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胡蝶の想い.2
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やおら、ムラサキを捕まえたシノノメが、捻じ伏せるように身体を反転させる。弾みで、大きな翅を背に仰向けに寝床に横たえられ、覆い被さってくるシノノメの体温と重みを具に感じた。
ムラサキの顔の両脇に手をついて、涙の乾かぬ青い瞳が、大きく見開かれてムラサキの焦茶の眼をじっと見据えていた。
交尾の真似事と称して、嗤いながら年嵩の雄蝶をあしらっていたいつもの表情はそこにはなく、昏く周囲の翳る青い眼に真摯な色を宿して見詰めるシノノメの面輪を、ムラサキは初めて目にしたのだった。
今度は、シノノメが静かに口を開く。
「──蜘蛛は、蝶みたいに浮ついた生き物じゃねえ。一度番いになったら、どっちかが死ぬまで、一生番いのままだ。新しい番い相手を探さないことだってある。重たい生き物だろ?…お前、この意味が解ってるのか?」
生涯を共にすると誓った相手から逃れることも、離れることもない。ただ、避けられない『死』が二人を分かつまで。それがモモイロドクグモの婚姻であるのだという。同じ雌と幾度も子育てをし、雄は、如何なる時でも身を挺して家族を護る。それが、種族の異なる彼の習性。そんな蜘蛛と番になるということがどういうことなのか、理解できないムラサキではない。
仮に、シノノメがまだ番いの雌を見つけることができる境遇にあるのだとしたら、ムラサキは雄蜘蛛本来のものである彼の本能的な幸福を妨げず、突き放してでも春の野に逃れていただろう。そして、来るべき冬に、飢えと寒さで最期を迎える。
しかし、想像もできない程遠い、蜃気楼のような外つ国から流れ着いてしまった毒蜘蛛は、二度とは故郷に戻る術もなく、胸を掻き毟りたくなるほどの寂寥と孤独を抱えているのだということを知ってしまった。そして、自分がこの地に受け入れられない、天蓋孤独な存在だということを、彼自身が誰よりもよく知っていた。
最早、心を満たす迷いの霧はすっかりと晴れた。
歳を重ね、誰をも護れなくなった『蝶の王』は、その称号を我が仔に譲り渡し、宵闇に満たされた暗い宮殿の巣穴の中に退くのだ。破れ蝶となり、死を待つばかりのこの身を、それでも遮二無二手を伸ばして欲する者がいるというのならば、全てを捧げることに何の戸惑いがあるものだろうか。
春の陽射しのように穏やかに、柔らかに、ムラサキは心の底から微笑って、シノノメの名の由縁にもなった鮮やかな髪に指を潜らせてそっと撫でた。
「うん。私の全てを君にあげると言っただろう?約束を反故にするつもりはないさ。」
そして、一冬を過ごす間に胸の奥深くで醸生され、形を変えて、濃密で揺るがぬ甘い気持ちとなったこの感情の名前を、音に綴って語り聞かせる。
「──君を愛しているよ、シノノメ。…この命ある限り、君がそう望むのなら、ずっと傍にいよう。」
「ムラサキ──!」
堪りかねたように落ちてくる唇を、自らの唇で受け止めた。
感極まって押し入ってくる肉厚の舌は、同じ蝶のそれよりも熱く、深い接吻は咽喉を塞ぐほどに激しい。金属の珠が穿たれたざらつく舌で口の中を掻き混ぜられると、目の前がとろりと眩む心地がした。
夢中で腕を伸ばして首筋にしがみつき、百合の雌蕊にそうするように、濡れた音を立てながらシノノメの舌を絡め取って、口内で丹念に舐め上げる。異種の雄の手でそうなるように仕向けられた肉体は、貪るような接吻で容易く掻き立てられて焔となった。そしてシノノメは、しっとりと燃え盛るムラサキの唇を求めて尚も熱くなる。
一枚、また一枚と、身に纏った衣を交互に脱がせ合いながら、澄んだ泥濘みに沈んでいくような情熱的な唇の交接に耽るムラサキは、ぼんやりと思った。
きっと、シノノメの生まれ故郷は、ここよりうんと暑いところに違いない。さもなければ、彼のこの指も、唇も、これ程までに熱くはならないだろう。触れ合った肌から焦げて、蕩かされていくような気持ちになることなど、あろうははずがないのだから。
ムラサキの顔の両脇に手をついて、涙の乾かぬ青い瞳が、大きく見開かれてムラサキの焦茶の眼をじっと見据えていた。
交尾の真似事と称して、嗤いながら年嵩の雄蝶をあしらっていたいつもの表情はそこにはなく、昏く周囲の翳る青い眼に真摯な色を宿して見詰めるシノノメの面輪を、ムラサキは初めて目にしたのだった。
今度は、シノノメが静かに口を開く。
「──蜘蛛は、蝶みたいに浮ついた生き物じゃねえ。一度番いになったら、どっちかが死ぬまで、一生番いのままだ。新しい番い相手を探さないことだってある。重たい生き物だろ?…お前、この意味が解ってるのか?」
生涯を共にすると誓った相手から逃れることも、離れることもない。ただ、避けられない『死』が二人を分かつまで。それがモモイロドクグモの婚姻であるのだという。同じ雌と幾度も子育てをし、雄は、如何なる時でも身を挺して家族を護る。それが、種族の異なる彼の習性。そんな蜘蛛と番になるということがどういうことなのか、理解できないムラサキではない。
仮に、シノノメがまだ番いの雌を見つけることができる境遇にあるのだとしたら、ムラサキは雄蜘蛛本来のものである彼の本能的な幸福を妨げず、突き放してでも春の野に逃れていただろう。そして、来るべき冬に、飢えと寒さで最期を迎える。
しかし、想像もできない程遠い、蜃気楼のような外つ国から流れ着いてしまった毒蜘蛛は、二度とは故郷に戻る術もなく、胸を掻き毟りたくなるほどの寂寥と孤独を抱えているのだということを知ってしまった。そして、自分がこの地に受け入れられない、天蓋孤独な存在だということを、彼自身が誰よりもよく知っていた。
最早、心を満たす迷いの霧はすっかりと晴れた。
歳を重ね、誰をも護れなくなった『蝶の王』は、その称号を我が仔に譲り渡し、宵闇に満たされた暗い宮殿の巣穴の中に退くのだ。破れ蝶となり、死を待つばかりのこの身を、それでも遮二無二手を伸ばして欲する者がいるというのならば、全てを捧げることに何の戸惑いがあるものだろうか。
春の陽射しのように穏やかに、柔らかに、ムラサキは心の底から微笑って、シノノメの名の由縁にもなった鮮やかな髪に指を潜らせてそっと撫でた。
「うん。私の全てを君にあげると言っただろう?約束を反故にするつもりはないさ。」
そして、一冬を過ごす間に胸の奥深くで醸生され、形を変えて、濃密で揺るがぬ甘い気持ちとなったこの感情の名前を、音に綴って語り聞かせる。
「──君を愛しているよ、シノノメ。…この命ある限り、君がそう望むのなら、ずっと傍にいよう。」
「ムラサキ──!」
堪りかねたように落ちてくる唇を、自らの唇で受け止めた。
感極まって押し入ってくる肉厚の舌は、同じ蝶のそれよりも熱く、深い接吻は咽喉を塞ぐほどに激しい。金属の珠が穿たれたざらつく舌で口の中を掻き混ぜられると、目の前がとろりと眩む心地がした。
夢中で腕を伸ばして首筋にしがみつき、百合の雌蕊にそうするように、濡れた音を立てながらシノノメの舌を絡め取って、口内で丹念に舐め上げる。異種の雄の手でそうなるように仕向けられた肉体は、貪るような接吻で容易く掻き立てられて焔となった。そしてシノノメは、しっとりと燃え盛るムラサキの唇を求めて尚も熱くなる。
一枚、また一枚と、身に纏った衣を交互に脱がせ合いながら、澄んだ泥濘みに沈んでいくような情熱的な唇の交接に耽るムラサキは、ぼんやりと思った。
きっと、シノノメの生まれ故郷は、ここよりうんと暑いところに違いない。さもなければ、彼のこの指も、唇も、これ程までに熱くはならないだろう。触れ合った肌から焦げて、蕩かされていくような気持ちになることなど、あろうははずがないのだから。
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