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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)

Dio Perdito.4

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 なべて人間は、この世の中を一人で生きていくことはできない。常に汝の隣人と手を取り合い、苦難を分かち合い、悲哀を慰め合いながら生きるべしと聖霊教会の聖典は定めている。
 祈祷書の中に含まれるその一節の意味が、ゲオルギウスにはようやく理解できたような気がする。六歳の時、共に暮らす孤児や親代わりだった修道女を殺されて以来、ゲオルギウスの生は、常に孤独と背中合わせだった。教師や遊び仲間や神学校の悪友がいたとしても、この心に巣食う巨大な翠の闇があることを分かち合う相手はいない。たとえ何年掛けて言葉にして語り聞かせたところで、到底他人には理解することができない、底なし沼のような心の闇だ。
 皮肉なことに、ゲオルギウスの内なる闇を唯一知り得るのは、その闇を生み出した元凶そのものに他ならない。十七年前の夜、図らずもこの心を捕らえた男の根幹にあるのも、千年以上の『孤独』という感情であるのならば、それは何たる皮肉かと思わずにはいられない。
 
 『──ひとりは、意外と退屈なんだよ。』
 
 あの夜から、彼が幾度か口にしたその言葉は、意図せずその心中を明らかにしているようだった。ゲオルギウスには、未だルゴシュを殺す力はない。されど、ルゴシュは、気が向けばいつでも屠れるはずの若い神父を、彼自身の意思で生かし続けている。その上、食餌の採取と称して、小さく細い身体の屈辱的な内側まで余さず暴かせることを厭わなかった。むしろ、望んで身を委ねているようにも思える。
 背徳と堕落に満ちた行為の最中、ルゴシュの指は、幾度も気紛れにゲオルギウスを愛玩した。短い小麦色の金髪を絡めて撫で、頬を包んで慈しむ、そんな時、彼は決まって下がり気味のまなこと眉を緩め、細めた眦に皺を浮かべながら、神敵と定められた不死鬼ノスフェラトゥにあるまじき穏やかな表情を覗かせていた。そうしていれば、ただの人と変わらない年嵩としかさの男。敵意も揶揄もない温和な翡翠の双眸に見詰められると、ゲオルギウスは、益々自分というものが解らなくなっていきそうだった。十七年もの間、必ずこの手で殺すと誓い続けていた知己の仇であるというのに、彼を知れば知るほどその想いの揺らぎを禁じ得ない。
 まるで、決意という名の地面に固く打ち込まれた信念の杭の周囲から泥濘ぬかるんでいくようだ、とゲオルギウスは思った。決意の大地に惜しみなく降り注ぐ、杭打つ雨がルゴシュという存在だった。
 
 人に知られてはならない煩悶と共に、七日に一度の聖奉礼をつつがなく執り行い、日々の聖務や聖課に勤しみ、グレンツドルフの日々はゆったりと過ぎていく。この辺境の村は、半生を過ごしてきた雑多な街とは比べ物にならない程に時間の流れが遅いように感じられた。


 
 秋の収穫祭リコルト・フェスティオを控えたある日、グレンツドルフの村には相応しからぬほど立派な黒塗りの馬車が一台、教会の前で止まった。扉に聖霊十字の刻印がある馬車は、聖霊教会の中枢からの使者を乗せているということを暗に示している。そしてゲオルギウスは、その使者が誰なのか、既に伝え聞き知っていた。恭しくこうべを垂れながらも、降りてくる黒衣の青年に、鋭い眼を柔らかく細めて笑い掛ける。
 
 「久しぶりだ、セオドロス。まさか、こんな辺鄙な村まで来るとは思わなかった。」
 「お前のお陰だよ、ゲオルギウス。こんな村に転任願を出しやがって…。監督するこっちの身にもなれってんだ。」
 
 差し出した右手を悪態交じりに握り返すのは、神学校の時に長らく同室だった同い年のセオドロスという男だ。茶色い巻き毛に、目鼻立ちの整った甘い青い垂れ目を持つ彼は、さる侯爵の六男という尊い生まれだった。家督継承からは遠い位置にいる貴族の子息がしばしばそうであるように、彼もまた、自分の意思とは関係なく、神職として地位を得るべく親である侯爵の意向で神学校に叩き込まれていた。生来さほど信心深い訳ではないセオドロスは、事あるごとにゲオルギウスや他の気心知れた神学生を誘い、隙さえあれば街で悪い遊びを教えることを楽しんでいる風であった。神学への心酔ではなく宿敵への怨嗟のみで武装司祭の道を志したゲオルギウスにとって、セオドロスの振る舞いは翌日の聖課を酷く妨げない限りは咎めるべきものでもなかったし、真面目な神の子たる他の学生も、侯爵の後光を恐れて何も言ってはこなかったので、相手をしていれば何も考えずに享楽に耽ることのできる数少ない悪友として数年間を共に過ごしてきた。
 そんなセオドロスは今、黒い短い外套ケープのついた臙脂色えんじいろ武装神服キャソックではなく、つばの広い黒い帽子と、銀色のボタンのついた漆黒の神服を身に纏ってゲオルギウスの目の前にある。武装司祭の神服キャソックの色は、神と精霊のために血を流すことを厭わないとする象徴の色であるのだが、セオドロスの纏う黒は、純粋な祈りを捧げる司教の服だった。ニヤリと笑みながら、悪友の肩に手を置いて、司祭館の方へと歩みを促す。
 
 「それにしても、まさかお前が南教区の司教に任ぜられているとはな。よりによって、敬虔な信徒の多い地方の司教様が、お前とは。」
 「あぁ、言うな言うな。俺だって、なりたくてなった訳じゃない。親父の口利きでは仕方ないだろう。──お陰で、一年の三分の一は辺境の村の司祭を見回りに行かなきゃならないんだ。しかも、こんなにクソ遠い村に、武装司祭が二人もだぞ?監督する俺の身にもなれよ。」

 いかにも女好きのする垂れた眦を物憂げに伏せて嘆息し、心底面倒だ、と言わんばかりに肩を落とす。この率直さと、孤児であるゲオルギウスを前にしても見下したり、権威を笠に着て威張り散らそうとしないところがセオドロスの数少ない美徳のひとつだと考えていた。狭く質素な司祭館の卓を挟み、ゲオルギウスが水差しから注いだ一杯の薄荷茶を遠慮なく飲み干して、セオドロスは帽子を脱いで一息つく。

 「二人目の武装司祭というのは、アウエンブルフのミディアン神父のことか?」
 「そうだ。元々後方支援の弓銃クロスボウ使いなのに、聖堂番まで雇ってわざわざド田舎に赴くとはねぇ──。信仰心が篤いのだか、変わり者なのかは解らんが、村人からの信頼は間違いない。元気そうにしていたよ。」

 司教の神服に身を包んで肩を竦めるセオドロスの口から、隣村のミディアン神父が息災であることを聞いて、心の内に安寧を覚える。セオドロスの役割は、与えられた地区の司祭や他の聖職者たちが正しく神と精霊の教えを広め、信仰を守り続けているかどうかの、いわば監視とも言えるものだ。そんな彼の素焼きの盃にもう一杯の薄荷茶を注いでやりながら、ゲオルギウスは久方ぶりに顔を合わせる悪友と暫しの会話に興じた。
 
 「で、お前の方は、何だ。辺境伯を討って名を上げることが狙いか?──昔から、吸血鬼ヴァンパイア不死鬼ノスフェラトゥを毛嫌いしていたからな。『爆散する矢の聖具』は役に立ったか?」
 「あぁ、生憎あと一歩のところで取り逃がしはしたが、あれは真祖アルケにも存分に通用するものだったよ。報告は纏めておいた、中央の技術者に渡しておいてくれ。」
 「ふぅん──。」

 ゲオルギウスが差し出した、亜麻で出来た紙に書き連ねた討伐聖具の結果について、セオドロスはさほど熱心ではない眼差しを注いでざっと目を通していた。

 「あれはだいぶ高価なシロモノだが、お前に貸した甲斐はあったって訳だな。しかし、不死鬼ノスフェラトゥというのは凄まじいな。銀と茨で編んだ縄を易々引き千切るか──。」

 少なくとも、ゲオルギウスは嘘だけは唱えていない。あの縄のみでは、万全のルゴシュを押さえておくことは到底不可能だった。そして、爆散する矢の聖具は、扱うべき者が扱えば、ことによると不死伯を正しく駆逐していたかもしれない。いかに相手が信心深からぬ悪友であったとしても、あの夜の事実と己の内心を正直に打ち明けることは到底できなかった。故に、ゲオルギウスの苦悩は延々と続く。

 「まあ、いい。今は大人しくしているとはいえ、数百年間も神の名を汚し続けてきた辺境伯が、いつまた人間に牙を剥くとも限らんからな。その時までに、聖具の開発を急いでおくことは必要だ。──勇敢なお前が辺境にいて良かったよ、俺には無理だ。辺境伯と対峙なんぞしようもんなら、腰を抜かさないでいる自信がない。」
 「…はは、お前らしいよ。そうだな、ここは俺に任せておけ。必ず、あれ・・を討つ。お前の手は煩わせるし、力は借りることになるだろうが、そこは大目に見てくれよ?司教様。」
 「適材適所、ってやつだ。あんまり高い聖具や無理なことを言ってこなければ、話はそこそこに聞いてやるよ。この報告書もある、親父の名を出せば、中央も簡単に首を横には振れないだろう。」

 友人を前にした時は誠に正直なセオドロスの言葉に、ゲオルギウスはクスクスと肩を揺らして笑う。そんなゲオルギウスを見詰め、セオドロスはその蒼い瞳をつっと薄く細めた。

 「──お前、変わったな。」
 「え?」

 不意の悪友の言葉に、ゲオルギウスは暫し呆気に取られて瞬きをする。

 「こんなド田舎の村にいるからか──?とげが無くなって、何と言うか…前より丸くなった気がする。一人でいる時に話し掛けると、事あるごとに斬りかかってきそうな、そんな鋭い奴だったのに。──ははぁ、さては。」

 と、生来の好色を隠しもせずに、俄かに青い眼に下世話な詮索の色を浮かべたセオドロスは、身を乗り出すように顔を近付けてにやにやと笑いながら小声で問い掛けてくる。

 「──お前、いい相手でもできたか?旦那と死に別れた信心深い年上の後家さんだの、嫁に行き遅れた世間知らずのご婦人だの…若い武装神父に夢中になりそうな、空閨くうけいを持て余した情人いろでも拵えたんだろう。」
 「馬鹿、そんな訳があるかよ──。」

 一瞬、冷ややかな手で心臓を握り潰されたかと錯覚した。無論、この男の言葉はただの下衆の勘繰りでしかない。しかし、今のゲオルギウスには、それを完膚なきまでに否定して笑い飛ばすことは出来なかった。況して、司教である彼には口が裂けても言える筈がない。『男と寝てはならないという禁を破ったばかりか、神父が不死鬼と通じている』等と。

 何を、どこまで見透かされているのか、そんなあるはずもない暗い不安が胸の中を過ぎり、己は定めし固い笑顔を浮かべていたことだろう。幸いだったのは、セオドロスがそれを勝手な方向に曲解してくれたことだった。口角に置いた色好みな笑みを深め、ゲオルギウスの肩をトントンと軽く叩きながら、懐から何らかの膏薬が入っていると思しき、緑色の硝子ガラスの小さな容器を取り出して、コトリと卓上に載せ置く。

 「ま、そんなこったろうと思ったぜ。派手にやらなきゃいい、適度に息を抜けよ。娼館もないような村に逞しい男一人では不健全だ。──土産だよ。今、街の高級娼婦の間で流行ってる代物しろものでね。あぁ、当然だがお前だけだぞ。他の神父にはとても渡せん。」
 「何だ、これ。」

 怪訝な表情で、鉄の蓋が付いた緑の容器とセオドロスのよからぬ顔を交互に見遣る。相も変わらず下世話な笑みを浮かべながら、奔放な若い司教は囁き声で続けた。

 「東の国から伝わって来た、罌粟けしの蕾から搾ったっていう媚薬だ。同衾の時に、女のあそこに塗り込めてみろ。いい具合になって、お互いに天国への階段が近付く。」
 「──相変わらずだな、お前は…。」

 自身の金色の髪をグシャグシャと掻きながら、ゲオルギウスは派手に溜息を吐いて見せた。おおよそ、この男には禁欲という言葉は一切合切当て嵌まらない。無類の女好きの貴族の子弟は、たとえ神職に就いたところで色好みを変える気はないらしい。神学校時代はそうもいかなかったが、今は、おおかた人目につかぬように屋敷に娼婦を招き入れて快楽に耽っているのだろう。そしてセオドロスは、ゲオルギウスが彼のそんな清廉とは言えない気質をわざわざ咎めたり、非難したりしないことをよく知っている。
 大袈裟な否定は、今の状況では逆効果だった。そして、わざわざ辺境の村までこんないかがわしいものを携えてきた悪友には、女の情人がいると思わせておいた方がかえって都合がいい。

 「なあ、どうせ田舎の年増女だろうが、美人か?お前の情婦は。」
 「──狭い村で、少しでも余計な噂が立ったら大事おおごとだからな。好きなように想像しておけ。」

 聖職者でありながら同じ悪い遊びを知る者としての笑みを返し、セオドロスの土産を有り難く懐に入れて見せた。彼が、代わりにゲオルギウスのしたためた報告書を懐に仕舞うのを見て、ひとつ浅く頷く。

 「何かの折には、司教様の世話になるかもな。…その時は、手紙を書かせて貰う。」
 「最も危険な村にいる友のためだ。その時にド田舎の視察に行ってなけりゃ、善処するよ。遠慮なく使いを飛ばしてくれ。」
 「恩に着る。」

 そして、帽子を取り上げて司祭館を後にしようとしている旧友の手を取り、額に押し当てて親愛の意を示す。

 「俺がここにいる限り、定期的にグレンツドルフに視察に来なければいけないんだろうがな──。これも試練だ、堪えてくれよ、司教様。良き一日を、汝、聖なれヴォーナン・タルゴ・ヴィ・サンクティガ。」
 「全くだ。最低でも…年に一度くらいは顔を出すようにしてやる。元気でいろよ。努めて、聖なるべしミ・ラ・サンクティーヴォ。」

 同じ親愛の儀礼を返し、セオドロスは、立場の違いを微塵も感じさせない、神学校にいた時から少しも変わらない顔でゲオルギウスに笑み掛けてきた。
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