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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)

Dio Perdito.2

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 神学について習得することを除き、武装司祭として最大の特徴は、何と言っても個々人が持つ戦闘能力と機動力である。聖都防衛の任務に就く者や、後方支援を担う弓銃クロスボウ使いのミディアンなどの例外はあれ、武装司祭として在るには、常に前戦に立って、闇の眷属や異教徒を相手に戦えるということが必須条件だ。

 必要な訓練を行うことも、武装司祭の一日の聖課のひとつだった。婚礼や葬儀、洗礼や祭事がなければ、午後の一刻か二刻ほどは、生垣に囲まれた教会の裏庭で棒術の鍛錬に打ち込む。都市の神学校で、ゲオルギウスが長棍スタッフを操る棒術隊への所属を希望したのは、幼い頃から体格が大きく、優れた身体能力を持ち合わせていたこともあるが、戦場で武器を選ばずに戦えることに最大の利点を見出したからだ。剣術隊の武装司祭は、剣を弾き飛ばされてしまえば戦力が半減する。弓術隊の司祭は、矢が尽きれば退却を余儀なくされるし、最前線に立つことはできない。だが、棒術に関しては、長棍スタッフに似た形状のものが手元にあれば、少なくとも戦場から退く必要はない。ただひたすらに、どのような手を使ってでも宿疾の不死鬼ノスフェラトゥラ・ルゴシュに迫るためには、この武術を極めることが最短の方法だと考えた。
 上背があり、力の強いゲオルギウスが、武装司祭のために特別にあつらえられた聖具である鋼鉄の長棍スタッフを力任せに振り抜けば、雄牛の頑丈な頭蓋をも易々と砕くことができた。重たい鉄芯の棒で叩き潰し、へし折り、薙ぎ倒す。この膂力りょりょくを維持し続けている限り、ゲオルギウスは武装神父として撃退と殲滅の聖課に励むことが叶う。数カ月前の新月の晩、最強と謳われる不死の辺境伯の肉体に少なからず痛みを与えた己の技量を保ち続け、あわよくば今以上に高めることがゲオルギウスの望みだった。
 とはいえ、辺境の村に、武装司祭の手合わせを務められる技量の持ち主はそういない。藁を巻き付けた丸太をいくつか地面に打ち込み、それを敵に見立てて打ち込み、かわし、立て直しの姿勢を取り続けるのが関の山だが、身に着けたことを確実に繰り返し続けていなければ、いずれ腕が衰える。陽射しが傾きつつある夏空の下、鍛錬に励むゲオルギウスの全身は、十里を駆け抜けた奔馬のように汗だくになっていた。それでも、定められた訓練が終わるまで、模擬戦の手を止めることはない。
 
 こうして武術の鍛錬に励んでいると、時折、生垣の隙間から、数人の村の子供たちが羨望の眼差しと共に覗き込んでくることには気づいていた。彼らにとって臙脂色えんじいろ武装神服キャソックに身を包み、武器を取って戦う司祭というものは、実際の務めよりも遥かに気高く魅力的に映るのだろう。逆に、ゲオルギウスにとっては、そんな子供の屈託のない視線の方こそ羨ましいと思えた。おおよそ十二年に一度の周期で人の世に蔓延する、『十二年病』という流行り病で赤ん坊の時分に親を亡くし、その上、親代わりでもあった教会孤児院の優しい修道女を目の前で惨殺されてしまったゲオルギウスの身には、子供の頃の楽しい、他愛のない想い出というものがほとんど欠落している。
 己の心を捕らえた不死者ノスフェラトゥへの復讐を誓った日から、ゲオルギウスはただひたすらにそのことばかりを考えて生き続けてきた。日々血の滲むような想いで勉学に、武術に励み、教会孤児院から推薦された異例の特待生として神学校の門を潜った孤児には、おおよそ子供らしい子供の生き方というものが身についていなかったのだ。もっとも、寄宿制の神学校において、悪い遊びを教える悪友というものが存在しない訳ではなかったが、それでも、ゲオルギウスに、この内心が孕んだ途方もない宿痾しゅくあを他者と分かち合う術はない。常に、この広い世の中にたった一人だけでいるような、そんな諦観と共に生きざるを得なかった。
 
 「──は…。」

 鍛錬を終え、びっしょりと汗を掻いた身体を清めるべく、井戸で桶一杯に水を汲み上げる。夏場はまだしも、冬になればこの作業ですら厳しいものになるだろう。素焼きの大きな盃に汲んでおいた、薄荷の茶を煮出して冷まし塩と檸檬レモンの搾り汁を入れた飲料をごくごくと喉を鳴らして飲み干すと、ゲオルギウスは肩を下げて大きく息を吐き出した。陽は大きく傾き、西の空から地平の彼方に沈んでゆこうとしている。
 今宵は、上の半分が欠けた月が昇るはずだった。そして、幾つかの日が昇り、月が沈めば、次の穢れの新月マルベニカ・ノクトがやってくる。
 果たして、あと幾度、長き年月を一人で生き続ける銀色の髪の男と邂逅すれば、この生き様の答えというものが導き出せるのであろうか。弱冠二十三歳のゲオルギウスは、複雑にもつれ合った糸のような運命の中から解を導いて悟りを開くにはあまりにも若すぎた。いや、仮に数千年生きたところで、この問いに明確な答えを得られるかどうかは判らない。
 汲み上げた井戸水を司祭館の沐浴室に運び、木桶で身体を拭き清め、質素な晩餐の支度をする。そんな変化のない一日が、あとどのくらい続くのだろう。決して人には言えない秘密を抱えたままで。

 不意に、千年以上の永きを、共に歩む伴侶もなく生き続けているという存在が頭に浮かぶ。彼は、何を想いながら眩暈がするような時間を過ごしてきたのだろうか。ゲオルギウスには到底推し測ることのできない年月は、彼にとって棘草イラクサの衣ではないのだろうか。

 「──やはり、解らんな。」

 蒼い視線を足許に落とし、若い神父は深々と嘆息した。
 
 
 
*****
 

 小さな村の司祭の一日は、日の出とともに始まる。
 陽の光を察して雄々しく声を張り上げる鶏の鳴き声で目を覚まし、目覚めの祈りを唱えた後、司祭館の沐浴室で身を清めることが第一の聖課だった。いつも耳のいいユージィンが先に目覚め、水を汲んで湯を沸かし、木製の湯浴み桶にぬるま湯を満たし終える頃に、ミディアンが寝床から起き上がってくる。

 「──おはよう。良き一日を、汝、聖なれヴォーナン・タルゴ・ヴィ・サンクティガ。」
 「ハイ、おはよ。努めて、聖なるべしミ・ラ・サンクティーヴォ。」

 短い挨拶を交わす欠伸交じりのミディアンは、ユージィンよりだいぶ寝起きが悪い。聖堂番の作務の一環として、調理以外の様々な雑務をこなしてくれるユージィンのお陰で、司祭としての聖課や薬の調合、研究に割ける時間が多いのは有り難いことだった。
 沐浴のために寝間着を脱ぎ捨て、素肌を曝け出すのは、これが赤の他人であればはばからなければいけない恥ずべきことだが、相手が三十年来の親友であればさほど気にならない。かえって、人払いという面倒がないだけ手間が省けるだろうという司祭にあるまじき合理的なミディアンの思考回路を、ユージィンは熟知している。

 「剃刀には革砥を掛けてあるからね、あと、石鹸はそこに。オレ、ちょっと裏で薪を割って鶏小屋から卵を取ってくるから、ゆっくりしてていいよ。」
 「ん──。解った。卵は、塩漬けの豚肉と一緒に焼こうかな。」

 ミディアンの頭がよく動かないうちに、てきぱきと仕事をこなしてくれるユージィンには幾度助けられたか知れない。むしろ、ユージィンという重要な歯車を欠いてしまえば、ミディアンの今の生活は成り立たなくなってしまう。一日の始まりに身を清めるべく、銀縁の眼鏡を外して沐浴部屋で湯を使い始めた。もっとも、最低でも月に一度は、疼いて軋む身体の隅々まで丹念に行為の痕跡を洗い清めなければならないことは確かなのだ。そんな時、ユージィンは、決まっていつもより温かな湯水を湯浴み桶にたっぷりと用意してくれる。血の巡りを良くし、身体に残る疲弊感を流し去る温かな風呂に、ミディアンは親友の心遣いを感じた。夏場、暑気を取るためのぬるい水にちゃぷりと爪先を浸しながら、掌で水を掬い掛けて沐浴と清めの祈祷を唱える。

 「──今日という日を、つつがなく過ごせますように。…聖なるかなサンクティガ。」
 
 
 
 夏のアウエンブルフの陽射しは高く、風向きによって湿地帯から吹き寄せる風はじっとりと重い湿気を含んでいる。それでも、武装司祭に従う聖堂番は、袖と裾の長い黒い服を脱ぐことはないし、つばの広い黒い帽子を手放さない。日焼けには弱いが、よく働き、よく喋り、力のあるユージィンに、村人たちはすっかり気を許していた。また、日課の合間に、聖堂でミディアンが弾き鳴らすオルガンの見事な音色は外に漏れ聞こえて村人の耳を愉しませ、長らく正式な司祭がいなかった村に安息をもたらしている。

 「そんなにオルガンが上手いなら、聖都の聖歌隊に行けばよかったじゃない。」

 冗談交じりにユージィンにそう言われるほど、ミディアンはオルガンと聖歌を得意としている。しかし、そうはしなかった。他の男より一回り小柄なこの体格でも、弓銃隊であれば武装司祭として戦えたし、何より、聖霊教会の持つ高い水準の医術や薬学を修めることこそが、ミディアンにとっては非常に重要だったのだ。
 聖霊教会の蔵書の中には、吸血鬼や食人鬼など、闇の眷属についての著書も多くあった。それを片っ端から読み漁れば、いつしか、満月の夜に並ならぬ衝動を覚える親友の苦しみを和らげられるかもしれない。書物がなかったとしても、技術さえあれば自分自身で突き詰め、編み出すこともできる。未だその知識には辿り着いていなかったが、いずれ必ず為し遂げて見せる、その時まで、たとえどれだけ教えの道と懸け離れたことをしてでも、親友の全てを受け容れるのだと固く神に誓っていた。
 昼の務めを終え、聖堂の外に出てみれば、そこには幾人かの老人や子供たちが集まり、石段の上に座って得意のリュートを弾き鳴らす黒衣のユージィンを取り囲んで演奏に聞き入っている。この男はこの男で、聖歌には熱心ではないにしろ、吟遊詩人のような弾き語りがとても上手かった。

 「──さて、次は何を弾こうかね?イタチに騙された王様の物語、それとも、騎士とお姫様の恋の物語かな…?」
 「イタチ!」
 「お姫様がいい!」
 「うぅん、どっちも聞かせて!」
 「あはは、そんなに何曲も弾いたら、オレの持ちネタがなくなっちゃうでしょ。一曲だよ…。」

 子供たちは手を叩きながら歓声を上げ、口々に、歌い聞かせて欲しい話を伝えてくる。そんな子供たちを見詰めながら、子守りの老人もまた、ユージィンの面白おかしい語り口調にすっかり心を奪われている様子だった。
 響く笑い声、麦畑を渡ってきた、夏の爽やかな青い風。
 ミディアンは、眼鏡の下で目を細めて柔らかく微笑んだ。そして、彼らの妨げにならないように、眩しげに空を見上げて小さな声で呟く。
 
 「──ここは、本当にいい村だ。皆には幸せでいて欲しいし、出来る限りここに長く居たいね…。」
 
 そう。武装司祭と聖堂番の間に流れる『時間』が異なるということを村人に悟られる前には、この地を後にしなければならない。その日が来るのは、五年後、あるいは十年後。いつなのかは解らない。血の薄い混血鬼ダンピールのユージィンが、実際の年齢に見合わない不自然な歳の重ね方をしていることが発覚してしまったら、一巻いっかんの終わりなのだから。 
 胸元に揺れる聖霊十字の念珠ロザリオを握り締め、姿なき神と精霊に心の中で問い掛ける。それは、もう幾度唱えたのか解らない、祈祷書の中の一節だった。
 
 『神よ、精霊よ。私と我が親友は、御身の思し召しによって何処に導かれて行くのでしょうか。』
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