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新たなる王.3
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片手の器で、四杯、五杯と蜜酒を飲み干した老武者は、齢五十令をゆうに超える厳めしい鍬形虫の角斗だった。大柄で、頑丈な甲虫である彼は、その見た目に拠らず、誰彼構わず横暴な素振りを見せることはない温厚で堂々とした雄の鍬形虫だ。だが、蜂の毒針をも通さず、大きな兜虫の雄ですら戦いを敬遠する怪力の角斗を進んで怒らせようなどという無謀者は、この森には存在しない。今となっては、ムラサキや花嵐より年嵩の存在など、角斗を含めて数えるほどしか存在しない中で、常に変わりなく見える角斗の存在は、少なからず安堵をもたらしてくれる。
「冬を越したということは、当然独り身ではないのだろう?」
「おう。今年の冬も、長年連れ添った恋女房と共に過ごしたわい。末の倅も手を離れたところで、女房がまた新しい仔を宿してくれればと思っておるよ。」
「全く、角斗殿の男振りにはいつも驚嘆させられる。お幾つになられても、ちっとも変わらない。これでは、僕も歳を理由に引退はできないねぇ…。」
大袈裟に肩を竦めて見せる花嵐の前で、灰色に染まった口髭を豪快に拭いながら、高らかに笑って見せる角斗。すっかり満足してしまえば、樹液を求めて物陰からそろそろと這い出してきた黄金虫は気にも留めない気風の良さが、彼にはあった。
「それで、花嵐はどうだ。相も変わらず、女房殿と一緒か?」
「ああ。幸運なことに、馴染みの女王陛下は僕を袖にしないでいてくれるからね。今年の冬も、宮殿でゆっくり過ごしたよ。だけど、今年は解らない。若い色男に王の座を追われたら、僕に出来ることは何もないからねぇ…。精々、陛下のご機嫌を損ねないように全力で振る舞うだけさ。」
「──花嵐殿の座は、安泰でしょう。…解りますよ。」
蜂の結婚飛行というものを、ムラサキは一度だけ目にしたことがある。数多くの雄蜂が一斉に飛び立って若い女王蜂の周囲に群がり、しきりと恋を歌い、変わらぬ愛を誓うのだが、その中の誰よりも、花嵐の仕草は気品に満ち溢れ、際立って優雅で美しいものだった。甘い面持ちで囁きながら、慣れた手で女王の背を引き寄せ、空中で典雅な踊りに誘う。この気障な色男の魅力は、歳を経ても変わらずにあった。かえって、戦う必要のない王蜂には、熟した雄の手練手管が備わって、上手く醸された樹液の酒の如く、大人びて熟成されているように見えた。
鍬形虫は、夫婦仲が良く、一度連れ添った相手と末長く連れ合いになる生き物だということを知っていた。少し離れたところで樹液酒を軽く嗜み、梢に咲いた花の香りを堪能して気儘に過ごしている黒い留袖の年増の雌が、角斗が共に幾度も冬を越した恋女房だと言って憚らない雌の鍬形虫だ。
ただムラサキだけが、色褪せた翅で、弱った力で、我が子はおろか、この冬を共に過ごす連れ合いを得られるかどうかも解らない。既に雄としての盛りを過ぎた一匹の胡蝶は、種の違う二匹の蟲人の雄の様子を眺めて、寂寞を感じながら微かに笑う。
「浮かない顔をするなよ、ムラサキ殿。君は『蝶の王』だろう?その翅だって大きくて美しい、まだまだ力強く空を翔べるじゃないか。」
「…はは。今となっては、ただ一匹の独り身の破れ蝶ですよ。今年の冬は、偶々運が良かっただけだ。──こんな私の連れ合いになってくれる変わり者がいればいいのですが。」
「春のうちから、何を諦め切った顔をしておるか。…儂なぞ、もし今の女房に愛想を尽かされようものなら、五十回の越冬を成功させた雄に惹かれる若い女房でも探しに行くわい。雄たるもの、連れ合いを得ようと思えなくなったその時が終いよ。」
「──連れ合いを求めようと思えなくなった時、か…。流石、角斗殿の御言葉には含蓄がありますね。実に、重みがある。私は…。」
老いても尚、『蝶の王』としてあったこの身が、連れ合いを求めることを止めれば、後には何が残るのか。連れ合いを護り、寄り添って、幾人もの仔を成してきた雄の蝶としてのこの生き方を諦めれば、確かに後には何も残らない。仮に番いの雌を娶ったとしても、その胎に仔を授けてやれるだろうか。そしてこの身体には最早、番いと、己の血を継ぐ仔を護り抜けるだけの力が無くなりつつある。渾身の力で戦い、誇りと共に落命したとて、不幸な雌と仔が後に残されるばかりだ。雄蝶としての役目を果たせない侭、それでも連れ添う相手を求めて空を舞うのが、胡蝶の本能でもあるのだ。
全ては、自分自身の生きた証である『血』を後に継がんが為。
「私は。」
目を伏せ、咽喉に言葉を詰まらせるムラサキの耳を、不意に嵐のように力強い羽ばたきの音が打ち据えた。
陽光を遮る巨大な影は黒く地面に影を落とし、ムラサキは思わず、目を細めてその影の主を呆然と見つめる。
「冬を越したということは、当然独り身ではないのだろう?」
「おう。今年の冬も、長年連れ添った恋女房と共に過ごしたわい。末の倅も手を離れたところで、女房がまた新しい仔を宿してくれればと思っておるよ。」
「全く、角斗殿の男振りにはいつも驚嘆させられる。お幾つになられても、ちっとも変わらない。これでは、僕も歳を理由に引退はできないねぇ…。」
大袈裟に肩を竦めて見せる花嵐の前で、灰色に染まった口髭を豪快に拭いながら、高らかに笑って見せる角斗。すっかり満足してしまえば、樹液を求めて物陰からそろそろと這い出してきた黄金虫は気にも留めない気風の良さが、彼にはあった。
「それで、花嵐はどうだ。相も変わらず、女房殿と一緒か?」
「ああ。幸運なことに、馴染みの女王陛下は僕を袖にしないでいてくれるからね。今年の冬も、宮殿でゆっくり過ごしたよ。だけど、今年は解らない。若い色男に王の座を追われたら、僕に出来ることは何もないからねぇ…。精々、陛下のご機嫌を損ねないように全力で振る舞うだけさ。」
「──花嵐殿の座は、安泰でしょう。…解りますよ。」
蜂の結婚飛行というものを、ムラサキは一度だけ目にしたことがある。数多くの雄蜂が一斉に飛び立って若い女王蜂の周囲に群がり、しきりと恋を歌い、変わらぬ愛を誓うのだが、その中の誰よりも、花嵐の仕草は気品に満ち溢れ、際立って優雅で美しいものだった。甘い面持ちで囁きながら、慣れた手で女王の背を引き寄せ、空中で典雅な踊りに誘う。この気障な色男の魅力は、歳を経ても変わらずにあった。かえって、戦う必要のない王蜂には、熟した雄の手練手管が備わって、上手く醸された樹液の酒の如く、大人びて熟成されているように見えた。
鍬形虫は、夫婦仲が良く、一度連れ添った相手と末長く連れ合いになる生き物だということを知っていた。少し離れたところで樹液酒を軽く嗜み、梢に咲いた花の香りを堪能して気儘に過ごしている黒い留袖の年増の雌が、角斗が共に幾度も冬を越した恋女房だと言って憚らない雌の鍬形虫だ。
ただムラサキだけが、色褪せた翅で、弱った力で、我が子はおろか、この冬を共に過ごす連れ合いを得られるかどうかも解らない。既に雄としての盛りを過ぎた一匹の胡蝶は、種の違う二匹の蟲人の雄の様子を眺めて、寂寞を感じながら微かに笑う。
「浮かない顔をするなよ、ムラサキ殿。君は『蝶の王』だろう?その翅だって大きくて美しい、まだまだ力強く空を翔べるじゃないか。」
「…はは。今となっては、ただ一匹の独り身の破れ蝶ですよ。今年の冬は、偶々運が良かっただけだ。──こんな私の連れ合いになってくれる変わり者がいればいいのですが。」
「春のうちから、何を諦め切った顔をしておるか。…儂なぞ、もし今の女房に愛想を尽かされようものなら、五十回の越冬を成功させた雄に惹かれる若い女房でも探しに行くわい。雄たるもの、連れ合いを得ようと思えなくなったその時が終いよ。」
「──連れ合いを求めようと思えなくなった時、か…。流石、角斗殿の御言葉には含蓄がありますね。実に、重みがある。私は…。」
老いても尚、『蝶の王』としてあったこの身が、連れ合いを求めることを止めれば、後には何が残るのか。連れ合いを護り、寄り添って、幾人もの仔を成してきた雄の蝶としてのこの生き方を諦めれば、確かに後には何も残らない。仮に番いの雌を娶ったとしても、その胎に仔を授けてやれるだろうか。そしてこの身体には最早、番いと、己の血を継ぐ仔を護り抜けるだけの力が無くなりつつある。渾身の力で戦い、誇りと共に落命したとて、不幸な雌と仔が後に残されるばかりだ。雄蝶としての役目を果たせない侭、それでも連れ添う相手を求めて空を舞うのが、胡蝶の本能でもあるのだ。
全ては、自分自身の生きた証である『血』を後に継がんが為。
「私は。」
目を伏せ、咽喉に言葉を詰まらせるムラサキの耳を、不意に嵐のように力強い羽ばたきの音が打ち据えた。
陽光を遮る巨大な影は黒く地面に影を落とし、ムラサキは思わず、目を細めてその影の主を呆然と見つめる。
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