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第二章 Sang de la Jedaz(サング・デ・ラ・ジェダス)

Sang de la Jedaz.3

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 春先の夜風は、濃い緑の香りと土の香りを孕んで、冷ややかに頬を撫でる。森の中の道なき獣道を速足で進む、その左手には松明を、右手には聖なる力を付与された長棍スタッフを握り締め、目前の闇を切り開きながら一路、目的地を目指した。
 そこを指定された訳ではないし、明確な合図さえもない。しかし、ゲオルギウスが向かわなければならないところは、暗黙の了解に近しく既に決まっている気がした。その場所が近付くにつれて眉間には深い皺が寄り、全身には冷たさと熱さを綯い交ぜにした緊張感が、痛い程にびりびりと伝わってくる。
 旧くは路だった藪を分け、苔生こけむした石畳を踏み締める。やがて、目の前に、建物の陰が姿を現した。ここを訪れる人の姿が無くなっても、ただ、静かに祈りの場として在り続ける、百年も昔に建てられた教会。
 松明の影に浮かび上がる廃教会を前に、ゲオルギウスはその硬い長靴ちょうかの足をぴたりと止めた。扉を失った聖堂の入り口は、奈落のように暗く、訪れるものの姿を待ち侘びている。

 「──聖なる哉サンクティガ。」

 いくら平静を保とうとしても心臓は弾けんばかりに弾み、ちょうど一月前に感じた獣じみた背徳的な高揚と、心を切り裂く絶望とを同時に思い起こさせた。大きく息を吸い込み、短い聖句を唱えると、全身の神経を研ぎ澄ましていつでも打って出られるように身構えながら、松明と武器とを握り締めて廃教会の入り口を潜っていった。

 「──やはり、来たね。ごきげんよう。いい夜だ、ゲオルギウス神父。」
 「────ルゴシュ。」

 内部を隈なく探す必要はなかった。松明の炎を受けて煌めく銀色の髪、そして、翠色に輝く二つの瞳が、石造りの主祭壇の上でゲオルギウスを待ち受けている。短くその名を呼ばい、神父は顔を顰めた。
 襟元をクラヴァットで締めた白絹の古風なシャツに、黒い下穿きトラウザーズ。その上から、分厚い天鵞絨ビロードの黒い長い外套マントを羽織った男は、黒い長靴ちょうかを履いた脚を悠然と組み上げて、祭壇の中央に鷹揚に腰を下ろしている。低い嗄声させいが酷く愉しげに聞こえるのを思えば、即座に襲い掛かってくる気はないらしい。神聖なる祭壇に腰を下ろして手招きする不死伯を苦々しく見据えながら、ゲオルギウスは、ゆったりと大股な足取りで通路を歩み、祭壇に近付いていく。
 予想通り、ルゴシュはその面輪に満面の笑みを浮かべていた。笑うと眦の下がる翡翠の双眸を細め、赤い唇の隅を持ち上げて、真珠色の小さな牙を僅かに覗かせている。祭壇の手前で歩みを止めてじっとルゴシュを見下ろす神父の濃青の瞳を見上げ、壮年の男の姿をした不死鬼ノスフェラトゥはくく、と喉を鳴らして笑声を立てた。

 「何が可笑しい、ルゴシュ伯爵。」
 「そう固くなるものじゃないよ。言ったろ?オマエは殺さない、って。こんな面白い玩具、何百年ぶりだろうねぇ──。誘引ラーヴォを受けながら私に従わない、なんて初めてだ。その上、相手は敬虔なる聖霊教徒セレスティオの武装神父様ときた。そう簡単に喰い殺すなんて、もったいない。」
 「…貴様の用向きは何だ、ルゴシュ。俺は、穢れの夜マルベニカ・ノクトに不死鬼と無駄に慣れ合うほど暇じゃない。戦うか、それとも──」
 「だから、待ちなって。」

 いらりと眉を跳ね上げるゲオルギウスの険しい顔など何処吹く風とばかりに、眼下で白い手袋に包まれた手がひらひらと揺れた。ルゴシュは笑みを引き、己を見下ろす長身の若い神父を瞬きしながらさも興味深そうに見上げる。

 「ルゴシュ!」
 「どうにも、オマエは気が短いね。ヒトっていうのは全部そうだっけ──?ま、いい。オマエ、私と取引をしないか?」
 「取引だと…?」

 怪訝も露わに、ゲオルギウスが険しい双眸を更に眇める。欲しいものは全て手に入れるだけの絶大な力を持ちながら、何年もの間、深い糸杉の森の中に身を潜めていた不死者が己に持ち掛けてくる取引の条件など、見当もつかない。
 未だ警戒を解かず、片手に無節の長棍スタッフを、片手に松明を握り締めたまま険しい顔をしている若い神父を前に、ルゴシュは、組んでいた脚をすらりと解いて石造りの祭壇から腰を上げた。緩やかに一歩、ゲオルギウスへ向けて距離を縮め、頭二つは高いところにある凛々しい貌を見詰め、緩やかに瞬きをする。

 「私が何百年も掛けてこの森を広げた理由ワケ。オマエにゃ見当もつかないだろうけど、実際、真祖アルケはヒトの血を啜ることしかできない低俗な吸血鬼ヴァンパイアとは違う。──そうしょっちゅう人の子を取って喰うと、報復とやらが面倒だからね。ヒトと同じく、木々や草花だって生きている。」
 「何──?」
 「私は、そこからある程度の精気を得ることだってできるんだ。なのにオマエ、私が丹念に育てた糸杉の大木を…随分とやってくれたな。」

 ルゴシュの語る採餌については、少なくとも神学校で学んだ知識の中にはない。邪悪なる吸血鬼の高位に立つ真祖、それが不死鬼ノスフェラトゥであるという教えを受けてきたし、それが真実であるならば、彼の言葉には解せぬ点がある。

 「…待て、ルゴシュ。人を餌にする必要がないならば、何故貴様は俺の村を襲った?」
 「そんなモノ、決まっているだろうが。」

 彼の言葉があまりにも不可解で、軽く首を傾げて眉間を寄せるゲオルギウス。その前で、ルゴシュは憮然と鼻を鳴らして肩を竦めて見せた。

 「ヒトが、私の領域を侵したからだ。森を焼き、家畜を放って麦畑にすると。何処の地に、我が領地を侵されて黙っている辺境伯がある?──そういうことだ。」
 「…姉は──マルガリテスは、ただの修道女だ。そんなことには関わっていなかった。」
 「別に、誰が首謀者かを気にしてた訳じゃない。私の土地を侵せばどうなるのか、犠牲というものがどういうことなのか、教えてやればいいだけだろ。」
 「貴様──!」

 人間の身には何とも身勝手に聞こえる傲慢な物言いに、ゲオルギウスの胸の内側へ怒りの炎が灯りかける。眉を吊り上げ、今にも長棍スタッフを構えて飛び掛からんばかりの神父の前に、ルゴシュはさっと片手を翳して動きを制した。

 「無駄な真似は止せ。──取引がしたい、と言っただろ?で、オマエは図らずも先月、私のかてを焼いてくれた訳だ。この十年、敢えて積極的にヒトの子を狩る必要もなかったのに。」
 「…で、俺に、貴様の領地の補填をしろと?不死鬼への償いを、司祭が?」

 今度は、ゲオルギウスがフン、と鼻を鳴らす番だった。攻撃の構えを解く武装神父を見上げ、翠の睛に、後ろ髪を短く切り整えた銀の髪を持つ存在は、白い牙を覗かせてニヤリと不遜に笑う。

 「足りない分は…獲って喰らうしかないねぇ。そして、取って喰ったら、その一回限りで終わってしまう。オマエ達は鶏を飼い、山羊や牛を飼い、羊を飼うだろう?何の為に?──つまるところは、コレだ。」

 不意に白絹の手袋に包まれた指先を伸ばし、ゲオルギウスの頬にそっと触れようとするルゴシュ。その動きに、敵意や攻撃の意思というものは感じられなかった。その手を払い除けるのは、実に簡単な所作であっただろう。だというのに、妖しく光る翠の睛に見詰められて、その場に射止められたように動けないゲオルギウス自身がある。もし、これが自分の生命を脅かそうとしているものの気配ならば、反射的に打って出ることができた筈。なのに、敵意なく誘うような細んだ眸の中で、凍てついたまま微動だにできない。
 上質な絹の感触が、ツッと右頬をなぞった。

 「不本意だが、喉を噛んで生き血を抜いてしまえば、オマエは何の面白みもない吸血鬼になってしまう。だから。」

 手袋の下からは、ひやりと低い体温を感じる。軽く見開いた濃青の瞳を見詰め、不敵な笑顔のルゴシュは舌先でゆっくりと自らの唇を舐めた。まるでそこに、晩餐の豪華な馳走があるとでも言うかのように。

 「──その分、オマエの精気を寄越せ。オマエなりの方法で、だ。…出来るだろ?」
 「──。…つまり、俺に、不死鬼ノスフェラトゥと寝ろと?」
 「私とて、このやり方は不満だ。あんな巫山戯ふざけた真似をされた後では。だが、ヒトは狩ればそのうちいなくなってしまう。私は、喰わねば生きられない。オマエには村を守る責務がある…そうだろう?神父さま。いい妥協点だと思わないか?」
 「…ルゴシュ…!」

 背筋が凍り付くような背徳の誘いだった。旧き神の家たる廃教会で、己を確かに誘引ラーヴォに掛けた存在を前に、退路を断たれて眼の前が暗澹とする心地を覚える。
 ルゴシュの言葉が、歌うように続いた。

 「オマエを殺すのは実に簡単だ、それに、あんな手は二度と食わない。──オマエは私を殺せない、それに、私に触れずに、どうやって私を殺す?」
 「──。」

 ごくり、と喉の高みが勝手に動いた。今、ゲオルギウスの眼下にある二回りも小柄な年長の男は、甘く囁きながら堕落を誘ってくる。人間の男と同じ姿をしながら、しかし人間とは決定的に違う誘引の魔力を、彼は確かに持っていた。気付けば、ルゴシュの身体は、向かい合った胴が触れ合うほど懐近くまで忍び込んでいる。この男に抱くのは、揺るぎない宿疾の憎悪。しかし、嫌悪だけは抱いていない自分自身がいることに気づいて、ゲオルギウスは愕然とした。

 「穢れの夜、オマエは私に精気を寄越す。私は村に何もしない。少なくとも、オマエが焼き払ってくれた森が戻るまで。──いい取引ではないかね?」
 「…貴様が、俺を殺すために出鱈目なことを抜かしている可能性は?」
 「だったら、もうとっくの昔にっているだろうよ。馬鹿な。」

 心底浅薄だと言わんばかりに浅い溜息を吐き、ルゴシュは、白絹の手袋を嵌めた指先を、襟のクラヴァットの結び目に掛けてシュルリと引き解いて見せた。短い襟の古風なシャツから覗く首筋には、傷ひとつない。生物として、致命的な弱点である首筋を惜しげもなく宿敵の前に曝け出すのは、ゲオルギウスが『攻撃できない』ということを熟知している者の余裕であるように映った。

 神父の目前には、建物が寂れて尚も荘厳なる木造の精霊十字架が壁面に掛けられ、古い聖堂でのやり取りを無言のままに見詰めている。今、それを見上げて思い出すのは、神と精霊への潔白な信仰心ではなかった。一月前の新月の夜、この聖なる場所で露呈した、自分ではもう歯止めの効かない衝動的な不道徳が、怨嗟の名を借りてうちに眠っていること。はりつけの赤い血に塗れた、罪人のような、殉教者のような男の姿。そして、背筋を震わせながら全身を駆け巡る、あの暴虐的な、『悦楽』。

 「くそッ──!」

 神よ、神。我をば、何処へと向かわせ給う。

 心の内に、祈祷書の一節が閃いては消えた。神職者らしからぬ悪態を憚ることなく吐き、俯いて、ギリギリと歯を食い締めながら、構えた長棍をゆっくりと降ろす。そのまま重たい歩みを進めて祭壇から離れると、手にしていた松明を、古い大きな燭台に押し込むように石壁に立て掛けた。
 不死者を活かし、民も生きる。教義に反した手段で。このおぞましい背教的な駆け引きを受け容れるという判断を下したことは、果たして神と精霊により罪とみなされるのだろうか。解らない。

 「──またズタズタに切り裂かれたくなければ、自分で服を脱げ。そして、椅子の上に横になれよ。」

 古い石造りの、信徒が腰掛ける背凭れのない長椅子のひとつを大雑把に顎で指し示した。いいだろう、と短く応じた後、ルゴシュはゲオルギウスの全身を眺めてついと目を細める。

 「して、オマエは、そのロザリオを外せ。忌まわしい銀の聖具もだ。武器は──まあ、どうでもいいよ、棒術使いの神父さま。ソレで私を仕留められると思うなら、後生大事に持っていれば?」

 武装神服キャソックの胸元に揺れる、聖霊十字の念珠ロザリオを指さしてルゴシュの顔が厭わしげに顔が顰められる。彼にとっては焼きごてに過ぎない聖別の銀をほんの一時でも手放すことに躊躇ためらいはあったが、それでも『これは最も効率のいい取引なのだ』と自分に言い聞かせることで、ゲオルギウスは自身の精神を保とうとした。否、そんなことより何より、年長の男の姿をした神敵に相対して、本来であれば抱いてしかるべき生理的嫌悪が湧いてこないことこそが、若い司祭の心を完膚なきまでの絶望と自棄とに追いやったのだった。
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