えるにせよ惨めになるばかりで、ゲオルギウスは遂に、逢瀬の晩には懊悩を放棄することを選んだ。満月の夜毎、大胆にも聖域に忍び込んでくることを覚えた不死者の黒い、上等の外套に包まれた細い背筋を片腕でグイと引き寄せ、耳先を隠す程に切り揃えられた短い銀髪を掴むように撫でて乱す。
「…そういえば、試してやりたいものがあったんだった。」
「なぁに?」
穏やかに下がっている眉尻を持ち上げ、不思議そうに首を傾げるルゴシュの外套の留め具をさっさと外して脱がしてやりながら、若い神父は口許に含み笑いを浮かべる。悪友の持ち込んだ眉唾ものの遊び道具は、人間ではない存在にも通用するのかどうか。兎角、使いどころはここしか思い当たらない。衣服や靴を自ら脱ぐよう、横柄に顎で示しながら、思惑を含んで笑んだ唇を再び彼の朱い唇に押し付けて塞いでいった。
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