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第二章 Sang de la Jedaz(サング・デ・ラ・ジェダス)

Sang de la Jedaz.5

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春風が 種を運びて 精霊の
 言祝ことほたまい 麦の穂の 実らんことを
子羊の 血肉を捧げ 祭壇に
 ひとつの巡り 祝い誓えよ 父なる神に──



 聖霊教徒セレスティオにとって、新たなる年の始まりでもある開闢祭レヴェノ・フェスティオの儀式は滞りなく執り行われた。村の広場には若木で作った祭壇が組まれ、その年の最初に生まれた子羊を神と精霊に捧げるための聖なる火が焚かれる。陽が高いうちに執り行われる祈祷と聖なる儀式を終え、振る舞われた聖餐のパンと肉、そして葡萄酒ワインを口にした後は、祭りは司祭の手から村人たちの手に委ねられるのだ。
 家々の食卓には、新鮮なベリーや蜂蜜のケーキ、この日の為に丸々と太らせた鵞鳥や羊の肉など、滅多に味わうことができない豪勢な食事が並ぶ。一昼夜、そして次の日の月が昇り、晩の祈祷を唱える時間になるまで、人々は酒を飲み、子供も大人もみな等しく躍り、歌いながら新しい種蒔きの年が幸福であるように祈りを捧げる。

 香炉と祈祷書を手に儀礼の司式を執り行ったゲオルギウスの元には、村人たちからたくさんの感謝の寄進が届けられた。決して贅沢ではない、けれど心尽くしの素朴な供物を有り難く受け取りはしたが、しかしゲオルギウスは、村人たちの陽気な歌と踊りの輪に加わろうとはどうしても思えなかった。
 折しも、今年の開闢祭レヴェノ・フェスティオは、満月の夜サンクタ・ノクトと重なっていた。人々は闇の眷属の襲撃を恐れることもなく、賑やかな春の祭りは明日の夜まで続くだろう。聖なる火が煌々と焚かれた広場を尻目に、聖堂で晩課の祈りを捧げたゲオルギウスは、たった一人で、足の向くままに深い森の入口へと足を運んだ。
 晩にたしなんだ葡萄酒が、若い神父の頬を僅かに火照らせる。礼拝を行う時など、これといった理由がない場合、武装司祭は自らの武器を手元に携帯することが常である。愛用の長棍スタッフを頑丈な革製の武器帯具で背中に斜めに固定し、喧騒から遠く離れた村の外れで、一人、空高く昇る青白い月の光を見つめていた。

 もう半月もすれば、次の穢れの夜マルベニカ・ノクトが来る。己は、また森に沈んだ旧い神の家に赴き、そこで旧い人々の祈りを冒涜するに等しい行為に手を染めることになるのだ。何の疑いもなく、武装司祭としての自身を敬ってくれるグレンツドルフの村人へのひどい裏切りだと思った。そして、不死伯ルゴシュの気紛れがいつまで続くかは解らない。ある日突然、言の葉を翻し、ゲオルギウスの首を捻じり切って村を襲い始めることも、油断した神父の首筋に牙を突き立てて自らの下僕しもべと為すことも充分に考えられる。
 森へと続く道の真ん中に佇み、ゲオルギウスは自らの両手をじっと見据えた。厳しい鍛錬に打ち勝ってきた、荒々しく武骨な掌だ。しかしこの手は、あの晩、握り締めた銀の杭をどうしてもルゴシュの心臓に向けて突き立てることができなかったのだ。

 不死鬼ノスフェラトゥは、それを『誘引ラーヴォ』だと言った。彼自身もその力を使うつもりはなく、そして、僅かな誘引の力を受けた子供はあまりにも幼すぎて誘惑の意味を理解できない。故に、ゲオルギウスは神敵として闇の眷属の手に落ちることなく、依然として聖霊教会への信仰を保っていられる。
 或いは、逆にそれこそが耐え難き苦難であると思えた。十七年前のあの夜、ルゴシュが気紛れに幼い子供だった自身を無慈悲にも嬲り殺していれば、そして、心の芯まで塗り替える程の強い誘引ラーヴォの力を使ってさえいれば、身の内にわだかまる長きにわたる妄執の念は存在しなかったはずだ。
 吸血鬼や食人鬼に命を奪われた者の魂は、この世界に終末が訪れ、神があまねく生き物に等しき裁きを下すまで、現世と冥世の境界に留まり続けると言われている。だが、一体、姉や旧友たちも住まうという暗く冷たい境界の世界に落ちることと、熾火のように満ち溢れて胸の内側を焼き続ける長き怨讐の炎にたった一人で立ち向かうこと、比べて耐え難いのはどちらであるのか、ただ一人の敵を追うために武装神父となった若者には解らなかった。この足が何処へ向かうのかも定かでないまま、敬虔な聖霊教徒セレスティオの村人を裏切り続け、悲願の復讐も叶わず、時ばかりが無駄に流れてゆくのだろうか。
 蒼玉の色をした双眸を細め、眉間に苦悩を刻んで重い溜息を吐いた。開闢祭の華々しい夜にはとても相応しからぬ灰色の懊悩がゲオルギウスの心を満たし、孤独だけが身を苛む。どんな高名な司祭にも、最も高位の聖職者である大教皇にさえ到底打ち明けられない秘密を抱えたままで、いつ尽きるとも知れぬ道を歩み続ける運命を、誰に向けて嘆けば良いのだろう。神に、精霊に、或いは地獄の悪魔に。

「──聖なるかなサンクティガ。」

 不気味な程に白く、大きく見える月あかりを仰いで聖句を唱える。月は、豊穣をもたらす太陽とは異なり、聖霊教会の教えの上では不吉なものだった。それでも、その明かりのお陰で松明たいまつはいらない。
 村人たちの歌と踊りの喧騒が、遠く聞こえる。新しい年を称え祝う聖歌ホーロゥ。だが、その時、ゲオルギウスの耳に飛び込んできたのは、凛と麗しい一本の銀色の旋律だった。


春風に 林檎の花の 芽吹くよう
 君が手を取り 誘うらん 柔き素肌を
茉莉花の 茂みの奥に 横たえて
 熱き血潮に 触れ見てよ 一夜の夢──


 ゲオルギウスははっと目をみはる。開闢祭の聖歌と同じ旋律でありながら、全く聞き覚えのない言の葉を並べる男の歌声。透き通ったそれは、周囲の空気を震わせるように密やかに響き渡り、聞く者の心を陶酔させる。そして、ゲオルギウスは、その声に確かに聞き覚えがあった。

 「ルゴシュ──!」

 鋭い声を張り上げて、細めた眼差しで周囲の闇を見渡す。声は、頭の上から響いていた。そして、程近くにあった樫の大木の梢から、ツツ、と雀のように舌を鳴らす者がある。

 「今晩は、ゲオルギィ。年に一度の開闢祭の日レヴェノ・フェスティオに、こんなところで、浮かない顔で何をしているのかね…?」

 目を凝らして見上げれば、樫の木の一際太い枝の上に、小柄な黒い影が『止まって』いる。幹に背を預け、枝の上に身を投げ出し、あたかも優雅な長椅子で寛ぐように悠然としているのは、この森の奥深くに居城を構える不死伯ラ・ルゴシュの姿なのだ。
 恐らく、銀色の旋律も彼の紡いだ音色だろう。咄嗟に身構え、背にした長棍を取ろうと右手を回す剣呑なゲオルギウスの姿をさっと上げた右手で制し、身を起こしたルゴシュは、トン、と軽やかな音を立てて身軽に梢から飛び降りてきた。

 「馴れ馴れしく呼ぶな。それに、それはこちらの言葉だ、ルゴシュ。貴様──村を襲わない、と言っておきながら…。」
 「襲いやしないよ、今だって、その気になればまずは目についたオマエから頂いているところだ。違うか?」

 少々憮然としながら肩を竦めるルゴシュの言うことにも、理はあった。だが、普段はこの森の奥深くに住まうという不死鬼の姿がなぜこの村にあるのか、理由は全く解らない。警戒を解かず、胡乱な眼で見下ろす若い神父から少し離れたところに佇み、その見事な銀髪を月明かりに煌めかせながら、彼はゆっくりと口を開いた。

 「オマエ達が何をやっているのか、こうして見に来ることがある。たまに、ね。──まあ、退屈しのぎ…というところだ。祭りの夜、災いの夜、そして何かが起きて村が騒ぐ夜──夜風がそれを私の耳に伝えてくれる。」
 「──物見遊山、か。」
 「ま、そんなトコだね。」

 低く笑うルゴシュからは、確かに敵意や邪気を感じない。それどころか、見つけた人間を揶揄からかってやろうという軽薄な様子すらも。尚も渋面を崩さないゲオルギウスに翠の視線を向け、不死鬼はことりと首を横に傾ける。

 「して、オマエは何故にこんなところに?穢れの夜マルベニカ・ノクトでもあるまいに。森番でさえ小屋を離れて踊る夜だぞ?」
 「──意味は、ない。ただ、そんな気分になれなかっただけだ。」

 純粋な興味の目が煩わしくて、軽く顔を背けた。否、その問いを煩わしいと感じたのは、ゲオルギウスの中に蟠る後ろめたさがあるからに他ならない。そして、後ろめたさの根本的な原因は、今まさにゲオルギウスと相対して言葉を交わしている。
 右手を背中の武器に伸ばせるように構えたまま、左手で短い金髪をグシャグシャと掻き乱す。酷く困惑したり、思い悩んだ時のゲオルギウスの癖だ。そしてゲオルギウスは、今更のように、錆びついた低い嗄声させいで話すとばかり思っていたルゴシュが、存外滑らかに張りのある声で話をしていることに気付いたのだった。
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