上 下
15 / 41
第二章 Sang de la Jedaz(サング・デ・ラ・ジェダス)

Sang de la Jedaz.8

しおりを挟む
*****
 
 神は、人に乗り越えられぬ障壁を与え給うことはない。故に、困難とは、それすなわち幸甚である。
 神は、人に立ち向かえぬ嵐を差し向け給うことはない。故に、神の愛は常に箱舟の如くある。

 これは全て、聖霊教会に属する聖霊教徒セレスティオの教えだった。その者が神と精霊を心に宿し続けて、正しく神の子として振る舞った場合、死後には澄んだ河が流れる永遠の都、天の国に住まうことを許される。逆に、その者が神の教えと精霊の導きに反し続けた場合、その者の住まいは一筋の日の光も射さない永劫の地獄となるのだ。
 都から遠い、小さいが決して荒れてはいない村の教会で日々の祈祷を繰り返し、安息日の聖奉礼を滞りなく勤め上げ、村人からの厚い信頼を得ていても、ゲオルギウスの心は決して穏やかではなかった。神と精霊の敵と定められている人ならざるモノ、闇の眷属の最高位とも言える存在を追い求め、命を奪おうと画策し、しかし幼い日から変わらずに神に誓い続けたその渇望は、奇妙な宿業により道ならぬ方角に捻じ曲げられようとしている。
 不死者に魅了された者は、意思を失い、知恵を失い、その意のままに操られるだけの僕従と化すという。だが、その不死鬼には人間の子供を誘引しようという意思はなく、たった六歳の子供は、誘惑の意味を知るには幼過ぎた。不完全な状態で心に焼き付いた翠の闇をどうすれば取り除けるのか、誘引を施した側にも答えはない。そして今、施された側のゲオルギウスの心境にも僅かな変化が生じていた。
 
 十七年前の穢れの夜マルベニカ・ノクトの日、教会孤児だったゲオルギウスの暮らす、森の近くの長閑な村を襲撃したルゴシュは、ほんの気紛れに、ただ目の前にいただけの子供に誘いの言葉を掛ける。
 
 『ひとりは、意外と退屈なんだよ。』
 
 開闢祭の夜、彼が生き続けた年月の途方もない長さを知った。神の最初の御言葉が原初の石板に刻まれたという年から数えて1358年、聖霊教会というものが誕生するより遥かな昔から、ルゴシュは人の世の営みを絶えず見続けてきたという。時として人間と交わることもあったという不死鬼が教会によって排斥されるようになってから、彼の傍らに近しい人間という存在がいたことが、果たしてどれくらいあったのだろう。同じ時を生きる存在がいないことは、他ならぬ彼の言葉が物語っている。
 であるから、酔狂で、理解不能で、不条理に過ぎないとしか思えなかったあの夜のルゴシュの行動に、ふと得心が行ってしまったのだ。
 姉代わりであった優しい修道女を殺し、同胞の孤児たちを殺した不死鬼ノスフェラトゥが、彼自身でも気づかぬほどの誘引ラーヴォの力を視線に込めてしまった理由が、ひたすら理不尽で身勝手なばかりの酷薄な気紛れであったのならば、ゲオルギウスはそれを理由に仇敵である不死鬼を憎み続けることができた。たとえ今、その命を奪うことができなくとも、必ずや神敵ルゴシュをこの手で殺してやるという憎悪と激しい怒りが原動力になっている限り、ゲオルギウスは聖霊教徒セレスティオの司祭であり続けられる。
 だが、知ってしまった。
 不死伯の心を苛んでいるものが千年にも及ぶ『孤独』だとしたら、ほんの偶然にも目が合った、自分の姿を見ても、逃げも恐れも泣きもしなかった子供に対して、どのような感情を覚えたのだろう。
 そしてあの夜の出来事が全て神の思し召しであるというのならば、一体誰を憎み、誰を呪えばいいというのだろう。
 

 うららかな春の午後の陽射しの中、グレンツドルフの村は新緑の彩に満ちている。雲雀ひばりが空高く歌い、母山羊は乳飲み仔を連れて伸びやかに草を食み、生垣には素朴な花々が咲き乱れていた。それなのに、ゲオルギウスの視野だけが、白と黒のみで塗り分けられているように思える。

 午後の務めを終え、教会の戸口に佇んで物思いに耽っていたゲオルギウスの元に、軽やかな足音を立てて数人の子供たちが走り寄ってきた。咄嗟に考えることを止め、努めて柔らかな笑顔を浮かべながら、教会を訪れる小さな客人たちを出迎える。

 「──あの、神父さま。あたしたち、丘でお花を摘んできたんです。」

 一番年嵩に見える、栗色の編み髪を二本胸の上に垂らした少女が、他の子供たちが見守る中で、先に立っておずおずとゲオルギウスに花束を差し出す。野菊やすみれや、色とりどりの野の花で作られた小さな花束。

 「これを、神さまにって。神さまは、お喜びになるかしら?」
 「おや、綺麗な花をありがとう。集めるのは大変だったでしょう。神さまを敬う心は大切なものですよ。もちろん、神さまは、あなたたちの行いをいつでもご覧になっていらっしゃいます。これは、私が祭壇に捧げておきましょう。」

 ほとんど言葉を交わしたことのない、鋭い蒼い視線を持つ神父を前に尻込みを隠せなかった他の子供たちも、背の高いゲオルギウスが微笑と共に屈み込んで花束を受け取る様子を見て、満面に笑顔を広げて高らかに笑い始める。
 手には、子供たちが編み上げた、純朴で綺麗な花束。ただでさえ敬遠されがちだと自覚する鋭く険しい地の表情に精一杯の微笑を貼り付け、幼子たちに神の道を説きながら、何という矛盾を抱えているものかとゲオルギウスは内心で自嘲する。

 「ねえ、神父さま。ぼく、大人になったら、戦う神父さまになりたいの。どうすれば神父さまみたいになれるの?」

 ハシバミ色の大きな丸い目をきらきらと輝かせる茶色い髪の少年が、何の屈託もなく問い掛けてくる。子供であれば感じるであろう憧憬、その罪のない純真さが、今のゲオルギウスには鞭打ちの痛みのように残酷に感じられた。

 「きみは、今年で幾つになったのですか?」
 「六つ。」
 「──…そうですか。武装司祭になりたければ、街の神学校に入らなければなりません。でも、きみはまだ、とても小さいから。まずは、日々のお祈りを欠かさず、食べ物に感謝してきちんと食べて、神さまの敵と戦えるように…体を強く、背を高くしなければね。」
 「はい、神父さま。」

 ゲオルギウスの内なる煩悶など知る由もなく、子供たちは無邪気に笑い、口々に礼の言葉を述べ、そして服の裾を翻してはしゃぎながら駆け去っていった。

 「──きみたちに、神と精霊の御加護あれ。」

 その背中に祝福を送りながら、ゲオルギウスは手にした素朴な野花の花束をじっと見詰める。六歳の少年というものは、自分自身が思っていたよりもずっと小さく、あどけない存在だった。そして、ゲオルギウスの中にある子供らしい子供の頃の記憶は、十七年前のあの夜を境にプツリと途絶えている。
 十七年。誰とも想いを分かち合うことなく、憎悪と執念だけを糧に生き抜いてきた日々は、他人に言わせてみれば、それは孤独な年月であったのかもしれない。だが、それすらも遥かに凌駕する、千年にも及ぶ孤独の呼び声が、翠色の闇をした深淵から音もなく響いてくる。
 あのまがつ闇夜の出来事がなければ、武装司祭としてのゲオルギウスは存在し得なかった。神職としての今のゲオルギウスの在り方は、神敵である不死鬼ノスフェラトゥによって形作られ、そしてそれが神と精霊の御導きであるとしたら、これがゲオルギウスに与えられた、自らの足で乗り越えるべき嵐のような試練だということになる。十七年前、差し伸べられたルゴシュの手を取って身を委ねていたら、己は、そしてルゴシュはどうなっていたのだろう。しかし、そのように考えてしまうということは、聖霊教会の武装司祭として決して生易しくはない時を生き続けてきたゲオルギウス自身の歩みを、自ら否定するのと同義なのだ。

 「神よ、我が身を護り給えディ・オ・ガルド・ヴィア、どうか──。」
 
 神よ、神。我をば何処へと導き給う。棘草いらくさの鋭き帷子かたびらを纏い、十字の剣を背負いて、刑場へと赴く我が身に救いは有りや?
 
 西に傾く陽射しの中で、ゲオルギウスは両手の指を組み合わせて祈りの形を作り、固く目を閉ざす。よしんばルゴシュが何も語らず、彼の生きた世について何も知らなければ、この心の中には今も漆黒の、混じりけのない黒き復讐の炎が燃え盛っていたのだろうか。今、生木をくべたようにくすぶる心の内を処しかねて、若い神父は己を見守る神に帰らぬ問いを投げ掛け続けていた。
 間もなく、次の穢れた新月の夜マルベニカ・ノクトが訪れようとしていた。
 
 
*****
 

 春も半ばの新月の夜は冴え渡り、星明りに満ちて明るかった。
 いつものように、森番と不寝番の男達に、高い生垣と柵で囲まれた村の出入り口だけを委ね、単身、松明を片手に糸杉の森へと踏み込んでゆく。ここしばらく、吸血鬼や屍人の姿はほとんどなっていた。ゲオルギウスが、森を徘徊して村に入り込もうとする闇の眷属を見つけては頭を叩き潰し、心臓に杭を打ち込み、首を切り離して焼き払った為か、人里に近付こうとする邪悪なものはすっかり鳴りを潜めていた。グレンツドルフの森深く、かつては街に近い規模であった旧い村の境界まで行けば、状況は違うのかもしれない。だが、少なくとも村人たちは、武装司祭としてのゲオルギウスの力を完全に信頼し、全てを任せることに異議はないようだ。

 長身のゲオルギウスの背丈より長い長棍スタッフは、頑丈な革の武器帯で背中に斜めに止めつけていた。決して落下せず、しかし使う者が引けばいとも容易く外れるように作られてはいたが、それでも敵と相対する時にほんの一瞬でも出遅れるということは、時と場合によっては武装司祭にとって命取りになる場合もある。だが、ゲオルギウスは、敢えて武器を構えたまま歩こうとは思わなかった。暗く、糸杉の枝葉の影に沈んだ古の道には、邪悪な存在はおろか、獣の気配すらない。深閑と静まり返った森の中、もう幾度も駆けて慣れた道を、迷うこともなくひたすらに進んでいく。
 かつて、村の中心にあったと言われている石造りの廃教会。その周囲を取り囲む古びた石畳の上に、巨大な白い塊がある。教会へと続く廃道の途中でそれに気づいたゲオルギウスは、濃青の瞳を胡乱げに細めながら、松明を翳して近づいていった。

 「ルゴシュ…?」

 聖堂の入り口の程近くに、銀色の毛皮を纏った巨大な狼が寝そべっていた。並の狼の二回りは巨大な姿と、闇に煌めくその毛並みには見覚えがある。遠く、松明の光と松脂まつやにの燃える匂いを嗅ぎつけたのか、立った耳を小さく震わせながら、狼の姿をしたルゴシュはゆっくりと起き上がる。翠色に光る二つの瞳でゲオルギウスを見上げると、小さく喉を鳴らしながら右前脚で軽く地面を掻き、首を振るって広い背中を指し示している。その意味するところは理解でき、ゲオルギウスは困惑を隠せない。

 「背に乗れ、と?──どうするつもりだ。」

 意を得たり、と言わんばかりに、狼がニヤリと口角を持ち上げたように見えた。尚も躊躇うゲオルギウスを前に、鼻の頭に皺を寄せて低く唸る狼のルゴシュは、どうあっても自身の考えを曲げる気はないらしい。苛立ち任せに吼えられて、眉を顰めながら渋々と構えていた松明を石畳に幾度も叩き付け、踏みつけて火を消した。星明り以外に光源のない闇夜にあっても、巨大な狼の毛並みは輝くように白く、睛は二つの燐光のように光って、その姿を見失うことはない。
 広々とした背を差し出す狼の背に、恐る恐るまたがった。馬具を置いた馬でもない、不安定な生き物の背に身を預けることにはかなりの抵抗がある。固い上毛と柔らかな下毛を持つその首筋に両腕を回してしっかりと身体を支える姿勢を取ると、白銀の狼は満足したように鼻を鳴らした。

 『掴まれ。』

 狼が、そう吼えたように聞こえる。次の瞬間、固い爪を持った四つの脚が、ゲオルギウスの体躯を乗せたまま軽やかに虚空に躍り上がった。

 「うァ──ッ!」

 感じたこともない速度の風が風に当たり、土埃を舞い上げ、まともに目を開けていることすらできない。拍車を当てた軍馬の全力疾走とは比べ物にもならない、嵐のような獣の駆け足。反射的に、ルゴシュの首に回した腕に目一杯の力を込めて振り落とされないように身体を支えると、その首筋を流れる毛並みがゲオルギウスの頬を包み込んだ。毛皮の奥から漂う、仄かな甘さを含んだ誘引の香りは、この存在が間違いなく己の知るルゴシュであることを明瞭と物語っている。藪を、小川を、岩の上を難なく飛び越えて疾走する狼の背の乗り心地が良い筈もなく、散々揺さぶられては気分も悪くなる。薄っすらと目を開けることから始めると、顔を切るような風と速度には徐々に慣れ、次第に、疾駆する大きな馬に行き先を委ねているような感覚になった。
 新月の暗闇をひた走る、一頭の巨大な銀毛狼。その背に一人の人間を乗せて、何処までも獣は行く。進行方向に位置する障害物を目視できるようになると、後はもう、騎乗とさほど変わらない平衡感覚を保てるようになってきた。さも心地よさそうに夜を駆けるルゴシュと、動きを重ねるゲオルギウスの呼吸の音が、次第にぴったりと重なるのが解る。
 半刻ほども経ったところで、不意に森が開け、空を見上げる小高い丘の上でルゴシュはついにその駆け足を緩やかに止めた。深く、何処までも広い糸杉の森の中で、唯一木立の影を受けない開けた場所だった。
 こんな場所が存在するということさえ、ゲオルギウスは知らない。恐らく、村で最も長く生きている長老ですら知らない場所だろう。月なき夜空を見上げながら、ゲオルギウスはゆっくりとルゴシュの首に回した腕の力を解き、地面に靴底を付ける。長く、慣れない姿勢で狼に騎乗していたせいか、感覚は多少覚束おぼつかなかったが、疲れに火照る頬を撫でる冷ややかな夜風は心地よく、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながらぶるりと大きく首を震わせた。
 目の前で、巨大な狼の姿をしたルゴシュの身体が変化してゆく。月なき夜の一面の星明りに照らされ、まるで毛糸で編み上げた織物の糸を目にも止まらぬ速さで引きほどくように、今まで狼だったものは、二本足で立ち上がり、指先から形を変えて、一瞬にして人間とほぼ変わらない姿へと作り変えられていった。

 「何故だ、ルゴシュ。これもまたお前の酔狂か?」
 「言うまでもないと思うが。」

 実に見慣れた姿をした小柄な男は、ひとつ咳払いをして、しかめ面のゲオルギウスを見上げて話を続ける。

 「いくら廃れたところで、聖霊教徒の教会という場所が私にとって決して愉快な場所でないことは、キミにも理解できるのではないかね?」
 「──、あぁ…。」

 改めて言われてみれば、得心が行く。第一、そこはゲオルギウス自身にとっても、良心の呵責を感じずにはいられない場所だった。

 「オマエ達の感覚に合わせれば、薄暗く湿った地下牢のようなところだ。長居したいとは思わない。」
 「…で、俺の方をさらってきたという訳か。」
 「空を飛ばれるよりはマシだっただろ?」
 「…まぁ、そうだな。」

 あの、人間の力を遥かに凌駕する跳躍と飛翔の、激しく振り回されるような感覚を思い出すだけで吐き気がする。仏頂面のゲオルギウスを余所に、丘の頂上の柔らかな草の上に腰を下ろして、ルゴシュは実に気持ち良さそうに空を仰いで、星の明かりと夜の風とを浴びている風だった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

太陽と月

ko
BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:250

男ですが聖女になりました

BL / 完結 24h.ポイント:99pt お気に入り:627

ボーダー×ボーダー

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:43

けなげなホムンクルスは優しい極道に愛されたい

BL / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:132

底辺αは箱庭で溺愛される

BL / 完結 24h.ポイント:14,540pt お気に入り:1,266

お喚びでしょうか、ご主人様

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:89

ちょっとエッチな執事の体調管理

mm
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:205pt お気に入り:143

【R18】黒猫は月を愛でる

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:95

EDEN ―孕ませ―

BL / 完結 24h.ポイント:205pt お気に入り:214

処理中です...